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記録
:2011/03/05(土) 18:03:52
おそらく近代初期以降、改新教(プロテスタント)を「文明」と同一視した初期民族主義者や、日帝時代の島山 安昌浩(アン・チャンホ、1878〜1938)のような
クリスチャンたちの独立運動における功績を先ずは取り上げる人々も存在するはずですが、どうか一つだけ念頭に置いていただきたいのです。
そのような側面は確かにあったとしても、日帝末期の朝鮮におけるキリスト教徒は全人口の約2%、今日の日本とあまり変わりませんでした。
仏教の基盤は遥かに堅固でしたが、仏教界指導者たちの甚だしい対日協力などにより、彼らの対社会的な権威は思っているほど高くはありませんでした。
韓国の「キリスト教化」は米軍占領と李承晩の半植民地的政権の樹立、アメリカの甚大な影響で始まったのですが、主に1960〜80年代の離農人口の教会への流入によって成されました。
最低賃金制さえなかった「無福祉開発独裁」下で、教会は「共同体への所属」を失った数多くの人々に「代替/類似共同体」となったのです。
仏教界は主に1980年代以降は、かなりキリスト教の宣教方法をそのまま採択し、その教勢を広げました。しかし、今日のように、都会化の過程もほぼ終わりを告げ、
少なくとも基本的な福祉サービスがもはや教会の外でも徐々にできつつある時代に何故に趙??基家などの宗教界の豪族たちの「神様商売」が未だに繁盛しているのでしょうか。
これほど多くの人々を「宗教中毒」に陥れる社会的な要因は一体何なのでしょうか。
私の答えは簡単です。教会やお寺とは、結局真正な意味の個人的な宗教の代替物でもあり(直接神に逢い仏に逢うことのできる人には教会もお寺もまったく無用です)、
また幸せの代替物でもあります。幸福度指数が韓国のように低い社会で宗教への狂信度指数が今日のように高いのは絶対に偶然ではありません。
この二つは、互いに緊密に繋がっています。神さまや仏さまに賽銭の形で(通じもしない)「賄賂」でも供えて解決しようとする問題とは、私たちが普段は解くことのできない、
解けないからこそ常に悩んでいる問題です。殺人的な競争を通して成される窮極的に無意味な暗記に終わってしまう「勉強」、やりがいを感じるのではなく不安と恐怖を常に感じる職場、
相互利用と忠誠競争、「下への」蔑視と「上への」ゴマすりに圧縮される対人関係、一種の企業体となってしまった家庭等々。
この無意味の王国でそれでも生き残ろうとする多くの人々は結局趙??基たちを媒介にし、「最高の上司」と考えられる神さまや仏さまの前に進み出て
自分たちのすべての問題に対する「最終決栽」をもらおうと思うわけです。競争とゴマすりのこの王国ですべての問題は個人的に上司に接近して解決するように、
幸せの問題も個人的に、公認された媒介者を通して解こうとするわけです。道理でこの媒介者たちが伝統からも、国際慣例上からも類希な力を獲得するようになります。
個人的に幸せを手にしようとするこの心こそ不幸の種になってしまいます。残念ながら、地獄では個人の力だけでその地獄の火から逃れることはできません。
地獄を打破するには、閻魔大王に訴えてもだめで、冥府十王に個人的に祈ってもだめです。互いに手と手を繋ぎ、
互いに愛し合いながら、刀山で身の肉片を削ぎ落とされる覚悟で一緒に悶えれば良いのです。そして幸せとは、まさにその過程で見出されるものです。
原文:
http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/32360
訳GF
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