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本迹に関して対話するスレッド

144沖浦克治 ◆sFO4WcF4K2:2008/11/18(火) 07:13:33 ID:AJ3hr85o0
 更に嘘つきの証拠ですよ・

>>貴方の人生では貴方が本、蓮祖は迹。

>ですから何度も書きます、あなたは今までただ1度として、「本とは何で、迹とは
何なのか」を教学的に文証を以てお書きになったことがないのですよ。

 やまいぬさんの嘘です。
 私は6年前から同じ本迹論を書き込み続けています。
 証拠に正信掲示板から引用致します。

2534 よしりん様 沖浦克治 2002/09/22 11:35
E-MAIL :
HomePage:

>このことは今年三月に学会本部より聖教にて通知ありました。その通りだと思います。

本部の通知に無関係に事実なのです。
あなたは明日違う通達が出れば、考えをコロリと変えるのですか?
そんな人でしたら議論をするだけ無駄というものです。

>、阿部さんのは、沖浦さんの主張されていることと矛盾しませんか?

悪人が造幣局で印刷した1万円と善人が印刷した1万円とあなたにとって価値が違うのですか?

>ただの末端会員です。という言い方はしない方が良いと思います。学会は会社組織ではありません。

末端という言葉は、池田先生もよくお使いになりますし、私は末端であることが誇りなのです。

>どちらが沖浦さまの本心なのか、よしりんには解りかねます。

どちらも本心です。
仏法は何故説かれるのでしょうか?
仏の偉さを教えるためでしょうか?
民衆を救済するためでしょうか?
民衆救済が目的であれば、仏は迹、衆生は本となりますね!
だから観心本尊抄ではなく、観心の本尊抄なのです。
大聖人の仏法では私たち人間が本であり、もったいなくもご本尊様は迹となります。
宗門はご本尊様が本で信者は迹、坊主が本で在家は迹、だから邪宗なのですよ。
大聖人様の教えに違背しているのですから、当然邪宗でしょう。
飛び入り様の投稿のなかのご指摘を今一度お読みください。
民衆が本という事は、大聖人のおおせの広宣流布を行っている民衆が存在する所が本となります、それ以外の団体は同じご本尊様を拝んでいても迹でしかありません。
迹を捨てて本につくことは、仏法者として当然でしょう。
御書には『浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり、浅きを去って深きにつくは丈夫の心なり』と説かれてあります。
浅き法華購を去って、深き学会につく以外にどんな方法があるのですか?
 〜引用終わり〜


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