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(゜Д。)バタイユの難解な説明(゜〆。)

1【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/08/20(木) 23:19:04 ID:???0
『内的体験』、これを訳出した出口の手腕はすごいが、錯乱の書と謳われているだけあってかなり難解である。
このスレは(゜〆。)?ってなってるところを、できうる限りまとめてみようと試みるものである(^^;)。

[バタイユの図式]
x:死者→前世における私
a:現に生きている私
z:未来においてなるだろう私(後世あるいは来世における私?死者?)
ah:昨日の私
ad:現世において明日そうなるはずの私
k:aの住んでいる所とは地球上の対蹠地に住む通行人(任意の人物)
am:aの死後の魂

aはahを弁別でき、adも識別できる。aはahが昨日の自分自身であったこと、他の何者でもなかったこと
を知っている。同様にしてaは、明日あるであろう全ての人間の間からadを切り離すことができる。しかしa
は死者xについてはそうしたことをなしえない。それがどんな者であったかをaは知らず、それについていささ
かの記憶を持たない。同じように、xはaについて何事も想像することができない。また同じく、aはzについ
てなんの想像もめぐらしえず、zのほうはaについて記憶の片鱗もない。ahとaとadに見ることができるい
かなる関係もxとaとzには一切存在しない。そうするとそこにはある想像もつかないような関係、まるで存在
しないかのような関係しか導入しえない。たとえ、ある了解不能の一点から見れば、xとaとzが一体を成して
いるというのが本当だとしても、こうした真理は、xとaとzとが定義上からして必然的に相互に無関係である
という点で、無関係なものでしかありえない。aの側から、永劫に知ることのないzという存在、aのことをも
知るはずのないzという存在に関心を持つことは、地球上の対蹠地に住んでいる通行人の、任意の人物kの身の
上に、明日何が起こるかということについて関心をもつのと同じくらいに滑稽である。[x−a−z]の関係に
は[a−k]の関係と同じく、現在も将来も、[ah−a−ad]型の関係(捕捉可能な関係)が欠如している。
(この項続く)

2【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/08/24(月) 13:07:03 ID:???0
人間には一個の魂が在り、その魂が不死のものであるということが証明されたとして、死後の魂をamとすると、
[am−a]に[a−ah]型の関係を想定することができるようになる(amは、aがahのの記憶を持つよ
うにして、aのことを記憶する)。この想定は容易なことであるが、amとaの間に[a−ad]型の関係を導
入するとしたら、この関係は恣意的なもの以上ではなく、[a−ad]を特色づける関係にみられる明らかな着
実性を持たないことになる。aはamに対して、kに対するのと同じく無関心のうちにあることができる。ad
に対してはそういうことは不可能である(バタイユ視点。バタイユが「できる」とか、「不可能だ」とか言うと
き、彼は厳密に自分のことを論っているが、そうした反応は、全ての公正な、明晰な人間からも得られるはずだ
と、彼は考えている)。
こうした諸問題に人々はまったく注意を払わない(バタイユはこれをもっとも喜劇的な真実という)。様々な信
仰のうち、根拠あるもの、ないものというふうな、議論は行われるけれども、議論そのものを無用のものとして
しまう無意味さに気づいていないのである。かつての[a−am]関係が(教養なき人間の精神の中で)[a−
ad]型に即して実際に存在したような時代、死後というものに紛れもない不可避の心労を人々が持つような時
代があった。そういった時代の中で人々はまず、必ず死も永くはないにせよ、死の持つ不吉な残酷なものに充た
された、恐怖すべき死後存続を空想した。このとき[a−ad]関係がそうであるように、自我と魂の絆は非理
性的なものだった。だが、非理性的だったこの[a−am]関係は、長い間には理性の行使によって解消された。
(この点で[a−am]の関係はなお、一見脆弱に見えてもとどのつまりはよく試練に耐えうる[a−ad]関
係とは異なる)夢の血統を引いたこういう関係に、やがては、日ごと高尚さを増していく倫理的諸観念につなが
れた、理性的な関係が入れ替わっていった。混乱の中で人間は、なお、「自分はadについてと同じくらいam
(zとは別)について心労している」と独語し続けることはできる。ただし独語するのであって、本当に心労し
続けているというわけではない。aは、何をどう言いつくろおうとも、amに対して、kに対する以上の関心を
もたない。aは地獄を展望しながら気軽に生きている。教養あるキリスト教徒は既に、本当のところamとは一
個の他者に過ぎないことを知っており、kについて鼻で笑うようにamについても嘲笑を浴びせるのだ。ただ、
「私はadにではなくamに専心しなければならぬ」という原則を、そこに二重焼きにしてみせることはみせる
だろう。死の瞬間には、近親者たちの敬虔な祈願と、自分が死んで言葉を失った状態も、死後に存続する自己の
amという状態をも思い描くに至らない、死に逝く者の絶大の恐怖とが、そこに付け加わる。
「わたくしを愛の思いで戦かせたのは、御身の約束された天国ではありません。身の毛をよだつ地獄というもの
もわたくしを戦かせることはないのです・・・・・・たとえ天国などはないとしても、わたくしは御身を愛することで
しょうし、また、たとえ地獄がないとしても、わたくしは御身を畏れるでしょう」(アビラの聖テレジア)。
キリスト教信仰において、この余のものは全てただの便宜に過ぎない。
(この項続く)

3【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/08/24(月) 22:12:19 ID:???0
記号を時系列的に順番を合わせた方が分かりやすいだろうか?
>>2でかいた、関係の構図についての説明は以下のようになるだろうか。
・[a−am]関係と[ah−a]関係
 →amは、aがahの記憶を持つようにして、aのことを記憶する。
・[a−am]関係と[a−k]関係と[a−ad]関係
 →aは、kに対して無関心であることができるように、amに対しても無関心で
  あることができるが、adについては無関心であることはできない。かつて教
  養なき人々の間に[a−ad]関係の型に即した[a−am]関係が存在した
  ときは、[a−am]関係も[a−ad]関係も非理性的なものだったが、長
  い時間の中で理性が行使されることによって[a−am]関係の非理性的な性
  質は解消され、理性的な関係へと入れ替わった。これは古代の教養なき人々と
  近現代の教養ある人々(キリスト教徒)の特徴を対比している。近現代の教養
  ある人々は関心度において[a−{k≧am}]であり、kについてもamにつ
  いても無関心で嘲笑する。

4【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/09/04(金) 02:57:32 ID:???0
「我ここを去りて失せざる先に、なんじ面(みかお)をそむけて我を爽快(さわやか)ならしめたまえ」
バタイユはかつてキリスト教徒であった。その当時の彼は、amについて興味を持つことははなはだ薄く、
それをkについてより以上に心労するのは実に空しいことに思っていたらしく、ゆえに聖書の中では上記
に記した『詩篇』第39編14節の言葉がお気に入りだったという(バタイユはそれを38編だといって
いるがミスっている)。引用されているのはこの節だけだが、どうやら展開されている論を読んでいると
14節に限らず『詩篇』39編それ自体も併せて置いたほうがよいのかもしれない。時折歯切れが悪いと
ころが出てくるかもしれないが、実際に原文にもそういうところがあるのである。そのあたりは出口が註
をつけてくれているところもある。
バタイユが言うには、自分が生きている間自分の心が沸き立つ対象は、地獄が存在するということであっ
て、amが地獄で煮られていると証しだてられたとしても無感動であり、知ったことではないという。し
かし、かつて何人も地獄を信じたことなどありはしない。バタイユはキリストが堕地獄の亡者たちの歯軋
りについて語っていることを取り上げ、キリストは神であると同時に亡者たちを要請しもした存在であり、
キリスト自身が堕地獄の要請に他ならなかったという。しかしながらバタイユは、キリストがこのような
存在であるからといって、キリストが真っ二つに裂かれて、その惨めな肩身ずつが、互いにぶつかり合う
というような始末になったわけではないと説明している。キリストは自分の語ったことの内容に思いをめ
ぐらしたのではなくて、自分が与えようと望んだ印象のことを考えていたのだというのである。
(キリストについてのバタイユの説明はここだけでなく、ユング同様に、ラマ・サバクタニについても触
れられているばかりか、ヨブについても少しだけ触れられている。)

5【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/09/05(土) 00:54:42 ID:???0
aがadについて抱く心労には、既にして多重の人工性が入り込んでいる。(a−ah−ad(※)の同
一性は一刻からまた一刻へと変質し頽落してゆくこの人間という存在の、各瞬間を結び合わせる糸にまで
還元される。)死がこの糸を断ち切る。われわれが連続性を捕捉できるのは、その連続性を中断する限界
線が欠けているからに過ぎない。だが、自由がひとたび運動を起こすとき、あるいは突如としてみじろぎ
するとき、amとkとは等価値のものとして立ち現れる。

(文章中では、当初時系列的に並べてあった[ah−a−ad]が、なぜかこのような順番になっている。
 細かく考えすぎだろうか?)

時間の内部でのkに対するこの甚大な興味は、考えてみれば完全に喜劇的でもなければ完全に下劣なもの
でもない。kについてそんなにも関心を示すとは。kとは自分に他ならぬことも知らずに!

どうも段落ごとにあいているところが脈絡がないところもあって、この後に続いているところとこの説明
をどう捉えたらいいのか思案にくれているのだが、「連続性」云々の話をしているところを見ると、「砂
漠の共同体の具体的な説明として説明されているのではないかと思う。そもそもこの章節のタイトルが、
『方法及び共同体の諸原理』ともあるからだ。


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