[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
本迹に関して対話するスレッド
285
:
沖浦克治
◆tr.t4dJfuU
:2008/12/08(月) 14:57:55 ID:AJ3hr85o0
本迹は、法華経迹門と本門に限定して考える必要はありません。
多くの人はココが分かりません。
それで、私と会話が成立しないのです。
入り口で立ち往生ですね。
もくれんさん、やまいぬさんはそうなんです。
先生が人間革命で本迹を述べられておられます。
それが正解でしょう。
学生の本分(目的)は学ぶ事です。
ですから、学んでいる時は本。
本来の姿ですね。
遊びほうけている時は、迹。
本来の目的から外れています。
先生は、本を本来の姿、迹をそれから外れた姿で立て分けておられます。
新人間革命、宝剣の章から、抜粋引用
『たとえば、眠っている時は『迹』、起きている時は『本』。勉学が本分である学生が、遊びに、ふけっているのは『迹』、勉学に打ち込んでいるのは『本』といえる。
また、勉強しているといっても、立身出世のための勉強であれば、心は自分中心であり、世間に流された『迹』の生き方です。しかし、学生部員として、広布のために力をつけようと、使命感を奥底にもっての勉強であれば『本』です。
ともあれ、根本的にいえば、私たちの本地は、広宣流布のために出現した地湧の菩薩であり、ゆえに、広宣流布に生き抜く人生こそが『本』となる。
一方、諸君が将来、社会的な地位や立場がどんなに立派になったとしても、それは『迹』です。この一点を見誤ってはならない。
諸君も、やがて社会人となり、世間の荒波に揉まれることになるだろう。思うように学会活動ができない時もあるかもしれない。しかし、そこにも、『本迹』はある。どんな状況になっても、広布の使命を果たし抜こうとの決意があれば『本』です。環境に負け、信心を失って、使命を忘れてしまうならば、『迹』になる。
『本』と『迹』は、ある意味で、ほんのわずかな差といえるし、一念の問題だけに、外からはわからないこともある。しかし、仏法の眼で見れば、すべては明らかであるし、天地雲泥の差となる。
『本迹』を個人の一念に要約していえば、『本』とは原点であり、広宣流布への一念です。また、前進、挑戦の心です。『迹』とは惰性であり、妥協、後退です。
自分は今、広布のために、人間革命のために生きているのか、一念は定まっているのか――それを見極めていくことが、私たちにとって、『本迹』を立て分けていくということになるし、その人が最後の勝利者になっていく。ゆえに、『本迹』といっても、この瞬間瞬間が勝負であり、自分のいる現実が仏道修行の道場となる」』
〜引用終わり〜
何処に法華経の本門と迹門がありますか?
要約して言うならば、行動と言う手段も、本来の目的にかなうものは、本。
それから外れた行為が、迹。
ここから分かる事は、
目的が本。
手段が迹。
だと言う事です。
音楽を奏でるのが目的なら、ピアノと言う楽器は手段ですから迹です。
音楽を奏でる人間が本です。
民衆救済が目的なら、そのための曼荼羅は手段ですから、迹。
救済と言う行為と、救済されるべき人間が、本。です。
教育と同じですね。
生徒が本ですし、行為は、教育にかなうものが本です。
かなわないのは迹です。
学校そのものは生徒のために存在しますから、生徒と学校を存在次元で比較すれば、生徒が本、学校は迹。
極めて単純な道理です。
どうして分かりませんかね??
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板