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本迹に関して対話するスレッド

285沖浦克治 ◆tr.t4dJfuU:2008/12/08(月) 14:57:55 ID:AJ3hr85o0
 本迹は、法華経迹門と本門に限定して考える必要はありません。
 多くの人はココが分かりません。
 それで、私と会話が成立しないのです。
 入り口で立ち往生ですね。
 もくれんさん、やまいぬさんはそうなんです。

 先生が人間革命で本迹を述べられておられます。
 それが正解でしょう。

 学生の本分(目的)は学ぶ事です。 
 ですから、学んでいる時は本。
 本来の姿ですね。
 遊びほうけている時は、迹。
 本来の目的から外れています。
 先生は、本を本来の姿、迹をそれから外れた姿で立て分けておられます。

 新人間革命、宝剣の章から、抜粋引用

 『たとえば、眠っている時は『迹』、起きている時は『本』。勉学が本分である学生が、遊びに、ふけっているのは『迹』、勉学に打ち込んでいるのは『本』といえる。
 また、勉強しているといっても、立身出世のための勉強であれば、心は自分中心であり、世間に流された『迹』の生き方です。しかし、学生部員として、広布のために力をつけようと、使命感を奥底にもっての勉強であれば『本』です。
 ともあれ、根本的にいえば、私たちの本地は、広宣流布のために出現した地湧の菩薩であり、ゆえに、広宣流布に生き抜く人生こそが『本』となる。
 一方、諸君が将来、社会的な地位や立場がどんなに立派になったとしても、それは『迹』です。この一点を見誤ってはならない。
 諸君も、やがて社会人となり、世間の荒波に揉まれることになるだろう。思うように学会活動ができない時もあるかもしれない。しかし、そこにも、『本迹』はある。どんな状況になっても、広布の使命を果たし抜こうとの決意があれば『本』です。環境に負け、信心を失って、使命を忘れてしまうならば、『迹』になる。
 『本』と『迹』は、ある意味で、ほんのわずかな差といえるし、一念の問題だけに、外からはわからないこともある。しかし、仏法の眼で見れば、すべては明らかであるし、天地雲泥の差となる。
 『本迹』を個人の一念に要約していえば、『本』とは原点であり、広宣流布への一念です。また、前進、挑戦の心です。『迹』とは惰性であり、妥協、後退です。
 自分は今、広布のために、人間革命のために生きているのか、一念は定まっているのか――それを見極めていくことが、私たちにとって、『本迹』を立て分けていくということになるし、その人が最後の勝利者になっていく。ゆえに、『本迹』といっても、この瞬間瞬間が勝負であり、自分のいる現実が仏道修行の道場となる」』
 〜引用終わり〜

 何処に法華経の本門と迹門がありますか?
 要約して言うならば、行動と言う手段も、本来の目的にかなうものは、本。
 それから外れた行為が、迹。

 ここから分かる事は、
 目的が本。
 手段が迹。 
 だと言う事です。

 音楽を奏でるのが目的なら、ピアノと言う楽器は手段ですから迹です。
 音楽を奏でる人間が本です。

 民衆救済が目的なら、そのための曼荼羅は手段ですから、迹。
 救済と言う行為と、救済されるべき人間が、本。です。

 教育と同じですね。
 生徒が本ですし、行為は、教育にかなうものが本です。
 かなわないのは迹です。
 学校そのものは生徒のために存在しますから、生徒と学校を存在次元で比較すれば、生徒が本、学校は迹。
 極めて単純な道理です。

 どうして分かりませんかね??


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