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ノート

60千手:2009/07/12(日) 21:51:42
>自然が弟子にしようと定めた人たちに,教師は必要でなかったのです。ヴェルラム、デカルト、ニュートンのような人たち、これらの人類の教師たちは、決して、みずからは師をもちませんでした。
ルソー『学問芸術論』岩波文庫p.51

ルソーのこの本はなかなかおもしろい。
>不謹慎にも学問の扉を打ちやぶり、学問の聖堂の中にこれに近づくに値しないものどもを導きいれたあの著作編纂者たちを、どう考えたらよいのでしょうか。
(同前)
芸術についても手厳しい。だがまったく同感してしまうのだ。

61千手:2009/07/12(日) 22:12:59
>われわれは、物理学者、幾何学者、化学者、天文学者、詩人、音楽家、画家はもっていますが、もはや市民をもっていません。あるいは、まだ市民が残っているとしても、みすてられた田園にちらばっていて、貧乏でさげすまれて死んでゆきます。これが、われわれにパンを与え、われわれの子供に乳を与えてくれる人びとがおちいっている状況であり、彼らが、われわれからうけおtっている感情なのです。
(同前、pp.46-47)
「市民」(citoyens)という概念のこの用法に注意。

62千手:2009/07/12(日) 22:29:53
ルソーが嫌われるとしたら、それは主に、彼が芸術を奢侈(luxe)と密接に結びつけ、そしてそれらを習俗の堕落、趣味の腐敗の生みの親と捉えるところだろう。(pp.37-39)

63千手:2009/07/12(日) 22:47:40
>奢侈は、これを楽しむ金持ちも、これを渇望する貧乏人も、すべてのものを堕落させます。
(前掲書p.93)

>富から奢侈と無為とが生まれ、奢侈から美術が生じ、無為から学問が生じた。
(前掲書p.91)

64千手:2009/07/23(木) 12:19:09
The sun, the Moon, the Earth and its contents, are material to form greater things, that is, etherial things --- greater than the Creator himself made.
John Keat
デューイの本からの孫引き

65千手:2009/07/31(金) 10:50:01
Mauss Essai sur le don

Le mana polynésien, lui-même, symbolise non seulment la force magique de chaque être, mais aussi son honneur, et l’une des meilleures traductions de ce mot, c7set : autorité, richesse.
(p.144)

モースがマナについて語っているのはここだけだったか?

66千手:2009/07/31(金) 10:55:13
修正
seulement
c'est


67千手:2009/08/06(木) 12:18:44
>>65
問題は、de chaque êtreのところ。la force magique(マジカルな力)がそれぞれのものにあるのは、一時的な事なのか恒常的な事なのか。
アニミズムを考える場合決定的な問題だ。
これまでの解釈では、ものの内部に恒常的に存在している魔術的な力としてマナを解釈していたようなのだが、
モースのこのテキストからはそのことは明確には出てこない。
「各々のものにそのとき着いている魔術的な力」とも解釈できるのだ。

68毛蟹:2009/08/07(金) 00:14:44
>67
失礼。モースもマナも知りません。

>ものの内部に恒常的に存在している魔術的な力

「もの」の「内部に存在している」というよりも、その「もの」を「内部に捕らえている力」と考えるなら、(マジカルな力)が一時的なのか恒常的なのかを考える必要はないように思われます。「魔術」を運用する主体は気まぐれなのだから。

69千手:2009/08/07(金) 11:12:50
>>68
このマジック、運用者がいるわけではないようです。

70千手:2009/08/07(金) 19:04:32
>>68
そして「もの」はêtre、英語でbeingです。
もののけのものとは違う。

71毛蟹:2009/08/08(土) 00:02:55
>69、70
>そして「もの」はêtre、英語でbeingです。もののけのものとは違う。

>このマジック、運用者がいるわけではないようです。

そう願いたいものです。「マジカルな力」とは音楽に於ける音の力と同種のものと考えてよろしいのでしょうか。

72千手:2009/08/09(日) 19:41:15
>>71
>「マジカルな力」とは音楽に於ける音の力と同種のものと考えてよろしいのでしょうか。……
 わたしは彼ら(モースやアニミストたち)が何を考えているのかわからない。モースに対しては、あなたは「アニマ」を知らないし考えていない、と言えそうな気がします。
その首根っこを押さえるために、「マナ」についての議論を引いてきたんですが。

73千手:2009/08/17(月) 10:35:44
>>71
>「マジカルな力」とは音楽に於ける音の力と同種のものと考えてよろしいのでしょうか。

よかのかどうかわからない。ただそこ(音の力)に近いところから考え直し、捉えなおしててゆかないと全体が空虚な話になってしまうでしょう。

74千手:2009/08/26(水) 01:30:07
板垣退助の「予が愛郷の念」から

「 試みに先づ地形を見よ、連山北に重疊し、大海南に梗塞し、幾多の渓谷縦横に隔斷して、交
通最も不便を極むるは、往古よりして然りとす。此地形の束縛によりて各村落を孤立せ
しめ、自然に土佐人の性格を鑄冶するに酋長政治の如き割拠偏安の精神を以てするに至
れり。」
 『板垣退助全集』1969年、p.729

「過去に於ける
土佐の歴史は酋長割拠の歴史といふべく、實に蝸牛角上の闘争を以て一貫せり。此等の
遺風は現今に至っても猶ほ消滅せず、或は蝗送りの如き、或は氏宮の祭礼に於ける素人相
撲の如き、往々各村落争轢の事實を現せり。」(同前)

75千手:2009/08/26(水) 01:49:49
(つづき)

「 顧ふに土佐の最も能く統一せられし時代は立志社時代に外ならず、畢竟するに自由民権
の論は時代の新智識に属し、進歩せる歐米の思想よく土佐人特徴の理性に投合せるが
為めに統一の効果を奏せる者にして、既にして其理想の衰ふるや、土佐は忽ち衰萎に就き、
四分五裂の陋態に陥れるにあらずや。」(前掲書、PP795-796、明治四十二年)

土佐人の薩長や米沢に及ばぬ理由を風土的な条件から論じたもの。
この板垣の意識のなかに『土佐日記』は存在したか?
論じられるほどに読んだことはないのだろう。
こうした板垣の文章に、かえって貫之の苦労が推測される。

76千手:2009/08/29(土) 13:57:28
板垣退助の「武士道談」(明治四十三年)には、
>夫れが京都の公家になると云ふと、平安朝以来文弱になり、
>全く儒教化し佛教化して武士道の精神取り失ひ、遂に其の文弱の為めに、天下の大権は
>鎌倉将軍の手に落ちたのである。
とある(『板垣退助全集』1969年、原書房、pp.809-810)。
 紀貫之の『土佐日記』はさしずめこの文弱化の代表のようなものとみなされているのだろう。
板垣が『土佐物語』をきちんと理解していたら、彼の思想はもっと深くなっていただろう。

77千手:2009/09/02(水) 16:05:17
>宗教は
>神若くは仏といふが如き一の畏懼す可きものを仮定して、之を懼るゝことによりて他の
>一切の懼れを除かんとするものなるを以て、猶ほ人の畏懼心を長じ、人心を自由ならしむ
>る能はざるの弊あるを免れず。(大正三年)
(板垣退助「武士道と自殺」全集pp903-904)

なかなかの洞察、と思う。
「人心を自由ならしむる」ことを重視していることにも注目。

78千手:2009/09/02(水) 16:22:26
> 斯の如く武士道の恃む所のものは自己の良心に在り。是故に人若し病んで精神の自
>由を喪ひ、意識の朦朧と、自から己れの良心を恃む能はざる場合に至らば、其身心の痛
>苦を忘れ、若くは精神喪失の為めに来る所の醜態を免れんが為めに、適当の薬剤を得て、自
>殺して以て永き眠に就くことは、これ心の自由、自治を尚ぶ所の武士道の理想たらずんば
>あらず。
(同、pp.906-906)

79千手:2009/09/02(水) 20:18:29
>武士道なるものは、自由主義の最も高潮せるものなり
(同、p.907)

80千手:2009/09/02(水) 21:23:34
>蓋し武士道の第一義は、耻を知るにあることは……

>是を以て武士に在りては、縲絏は無上の耻辱にして、其勢窮まるに方りて自刃し、以て一身を処
>決せしむるは、則ち其面目を保たしむる所以たるに外ならざる也。されば古の武士は、戦
>場に於て敵の為に組み敷かれながらも、縄目の耻は免し給へ、速かに首を刎ねられ候へ
>とて、潔く首級を授けたり。
(同、p.909)

81千手:2009/09/02(水) 21:31:21
>更に彼我法治を異にせるよりして、他の法治の下に生くることを屑とせずして自殺
>せる例あり。

>我邦に在りては、かの北條氏の滅亡に際し、一族門葉悉く自刃し、為に死者
六千八百余人を算したるが如き、其最も顕著なる者と為す。

(同、p.910)

82千手:2009/09/03(木) 00:27:23
板垣の「殉死」についての見解も紹介しておこう。これも一つの死の形を明確にさせている。

> かの主君の病んで死せる後を追ひ、自殺して以て死に従ふ所の所謂殉死なるものは、我
>邦の歴史に於て往々其事績ありと雖も、こは宗教上の迷信より来れるものにして、則ち其
>平生恩顧を受けし所の主君に別るゝに忍びず、冥途黄泉までも之に伴はんと欲する所の
>未来観よりして茲に至れるもの、今にして之を論ずれば愚といふの外なし、是故に古来
>殉死は法律の禁ずる所たる也。
(同、pp.911-912)

執筆年からして明らかなように、板垣はここで乃木将軍の自殺を問題にしようとしているのだが、乃木の自殺は殉死ではないというのが彼の主張だ。
問題は、板垣の描くような「殉死」が、いわゆる殉死のどれほどに妥当するかということだろう。

自由の行為が存在する、それこそ武士道だ、という板垣の議論は、カント主義と一致するが、やはり非常な的確さと射程がある。「明治武士道」(菅野覚明)の枠に収まるものかどうか、点検すべきだろう。

83千手:2009/09/03(木) 15:29:53
>>76は 推敲を加えて
http://25237720.at.webry.info/200908/article_5.html
に再録。

84千手:2009/09/04(金) 06:59:06
>天は人の上に人を造ら
>ずとは西哲の警句なり。西人今や人種の上に人種を造り、彼等が曾て自由と平等と友愛
>の名によりて破りたる階級制度を、更に大なる範囲、更に大なる規模に於て世界人種の間
>に之を造り、彼等自ら人種的貴族となりて有色人種を奴隷視せんとす。是れ豈に近代文
>明の一大怪事、一大時代錯誤にあらずして何ぞや、一国の政治に於ける貴族政治、階級制度
>は、遠き過去に於て平民の為めに既に破られたり。人種問題に於ける貴族政治、階級制度
>に対しては、亜細亜人須らく世界の平民となりて之を打破せざる可からず。是れ新時代
>に於ける自由主義の世界的運動にして、亜細亜人の頭上に懸れる使命にあらざるか。(大正五年)
(板垣退助「世界の時局と日本の使命」、全集p.415)

「天は人の上に人を造らず」の警句をこうして人種問題に応用する、というテクニックは板垣のオリジナルか?

85千手:2009/09/05(土) 01:18:56
> 抑も予の戊辰戦争の役を了へて土佐に帰るや、兵制を改革して、人民に参政の権利を与ふる
>と共に、徴兵の令を布いて兵丁を四民の間に均一に募集し、以て国家有事の日に備ふる
>所あらんと欲し、之を後藤に謀りたるに、後藤は痛く予の趣旨に賛成を表せるも、古来土佐に
>は堕胎圧死の蛮風ありて、其人口の割合他藩に比して尠きを以て、之が根本を矯正するに
>非ずんば到底其目的を達する能はざるべきを説き……(明治四十三年)
(板垣退助「土佐に於ける育児会の事業」、全集p.561)

軍事がエリート(武士)の仕事だったところから国民皆兵制へ。これが四民平等の趣旨にかなうことだという。
そしてその達成のために「育児会」を作って、土佐の死産率を全国平均にまで下げようという政策を作り実行する。
 一貫した現実的な思考み見える。

86千手:2009/09/11(金) 22:00:37
土佐には素人相撲の興業があったらしい。

>土佐では九月十日に興業相撲がある。興業相撲と云つても土佐は一種の素人相撲で、子
>供が寺子屋の退散から集まつて相撲を取る。それで私の邸は広い者であつたから土俵を
>築いて相撲を取らせた。寺子屋の師匠は小笠原淳助と云ふ人で家中の子弟は過半はそ
>れに手習に行つた者である。其寺子が集まつて相撲を取る。(明治三十二年)
「相撲漫談」(板垣退助全集p.747)

板垣退助の邸宅には土俵があったわけだ。

87千手:2009/09/11(金) 22:15:55
次の民俗がおもしろい。

>夫から私が十七八歳の頃に
>は城下の鏡河原に二ヶ所上の河原と下河原に土俵があった。所がソコには士族は
>行かれぬ事に為つた居つたが相撲好の侍は忍んで行く、そこに行けば些細の事があつても無
>礼咎めをしない、又平民もそこに来れば武士に対しても酷い用捨をするに及ばないと云
>ふ一種の風習が其間に行はれて居つた。それで武士がそこに立混る事も殆ど公然の
>秘密と云つて宜い。武士は覆面で頬被をして相撲を取る、然れども其翌日になると云ふ
>と出入の酒屋などが台所に来てからに家人と話をして、「夕べコツチの旦那を擲げて遣つ
>た」、と云ふから直き判つて仕舞う。
 (全集、pp.747-748)

板垣が土佐のことについて述べるものは、実に生き生きしていておもしろい。

88千手:2009/09/11(金) 22:40:18
親友の後藤(象二郎)は、東京に出ても「三段目の頭や二段目の裾位に居る相撲には優に敗ない程取れた」という。

>それから段々身を入れて見ると相撲は戦や武芸と同じ様なもので殆ど変らない、
>孫子十三篇を解釈して相撲に嵌めても嵌らぬ事はない位である。
(p.748)

後藤とは一緒に行って取っていた。それだけに相撲にも一家言あった。

>一体相撲に一番必要の事は立合と、それから立合の上ズッ張りと云ふ
>ものが激しくあると敵が嫌がる、さうすると自分の儘に相撲が取れると云ふ事が一番肝
>要の事である。
 (p.749)

当代の相撲取り評もなかなかの見方だと思う。


そして最後に引き出してくる教は実践的なことだ。

>其虚実の変化と言ふものは余程面白いものであらうと思ふ。
(p.752)

90千手:2013/10/09(水) 21:08:28
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■ 2013/09/03(火) 00:36:23ns4009028.ip-192-99-0.net


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