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宇宙開闢と建築供犠−セカンドインパクト−

4【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/02/08(日) 18:01:12 ID:???0
「異邦人は死ぬことがない。なぜなら、彼はかつて生きたことがないの
だから、いつか死ぬということもないのである。真理を信じた者は生き
た。だから彼こそは死の危険に瀕している。彼は生きているからである。」

「主は初めに死んだ、それから甦った、という者たちは誤っている。な
ぜなら、彼(主)は初めに甦り、それから死んだのであるから。誰であ
れ、初めに復活に達しなければ、死ぬことはないであろう。神は生きて
いる。その者は死んでいたことであろう。」

「私としては、それ(肉)は「甦らないだろう」と言う者たちをも非難
する。(…)君はこう言っている、「肉は甦らないだろう」と。しかし、
それならば私に言ってみてくれ。いったい何が甦るのかを。そうすれば
われわれは君を尊敬するだろう。君は言う、「霊が肉の中にあるそして、
肉の内なるこの別なる光がそれである」と。だがこの別なるものは肉の
内なることば(ロゴス)のことなのである。なぜなら、君は何を語るの
であれ、肉を離れては何一つ語れないからである。この肉にあって甦る
ことが必要である。なぜなら、あらゆるものがその肉内にあるのだから」

5【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/02/08(日) 20:25:52 ID:???0
「彼はこの世に在るか、復活に在るか、あるいは中間の場所に在るかの
いずれかである。私がそこ(中間の場所)に見出されることにならない
ように。この世の中には善きものと悪しきものとが在る。その世の善き
ものは、(真に)善きものではなく、その世の悪しきものも(真に)悪
しきものではない。だがこの世の後には、真に悪しきものが在る。すな
わち、「中間のもの」と呼ばれているものである。「死」がそれである。
われわれがこの世の中にいる限り、われわれにとって益となるのは、わ
れわれ自らに復活を生み出すことである。それはわれわれが肉を脱ぎ去
るときに、安息の中に見出されることとなり、「中間」の中をさまよう
ことにならないためである。」

「人はまず死に、それから甦るであろうと言う者たちは間違っている。
もし、人が初めに、生きている間に復活を受けなければ、死んだときに
何も受けないであろう。」

以上はグノーシスの系譜学において「ヴァレンティノス派」と分類され
るグノーシス主義の福音書である『フィリポによる福音書』から復活に
まつわる啓示を拾い集めてきたものである。中間の場所といった言い回
しがあるが、これはヴァレンティノス派が三分したミクロコスモスのう
ち「心魂」に対応するマクロコスモスである。これには正統主義のキリ
スト教徒たちが行き着く先という割り振りがあるそうだが、ここではそ
れが死の場所であるとある。断っておかねばならないが、バタイユの述
べた「砂漠」は全人類共通と述べている点で、選民的なものはない。グ
ノーシス主義の場合は啓示が必要になるし、バタイユはそこに救いを求
めようはしていない。ただ、生と死の逆説という点で組み合わせると共
通点があり、面白いと思ったがためにやっているだけである。

6【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/02/08(日) 23:56:33 ID:???0
無知蒙昧な造物主デミウルゴスは、ソフィアの過失の結果によって産み
落とされたものであり、それは流産というような位置づけである。つま
り、積極的な意味での「子宮」から産み落とされたそれは、死の象徴な
のだ。グノーシス主義のデミウルゴスには別名が多く存在するが、その
中のひとつであるサマエールとは、別のところでは「死を司る天使」で
ある。要するにその存在そのものが死の象徴なのだ。

この出来損ないの征服者はカオスたる否定的な意味での「子宮=この世
の宇宙」を、ソフィアから抜き取った「範型」をもとに、似像として作
り上げることになる。これはちょうど、プラトン哲学におけるデミウル
ゴスが、原型イデアを元に宇宙万物を作り上げた要領と同じである。た
だしこの場合はそれそのものが忌むべきものであり、流産の結果であっ
て、このことによってプレーローマから神的本質が流出し、欠乏が生じ
ることになる。

グノーシス主義において人間の本来的自己は、この流出してしまった神
的本質に等しいとされ、それは、人間がこの世に生まれ出でる前にはそ
こにあったことを意味する。しかしこの「流産」によって一度死を経験
し、デミウルゴス(=サマエール)下で、肉付けられて誕生した人間は
本来の姿について忘却状態にあり、それは「本来の姿」からすれば倒錯
状況にあるから、神的本質が死んでいる状況にあるといっていい。

正統派キリスト教徒はこの場合、もともと死んでいる状況にあるから、
死ぬことはない。なぜなら、死者はかつて生きたことがないのだから、
いつか死ぬということもない、というわけである。ユングが『死者への
七つの語らい』でキリスト教徒を指して「死者」と呼んでアブラクサス
を初めとした啓示を行っていたのは知られているであろうが、ここでも
このような解釈がされているといえよう。しかしキリスト教徒は心魂的
人間であり、啓示によって復活の機会を与えられているのである。

7【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/02/15(日) 01:12:46 ID:???0
さて、早速であるが用語辞典の『復活』の項目を読んでいただけただろ
うか。このグノーシスにおける『復活』の考え方には二つの意味がある。
ひとつ目の意味は「啓示によって生きているうちに復活する」というこ
とだ。生きているうちに復活?生きているのになぜ復活するのだ?とい
う問いは>>6で記したことと合わせて読むならば解けるであろう。すでに
端的にはニーチェとの関連で語ったことでもあるが。

この世に生まれ出でた人間の生は、グノーシス主義においては本来的自
己の死である。この意味で丸山が言っていた連続性から非連続性へと切
り離されることで、既に一度経験しているという「死」と同様である。
混乱するかもしれないが、私はこれを無理やり逆説的な表現で語ってみ
たい。つまり、グノーシスにおいてこの世に生を受けるということは、
死んだ状態を生きるということであるから、いうなれば「生きていない
生を生きている=死んでいる」ということになるであろう。

「生きていない生を生きている=死んでいる」ので、グノーシスにおい
ては、「生きていない生を生きている」間に復活をもたらす認識の啓示
が待望されることになるのだ。それがまた肉のあるうちに復活を促され
なければならないという『フィリポによる福音書』の説明に表れている。

矛盾しているではないかと思われるかもしれないが、逆説的な表現とい
うものは、真理にそむくように見えて実際には真理をついている。私が
既に示しているこの世に生を受けるということが「生きていない生を生
きている=死んでいる」ということをよく踏まえたうえで、>>4に示され
ている「肉体」にまつわる文をもう一度読んでみると理解できると思う。

8【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/02/15(日) 02:53:07 ID:???0
これはそこに示されているようにロゴス(言葉)について考察しなけれ
ばならない。実は私は、博士が私にハヤカワの本(現在読書中)を薦め
てくださったのと、「ぶっとび具合ならヒトのコミュニケーション段階
をブラヴァツキーからコージブスキーまでアカシック的に概観する私論
がある」というお話を聞いて以来、ずっと今展開しようと思っている論
と何がしか関連があるのか、という点で気になっている。それらについ
ては図書館にもなく、知りえない状況にあるのでいずれその話はお聞か
せいただけるとそれを切に願って待つほかない・・・。(:_;)

ハヤカワの本を読み終えればまた見解は変わってくるのかもしれないが、
今のところ私がこのロゴスに関する部分を読んだ第一印象としては「言
霊」がそれに近いのではないか、ということである。>>4にある通り、
『フィリポによる福音書』のロゴスは、肉の領域に内在する神的存在・
諸至高霊のひとつであることを表されているわけだが、そこではそれが
どのような神話論的な枠組みが前提となっているのか定かでない。

わかるのは言葉を発することができるのが肉のあるうちに限る、という
ことであろうか。たとえ「生きてない生を生きている=死んでいる」と
はいえ、肉体的には生きており、啓示を受ければ肉のうちにある別なる
光(本来的自己)は復活する。これは「本来的自己の死」とは言い回し
の問題であって、本来的自己について、忘却状態にあることを比喩的に
言っているのだと捉えればいいだろう。実際には肉のうちにア・プリオ
リに秘められているということなのだ。それだから何を語るのであれ、
肉を離れては何一つ語れないということは、啓示を受ける前に死んでし
まえば、言葉も失われ、即ち肉のうちにある別なる光は復活を受ける前
にそのまま消えてなくなってしまうので、復活できなくなってしまうの
である。言われてみれば簡単だ、肉体がなければ言葉を覚知できる主体
が存在しないのだから。

9極東博士:2009/02/22(日) 22:15:21 ID:G6iz/z3k0
私はロゴスに関しては「言葉」よりも「論理」が一番近い意味だと捉えています。
映画『マトリックス』に出てくるメロビンジャンなるフランス人キャラ
(プログラム)が事あるごとに口にする「原因と結果」を内実している概念だと。

10【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/02/23(月) 23:08:09 ID:???0
「論理」ですか。私はバタイユにしてもユングにしても、ことあるごと
に「言葉」について強調されているので、そっちと絡めておりました。
ご存知の通り、ユングがくどいほどに旧約における智恵文学のソフィア
が新約聖書『ヨハネによる福音書』のロゴスと本質的に同じであると言
う説明ですが。「至高者の口から出でた言葉」とかがロゴス=キリスト
論の表現法とそのままだという。あとは「理性」とヌースですが、これもバタイ
ユとかユングとか丸山の援用です。「論理」というと私が思い浮かべる
のはウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の冒頭にある有名な語り
文句でしょうか。

「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして論じ得ないことに
ついては、人は沈黙せねばならない」

論理は、語ることによって表れるが、論理それ自体に関しては人は語れ
ないとか、そういうところがバタイユの言うところの、人は《知》につ
いて実は《何も知らない》中にいるという説明とかぶっているのではな
いかと考えましたが。バタイユの論理は見るたびに論理の限界を超えて
るゆえに自分で語っていることが無力化するというところにあるんです
が、だから「自分の失敗の程度」を示すとか、ウィトがいうところの沈
黙せねばならないってところをバタイユは黙りませんねw

11【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/03/02(月) 21:05:27 ID:???0
博士のご返答はとりあえず待つとして、展開する予定だった残りを先に
片付けてしまうことにしよう。グノーシス主義における「復活」の第二
の意味である。「生きてない生を生きている=死んでいる」状態から、
復活した人間、即ち復活を促す啓示的な言葉(光のグノーシス)によっ
て本来的自己を回復した人間は、終末にあって肉体を脱ぎ去り、魂の故
郷であるプレーローマに回帰する。これがそのままグノーシス主義にお
ける「復活」の第二の意味である。これは積極的な意味での子宮(=両
性具有の至高神)から流産した形で経験した死(=この世の生)を一度
目の死とするなら、「この世の生」の死という形で、積極的な意味で説
明される「子宮」へ回帰する「二度目の死」である。二度目の死によっ
て連続性(=両性具有性)へと回帰するこのグノーシスの神話の表現法
は、壮大な胎内回帰物語ということになるのである。

遠回りに迂回したうえに、あらゆる意味で「生=死」と表されてしまう
この『見かけ』ペシミスティックなストーリーは、しかし「始まりと終
わりは同じところにある」というゼーレのキール議長の台詞とかかわっ
ている。ゼーレの連中は『見かけ』の点でのみ、グノーシスのこの「大
いなる胎内回帰物語とでも言い表せる思想に当てはまっている。結局、
私がエリアーデと絡めて言いたかったのは何だったかというと、連中が
この世に見出した「明瞭に意味付けられた世界=コスモス」は「閉塞し
た世界」という名の「カオス」であったということである。そしてその
ように明瞭に意味づけられたコスモス=カオスの中で、彼らが抱いた願
望から見出せるのは、弱者のルサンチマン臭がプンプン臭う、この世の
生に絶望ばかりしている安直なペシミズムである。彼らのいう「本来の
姿に還る」とは、宗教的儀式という名の自己満足的な死を、本来の姿へ
の「復活」であるとみなしたものだったのである。

12極東博士:2009/03/02(月) 23:17:24 ID:G6iz/z3k0
ウィトゲンシュタインは戦後の、いわゆる後期が面白いんですよ。
日本では文庫の手軽さもあって『論理哲学論考』しか知られてませんけど。

13【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/03/03(火) 02:01:09 ID:???0
戦後、というと言語ゲームみたいなところですかね?ちくまの入門書程
度の知しかありませんが、最も後期のフーコーが「真理のゲーム」につ
いて述べているのがウィトを参考にしているそうで。ウィト自身、前期
の『論理哲学論考』は、その著作自体の彼の記述に「解決」と言い切っ
てしまうほどの自信振りが示されていますが、岩波文庫のわかりやすい
訳をしてくれている野田氏が説明しているようにウィト自身がそれを誤
りだったと認めているようで。

14【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/03/03(火) 21:36:22 ID:???0
ええと、ところで博士、先日メールを送っておいたんですが、今日も
一応メールを送っておきました。合計二通といったところですが、よ
ろしくお願いいたします。ちなみに論考自体に関しては沈黙されてお
られますが、大貫や丸山など、死生観について絡めているこの論考の
最後に、以前私にリクエストされていたと記憶しているゼーレの倒錯
問題をフロムの悪の説明と、弱者のルサンチマンとあわせて、グノー
シス主義概論で述べている知り方の位相の問題から、グノーシスの三
つのモチーフに該当すると思しき部分はあれども絶望ばかりしている
だけのグノーシスは本質的に倒錯であるがゆえに、何度もハリボテで
あり形骸化していると述べていると締めくくるつもりでおりました。
ところが書きあがったのもつかの間、いきなりパソコンが吹っ飛ぶと
いうアクシデント・・・。どんだけ〜としか言いようがないっす…。

15極東博士:2009/03/15(日) 11:22:01 ID:G6iz/z3k0
お気の毒です。バックアップはとりましょう。
後期ウィトゲンはいわゆる意味論ですね。ホワイトヘッドやカール・ポパーらの
科学哲学に大きな影響を与えています。コージブスキーやS・I・ハヤカワらの
一般意味論はこの直系です。
ホワイトヘッドの直接の薫陶を受けたのが、あのハンス・ヨナスですから
意味論/科学哲学/グノーシスは重なる部分が少なくないと思います。
この辺りは研究室でMAGIとの絡みで論考しようと思っていた部分ですが。
もっとも、ホワイトヘッドの代表作『過程と実在』は「英語で書かれた最も難解な書物」
「20世紀に出版された最難解な哲学書」だといわれているので、小生ごときに理解できる
代物ではありませんが。


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