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「メディアリテラシー」への意志

1【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/12/13(土) 18:29:34 ID:???0
先日より、極東博士氏より紹介を受けてきたマクルーハンが直接
監修している「マクルーハン理論」より、ヤルダバオト氏の直接
的な関心に結びつくことであると思う故に、ちょっとした紹介を
しておこうと思う。先日触れたメディアリテラシーについてのこ
とと関わってくることである。

マクルーハンの理論の中核を占めているといっても過言ではない
「メディアはメッセージである」というマクルーハンの言。この
定理には四つの意味がある。

(1)人々が忘却している、あるいは「忘却している」というこ
   とすら忘却している、本来調査すべき対象としてのメディ
   アという存在への視点の強調

→以下の(2)〜(4)の定理の意味により、なぜこれが注意を
払わなければならないことなのかが解説される。

(2)「メディアと内容の関係」の強調

(3)「メディアと人々の心との関係」の強調

(4)「メディアと社会の関係」の強調

2【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/12/13(土) 19:31:13 ID:???0
人々はメディアという「存在」を忘却し、内容にのみひっかかり、形
式・構造・フレームにあたるメディアに注意を払わない。マクルーハ
ンの主張することの(1)の意味は、こうした人々に対する注意の喚
起である。メディアという存在を忘却している状態、あるいは忘却し
ているということすら忘却している「二重の忘却状態」にある者は、
(2)〜(4)の重要性を知らないままである。

マクルーハンの同胞であるエドマンド・カーペンターによれば、「英
語はマス・メディアである。全ての言語はマス・メディアである。新
しいマス・メディア、すなわち映画・ラジオ・テレビは新しい言語で
ある。ただ、その文法はまだ分かっていない。それぞれのメディアは
現実を違った風に構成する。それぞれは独自の形而上学を秘めている。
言語学者は言う、十分に言葉や映像を使えば、どんな言語においてで
も、どんなことでもいえると。しかし、それだけの時間がない。文化
としては当然メディアの特性を開拓しなければならない」という。

これが意味するところは、内容は常に形式ありきで存在しえるもので
あって、ある程度までその形式の力学によって支配されるものである
ということである。ここでいう形式とは、言うまでもなく諸メディア
のことである。新聞やテレビを見ても分かるとおり、あるひとつの事
象・出来事についての報道は多様であることを見ても分かるだろう。

これはそのメディアに特有な真理、あるいは価値体系とでも言うべき
ものに基づいて、現実をモデルに「因果関係で結ばれた出来事のつら
なった織物であるかのようにみなす神話」を築き上げているというこ
とをみよということでもあろう。私なりのエッセンスを加えるとすれ
ば、ニーチェやヴェーバーが主張するところの、解釈や価値観の多元
論である。

すなわちひとつの事象・出来事に、普遍的事実というものが存在せず
解釈=誤謬が多数存在することを見るならば、その解釈=誤謬によっ
て、報道される内容が構築されるわけであるから、メディアを知らな
ければメッセージもわからないというわけである。人々に伝えられる
ものは、常に「形式の中の内容である」ということ。この意味で、メ
ディアは共同メッセージなのであり、これらこそが(2)が強調する
ところなのである。

3【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/12/13(土) 20:07:10 ID:???0
「メディアはメッセージである」という言を、マクルーハンはおふざ
け半分に冗句にして「メディアはマッサージである」ともいった。そ
んな題名をつけた、彼の理論を挿画や写真をつけて所収したポケット
本もあるらしい。これが言わんとしていることはなんであろうか?

多元的な「形而上学=形式」に基づいた「解釈=誤謬」によって構築
された「報道される内容」は、前述したことをものすごく簡潔的に言
えば「異なった色眼鏡」で世界を見たものといえる。それは諸メディ
アによる違いだけでなく、文字がなかった時代の文化、文字文化、文
字後の文化によっても異なる過程で伝えられる。

メディアは内容を伝える過程においても人々の感覚に働きかけ、それ
を使う人間の知覚習慣を変えるとマクルーハンは指摘し、その微妙な
洞察を伝えるために、彼は「メッセージ」を文字って「マッサージ」
とも言ったのである。この指摘は読んで字のごとく、人々はメディア
によって揉みに揉まれるマッサージを受けているということだ。

上述した(2)と併せていただきたいが、この指摘は、メディアが中
立的な立場に立っているのではなく、人々に何らかの作用をもたらす
力を持ったものだということについて注意を促すものである。実際、
メディアが報道する内容は、いかにして人々をひきつけることに重点
が置かれているものもあり、それは人々の心をつかみ、揺すぶり、転
がしまわし、マッサージしているというわけだ。

4【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2008/12/14(日) 03:27:56 ID:???0
当然ながら、人間の知覚・感覚に「マッサージ」を行うメディアは、
人間によって構成されている社会をもマッサージするとマクルーハン
は指摘する。これらが(3)(4)に当てはまるのは言うまでもない
だろう。

「文明の大きな進歩は、その進歩が起きる社会をほとんど粉々に壊す
ような過程である」
「19世紀最大の発明は、『発明の方法』の発明である。新しい方法
が生まれてきた。我々の時代を理解するには、鉄道、電信、ラジオ、
紡績機、合成染料などのこまごました変化を無視することである。わ
れわれは新方法そのものに研究を集中しなければならない。これこそ
古い文明の基礎を壊した真の新しいものである」(ホワイトヘッド)

これが示そうとしているのもやはり「形式の中の内容」という構図に
おける「形式」への考察である。メディア、もしくはそこに関連する
プロセスを理解することが、メディアを制御する鍵だというのだ。

メディアリテラシーとはメディアに対して主体性を確立することであ
る。様々なメディアが伝える価値観・イデオロギーなどを鵜呑みにせ
ず、主体的に解読する力をつけることであるが、マクルーハンが言わ
んとした「メディアはメッセージである」の定理における四つの意味
は、まさにこの「力への意志」の問題であるといえよう。


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