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藍物語(投稿・感想・雑談専用=隔離)スレ

1枯れ木も山の賑わい:2014/03/26(水) 23:49:11 ID:sdeCrXLs0
藍 ◆iF1EyBLnoU の 投稿と
投稿に対する感想・雑談の為に立てた専用スレです。
レスの都合上コテハン推奨ですが、匿名の書き込みも勿論OK。
非難の書き込みは「作品に関する話題・雑談」スレで存分に。
こちらへ書き込まれた場合は(可能ならば)削除します。

303『禁呪(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/06(日) 04:43:49 ID:vzjMFSWg0
 「今日、告白されたんです、私。」
姫が大学で時々声を掛けられるのは知っていた。しかし、それで何故?
「でも、それだけなら大学の駐車場でも良かったんじゃないですか?」
ストーカーまがいの男でも、いざとなれば姫は自分で身を守るだけの力を持っている。
「相手が幽霊なので、もし駐車場でRさんの前に現れたらまずいかなと思って。」
「幽霊って...」 「はい、タケノブさんって言ってました。」
頭の中が整理できない。普通、幽霊の意識にあるのは過去だけ。
今生きている人に害をなす事があるのも、過去の憎しみや恨みに囚われているからこそ。
幽霊が新しい記憶を蓄積するなんて聞いたこともない。
しかし、その幽霊は姫に告白を。つまりその魂は死後に恋をしたというのか?それとも。
「あの、どういうことなのか全く分からないんですが。」
「はい、私にも分かりません。だから今夜Sさんに。一緒に話をしてくれますか?」

304『禁呪(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/06(日) 04:45:44 ID:vzjMFSWg0
 「ミスキャンパスに推薦されたのを断ったと思ったら、今度は幽霊に告白されるなんて。
L姫様は本当にモテモテね。R君も鼻が高いでしょ?」 Sさんはイタズラっぽく笑った。
翠と藍は既に夢の中。深夜のリビング、3人での作戦会議は久し振りのような気がする。
「いやあ、それは何とも。」 それ以外に答えようがない。ホットワインを一口、クローブの香り。
「それで、Lにも事情が分からないとしたら、単純に生き霊とは判断できないって事ね。」
そうか、姫に恋をした男の生き霊。でも、それなら確かに姫が。
「はい。実は『タケノブさん』って幽霊、大学では結構有名なんですよ。
噂では50年位前から現れてるようで、目撃者も沢山いるみたいです。
私も時々気配は感じてたんですけど、この数日急に気配が強くなって。
今日の昼休み、図書館で告白されたんですけど、他の学生には見えていないようでした。」
「もし50年前に入学したとしても、68歳。噂だから10年位の誤差はあるかも知れないけど、
それにしたって幾ら何でも不自然。本当に同じ幽霊?」
「はい、自己紹介で『ちょっと有名な幽霊です。』って言ってましたから。」
「待って。その人、自分が幽霊だって自覚してるって事?」 「はい。」
普通、生き霊としての記憶は本体に残らない。僅かに残ったとしてもせいぜい夢に見る位。
しかも自分が幽霊だと自覚してる幽霊なんて、あり得ない。

305『禁呪(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/06(日) 04:48:02 ID:vzjMFSWg0
 「正体が分からないとしたら、Lさんが明日以降も大学に行くのは危険じゃありませんか?」
「そうね。でもLに告白したんだから今の所悪意は無い。
ずっと大学休む訳にも行かないし...Lは何て返事したの?ミスキャンパスの時と同じ?」
「はい。『私結婚してます。御免なさい。』って。」
そう言って、姫を推薦しようとした友人たちを絶句させて以来、
姫に声を掛ける男は減ったらしいのだが、その幽霊はそれを知らないと言うことだ。
「それで、あの。」 姫は言い難そうに俺を見つめた。
「『本当ならあきらめるから、その人に会わせて欲しい。』って言われて。」
「その人にって、誰に、ですか?」
「鈍いわね。R君に決まってるでしょ。本当に夫がいるなら、会えばあきらめがつくって事よ。」
あの電話、姫の声に胸騒ぎを感じた本当の原因はこれか。
その幽霊と面会するのは俺の同意を得てからという、姫の心遣い。
「良いですよ。そういう事なら、僕が直接会って、話してみます。」
「宜しく、お願いします。」 小さな声、姫は俯いた。 胸が、痛い。
幽霊とはいえ、自分に好意を持ってくれた相手を蔑ろには出来ない。
でも、それで俺に面倒をかけるのは心苦しい。だから直ぐには言い出せなかったのだろう。
姫の優しさが胸に染みる。 そんな姫を黙って見つめるSさんも、やっぱり優しい。
しかし、言い寄ってくる相手から妻を守るのは夫の、つまり俺の当然の役目。
面倒どころか、誇らしい。自然と、気合いが入った。

『禁呪(上)』 了

306『禁呪(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 19:52:42 ID:YR/48AOI0
『禁呪(中)』

 翌日の夕方、姫のお迎えで大学に車を走らせる。
いつもより少し早く大学の第5駐車場に車を停めた。20台分程の、小さな駐車場。
車を使う学生は歩くのが苦手。学部の建物から一番遠いこの駐車場はいつも貸し切り状態。
姫は更に遠回りして大学の構内を散歩するのを日課にしているので、
この駐車場が2人の待ち合わせ場所になっていた。
昨日とは打って変わった暖かい日差し。
終業までは間があるが、今日だけは姫を待たせる訳には行かない。
車を出て、駐車場近くのベンチに座る。本を持ってはいるが、単なる精神安定剤。
昼過ぎに姫から電話があり、これから会うことになっていた。そう、『タケノブさん』に。
20分程で姫の姿が見えた。いつもとは反対側。笑顔で手を振り、早足で近付いてくる。
「待たせちゃいましたか?」 「いいえ、そんなには。」 姫も俺の隣に座った。
「それで、場所は此処で良いんですね?」
「はい、『呼んでくれれば何処にでも。』って。大学の構内なら自由に移動出来るみたいです。」
「じゃあ、遅くならないうちに。」 「はい。」 姫は目を閉じて俯いた。
「いや、もう来てますから。」
視界の端に男の足が見えた。グレーのジーンズ、紺のデッキシューズ。

307『禁呪(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 19:54:33 ID:YR/48AOI0
 ゆっくりと立ち上がる。その男と視線を合わせた。
爽やかな笑顔、本当に幽霊なのかと疑うほどの存在感。 しかし、この男には影が無い。
軽く一礼。「どうも、Rです。」 男は深々と頭を下げた。
「タケノブです。今日はわざわざ済みません。マドンナの隣に座っても良いですか?」
マドンナ? キリスト教の聖母。 この男が姫をそう呼んでいるなら少し気が楽だ。
「構いませんよ。」 3〜4人掛けのベンチ。左端に俺、その隣に姫。少し離れてその男。
「一応、戸籍抄本を持ってきました。」
「いや、お二人の様子を見れば分かります。まさかこんな可愛らしい女性が人妻だなんて、
とても信じられなかったので、どうしても確かめずにはいられなかったんです。
でも、あなたのような二枚目が相手では、僕など勝負になりません。得心しました。
それにRさんも僕と話が出来る人だなんて。何だか愉快な気分ですよ。」
...複雑な気分だが、姫が褒められるのはやはり嬉しい。
「それでは。」 「約束通り、マドンナの恋人になるのは金輪際諦めます。ただ。」
「ただ?」 首筋がヒヤリと冷たくなる。
「Rさんと、もちろんマドンナが許可してくれるなら、これからもマドンナと話がしたい。
僕と話が出来る人は、マドンナがやっと3人目なんです。もう52年も経つっていうのに。」
男は俯いて小さく溜息をついた。深い憂いを含んだ、寂しそうな横顔。

308『禁呪(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 19:59:22 ID:YR/48AOI0
 「あなたは本当に50年も前からこの大学に?」
「そう、生きていれば僕は今年の10月に70歳。生きていればね。」
このまま話を続け、少しでも情報を得られたら、今後の方針を検討する材料になる。
そっと姫の顔を見た。姫も俺の目を見て小さく頷いた。
「失礼かもしれませんが、とても70歳には見えませんね。」
「そりゃ僕は18で死んだんだから、これより年取った姿は無理だよ。
服や靴は学生達のを見ればどうとでもなるけれど。」
黒い学生服と革靴...一瞬で。 男は学生帽を取って膝の上に置いた。
「これが当時の制服。僕はこっちの方が好きなんだが、この姿でいると時々騒ぎになる。
話は出来なくても、僕の姿が見える人は結構いるみたいだから。」
いつの間にかタメ口になっているが、考えてみれば大先輩だ。まあ仕方ない。
「あなたには、死んだ後の記憶があるんですか?」
「ああ。僕は生まれつき心臓が弱くて、風呂場で倒れたんだ。あれは、苦しかったな。
『折角大学に入ったのに悔しい悔しい。』って、そればかり考えてる内に気が遠くなって。
次に気が付いたときは此処に居た。ある教室の椅子に座ってたよ。
目の前に松田って親友が座ってて、声を掛けたけど反応が無い。
肩を叩こうと思ったら、こう、すり抜けた。
ああ、僕は死んで幽霊になったんだって、その時に分かった。」

309『禁呪(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 20:02:15 ID:YR/48AOI0
 「それで、その後50年間の出来事も憶えているんですか?」
「もちろん。此処でずっと学生や職員の様子を眺めてきた。
学生達や職員達の人間関係、時代につれて移り変わる学生達の気質や習慣。
そういうのを観察しているのは、存外面白いんだ。
ほら、何て言うか、僕はその気になれば大抵何処にでも入れるからね。
言った通り僕は子供の頃から病弱だったから、家の窓から外を眺めるのが好きで、
特に人物を観察するのが大好きだった。まあ、この生活が性に合っていたのかな。
だけどさすがに寂しくなってきた。52年間にたった4人なんて。あ、そう言えば。」
「はい、何か?」
「4人目は君。マドンナと君が2人とも僕と話が出来るなんて奇態だ。
それにマドンナは僕に直接呼びかけることも出来る。一体君たちは、何者だい?」
...とうとう君呼ばわりだ。 それに、『何者だ?』って。聞きたいのはこっちだっての。
幽霊の自覚があって、死後の記憶があって、生きている人間にも関心があるなんて。
「陰陽師なんですよ。2人とも。」 「陰陽師?」 「はい。」
男は額に手を当てて目を閉じた。数秒間の、沈黙。
「確か、アイツもそんなこと言ってたな。2人目の...そう、○▲。面白い男だった。」
思わず姫と顔を見合わせた。 それは、俺たちの一族ではありふれた名字。

310『禁呪(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 20:04:02 ID:YR/48AOI0
 「鳩が豆鉄砲食らったような顔だね。どうか、したかい?」
「あ、僕たちの一族ではありふれた名字なのでちょっと。」
「成る程。只の偶然か、もしかしたら君たちの一族と血縁があるのか。実に面白い。」
「それで、その○×って人はどんな?」
「入学式の翌日、僕に気付いて話しかけてきた。驚いたよ。」
男は面白そうに喉の奥で笑った。
「色々話してる内に友達になってね。初めは『いつか成仏させてやるから。』って言ってたけど、
その内『誰にも迷惑掛けないなら、そのままで良いんじゃないか?』って言うようになった。
それで、そのまま卒業。本当に良い加減な奴だよな。」
「それ、どの位前の話ですか?」
「う〜ん。30年、いやもう少し前。細かい年代は苦手だけど、頑張って思い出してみるよ。」
「もし思い出したら、聞かせて下さいね。」
まさに破顔一笑、男は晴れ晴れとした笑顔を浮かべた。
「マドンナ、これからもあなたとお話しする許可を頂いたと考えて良いんですね?」
「はい。でも、これからはマドンナは止めて下さい。私の名前は、L、ですから。」
「名前で呼ぶ事までも許して頂けるなんて...本当に嬉しい。有り難う。」
「夫もそれを、許してくれると思いますよ。ね、Rさん?」
かな〜り複雑な気分だが、姫がそう言うなら、まあ仕方がない。

311『禁呪(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 20:07:35 ID:YR/48AOI0
 その日の深夜、再び作戦会議が開かれた。今夜の飲み物はホットウイスキー。
「大学の敷地に縛られてるなら一種の地縛霊。でもそれ以外、悉く幽霊の特徴から外れてる。
聞いた感じでは人間そのもの。LとR君の話じゃなかったら、とても信じられない。」
「はい。Rさんと話をしているのを見ていても、幽霊とは思えませんでした。
姿を現している間は、気配とか存在感も普通の人と変わりません。本当に不思議です。」
「自分が幽霊だという自覚がある幽霊の記録は残っていないんですか?」
お屋敷の図書室、その中の記録庫には様々な記録が保管されている。
其処になくても、『上』が管理する資料館にならもしかして。
「死後幽霊になり得るのは、限られた霊質をもつ人だけ。前に話したでしょ?」 「はい。」
「その霊質を持つ人の魂も、肉体を失えば存在の仕方が私たちとはズレてしまう。
そのズレのせいで自我を保つのがとても難しい。それが一般的な解釈。
ただ、強く執着してる事については、精神力がそのズレを越えて自我を保つことがある。
R君は幽霊が新しい記憶を蓄積することはないと思ってるみたいだけど、そうじゃない。」

312『禁呪(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 20:10:36 ID:YR/48AOI0
 「強く執着したり関心を持った人については、新しい記憶を蓄積することもある。
私たちだって、関心の無い事までいちいち憶えていられないでしょ?
それがもっともっと極端になった状態を想像すれば、分かってもらえるかな。」
そうか、Sさんは幽霊になった女の子の、死後の記憶を念写した事がある。
別の件で、自殺した女子高生の霊が姫を記憶出来たからこそ、姫は彼女と友達になれた。
普段は朧に拡散している意識が何かの条件で凝縮し、その瞬間だけ自我を取り戻す。
そして自我を保っている間だけ、新しい記憶を蓄積する。それは一体、どんな感覚だろう。
「だから、術者が必要な条件を調えれば、その間は幽霊も自我を保つ事が出来る。
自分が幽霊であるという自覚を持ち、私たちと会話し、そして新しい記憶を蓄積する。
幽霊や魂と交信する術はその応用。R君も何度か、使った事があるわよね?」
そうだ、単独での初仕事。俺は交通事故で植物状態になった男の子の魂と交信した。
あの時、確かに男の子は自我を持ち、俺と会話をし、そして両親の様子を気遣っていた。
「だけどLの大学全体に、そんな条件が50年以上も存在し続けるなんて有り得ない。
第一、特殊な条件があるならLやR君がとうに気付いてる。何か、別の理由があるはず。
まあ理由はどうあれ、不思議な幽霊がいてLに好意を抱いてるのは事実。
今の所誰も被害を受けていないし、話し相手をしてる内に何か分かるかも知れない。
取り敢えずは様子見、経過観察ってとこね。」

313『禁呪(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 20:13:28 ID:YR/48AOI0
 第5駐車場脇のベンチで姫を待っていると2人連れの姿が見えた。姫と、タケノブさん。
駐車場の入り口手前。姫が小さく手を振ると同時に、タケノブさんの姿は消えた。
タケノブさんは姫の帰りの散歩に同行することが多いが、毎日と言う訳でもない。
実際、ここ一週間程は姫の前に姿を現したという話は聞いていなかった。
「今日は一緒でしたね。タケノブさん。」
「はい、『とても面白い事を見つけたから、暫くそれを研究してた。』と言ってました。」
「研究って、人間関係の?」 「はい、助教授と学生の不倫だそうです。」 「はあ、成る程。」
何処でどんな事をしてたか知らないが、幽霊に不倫の現場を研究されるとは気の毒に。
「私が『そんな話は嫌いです。』って言ったら笑ってました。
それで今度は昔の自分の事を話してくれたんです。出身地とかお家の事とか。」
○×市で代々医者をしてきた家系だそうです。お父さんも医者だったから、
大学生になるまで生きる事が出来たと言ってました。好きな文学を勉強させてくれたし、
本当に感謝してるって。お風呂場で発作を起こして倒れたのは冬休み。
きっとお父さんお母さんが看取ってくれたんでしょうね。それが、せめてもの親孝行。」
助手席から外を見つめる姫の顔は、少し寂しそうに見えた。

314『禁呪(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 20:19:06 ID:YR/48AOI0
 「『○△市で代々医者をしてきた家系。本当に、そう言ったの?」
Sさんの目の色が変わった。 「はい、確かに。」 「ちょっと待ってて。」 廊下を走る足音。
本当にせっかちな人だ。今夜の飲み物はカフェロワイヤル、折角の綺麗な炎を眺めもせずに。
結局Sさんが戻ってきたのは20分くらい経ってからで、
俺は新しく淹れたコーヒーでカフェロワイヤルを作りなおした。
「タケノブは名前じゃ無くて名字かも。○△市の武信姓。
その中に、もとは陰陽道、術者の家系がある。うちの一族とは系統が違うけど。」
そうか、呪術医の例に見られるように、古来、術者が医者を兼ねるのはありふれた事だった。
「もしタケノブさんの家が術者の家系だったら、
あの不思議な幽霊が存在する理由を説明出来るかもしれない。」
「もしかして、反魂の術。ですか?」 姫の顔が緊張している。
「反魂の術って、死者を蘇生させる術ですよね?確か、『泰山府君の法』とか。」
「あれは映画の中の話。その術の名前を口に出せないから、Lは反魂の術って言ったの。
一族に伝わる、門外不出の秘術。死者を冥府から呼び戻す、禁呪の中の禁呪。」
「本当に可能なんですか?死者を蘇らせるなんて。」
「全ての条件が揃えば可能な筈よ。」
「じゃあ西行とか安倍晴明の話も全くの作り話って事じゃ無いって事ですね。」
「どちらも半分ホントで半分嘘。カムフラージュのためにフェイクが混ぜてある。」
「フェイク?」 「そう、禁呪の内容や方法を全て語るわけにはいかないでしょ?」
それはそうだ。だが、語られている内容の一部は真実ということになる。

315『禁呪(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 20:20:49 ID:YR/48AOI0
 「どこがホントで、どこが嘘なんですか?」
「L、西行の話、説明して上げて。その間にこれ、飲んじゃうから。」
「はい。」 姫は少し考えて、それから話し始めた。
「西行は人骨を集めて人間を再生した事になってますけど、あれは嘘です。
魂を入れないんですから、その術で作れるのは式であって人間じゃありません。
だから感情も言葉も持ってなかった。それはホントです。
骨を並べて云々の記述も、お香の種類や断食の話も、話をそれらしく見せるための嘘です。」
「どうしてわざわざ代に人骨を使ったんでしょうね?Sさんは紙を使うのに。」
「人の姿をした式を作る時、Sさんのように高等な術を使うなら代は紙の人型で十分。
でもそうでない時は人の一部、つまり遺体の一部を使った方が成功率は高くなります。」
姫は言葉を切ってSさんを見つめた。 少し困ったような顔。
「そう、あるいは。」
コーヒーカップを持ったSさんの目がキラキラと輝いている。本当に、綺麗な人だ。
「あるいは、何ですか?気になるじゃないですか。」
「その骨の主の姿をした式を作ろうとした。骨の主は一体誰なのか?
その人の姿をした式を作って何をするつもりだったのか?色々と事情がありそうよね。」
そうか、西行は話し相手欲しさに術で人間を作ろうとした事になっている。
しかし術で作る式は言葉を持たないのだから話し相手にはならない。
つまり話し相手欲しさに人間を作ろうとしたということ自体が、そもそも嘘。 
微かな悪寒。ブランデーとコーヒーで温まっていた体が、ゆっくりと冷えていく。

316『禁呪(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 20:23:07 ID:YR/48AOI0
 Sさんはカップに残ったカフェロワイヤルの残骸を一気に飲み干した。
「美味しい。じゃ、次は安倍晴明の話。反魂の術を使うには、かなりの力が必要なの。
当然この術を仕える術者は限られる。だからこそ、主人公は安倍晴明って設定。」
確かに、あの話を後世の創作であると考える人は多い。
「あの話、『死者を蘇生させるのに代償が要る。』という部分はホント。
『代償が他の誰かの魂である。』という部分もホント。」
だからこそ病気で瀕死の上人を救うために僧侶が1人身代わりを志願した。しかし。
「2人とも助かったというのは嘘。不動明王が身代わりになるなんて有り得ない。
それに、どんな術者でも代償なしに高位の精霊と契約する事は出来ない。」
「その術は、精霊との契約に基づく術なんですね?」
「そう。まず蘇生させたい人の遺体の前で身代わりになる人の魂を捧げ、精霊と契約する。
ただし、既に遺体の腐敗が進んでいたら契約は成立しない。
だから、この術を使うとしたら、出来れば死亡直後。遅くとも死後1〜2時間以内。
もし契約が成立すれば、精霊はその見返りとして遺体の傷や病を癒しその腐敗を防ぐ。
術者は契約が成立した事、つまり遺体の腐敗が進まない事を確認して、
蘇生させたい人の魂を遺体に戻す。それで完成。全てが完璧なら、死者は蘇る。」

317『禁呪(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 20:24:43 ID:YR/48AOI0
 治まりかけていた悪寒が再び全身に拡がっていく。
「じゃあ、反魂術が失敗したからあの幽霊が?」
「ご名答。遺体がまだ腐敗せずに残っているなら、その魂と私たちの存在の仕方はかなり近い。
だからその幽霊は自我を保てる。そう考えるしか、あの幽霊の説明はつかない。」
「でも、どうして失敗したんでしょう?契約が成立したなら、後は魂を戻すだけですよね?」
「魂を戻すだけって...そっちの方がずっと難しいの。だからこの術を使える術者は限られる。
というより、特殊な祭具の助けを借りずにこの術を使える術者はまずいない。」
Sさんの知る範囲にいないとしたら。当主様も桃花の方様も、勿論Sさん自身も。
それなら術者の力が足りず、術が完成しなかったのは当然の事だろう。
つまりタケノブさんの体は今も何処かに、当時のままで残っている。
「どう対処するべきなんでしょうね、僕たちは。」
放置するべきなのか。それともタケノブさんの体を探し出して葬るべきなのか。
「今は悪意のない存在でも、今後どう変化するかは分からない。
私の予想が正しいのかどうか、確かめておく必要もあると思う。」
Sさんは向き直って俺を見た。 はい、どうぞ何なりと御指示を。
「さてR君。52年前に何が起きたのか、資料を調べて頂戴。
県立図書館なら、多分記録が残ってる。」
「了解です。明日の朝一番に。」 「うん、良い返事。」

『禁呪(中)』 了

318『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:26:28 ID:YR/48AOI0
『禁呪(下)』

 『師走の怪事!?親子3人行方不明』
地元ではメジャーな新聞の縮刷版で、その記事はあっさりと見つかった。
個人病院を営んでいる医師とその妻、大学生の息子が行方不明だという記事。
半月程の間は細々と続報が載っているが、捜査が進展したという情報はない。
その後の新聞には事件に関する記事は見つからなかった。迷宮入りということだろう。
タケノブさんと、その父母。
何処からか術者を呼び、父母の内どちらかが身代わりになったのか。
いや、3人とも行方不明のままということは...
父母のうちどちらか1人が術者で、残り1人が身代わり。
しかし術は失敗し、術者も力尽きたと考えるのが筋だろう。
52年前に行われた反魂の術、その結果出現した不思議な幽霊。
帰りの車の中。お屋敷に着くまで、俺の心はもやもやと曇ったままだった。

319『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:27:57 ID:YR/48AOI0
 「多分あなたの予想通り。榊さんに調べてもらったけど、やっぱり未解決のままだった。」 
Sさんの寝室。就寝前の一時、Sさんと2人並んでソファに腰掛けていた。
藍はベビーベッドの中で寝息を立てている。翠はLさんの寝室。もう、2人とも寝ている頃。
『細かい事情を知りすぎて、もし態度に出たらタケノブさんが不審に思うから。』という
Sさんの判断と姫自身の希望もあり、今後の調査はSさんと俺が担当することになっていた。
「やっぱり行くんですか?予想通りなら確実に死体がありますよ。気が進みません。」
「52年も前だから、きっと白骨化してるわね。それより気がかりなのは白骨化してない方。」
「タケノブさんの体ですか?」
「そう、いつまでも腐敗せずに残っている体は、『器』になる可能性がある。」
「『器』って、入れ物のことですよね?」
「そう、何か悪しきモノがその中に入り込むかもしれない。
体を欲しがっているモノはいくらもいるから。」
「契約した精霊がそれを守ってくれるんじゃないですか?」
「精霊は体の準備を調えるだけ、その後体を守るとしたら別の契約が必要になる。」
「悪しきモノが入り込まないような対策を取る必要があるってことですね。」
「そう。それに、ちょっと確かめたいこともあるし。」

320『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:31:24 ID:YR/48AOI0
 「ええと、これこれ。こっちが門扉の鍵、こっちが玄関の鍵です。
定期的に草刈りはしてますが、マムシやなんかいるかもしれません。気を付けて下さい。」
武信医院の建物は52年前から空き家となり、現在は親戚から委託された不動産屋が
敷地と建物を管理している。Sさんが榊さんに頼んで話を付けて貰ったらしい。
『ある事件の犯人が○×市周辺に逃げ込んだ形跡がある。
空き家に潜伏している可能性があるから捜索させて欲しい。』という設定だった。
Sさんは車で待っている。綺麗な女性を連れた若い刑事なんて誰も信用しないだろう。
鍵を渡してくれたのは人の良さそうな初老の女性。 鍵を受け取って俺は頭を下げた
「有難う御座います。夕方までには鍵をお返しします。」
「ああ、急がなくて良いですよ。持ち主は売りたがってるけど、今の景気じゃ、
こんな寂れた街の土地を買おうなんて酔狂な人はいませんからね。しかも建物は曰く付き。」
「曰く付き?」 女性は露骨に『しまった』という顔をして、慌てて言葉を継いだ。
「あ、いや。その、前にも警察があの建物を捜索した事があって。」
「へえ、それどのくらい前のことですか?」
ホッとした表情。52年前の事件に触れずに済みそうだと思って安心したのだろう。
「私が此処に採用されてすぐだったから、もう30年くらい前ですよ。
その時も凶悪犯が隣の県からこの辺りに逃げ込んだかも知れないって話でした。
それで、2日かけて彼方此方調べたけど何にも分からなかったそうです。
あなたくらいの若い巡査で、『下っ端なんでこんな仕事ばっかりですよ。』って笑ってました。」
30年前...それ、何処かで。
「あの、どうかしましたか?」 「いいえ、何でもありません。有難う御座いました。」
もう一度頭を頭を下げて事務所を出た。

321『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:35:32 ID:YR/48AOI0
 地図を頼りに車を走らせ、10分程でその建物を見つけた。路肩に車を停める。
「何故わざわざ街の外れに病院を建てたのかと思っていたら、この辺りは龍穴なのね。
それほど力の強い龍穴ではないけど、住むにはとても良い場所なのに。」
建物の背後に拡がる森、その向こうに連なる山々が見える。あれが、龍脈。
長い歴史を持つその街は、新幹線や高速道路の整備から取り残され、
ここ20年程ですっかり寂れてしまったと聞いた。
「人間の経済活動は、龍穴の力も及ばない程の力を持ってしまったんですね。」
「じゃ、行きましょう。頼りにしてるわよ。」 「荷物持ちなら、任せて下さい。」 「馬鹿。」

322『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:37:01 ID:YR/48AOI0
 その建物は金網のフェンスで囲まれていた。これは管理の為に取り付けたものだろう。
その内側にコンクリートの低い壁。立派な門柱の看板に『武信医院 内科・小児科』の文字。
朽ち果てたのか、もとの門扉はなくなっていた。門を入ると結構広い庭、
その中を抜ける、ひび割れたコンクリートの小道。建物の玄関に繋がっている。
定期的に草刈りをしているからだろう。 フェンスの門扉、錠前はそれほど錆びていない。
2人で門扉をくぐる。白骨死体と対面するなんて気が進まないが、まあ仕方がない。
「事件の直後、当然警察は此処をしっかり捜索した筈です。ホントに此処ですか?」
「探し方が悪いとは言わないけど、何処にあるか分からないものを探すのと、
それがある場所の見当を付けてから探すのとでは雲泥の差がある。」
Sさんは小道の途中で立ち止まった。建物の中、じゃないのか?
「やっぱり有った。ほら、あれ。術者と医者を兼ねるなら、
それぞれの仕事場を分けるのは当たり前だもの。」
小道からさらに枝分かれする細い道。その先に小さな祠。
Sさんは祠に向かって歩き始めた。慌てて後を追う。

323『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:38:57 ID:YR/48AOI0
 5m四方程のコンクリートの土台。その上には更に木の土台、これは2m四方程。
湿気抜きの為か、コンクリートの土台と木の土台の間には5mm程の隙間が有った。
赤い彩色が残る木製の祠。 個人の庭の祠にしては念の入った作りだ。
Sさんは暫く祠とその周りを調べていたが、やがて祠の裏側から手招きをした。
「こんな所に、どう見ても変よね?」
それは金属製の取っ手。50cm程の間隔をおいて2個。多分真鍮、頑丈そうだ。
「何でこんな所に取っ手が?」 「押すか、引くか、どっちかに決まってる。ね、お願い。」
コンクリートの土台に片膝を付き、まずは引いてみる。
...動かない。全体が少し揺れるような感触はあるが動くとは思えない。それならあとは。
両膝を付き、徐々に力を込めながら押す。 突然、感触が変わった。
僅かだが、確かに木の土台がずれている。 もう一度、力を込める
低く唸るような音を立てて、あっけなく土台は動いた。 隠し扉と、それを挟む2本の浅い溝。
確かその溝は祠の正面にも続いていた。参道を示すしきりだと思っていたのだが。
動きの軽さからして、木の土台の下にはベアリング付きの大きな車輪が設置されている筈。
木の土台の下だから直接風雨に曝されない。単純だが優れた工夫だ。
Sさんは黙って隠し扉を見つめた。少し、目を細める。
「扉の周りに強力な結界が張ってある。かなり力のある術者だったのね。じゃ、扉を開けて。」
「大丈夫なんですか?」 「邪心の無い者には関係ない。開けて頂戴。」
Sさんは俺が持ってきたスポーツバッグの中から懐中電灯と蛍光灯式のランタンを取り出した。
「多分階段、灯りはこれで十分。さ、行きましょう。」

324『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:42:14 ID:YR/48AOI0
 扉を開けて中を覗く。1m50cm程の四角い穴。壁の一方に頑丈な梯子が組んである。
梯子を使って穴の底に降りる。Sさんの予想通り、其処から階段が伸びていた。
懐中電灯で照らしながら慎重に降りる。ランタンを持ったSさんが後に続く。
強い腐臭を覚悟していたのだが、カビ臭ささえ感じない。
微かに風が吹く。ヒンヤリと冷たい、乾いた風。奥に通風口が有るのだろう。
3m程降りただろうか。階段は終わり、開けた場所に出た。コンクリートの床だ。 これは。
男物の靴と女物のサンダル。綺麗に揃って並んでいる。
靴とサンダルの少し先、10cmほどの段差があり、其処からは板張りの床になっていた。
ゆっくりと懐中電灯を前に向ける。 襖だ。無地の、黄ばんだ襖が4枚。ピタリと閉じている。
Sさんが横に並び、ランタンの灯りも加わった。かなり、明るい。
これなら部屋の中の様子も良く見えるだろう。 つまり、いよいよご対面だ。
靴を脱いで床に上がり、襖の前に正座して一礼。 Sさんは床に立ったまま深く頭を下げた。
Sさんが俺を見て小さく頷く。それを確認した後、片膝をついて襖の引き手に右手をかけた。
するすると、思っていたより滑らかに、襖は開く。50年の歳月は感じられない。
Sさんがランタンを掲げる、その表情が変わった。
「これ、どういう事?」
恐る恐る向き直って襖の中に視線を移す。

325『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:45:56 ID:YR/48AOI0
 畳の上に大きな白い布が一枚、丁度横になった大人2人分程の膨らみを覆っている。
Sさんは畳に膝を着き、そっと白い布を捲った。ミイラのように乾涸らびた左手。
薬指に細い金色の指輪。恐らく女性の手だ。つまりタケノブさんの母親、その隣は父親だろう。
「身代わりになったのは母親。だから術者は父親ね。」
白い布を元に戻し、Sさんは立ち上がった。更に奥へ進む。もう一枚の白い布。
一瞬、微かな視線を感じた。横の壁の辺り? しかし棚のようなものが見えるだけだ。
「見て。」 振り向くと、半分程捲れた白い布、そして。
白い布団に横たわる裸身の若い男性。 その、上半身。
Sさんの隣りに膝を着く。蒼白だが、穏やかな顔。間違いない。あの、タケノブさんだ。
確かに、全く腐敗している様子はない。肌にも張りがある。
しかし、違う。 まるで大理石の彫像のような冷たい雰囲気。
「凄い。間違いなく、史上最も完全な永久死体だわ。」
でも、これは...いや、あの冷たい雰囲気。
どれ程完全であろうと、魂を失った体はやはり死体なのだ。
「家の敷地内、まさに死亡直後に術を使える最高の条件。だからこの状態は理解出来る。
でも、分からないのはこれ。」 Sさんは死体の傍らから何かを拾い上げた。
「本物は初めて見たけど、これはあの術を使う時に必要な祭具。
入り口の結界からしても、かなり力のある術者。これを使ったのに、何故失敗したのかしら。」

326『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:47:03 ID:YR/48AOI0
 Sさんは祭具を死体の傍らに置き、白い布を元に戻して立ち上がった。
更に歩を進め、ランタンを奥の壁に...壁が、ない。 ただ、深い闇が拡がっている。
「龍穴に存在する洞窟は、それ自体が特別な力を持つ。だから古来、それは異世界への、
あの世への通路だと考えられてきた。死者を蘇らせるとしたら、これ程相応しい場所はない。」
立ち上がり、Sさんの左隣りに立つ。 深い。懐中電灯の光も、その底に届かない。
この洞窟は一体何処まで続いているのか。
「黄泉比良坂。」
「そう、それもこんな洞窟の1つ。多分この家系は代々この洞窟を守り、その力を借りて
ひっそりと術を伝えてきたのね。洞窟の力と、この冷たく乾いた風のお陰で
タケノブさんの両親の遺体も腐敗を免れた。本人達がそれを願っていたかどうかは別だけど。」

327『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:47:52 ID:YR/48AOI0
 微かな、視線。
そっと囁く。 「Sさん。」 「何?」
「Sさんの右側、壁の方から視線を感じます。気を付けて下さい。」
Sさんは壁に歩み寄ってランタンを掲げた。色々な物が整然と並ぶ棚の様子が見える。
「大丈夫なんですか?」 立ち上がり、懐中電灯を持ってSさんの横に並ぶ。
Sさんの左掌、緑色の人型が載っていた。 半透明の深い緑、やや厚みがある。 翡翠?
「それは?」
「代よ。結界を抜けて入ってきた悪しきモノを始末するために配置されたのね。」
どういう事だ? タケノブさんの父親がこれを配置したなら...
敢えてタケノブさんの魂を体に戻さず、タケノブさんの体を守るための代を配置したことになる。
でも、一体何の為に? それなら何故、タケノブさんの父親の遺体が此処に?
「ふふふ。」 Sさんが、笑っていた。
笑い続ける。この部屋では不謹慎なのではと思う程、本当に可笑しそうだ。
「どうしたんです。何がそんなに可笑しいんですか?」
「これは、父が作った代よ。多分扉の周りの結界も。」
「え?当主様が?」

328『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:49:10 ID:YR/48AOI0
 「タケノブさんの2人目の話し相手、○▲。 それは即位する前の、父の名字。
父と母が出会ったのはあの大学だと聞いていたから、もしかしたらと思ってたの。」
Sさんが言った『確かめたいこと』とは、そういう意味だったのか。
「約30年前。あの幽霊に会って、話をして、当然父も不思議に思った。
そして散々考えた挙げ句、私たちと同じ結論に達した。だから。」
!! 30年程前に此処を捜索した若い巡査とは...
「まずは此処の状態を確かめて、必要な物を確認。そして次の日、必要な物を用意して
もう一度此処を訪れた。2体のミイラを供養して安置し、代を配置するために。」
もしも当主様が此処を訪れていなかったら、きっと此処の情景は...酷い目眩がした。
Sさんは緑色の人型を元の場所に戻して微笑んだ。
「さあ、出ましょう。この代は当分有効だし、私たちに出来る事は残っていない。」
『出来る事は残っていない。』って、そんな。
「あの、Sさん。」 「何?」
「Sさんなら、タケノブさんの魂をあの体に戻せるんじゃないですか?」
「死後49日を過ぎて、死者の魂が幽霊に変化してしまったらそれは不可能。
それで?見ず知らずの幽霊の為に寿命を削るなんて、まさか本気じゃ無いわよね?」
「あ、いや、聞いてみただけですよ。」 「そういう事に、しといてあげる。」
Sさんが階段を上り始めた。 息を吐き、そっと汗を拭う。 危うくとんでもない自爆を。
世界で最も奇妙な墓への出入り口。その階段は、降りてきた時よりも短く感じた。

329『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:51:06 ID:YR/48AOI0
 傾いた日差しの中、お屋敷に向かって車を走らせる。
Sさんは助手席で窓の外を眺めていた。横顔を見る限り、機嫌は悪くない。大丈夫。
「聞きたいことが有るんですが。」 「なあに?」
「どうしてタケノブさんの御両親はあの術を知っていたんでしょうね。門外不出なのに。」
「一族内紛の時代、力を封印して野に下った術者も多い。中には昔を懐かしんで、
その術について語った人がいたかも知れない。勿論詳細はぼかし、フェイクも交えて。」
「でも、それを聞いた相手が術者だったら。」
「そういうこと。フェイクを取り除き、自分で集めた資料と付き合わせれば、あるいは。」
その話を聞いたのが、タケノブさんの父親だった可能性も当然有る。
「タケノブさんの心臓が悪いことは小さい頃から分かってた。
だから御両親はその日に備えて準備をしていた筈。
ありとあらゆる情報を集め、いざとなった時の手順はどうするのか。
誰が身代わりで誰が術を使うのか。何度も何度も話し合って決めていたのね。
家族と離れて隣の県で生活出来る程度には丈夫になったけど、準備は怠らなかった。
帰省してきた息子が倒れた時、慌てず迅速に対応出来たのはそのため。
そうでなければ、短時間で心を決めるなんて出来る事じゃない。
それに、躊躇して時間が経てば経つ程、術の成功率は落ちていく。」

330『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:54:45 ID:YR/48AOI0
 「成る程、納得です。もう1つの質問も、良いですか?」
「質問の仕方が少し気に入らないけど、良いわ。答えてあげる。」
「あの術には特殊な祭具が必要。あの場所にあったのが、その祭具ですよね?」
「そう。」
「確かに特殊な祭具でした。でも、神の血を封じた宝玉とは格が違う。
あの祭具なら、人の力だけで作れる。そんな気がしました。」
「流石ね。その通り、あれを作れる術者は今でも何人かいるはず。」
「それならあの祭具を手に入れるのは不可能じゃありません。
あの祭具があって、そして術師に生き残る気がないのなら、
Sさん程の力がなくても、術を完成させる事が出来る。そうですよね?」
「その通り。術者が死ぬ気なら、ある程度の力があれば完成出来る。例えば、あなたにも。」
「我が子を蘇生させるためなら自分の命を捧げても構わないという親は幾らでもいるでしょう。
例えば両親があの祭具を手に入れて、共に命を捧げればあの術が完成する。
それなら、一族には、あの術で実際に蘇生した人が何人かいるんじゃないですか?」

331『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:55:55 ID:YR/48AOI0
 「あの術は『禁呪の中の禁呪』、そう言ったでしょ?」
「はい。文字通り命と魂を操作する術ですから、それは当然のことで。」
「端から自分の命を捧げるつもりなら、寿命を削られる事なんて関係ない。
この術が禁呪なのは、もう1つのペナルティーがあるからよ。」
ざわ、と、首筋の毛が逆立った。 何だ? この、嫌な予感は?
「そのペナルティーって、何ですか?」
「この術を使って蘇生した者の魂は、死後、中有へ入れない。
永久にこの世を彷徨って、最悪なら悪霊に変化する可能性さえ有る。
ね、それを知っていても、例えば私が死んだ時にあなたはその術を使える?」
使えない。使える筈がない。Sさんの魂が悪霊に変化するなんて、想像することさえ。
「私も使えない。呼び戻してそんな宿命を負わせる位なら、泣いて冥福を祈る方がずっと良い。」
寒気が治まらない。少し震える左手で、ヒーターの温度と風量を少し上げた。

332『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 21:58:47 ID:YR/48AOI0
 「この術に必要な、特殊な祭具の話を聞いた時、それは『白の宝玉』かと思いました。」
Sさんは窓を開け、吹き込む風に髪を掻き上げた。 「車を停めて。あの、広くなった路肩へ。」
車を停めると、Sさんは助手席から身を乗り出して俺の唇にキスをした。長く、熱いキス。
それから俺の左手を両手で挟み、俺の肩に頭を預けた。 温かい。 寒気は治まっていた。
「相手が本当に大切な人であればあるほど、あの術を使える筈がない。
だから、私もLも、あの術は使えない。」
「じゃあ、どうしてタケノブさんの両親はあの術を?」
「そのペナルティーがあると、知らなかった。だからこそあの術を使い、そして失敗した。
私はそう信じたい。おそらく精霊との契約を終えた後、父親の体に何か異変が起きた。
心臓、かもね。心臓疾患は遺伝することがあるから。」
「『信じたい』って、別の可能性もあるということですか?」
「知っていて、どうしても死なせたくない事情が有ったのかも。
彼は一人っ子。 古い家系、どうしても絶やす訳にいかないなら、
何より大事なのはタケノブさんが生き延びて子を作ること。
タケノブさんの魂は一族を存続させるための犠。」
そんな、馬鹿な。

333『禁呪(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 22:13:36 ID:YR/48AOI0
 「ただ、話を聞いた限りでは、タケノブさんは父親が術者である事を知らない。
知っていたら、真っ先に自分の状態と父親が術者であることの関連を考えた筈。
あの術を使ってでも生き残って欲しいなら、そもそも隣の県での進学なんて許すはずが無い。
其処で倒れたら、絶対に間に合わない。そして、タケノブさんは医学部でもない。」
「タケノブさんに最大限の自由を与え、その上で術を使う機会があるなら、それが天命だと?」
「そう。両親はタケノブさんを術者としての跡継ぎにも、医者としての跡継ぎにも
する気が無かった。術者も医者も自分たちの時代で絶える、それで良い。
タケノブさんには何の柵もなく新しい人生を生きて欲しいと考えていたんだと思う。
でも、私たちがどんなに考えたって真実は闇の中。
今を生きている者は、自分の信じたい方を信じれば良い。」
自分の信じたい方を、そうか。タケノブさんには、自分の状態を選ぶ自由すら無い。
「そうですね。タケノブさんの両親はこの術のペナルティーを知らなかった。そう、信じます。
それに、今考えれば、術は失敗したけれど、結局成功するよりも良い結果になったんです。」
「どういうこと?」 Sさんは真っ直ぐに俺の目を見つめた。 視線が、眩しい。
「だってタケノブさんは今年で70歳。蘇生していたとしても、そろそろ寿命が尽きる歳。
成功していても、失敗した今の有り様も、永遠に彷徨うことは変わらない。
それなら、自我を保てない状態より、自我を保てる今の状態はずっとマシです。」
「...そうね。本当に、あなたの言う通り。」

『禁呪(下)』 了

334『禁呪(結)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 22:15:10 ID:YR/48AOI0
『禁呪(結)』

 その日、朝から妙な胸騒ぎがしていた。
『『不幸の輪廻』の活動が活発化している。』と、警戒の通知が来たのは半月ほど前。
しかし、未だ大した事は起きていなかった。このまま何事も無く、そう思っていたのに。
いつも通りにおやつ、午後のお茶とお菓子の準備をしていたら、地面が大きく揺れた。目眩。
姫の大学は既に春休みに入っていたから、家族は全員お屋敷にいた。まさに不幸中の幸い。
しかし、それを喜ぶ事は出来なかった。TVの画面に次々と映し出される 信じられない光景。
未曾有の大災害。多くの命が失われた。
一族もかなりの被害を受け、それからの数ヶ月、俺たちは多忙を極めた。
葵さんと暁君に翠と藍を預け、『上』の指示で彼方此方飛び回る日々。
久し振りに姫の大学を訪れたのは、姫の休学届を出すためだった。
学務課で書類を提出し、2人遠回りをして車に戻る。
第5駐車場、入り口脇のベンチに男が座っていた。 タケノブさん。

335『禁呪(結)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 22:17:50 ID:YR/48AOI0
「どうも随分と、酷いことになってるみたいだね。」
第5駐車場脇のベンチ。 タケノブさんは小さく呟いて、目を伏せた。
「はい。それで私たち凄く忙しくて。今日は休学届を出しに来たんです。」
「そうか...でも、仕事が落ち着いたら、戻ってきてくれるよね?」
「私、今度の事で色々考えました。それで、決めた事があるんです。」
「何だい、それは?」
「仕事が落ち着いたら、私、子供を産みます。」
鳥たちの声、昼前の駐車場には、以前と変わらず穏やかな空気が満ちていた。
「そうか。君とその子の幸せを祈ってると、僕は言うべきなんだろうね。少し、寂しくなるけど。」
「○▲、あなたの2人目の話し相手。前に話してくれましたよね?」
「ああ、君たちの一族ではありふれた名字って話だね。」
「その人、私たちのお師匠様のお父様でした。今は私たち一族の当主様です。」
「やっぱり君たちの血縁か。何となく、雰囲気が似てると思ってたよ。」
「だから、寂しくないですよね。」
「え?」
「もし、私がこの大学に戻って来なくても、私たちの子供がこの大学に入学するかも。
そしたらその子達に、この大学や私たちのこと、話してあげて下さい。」
「ははは。なるほど、そうか。君たちの子供、もしかしたら孫も。承知した。
その日が来るのを、楽しみに待ってる。」

336『禁呪(結)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 22:21:29 ID:YR/48AOI0
 お屋敷に向かう車の中、姫は助手席の窓から外を眺めていた。
未だ心臓の高鳴りは収まっていない。 『私、子供を産みます。』 姫はそう言った。
「タケノブさん、きっとあれで納得すると思いますよ。最高の対応でした。」
「納得して貰わないと困ります。ホントのことですから。」
「え?」
「もう少しで仕事も落ち着くし、そしたら子供が出来るまで、夜はずっと一緒にいて下さいね。
Sさんに話したら、喜んでくれましたよ。きっと男の子。何だか、そんな気がします。」
姫がそう言うなら、男の子なんだろう。一緒に良い名前を、考えなくては。
愛が生まれる前に考えた名前の候補を幾つか、ゆっくりと思い出していた。

『禁呪』 完

337名無しさん:2014/07/07(月) 23:27:59 ID:cpGjsRpkO
知人さん藍さん、大変ありがとうございました。
少し背筋のひんやりとする、哀しくも味わい深い物語でした。

338 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/07(月) 23:54:43 ID:YR/48AOI0
皆様今晩は、藍です。

>>337
早速のコメント、有り難う御座います。
『少し背筋のひんやりとする』その感覚、とても良く分かりました

Rさんの長男の名前を間違ったり、他にも色々ありましたが、
投稿を終えることが出来てとても嬉しいですし、
皆様にお楽しみ頂ければ有り難く思います。
完結編まであと何話? それまで御一緒にお楽しみ頂ければと存じます。

339名無しさん:2014/07/08(火) 22:07:55 ID:QEvct.gwO
この話しは2011年の事なんですか…
未曽有の災害って、3.11.?

340 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/18(金) 20:17:20 ID:u452wXXM0
皆様、今晩は。藍です。

>>339
原文の描写からして、その大災害が3.11なのは間違い有りません。
未だ過去ではありませんから、この後に続く掌編は非公開となりました。
興味深い内容なので、いつか公開出来る日が来るのを待ちたいと存じます。

さて、皆様にお願いがあります。
完結編が近付き、知人との相談のために、皆様のお考えを知りたいです。
もし宜しければ、一番気に入った作品名を教えて下さい。
その結果をもとに、どの作品を公開すべきか、知人を説得したいです。

私は『忘却の彼方(上)』ですが、
そんな感じで書き込んで下されば有り難いです。
もちろんまとめサイトで書き込んで下さっても結構です。

341名無しさん:2014/07/18(金) 20:49:54 ID:6sok1hZM0
俺は「出会い」が一番印象に残ってますね
「道標」や「名残雪」も好きかな
全体的に、比較的初期の作品が好きです

342名無しさん:2014/07/18(金) 21:21:26 ID:F02/lYyc0
こんばんは、藍さん。
いつも投稿作業お疲れ様です。
そして有難うございます。

私は『玉の緒』が一番好きです。
2番目にすきなのは『忘却の彼方』ですね。

大変でしょうが新作、期待しています。

343名無しさん:2014/07/18(金) 21:45:11 ID:hcEduSYsO
魚釣りが描かれた三作品が好きです。順番はつけられないけど…
タイトルは、何でしたっけ?
正月の神様との釣り勝負
結界内の調査釣り
神様の婚礼
なんか、ほっこりして好きです。

344名無しさん:2014/07/18(金) 22:01:59 ID:hcEduSYsO
大晦の宴
遺産
約束
でしたね…

345名無しさん:2014/07/18(金) 22:52:34 ID:doHPLooM0
全部です!
それぞれに味わい深く、感動があり、涙を誘い、背筋がひやりとします。
しかし、それでは答えになりませんね。
ベストスリーをあげれば、

出会い
旅路
新しい命

です。
何度読んでも、心が揺さぶられます。

346名無しさん:2014/07/19(土) 02:31:54 ID:Y1aF1gxs0
全部好きですが、あえて挙げるなら、

『忘却の彼方』と『約束』

です。

347名無しさん:2014/07/19(土) 14:57:36 ID:RzJBF6Qs0
藍さま、知人さま
いつも本当に楽しませて頂いており、誠に有り難うございます。

私は今までのお話全てが連綿と連なる一つの壮大なお話の様に感じておりますので、順位など付けられる筈もございません。

ただ一つ申し上げられるとすれば、一話でも一行でも一言一句でも長く、この壮大なお話を楽しませて頂きたいです。

348 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/20(日) 21:20:33 ID:6cKXETHg0
皆様今晩は、藍です。

思い切って書き込んでみたものの、反応が無かったらどうしようと思っていました。
早速沢山の返信を頂き感謝致します。2011年末と考えられる作品の原稿は
既に受け取っており、投稿の準備も進んでおります。その前にどの作品を投稿すべきか。
皆様の反応を参考にして知人と相談します。引き続き宜しくお願い致します。

349名無しさん:2014/07/23(水) 22:04:49 ID:w17LW5j.0
藍様、作者様、いつも有難うございます。
どのお話も面白いのですが、あえて言うなら『約束』が好きです。
暑い日が続いていますが、お体に気をつけられてください。

350名無しさん:2014/07/25(金) 00:01:05 ID:xTx0f1Jw0
藍様、知人様。
はじめてご挨拶させて頂きます。
お忙しい中、いつもお話を読ませて頂きまして、本当にありがとうございます。
何度も繰り返して読ませて頂いておりますが、どのお話も本当に好きなので選ぶのは難しいのですが…。
強いて上げるならば「遺産」や「約束」が好きです。

普段は拝読するばかりなのですが、勇気を出して思わず書き込みをしてしまいました。
新しい作品を読ませて頂けるのは本当に嬉しいのですが、どうぞご自愛くださいませ。

351 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/27(日) 18:19:05 ID:urrdVUDY0
皆様今晩は、藍です。

沢山のご返信を頂き、本当に有り難う御座います。
皆様のお心遣いが、流れを変えつつあるようです。
今は未だ詳細を確認中ですが、今夜遅くか、明日夜には
お知らせできることがあると思います。
では後ほど。

352 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/27(日) 23:19:31 ID:urrdVUDY0
テスト中です。

353 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/27(日) 23:27:09 ID:urrdVUDY0
皆様今晩は、藍です。

事情を説明する前に、
2011年末のものと思われる作品を投稿致します。
皆様の温かいご返信で、「順序」と「結末」が変わりました。
心より感謝申し上げます。

354『手紙』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/27(日) 23:30:07 ID:urrdVUDY0
『手紙』

 翠、藍、そしてこれから生まれてくる子供たちへ

 この手紙を読んでいるのだから、君は既に基本的な修練を終えて、
術者になるかどうかを決める大切な時期。けれど、お父さんはもうこの世にいないという事。
ずっと君の傍にいられたら、お父さんの経験や考え方を君に伝えて、
術者になるかどうかを決める手助けが出来ただろう。
でも、人間には何時、何が起こるか分からない。術者なら尚更。
実際、お父さんは以前、生死に関わる大怪我をした(翠は憶えているかな?)。
もちろん細心の注意をして、何時までも君の傍にいたいと思っている。
ただ、どれ程優れた術者であっても、どうにもならない事はある。
今年の3月、この国はとても大きな災害に襲われた。
沢山の人が亡くなって、もっと沢山の人が大切な家族や家を失った。
亡くなった人こそいなかったけれど、一族もかなりの被害を受けた。
大きな災害が近づいているのを予知した術者もいたが、
それが、大地震とそれに続く大津波だと分かったのは地震の起こる数分前で、
だから予知は何の役にも立たなかった。大自然の猛威の前で、人間の力はあまりに小さい。
天地の精霊や神々の力を借りる術者でさえ、出来ることは極僅かだ。

355『手紙』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/27(日) 23:32:31 ID:urrdVUDY0
 そういう経験を通して、お父さんは自分の死を意識するようになった。
もしも自分の身に何かあったら、もしも君と話す事が出来なくなったら。
時が来たら、君に話して上げたい事が沢山ある。お父さんがお母さんたちと出会い、
愛し合って、君が生まれるまでの事。お母さんたちが術を教えてくれて、
お父さんが術者になるまでの事。そして、お母さんたちとお父さんが関わってきた仕事の事。
一族の為に力を尽くし、既にこの世を去った偉大な術者達の事。
力は持っていないけれど、日々を一生懸命に生きて一族を支えている人たちの事。
それから...
それらを君に話して上げられないまま死んでしまうのは、あまりに心残りだ。
だからお父さんはお母さんたちと相談して計画を立てた。
もしもの時の為に、君に話して上げたい事を物語にして残す計画。
文字として記録しておけば、お父さんが、もしもお母さんたちが皆いなくなっても、
君に伝える事が出来る。年を取って記憶が曖昧になった時にも役立つはずだ。
折角だから只の記録ではなく、君が面白く読める物語にしたい。

356『手紙』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/27(日) 23:35:41 ID:urrdVUDY0
 だからお父さんの知人に文章を依頼した。
本業は小説家ではないが、素敵な文章を書く人。
以前その人の書いた文章を読ませて貰った事があったから、
この計画を立てた時、絶対その人に頼もうと思ったし、お母さんたちも賛成してくれた。
計画を実行に移したのは今年の秋。今完成しているのは最初の物語だけだが、
多分今月中には次の物語も完成する。お父さんは良い出来だと思うし、
概ねお母さんたちの反応も良い。いつか君がこれらの物語を読んで、
自分の人生や生き方を考える材料になれば良いと思っている。
もちろんお父さんがずっと君の傍にいられたら、この手紙に書いた事を直接話してから
これらの物語を読んでもらうつもりだ。
この手紙が役に立つ事なく、物語の数が増えていく事を心から願っている。
出来る事なら、君がどんな大人になって、どんな人たちと出会うのか、
そして君にどんな子供たちが生まれるのか、何時かそういう物語が加わると良いと思う。
その時、これらの物語はお母さんたちとお父さんだけでなく、
家族皆が此の世に生きた証になるだろう。

357『手紙』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/27(日) 23:36:50 ID:urrdVUDY0
 さて、随分長い手紙になった。
くれぐれも体に気を付けて、これからもしっかり生きていきなさい。
お父さんの魂は常に君と共にある。何時も君を応援しているし、君を心から愛している。
君がお母さんたちとお父さんの子供に生まれてきてくれて、本当に良かった。
ありがとう、さようなら。

お屋敷の窓に降る初雪を眺めながら R

358『手紙』 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/27(日) 23:39:28 ID:urrdVUDY0
 「あらあら大変。これ、遺言状じゃないの。私、未だ心の準備が出来てないのに。」
「茶化さないで下さい。僕はお爺さんになるまで生き抜いて、そしてSさんとLさんと一緒に、
あの島の小さな集落で余生を送るつもりです。でも、そう上手く行かない事だって。」
「...ホントに馬鹿ね。L、R君に悪気は無いのよ。許してあげて。」
え? 姫の、冷たく強張った顔。 体感温度が一気に下がる。
「あの、Lさん。何故そんなに不機嫌な?」
姫は俯いて、そっと両手でお腹に触れた。
「何故、この子の名前は?」
「あ。」
「男の子でも女の子でも、この名前ならって、あんなに考えて決めたのに。酷い、です。」
「いや、だって、未だ生まれてないから。痛てててて。Sさん、痛いですって。」
「R君、もしかしてLのお腹の子は生まれないって思ってるの?
酷いわね。そんな事だと、瑞紀ちゃんも考え直した方が良いかも。早速電話しなきゃ。」
「待って下さい。あんなに色々有って折角...あ〜もう、何時もこうです。僕ばっかり。」
「そう、物語の中では何時もあなたばっかり良い思いしてるみたいに書かれてる。
私たちの出会いは家族みんなの幸せに繋がってるって、確認しておかないと。ね、L?」
「はい。」

 Sさんと姫の輝くような笑顔。
新しい家族を迎える準備を調えつつ、俺たちは新しい年への準備を進めた。

『手紙』 完

359 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/27(日) 23:46:32 ID:urrdVUDY0
藍です。

色々ありまして、かなり疲れました。
『手紙』の投稿が終了しましたので、今夜はこれにて失礼致します。
詳しい事情の説明は明日夜にでもと存じます。
有り難う御座いました。

360名無しさん:2014/07/28(月) 00:05:50 ID:0SP27HfM0
藍さんご苦労様です
知人さん有難うございます

この今回の話を読むと、この少し前に結構大変な目にでもあったのかな?
生死を分ける程の...
でも生き残れた
生きることができた


>「順序」と「結末」が変わりました。

と言うことは次で「結末」になるのかな?
悲しくも有りますが、楽しみにまっております

そして、ここでは語られない、
この物語の今後も、良き物語で有って欲しいと思います

また、数年後でもいい
そんな物語をまた語っていただけるのなら、楽しみに待っています

361名無しさん:2014/07/28(月) 22:22:19 ID:8YsshkxkO
生死を分ける出来事は、玉の緒の時の事ですよね…

ところで、三人目のお子さんは男の子?

手紙の感じで、そんな気がしたのですが…

362 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/29(火) 00:30:02 ID:mIzd315U0
皆様今晩は、藍です。

昨日投稿致しました『手紙』は、
2年前に投稿を開始した一連の物語の完結編となる予定でした。
「『実話に基づく』という前提上、物語が現在に追いつくことは有り得ない。」
そんな書き込みをしたのを憶えています。
知人とは、完結編の前にあと一話、作品を投稿すると約束をしておりました。
先日皆様に「好きな作品を教えて下さい。」とお願いしたのは、
知人がどの作品を投稿するかを決める参考にさせて頂くためです。
お願いはしたものの、以前弟や読者様の件で見苦しい騒ぎを起こしてしまいましたので、
正直全く反応がなくても仕方ないと覚悟していました。
しかし、沢山のご返信を頂きとても嬉しく思いましたし、知人も心を動かされたようです。
一昨日「『手紙』を先に投稿して。」と指示がありました。
「その前にあと一話の約束でしょ?」と確認したところ、
「楽しみにしてくれる読者がいるなら、必ずしも完結させる必要は無いと思う。」との返事。
ドキドキしながら聞き出した内容は大凡次の通りです。

363 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/29(火) 00:33:53 ID:mIzd315U0
1.昨年、依頼主から『手紙』以降の作品を依頼され、一部インタビューも済んでいる。
2.依頼主が非公開とした作品以外は、今後も同様の対応で良いと確認した。
 (作品を保管し、内容を一部変更した上で掲示板に投稿する許可を得た。)
3.『手紙』を物語の完結編とする予定を変更し、2012年以降の作品を投稿する。

 書きためていた作品を投稿するのではなく、これから書く作品を投稿する訳ですから、
投稿のペースがこれまでとは比較にならない程遅くなると思います。
非公開の作品ばかりなら、実質『手紙』が完結編になるかも知れません。
それでも、私は『手紙』以降の作品を読ませてもらう日を楽しみに待ちたいと思っています。
そして、その時まで此処が残っていたら、読ませてもらった作品はきっと此処に投稿します。

364 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/29(火) 00:48:56 ID:mIzd315U0
 つきましては、引き続き「好きな作品を教えて下さい。」のお願いをするとともに
「リクエスト」のお願いをしたいと思います。「■○編の続きが読みたい。」とか、
「○◆について別の視点からの話を読みたい。」等の御希望があれば知人に伝えて、
御希望に添う作品を優先して投稿したいと思っています。どうぞ宜しくお願い致します。

また、本日『手紙』の前に投稿する予定だった作品についての連絡がありました。
舞台は沖縄という事ですので、『道標』と『玉の緒』の続編、瑞紀さんに関わるお話でしょうか。
原稿を受け取り次第投稿の準備を致しますが、近々に投稿できるのはこの作品まで。
私たちの作品を楽しんでお読み下さった方々に、心から感謝致します。

365 ◆iF1EyBLnoU:2014/07/29(火) 01:07:13 ID:mIzd315U0
>>360
>>361
Rさんの生死を分けた出来事とは『玉の緒』の内容でしょうし、
3.11の大災害もRさんが自らの死を意識する切っ掛けになったと思います。
3人目のお子さんが男の子かどうかについては、
『禁呪』の中でLさんが「そんな気がします。」と言う描写の他に手がかりがありません。
今後の作品で明らかになると考えています。

皆様、本当に有り難う御座いました。
これが最後ではないので、お別れの挨拶は書きません。
それでは、また。

366名無しさん:2014/07/29(火) 22:00:30 ID:3kNzclUoO
何と、これからも投稿を続けて戴けるとは…藍(愛)読者として、これ以上うれしいことはありません(T_T)

367名無しさん:2014/07/30(水) 17:40:47 ID:iJIit2Q60
ひゃ〜!!!←嬉しい悲鳴です。
本当に嬉しいです!!
有難う、藍さん!作者さん!

368名無しさん:2014/07/31(木) 13:23:56 ID:YINSDB.A0
藍さま、知人さま いつも有り難うございます。

知人さまのご厚意により壮大な物語の続きを拝読させて頂ける事に感謝致します。

藍さま、知人さま、大変でしょうがお身体にお気を付けて今後とも宜しくお願い致します。

369名無しさん:2014/08/02(土) 22:48:18 ID:.4BeXDO6O
sさん視点の出会いをリクエストします。

370名無しさん:2014/08/03(日) 22:47:44 ID:BDXVfUl60
藍様、知人様。
嬉しいご報告、本当にありがとうございます!

リクエスト…と思ったのですが。
気になっていた瑞紀さんのその後をと思ったのですが、
どうやら次作の舞台が沖縄の様ですので…。

何度か作品内で触れていたRさんが初めて榊さんから依頼された事件のお話について、
もし公開が可能であれば読ませて頂けたらなぁ、と思います。
あと榊さんはその後、お気に入りの”Rちゃん”に再び会う機会はあったのか、
密かに榊さんスキーな私は気になってしまいます(笑)

他にも気になる事は多々あるのですが。
本当にご無理がない範囲で、お願い出来ればと思います。
どのお話でも一ファンとして、読ませて頂けるだけで嬉しいですので!

それでは厳しい暑さが続きますが、どうぞお身体に気を付けて下さいませ。

371 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/03(日) 23:48:38 ID:AXl6eX0A0
皆様今晩は、藍です。

温かい書き込み、本当に有り難く思っています。
Sさん視点の『出会い』や、Rさん単独での初仕事のお話のリクエスト。
私自身も読みたいお話ですので、早速知人に伝えたいと思います。
(実現可能かどうかは分かりませんが、最大限の努力を致します。)

さて昨日、次回投稿予定の原稿を受け取りました。
舞台は沖縄、瑞紀さんのその後に関わるお話です。
知人の家の手伝いをしながら投稿の準備をする予定なので、
投稿の時期は明言出来ませんが、もう暫くお待ち下さい。

372名無しさん:2014/08/04(月) 20:32:54 ID:4r2zgIj60
>>371
いつもありがとうございます
楽しみに待ってます。

373名無しさん:2014/08/05(火) 16:17:39 ID:gj54KMIM0
沖縄、待ってました!ですな。
瑞紀さんだけでなくノロ雲上のおばあちゃんが翠ちゃんか藍ちゃんを介して
活躍するところも見たいものだ。

374名無しさん:2014/08/05(火) 19:13:19 ID:.y1SeX7EO
で〜じ楽しみやっさ〜

375名無しさん:2014/08/15(金) 02:55:37 ID:4Nt0UZXw0
藍さん、作者さま、本当にありがとうございます。
まだまだ続くと知って涙が出ました。

どれも素晴らしいお話ですが、あえて選ぶとしたら「約束」が大好きです。
神さまとの結婚・・・何度読み返しても、最後の神社でのシーンは号泣です。
「忘却の彼方」「大晦の宴」も大好きなので、
どうやら自分は神さまと直接関係するお話が好きなようですね。

またお話が読める日を楽しみにお待ちしています。

376 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/15(金) 22:27:43 ID:0d..PXhI0
テスト中です。

377『礎(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/15(金) 22:30:13 ID:0d..PXhI0
『礎(上)』

 「この2・3日、クマゼミの鳴き声が随分小さくなった気がしますね。」
ダイニングで一緒に夕食の準備をしていた姫が、寂しそうに呟いた。
確かに...8月も終わりに近づき、日差しが少し柔らかくなったような気がする。
「とても忙しかったから意識してませんでしたが、もう、夏も終わりなんですね。」
あの大災害に関わる仕事も一段落して、お屋敷にも平穏な日々が戻っている。
しかし夏の終わりはいつも感傷的な気分。 その時、俺のケイタイが鳴った。
榊さんに依頼された仕事、そろそろ結果の連絡が来る頃だと思って電源を入れていた。
しかし、画面に表示されていたのは別の名前。『瑞紀ちゃん』。
彼女は去年高校を卒業して沖縄に戻り、ノロになるための修行を続けている。

378『礎(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/15(金) 22:31:55 ID:0d..PXhI0
 去年の夏。瑞紀ちゃんとの約束通りに、俺は翠を連れて沖縄を訪れた。
翠は彼女にとても懐いていたから、沖縄で彼女と再会するのをとても喜んだ。
俺たちは彼女の祖母、その集落のノロクモイの家に泊めてもらい、楽しい時間を過ごした。
だが今年は震災に関わる仕事でいつの間にか夏も終わり。出来れば今からでも約束を。
「もしもし、瑞紀ちゃん?」 「はい、瑞紀です。」
「久し振りだね。少し遅くなったけど、旅行の話がしたかったから丁度良かった。」
「今日は旅行の件じゃなくて、あの、もちろん沖縄には来て欲しいんですけど。」
何だか歯切れが悪い。いつもなら俺が後ろめたさを感じる程、嬉しそうな声なのに。
「どうかした?何だか元気が無いみたいだけど。」
「いいえ、大丈夫です。Sさん、いますか?」 「いるよ。翠と絵本読んでる。」
「御免なさい。都合が悪くなければ、Sさんに替わって下さい。」
??? 瑞紀ちゃんはSさんのケイタイの番号を知っているのに、何故俺の。
ああ、掛け間違えたのか。それなら少し気まずい感じなのも納得だ。
「分かった、すぐに替わる。ちょっと待ってね。」 急いでリビングへ向かった。
「Sさん、電話です。瑞紀ちゃんから。何か相談事かも知れません。」
「瑞紀ちゃん?何かしら。」 翠は絵本に夢中、電話の邪魔にはならないだろう。
キッチンに戻って夕食の準備を続けた。

379『礎(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/15(金) 22:34:13 ID:0d..PXhI0
 「みんなで沖縄に行く事になった。9月の8日から、18日まで。10泊11日の旅行。
仕事も一段落したし、骨休めの旅行がてらノロクモイのお手伝いをするのも悪くないわよね。」
夕食後の一時、お茶の時間。翠と姫は小さなケーキのデザート付き。
「みずきちゃんのところに行くの?うれしい〜。」
「翠ちゃんは瑞紀ちゃん大好きだから、良かったね。」 「うん!」
きんちゃん、あの青い金魚は未だ碧さんと暁君の家にいる。
2人はきんちゃんをいたく気に入っているので、預けたまま旅行しても不都合はない。ただ。
「あの、ノロクモイのお手伝いっていうのは、一体何を?」
一瞬、Sさんはイタズラっぽい笑みを浮かべた。
「今年は12年に一度の大切な祭事があるんだって。その祭事のお手伝い。
ノロクモイがあの状態だし、瑞紀ちゃんはまだ修行中。だから、ね。」
成る程。系統は違っても、Sさんや姫なら代理で祭事を仕切る位なら。しかし。
「それは集落の人間じゃなくても良いんですか?大切な祭事なのに。」
余所者の関与はもちろん、研究目的の参観すら許されない祭事もある。
「余所者の方がかえって都合が良いそうよ。ノロクモイが招いた余所者、『マレビト』ね。」
マレビト、稀人か。それなら確かに余所者でも不都合はない。
「そんな大切な祭事が1日だけって事は、ないですよね?」
「3日間。でも、10泊の内3日だから余裕がある。R君、早速飛行機と車、予約してね。」
「了解です。」 「うん、良い返事。」

380『礎(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/15(金) 22:39:06 ID:0d..PXhI0
 その集落に着いたのは昼過ぎ、瑞紀ちゃんはノロクモイの家の前で俺たちを待っていた。
すぐに翠が瑞紀ちゃんに飛びつく。瑞紀ちゃんが翠を抱き上げた。
「こんにちは、翠ちゃん。」 「ほんものの、みずきちゃんだ〜。」
「瑞紀おねえちゃんとか、瑞紀さんって呼ばなきゃ駄目でしょ。年上なんだから。」
「お父さんの言うとおり、おねえちゃんって呼んだほうが良いの?」
「おねえちゃんでも良いけど、何時か、お母さんって呼んでくれたら嬉しいな。」
「みずきちゃんが、お母さん?どうして?」
「Rさんのお嫁さんになりたいから。もしそうなったら、私も翠ちゃんのお母さんでしょ?」
...藪蛇だ。去年の夏の記憶が蘇る。
「ちょっと、ストップ。何処で誰が聞いてるのか分からないのに、そんな。」
「誰かに聞かれて困る事なんかないですよ〜。じゃ、翠ちゃん、行こっか。」 「うん!」
翠を抱いた瑞紀ちゃんはさっさと門の中に入ってしまった。 そう、去年もあの調子。
彼方此方であけすけな説明、一体俺はこの集落の人達にどんな人間だと思われている事やら。
「『好きな人がいます。』って宣言しておけば、言い寄る男もいないわね。はい、荷物運んで。」
Sさんの笑顔。少し、目眩がした。

381『礎(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/15(金) 22:41:21 ID:0d..PXhI0
 沖縄に到着した日の夜、みんなでノロクモイの部屋に挨拶に行った。
翠との再会を喜んでくれているようだったし、翠もずっとノロクモイの傍に座っていた。
最初に沖縄を訪れた時の事からして、2人の間にはきっと深い縁があるのだろう。
次の日。Sさんと姫は夕方一時間ほど公民館での打ち合わせに参加した。その次の日も。
祭事とその前後の数日間は、たか子さんも家を空ける事が多いので、
親戚の人だという初老の女性が手伝いに来ていた。名前は○子さん。
無口だが、とても親切にしてくれたから翠と藍の世話にも困ることは無かった。
そんなこんなで、とうとう祭事は明日から。一体どんな祭事だろうか?

382『礎(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/15(金) 22:42:39 ID:0d..PXhI0
 次の日、瑞紀ちゃんは朝食を済ませると直ぐに家を出た。祭事の準備だろう。
Sさんと姫も、昼食を済ませた後で祭事の手伝いに向かった。
俺はさらに2時間ほど遅れて家を出た。目的地は集落の公民館。
翠と藍を連れて、公民館前の広場で祭事を見学することになっている。
広場には小学生くらいの男の子から初老の男性まで、20名ほどが集まっていた。
軽く会釈をしながらSさんと姫の姿を探す。しかし見当たらない。瑞紀ちゃんも。
祭事を仕切っているのはたか子さん、瑞紀ちゃんの叔母にあたる女性。
暫くすると男達は草の髪飾りをつけて歩き出した。集落の外れの山へ向かっているようだ。
「暑いですから、中でお待ち下さい。翠ちゃんも、どうぞ。」
たか子さんに促されるまま、公民館の中に入る。
広間の椅子に座ると、厨房で作業をする女性達の中にSさんと姫の姿を見つけた。
食事の用意?これなら別に2人でなくても。それに、瑞紀ちゃんは何処に?
翠が厨房の入り口に駆け寄った。「おかあさん、瑞紀ちゃんは?」
「ノロクモイのお手伝いしてるけど、邪魔しちゃ駄目よ。」 「は〜い。」

383『礎(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/15(金) 22:56:00 ID:0d..PXhI0
 30分程して、男達は広場に戻ってきた。
皆、全身びしょ濡れ、それぞれ両手で濡れた木の枝を持っている。
「あの枝で村中の家を祓って廻ります。それが今日の祭事の中心で、夜は宴会ですね。」
たか子さんは穏やかな笑顔で広場から男達の後ろ姿を見送った。
幾つかのグループに分かれた男たちが家々の祓いを全て終えたのは4時半頃。
男達は髪飾りと木の枝を広場の中央で焚かれた火に投げ込み、三々五々に散って行く。
「家で着替えてからもう一度此処に集合して宴会なんだって。私たちはもう帰りましょ。」
振り返るとSさんと姫が立っていた。
「もう、お手伝いは終わりなんですか?」
「そう、残りはまた明日...何だか不満そうね。 自治会長さんから
『宴会にも参加して欲しい。』って言われたのを断ったのに、参加した方が良いかしら?」
「いや、不満なんか。SさんとLさんが炊事係なんて、すごく贅沢な祭事だと思っただけで。」
実は姫から妊娠の兆しがあると聞かされていたから、軽い仕事ならむしろ安心だ。
皆でノロクモイの家に戻り、夕食の後は庭で花火。それからお風呂。公民館の方向から
聞こえる賑やかな声と音楽以外、とても12年に一度の祭事中とは思えない穏やかな夜。
ただ、相変わらず瑞紀ちゃんの姿が見えない。
ノロクモイの手伝いをしながら勉強することが沢山有るのだろう。

384『礎(上)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/15(金) 22:58:10 ID:0d..PXhI0
 翌日の祭事が始まったのは午後4時過ぎ、その日の主役は集落の女性達だった。
宴会の用意は既に終了していて、今日は家族5人そろって見学。
公民館から集落の外れ、砂浜に移動した女性達が輪になって踊り、厳かに神歌を唱う。
揃いの白い着物に鉢巻き。鉢巻きの巻き方が違うのは未婚・既婚による違いらしい。
祭事を仕切るのはやはり、たか子さん。凛々しい表情。うん、何だか本格的、素敵だ。
やがて踊りの輪が解けた。たか子さんを先頭に女性達がゆっくりと海の中に入っていく。
全員が腰の辺りまで海に入ったところで先程とは違う神歌が始まった。
何処か賑やかな調子。女性達は皆、沖に向かって手招きをしている。
海の神様を招き、豊漁を祈願する儀式。似たような儀式は他の集落にもあると聞いた。
昨日は男性達が主役で山に、今日は女性達が主役で海に。対になる祭事。
神歌が終わると、たか子さんを先頭に女性達が海から上がった。公民館に戻るのだろう。
宴会が始まるまで、公民館と公民館前の広場は男子禁制らしい。
女性達の列を見送ってからノロクモイの家に戻った。

『礎(上)』 了

385『礎(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/15(金) 23:17:08 ID:0d..PXhI0
『礎(中)』

 その日の夕食は宴会料理のお裾分けらしく、とても豪華だった。
紅白の厚切り蒲鉾。マグロとハマフエフキとソデイカのお造り三種盛り。
そして根菜と豚肉と昆布の煮込み、これがまた滅茶苦茶に美味い。
きゅっと結んだ昆布は柔らかく、豚肉はまるで角煮のお化けみたいに大きい。
白味噌(?)の味噌汁にはお椀からはみ出しそうな白身魚の切り身。
みんなでワイワイ言いながら食べていると、たか子さんがやってきた。
「これ、差し入れです。どうぞ、Rさんに。」 「有難う御座います。」 泡盛の、一升瓶。
Sさんがすぐに水割りを作ってくれた。氷の音が涼しく響く。
波照間という島の酒らしい。泡盛だけど微かにウイスキーみたいな風味、美味い酒だ。
美味しい料理に美味しいお酒。 こんな幸せで良いのか?俺、見学してただけなのに。
Sさんと姫はニコニコしながらどんどん水割りを作る。俺はどんどん食べて、飲む。
酒は好きだが、弱いし量を飲める質ではない。
意識が飛ぶのに、それほど時間はかからなかったと思う。

386『礎(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/15(金) 23:18:19 ID:0d..PXhI0
 「Rさん、起きて下さい。祭事のお手伝いはこれからですよ。Rさん。」
畳間で爆睡していたらしい。上体を起こし両手で顔をゴシゴシ擦る。まだ、酔いが。
「済みません。飲み過ぎました。」
「大丈夫です。お酒を飲むのもお手伝いの内ですから。すぐにシャワーを使って下さいね。」
??どういうことだ。それに、もう今日の祭事は終わった筈ではなかったのか。
シャワーから出ると多少頭がスッキリしたが、やはり酔いは残っている。
廊下の時計は9時前、夕食を食べ始めてまだ2時間弱。これじゃどうしたって酔いは醒めない。
畳間に戻るとSさんと姫、そしてたか子さんがいた。翠と藍は並べた座布団の上で寝ている。
「R君此処へ座って。たか子さんがお面を着けてくれるから。そのあと着物に着替えてね。」
「あの、何で僕がお面と着物を?」 姫が笑いをかみ殺している。
「マレビトは普通男性です。私たちの中でこの役目を担えるのはRさんだけですよ。」
Sさんと姫ではなく、俺が、マレビト?

387『礎(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/15(金) 23:20:01 ID:0d..PXhI0
 お面を着け終わるとたか子さんは玄関から出て行った。
木製の、口から下だけ残して顔を覆う面。かなり厚みがあるが、
目の部分に大きな穴が開いているので視界はまあまあ。微かに、潮の匂い。
マレビトは時折その地を訪れ恵みをもたらす存在と考えられている。それに倣う儀式なのか。
例えばナマハゲ。沖縄ならもっと南の島のパーントゥのような?
白い着物に着替えながらSさんに尋ねた。
「家々の祓いは終わってますよね?これから何か祝いの品物を配って廻るんですか?」
「R君、あまり時間がないから一度で憶えてね。この祭事の流れ。」 「はい、何とか。」
これからあなたはこの集落の聖地である御嶽(ウタキ)に行くの。
其処で集落の祖霊神からセジを授かる。その後ある場所に瑞紀ちゃんを訪ねて。」
「ちょっと待って下さい。」 Sさんは人差し指で俺の唇を押さえた。
「セジは霊力のことよ。祖霊神に代わってそれを瑞紀ちゃんに授けるのがあなたの役目。
その場所で瑞紀ちゃんからお餅とお酒を勧められるから、あなたは黙ってそれを全部頂く。
それから瑞紀ちゃんの着替えと身支度を手伝って、それが済んだらこの祭事は終了。
さあ、行きましょ。きっと皆が、もう待ってる。じゃL、翠と藍をお願いね。」
「任せて下さい。」 Sさんは翠と藍の頭を軽く撫でてから立ち上がった。
『きっと皆が』って。一体誰が?

388『礎(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/15(金) 23:22:29 ID:0d..PXhI0
 門を潜って通りに出る。何だ、これは!?
集落中の人が集まったのかという程沢山の人が、俺を見つめていた。
老若男女、皆笑顔を浮かべ、その目がキラキラと光っている。辺りに満ちる熱気。
たか子さんが大声で何事か口上を述べると大きな拍手が起きた。
たか子さんに手を引かれて歩く。通りを山の方向へ、そしてすぐ角を曲がった。
そしてもう一度角を...これではノロクモイの家に戻る方向じゃないか?
満月が明るい。たか子さんは懐中電灯を持っているが点灯はしていない。
何時の間に先回りしたのか、Sさんが途中で合流した。
Sさんも懐中電灯を持っているが、やはり点灯していない。
2・3分程歩いただろうか、少し開けた場所に出た。そこから更に急な坂道を上る。
坂道を上り切ると、正面に大きな岩が見えた。
「あの岩の前で一礼、跪いたら目を伏せる。後は私に任せて、鍵を掛けちゃ駄目よ。」
言われるままに歩を進め、岩の前で一礼、跪いて目を伏せた。
「この集落を開いた方々の御魂、祖霊神様に申し上げます。」
Sさんの澄んだ声。3度繰り返して呼びかける。
「私は大和の国◎◆の巫女、S。訳あってノロクモイの代理を務めます。
皆様方に御伝えするのはノロクモイから託された言葉。どうぞお聞き下さい。
この度、60年ぶりにノロの後継者が現れました。ノロクモイの孫娘、瑞紀。
どうかその娘にセジを授け、ノロの正当な後継者と認めて下さいますように。」
その言葉を2度繰り返した時、空気が、変わった。

389『礎(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/15(金) 23:24:12 ID:0d..PXhI0
 すぐ目の前の大きな岩、そのまわりに複数の気配を感じる。
ザワザワと何事か話し合うような声、それは次第に大きくなった。
いや、声ではない。流れ込んで来る何かの意識が、俺の中で言葉に再構成されている。
「瑞紀...本当なら目出度いことだ。早速セジを授けてやろう。」
「しかし我らには体が、どうやって。」 「体が無ければ此処からは出られない。」
「どうか御静まり下さい。」 Sさんの声が響く。
「ここに皆様方の代として、大和の国から来た旅人を連れて参りました。
どうかこの者の体を使い、存分にお働き下さいますように。」
直後、酷い目眩と吐き気。必死で堪える。
「さあ、娘のいる場所へ御案内致します。」 Sさんが俺の手を取った。何とか立ち上がる。

390『礎(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/15(金) 23:26:42 ID:0d..PXhI0
 ゆっくりと歩き出した。違和感。何かが俺の体に重なるように、俺と一緒に歩いている。
まるで二人三脚をしているようで動きがぎこちない。足がもつれて転びそうだ。
漸く坂道を降りると、小さな灯籠が地面に並んでいるのが見えた。さっき、こんなものは。
「娘は、あの小屋の中で御座います。どうぞ。」
灯籠の列の奥に小さな小屋。ゆっくりと近づき、入り口の戸を叩く。すぐに戸が開いた。
「お待ちしておりました。どうぞ。」 草履を脱ぎ、小屋に入る。壁に蝋燭の灯。
畳張りの床に三方が3つ。1つ目には銚子と杯。紙皿の上に小さく切った餅。
2つ目にはピシッと畳まれた白い着物と帯。
3つ目には勾玉の付いた首飾りと鮮やかに彩色された大きな鳥の羽根。
「どうぞ、これを。」 差し出された三方の前に座る。餅を食べ、杯に注がれた酒を飲み干した。
「私にノロの資格があるかどうか、どうぞ御検め下さい。」 娘が立ち上がる。
するすると音を立てて帯を解いた。脱いだ着物を軽く畳んで足元に置く。一糸まとわぬ裸身。
俺が立ち上がると、娘は目を閉じた。蝋燭の灯りがゆらゆらと、娘の肌を照らしている。

391『礎(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/15(金) 23:28:32 ID:0d..PXhI0
 俺の両手がひとりでに動いて娘の髪を撫でた、そして頬と首。
肩から両腕、両手から腰へ、ゆっくり、そっと撫でていく。
我々の血を引く子孫。美しい娘。 愛しい。心の底から温かい思いが湧き上がる。
回り込んで背後から娘を抱いた。娘の体が小さく震える。
大丈夫。セジを受け容れる器を持ち、そして、健やかな子を産む娘だ。
「お前には資格がある。セジを授けよう。」
三方の着物を取り、娘に着せた。帯を締め、鉢巻きを巻く。
勾玉の首飾りをかけ、最後に鉢巻きと髪の間に鳥の羽を挿してやる。
本当に、愛しい娘。そして、将来ノロを継ぎ、この土地を護る者。
「これで良い。さあ、外へ。」 娘を促して戸を開けた。
いつの間にか、娘の草履が用意されている。
娘の後に小屋を出た。酷い目眩、思わず膝を着いた。
「首尾は上々。御苦労様、大丈夫?」 お面が外され、視界が広がる。
この女性は? ああ、Sさんだ。 俺は今まで何を?
Sさんの手を借りて立ち上がる。体は軽くなっているが、まだ彼方此方に違和感。
たか子さんの後に続いて歩く、瑞紀ちゃんの後ろ姿が見えた。

392『礎(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/15(金) 23:29:58 ID:0d..PXhI0
 たか子さんと瑞紀ちゃんの後を追わず、Sさんはすぐに脇道へ入った。
「何処へ行くんですか?」 「裏口からノロクモイの家に。先回りするの。」
Sさんを追って早足で歩く。大丈夫、体の感覚はほとんど元通り。
裏口から台所に入った所で歓声が聞こえた。集落の人々がノロの後継者を迎えたのだろう。
Sさんが面を箱に納め、姫が翠を揺り起こしていると、玄関にたか子さんの姿。
その後から瑞紀ちゃん。見違えるような、神々しい表情。台所を抜けて奥の部屋へ。
「正式な後継者として認められたって、ノロクモイに報告するんですね?」
「報告して、名前を授けてもらうの。ノロとしての新しい名前。
それで瑞紀ちゃんは正統な後継者として、今後もノロとしての修行を続ける。」
「ねむ〜い。おねえちゃん、これからどこか行くの?」
「瑞紀ちゃんが大切なお仕事をするんだって。翠ちゃんも見たいでしょ?」
「みずきちゃんが?それなら見たい。」
「あの、まだお手伝いする祭事が残ってるんですか?」
「これからはお手伝いじゃなくて報酬。今日の夕方までの祭事は毎年行うもの。
さっきの祭事はノロの後継者が現れた時だけ行われるもの。
12年に一度の祭事はこれからよ。見学できるのはノロクモイから特別な許可を得た者だけ。
見学して、その場の気に浸るのはきっと翠と藍のためになる。」

393『礎(中)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/15(金) 23:31:59 ID:0d..PXhI0
 程なく瑞紀ちゃんが台所を抜けて玄関に向かった。
その後に続いてたか子さん。大きな紙袋を持っている。俺たちに軽く会釈をして玄関へ。
「さあ、行くわよ。この集落を護る力の秘密、見せてもらいましょう。」
Sさんは藍を抱いて立ち上がった。姫が続く、俺も翠を抱いて後を追った。
門をくぐって通りへ出る。驚いた。さっきまでの賑やかさが嘘のように、人の姿が全く見えない。
静かだ。締め切った雨戸やカーテン。人々は恐らく家の中で息を潜めている。
「この集落に住む人々の『信じる心』が、祭事を今も生かしている。羨ましいですね。」
「それはノロクモイの力が、住む人々の心を正しく導いているからこそ。持ちつ持たれつ、ね。」
藍を抱いたSさんと姫の会話。翠はまだ眠そうだ。腕の中の感触が柔らかくて頼りない。
20m程の距離を保って瑞紀ちゃんとたか子さんの後を追った。

『礎(中)』 了

394『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/18(月) 04:21:42 ID:EEO410Fs0
『礎(下)』

 明るい月光に照らされた、瑞紀ちゃんとたか子さんの後ろ姿。
2人は急ぐでもなく、躊躇うでもなく、しっかりとした足取りで歩き続ける。
やがて、山の方へ向かう道の脇道に入った。暫く歩くと立派な石組みの泉に着く筈。
その泉の名は『ウブガー(産泉)』、名前の通り古くからその水はこの集落で生まれた赤子の
産湯に使われてきたと聞いた。もちろん生活用水、農業用水としても。
この地に集落が開かれた当時から人々の命を繋いできた、古い泉。
祭事の初日、男達がびしょ濡れだったのはこの泉で沐浴をしたからだろう。
泉まで十数m、たか子さんが立ち止まった。泉に向かうのは瑞紀ちゃん一人。
俺たちが行けるのも其処までという事。たか子さんに追いついて指示を待つ。
「どうぞ、こちらで。」 たか子さんは外灯に照らされた小さな階段を指し示した。
階段を上るとコンクリートの小さな東屋。木製のベンチに腰掛ける。
「水を汲みに来る人たちの待合所です。あの泉から此処に水を引いていて。
あ、始まりますよ。山と水の神へ呼びかける神歌。」
泉を囲む石組みより一段高くなった場所、小さな祠の前に瑞紀ちゃんが正座している。
古い言葉を紡ぐ、通りの良い、少しだけハスキーな声。 何だか懐かしい響き。
ふと、風に乗って微かな芳香が届いた。 何故? 線香を焚いている様子もないのに。
「お父さん、へびさんだよ。すごく大きいの。」 蛇? じゃあこの香りは蛇の、でも何処に?
「翠、これからお母さんが良いと言うまで喋っちゃ駄目よ。
私達の声を聞かれると瑞紀ちゃんが危ないから。分かった?」
翠は両手で口を押さえ、大きく頷いた。その仕草が堪らなく可愛い、しっかりと抱き締める。

395『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/18(月) 04:26:09 ID:EEO410Fs0
 祈祷を終えたのか、瑞紀ちゃんが立ち上がり、泉の中に降りていく。
石組みに設けられた3つの湧き出し口。それぞれ幅1m、高さ50cm程。
湧き出した水はいったん浅いプールのような場所に流れ込み、そこから水路に流れている。
瑞紀ちゃんはプールの真ん中辺りに跪いた...??水が、光っている。
いや、強い光を放つ小さな緑色の粒子が、湧き出した水とともに流れている。
まるで大量の蛍が水の中を流れていくようだ。
光の粒の数はどんどん増え、もう泉全体がボンヤリと光って見える。
そして湧き出す泉の水音を乱して、それは現れた。
真ん中の湧き出し口から伸びる首と大きな頭。緑色の燐光に包まれた、巨大な蛇の頭部。
とにかくデカい。まるで超大型のニシキヘビ。文字通りの大蛇。
瑞紀ちゃんは跪いたまま胸の前で手を合わせている。小さく呟く言葉は聞き取れない。
やがて、大蛇はゆっくりとその全身を現した。瑞紀ちゃんを囲むようにプールを一周、
更にもたげた鎌首の高さが約1m強。おそらく全長はゆうに10m以上。

396『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/18(月) 06:59:17 ID:EEO410Fs0
 50cm程の距離で、正面から瑞紀ちゃんを見下ろす大蛇。チロチロと蠢く舌。近い。
さっきSさんが言った通り、声さえ聞かれなければ大丈夫なのか...あ。
瑞紀ちゃんの右隣、そして背後に跪く女性の姿。一体何処から、いつの間に?
瑞紀ちゃん以外に、4・5・6、7人。白い着物と鉢巻き、勾玉と髪飾り。
最前列が瑞紀ちゃんを含む2人。その後ろに3人ずつの二列、計8人。
曲玉の首飾りと、鳥の羽根の鮮やかな髪飾り。瑞紀ちゃんと同じ、ノロの衣装。
細面、丸顔。横顔や体格はそれぞれ違うが、皆20代から30代に見える。
そして、胸の前で合わせた両手から感じる、どこかしら瑞紀ちゃんに似た雰囲気。
そうか。おそらく、集落の成立以来この地と人々を護ってきた、代々のノロクモイ達。
死してなお、この集落を想うその魂も加わって、神と人々の縁を結ぶ仲人の大役を担う。
去った12年間の恵みに感謝し、更に今後12年間の恵みを乞う祭事。
瑞紀ちゃんの右隣に跪いたノロクモイが唄い始めた。神歌、女性にしては低く、渋い声。
どうやら瑞紀ちゃんの少しだけハスキーな声は、御先祖様からの遺伝らしい。
次々と声が加わっていく。最後に加わったのは瑞紀ちゃんの声。
重なり合い響き合う声が、力強く空気を震わせる。何とも言えない荘厳な響き。
全身に、鳥肌。 この神歌こそ、集落に豊かな恵みをもたらす約束の礎。
人々からは神々への信仰を、神々からは人々への恵みを。それを仲介する、ノロクモイ達。
大蛇は目を閉じ、じっと神歌に聞き入っている。
神歌を三度繰り返して唄い、ノロクモイ達は揃って深く頭を下げた。
深夜の泉に、流れる水の音だけが響く。

397『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/18(月) 07:03:57 ID:EEO410Fs0
 満足そうに、大蛇が眼を開けた。動き出す。その体はゆっくりと湧き出し口の中へ。
大蛇の尾が湧き出し口に消えて数十秒、詰めていた息を吐く。もう、大丈夫。
プールに視線を戻すと、既にノロクモイ達の姿は消えていた。瑞紀ちゃんが一人だけ。
それを待っていたように、たか子さんが大きな紙袋を持って階段を降りた。
瑞紀ちゃんは両手で掬った泉の水を肩からかけている。
神々しい横顔。白い着物を彩る緑色の光の粒。美しい、まるで天女のようだ。
ずっと見詰めていたいが、紙袋の中身は替えの着物だろう。気を遣って目を逸らした。
瑞紀ちゃんとたか子さんが戻ってきたのは2〜3分後。俺たちに構わず、集落への道を。
「翠、もう喋っても良いわよ。お利口さんでした。」 Sさんは藍を抱いたまま翠の頭を撫でた。
「お母さん、あの大きなへびさんはかみさまだよね?」
「そう、でも蛇じゃなくて蛟(みずち)。だから龍神の仲間。あ!」 Sさんの視線を辿る。
瑞紀ちゃんが立ち止まった。たか子さんが振り向いた瞬間、その体は地面に頽れた。
「お父さん!みずきちゃんが。」
翠を姫に託して走る。瑞紀ちゃんの傍、たか子さんの隣りに膝を着いた。
「瑞紀を家まで、お願いします。」 「はい。」 良かった、呼吸に乱れはない。
初仕事にしては重過ぎる役目。力を消耗して気を失ったのだろう。短期間に、よくぞここまで。
立派に役目を果たしたノロの後継者、その体を抱き上げた。一刻も早く、ノロクモイの家へ。

398『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/18(月) 07:05:39 ID:EEO410Fs0
 翌朝、目が覚めると寝室には俺1人。慌てて着替え、台所へ向かう。
藍を抱いたSさんが新聞を読んでいた。たか子さんは鍋の火加減を見ている。
味噌汁の、良い香り。
「あら、昨夜は頑張ったんだからもう少し寝てても良かったのに。
Lと翠は散歩。瑞紀ちゃんはまだ寝てるけど、先に朝御飯にする?」
藍を抱いたSさんの笑顔。
「あ、いえ。それより、あの泉に行ってみたいんですが。」
「昨夜で祭事は全部済んだから問題ない筈。たか子さん、どうですか?」
「構いませんよ。」 振り向いたたか子さんの、穏やかな微笑。
「写真も?」 「勿論です。」
二日酔いで頭痛と微かな吐き気。しかし、デジカメを持って俺は玄関を飛び出した。
昨夜はすっかり感覚が麻痺していたが、蛟、あの大蛇は立派なUMAではないか。
もし何か痕跡が残っていれば是非記録して置きたい、そう思った。 しかし。
泉に通じる道には沢山の軽トラックやオートバイ、水缶やペットボトルを持った大勢の人々。
昨夜俺たちが祭事を見学した東屋も、賑やかに談笑する人たちで超満員だ。

399『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/18(月) 07:07:06 ID:EEO410Fs0
「おやRさん、あなたは水を汲まないんですか?」
ノロクモイの家の近く、俺たちが良く買い物をする商店の店主。
俺と翠は去年の夏休みからの顔馴染みで、買い物の度に話し掛けてくれる。
「というか、今朝は何故こんなに沢山の人が水を汲みに来てるんですか?
前に瑞紀ちゃんに案内して貰った時には誰も居なかったのに。」
「祭事の翌朝、此処で汲んだ水には不思議な力があると言われてるんですよ。
この水でお茶やコーヒーを淹れて飲むと体が丈夫になるってね。
まあ、私はもっぱら島酒の水割りです。」 店主の手には2Lのペットボトル。
「じゃあ毎年、祭事の翌朝はこんなに沢山の人が?」
「はい。ただ、その中でも今年は特別です。何しろ24年に一度の機会ですから。
是非Rさんも水を汲んで下さい。瑞紀ちゃんがノロになるって決めたのはRさんのお陰だし、
昨夜は大事な役も立派にこなしてくれたと聞きました。
私たちは皆、Rさん達には本当に感謝してるんですよ。」

400『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/18(月) 07:09:29 ID:EEO410Fs0
 24年に一度?12年に一度じゃなく?
それに『大事な役』って? 昨夜、俺は見学してただけだぞ。
質問を口に出す前に、店主は一礼して歩き出した。きっと一刻も早く水割りを。
振り返る。水汲みの順番を待つ人々の列、皆の明るい笑顔。
あれだけの人が出入りしたのでは、この泉にはもう何の痕跡も。
まあ、仕方ない。俺の個人的な興味より、集落の人々の信仰が優先するのは当然だ。
泉から帰る途中で姫と翠に会った。走り寄ってきた翠を抱き上げる。
「お父さん、どこに行ってたの?」 「昨夜の泉。一緒に帰ろう。」 「うん!」
3人でノロクモイの家に戻ると瑞紀ちゃんも起きていて、皆で朝御飯を食べた。
食後。たか子さんが淹れてくれたお茶を飲むと、二日酔いがすうっと消えて楽になった。
「このお茶を飲んだら二日酔いが消えたんですけど、もしかして。」
「昨夜、あの泉で汲んだ水で淹れました。祭事の直後は力が強過ぎて
体に合わない人もいますから、一晩おいた後で使う方が良いんです。」
たか子さんは廊下の奥へ歩いて行く。きっとノロクモイには先にその水で淹れたお茶を。
「その水で作ったジュースを藍に飲ませたの。きっと御利益があるわね。」
Sさんは藍に頬ずりをした。翠も姫も、もちろんSさんと瑞紀ちゃんも美味しそうにお茶を飲む。
「Sさん、さっき泉に行ったら□◆商店のおじさんがいて、
今年は24年に一度の機会って言ってたんですけど、12年に一度じゃないんですか?」
「私じゃなくて、その祭事を執り行った本人に直接聞いたら良いじゃない。ね、瑞紀ちゃん?」
はにかんだような笑顔。 そう言えば今朝の瑞紀ちゃんは口数が少ない。

401『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/18(月) 07:13:31 ID:EEO410Fs0
 「瑞紀ちゃん。何故24年に一度の機会なのか、教えてくれる?」
「はい。12年後は、泉じゃなくて浜での祭事です。12年おきに泉と砂浜で交互に。
スクという小魚の群れが海岸に寄る時期ですから、その祭事は旧暦の6月〜7月頃ですね。」
(※スクはアミアイゴなどアイゴ類の幼魚、毎年決まった時期に数万匹単位の群れで現れる。)
成る程、それなら泉での祭事は24年周期。そして、もしかしたら。
「浜の祭事でも実際に現れるのかな?その、昨日の蛟みたいな神様が。」
「現れる筈です。でも、それを知ってるのは祖母とたか子おばさんだけですね。」
そこに、茶器を載せたお盆を持ったたか子さんが戻ってきた。
「たか子おばさん、おばさんは前回の祭事もお祖母さんの補佐をしたんですよね?
Rさんが、その時に現れた神様の事を知りたいって。おばさんはその神様を見たんですか?」
たか子さんは少し考えた後、小さく呟いた。 「昨夜見学を許可されたのだから。」 笑顔。
「見ましたよ。『大きな亀の神様』って言う意味の名前で呼ばれてる神様。
でも、首がとても長くて胴体も細長いから、亀には見えませんでした。
その神様がノロクモイの呼びかけに応じて、海の恵みを連れて来て下さる。あの浜に。
青く光る小さなモノたちが浜に打ち上げられ、砂に溶けていく景色は、今でも忘れられません。」
「瑞紀ちゃん、紙と鉛筆貸してくれる?」 「はい。」
たか子さんの証言に基づいて俺が描き上げたスケッチ。
細長い胴体、長い首と小さな頭。体の割に大きくて丈夫そうな4枚のヒレ。
それは亀と言うより、むしろ太古の海棲爬虫類、首長竜に似ていた。

402『礎(下)』 ◆iF1EyBLnoU:2014/08/18(月) 07:19:26 ID:EEO410Fs0
 「お父さん、これネッシーだよね。海のかみさまはネッシーなの?」
「ネス湖にいるからネッシーでしょ。だからこれは。」 「玄武、かも。」 「え?」
Sさんは俺の描いたスケッチをじっと見つめている。
「これが『大きな亀の神様』なら、昨夜の蛟と合わせて玄武のイメージに重なる。」
確かに、玄武は大きな亀と大蛇の組み合わせとして描かれることが多い。
「あるいは亀の胴体と蛇のように長い首、これ単独でも玄武の...まあ、それは置いといて。
2柱の神の恵みで豊作と豊漁を約束された集落。人々と神々の縁を結ぶノロクモイ。
本当に素敵。引退した後この集落で暮らす夢、ますます魅力的だわ。」
ノロとの契約に基づいて、この地に豊かな恵みをもたらす神々。それはつまり。
「その神々は式に近い存在なんですね。だから化生している間は実体を持つ。
もし同じような存在が他にもいて、何かの条件で化生して実体を持つのなら、
世界中で目撃されてきた未確認動物は、殆ど説明が付きます。」
「神格を持っている以上、式よりずっと高位の存在。ただ、術者やノロとの契約がなくても
自在に化生できるから、その姿を目撃した人には未確認動物そのものに見えるでしょうね。
古今東西、数ある未確認動物の正体の1つが、あのような存在であることは間違いない。」
そうか、化生している間は実体を持つのだから、目撃されるだけでなく攻撃を受ければ
深手を負い、死体のようになることもあるだろう。しかしそうなれば化生が解けて、
その体はやがて霧消する。もちろんその『本体』は無傷。
恐らくそれが、未確認動物の死体が保管されているという確実な事例が1つも無い理由。
日本で射殺されたという『鵬』も、記録だけでその死体は残っていない。


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