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鬼和尚に聞いてみるスレ part12
329
:
避難民のマジレスさん
:2018/10/12(金) 00:02:38 ID:XMMezgB.0
275です、返信遅れてすいません。
回答ありがとうございました。観察と集中を混同していました、ご指摘ありがとうございます。
あと、お聞きしたいんですが、
「無我に至ったら認識を観察することが可能になる」、ということの詳細について
もっと踏み込んで教えてもらいたいんですが
無我にならないと認識は観察できない、とのことですが、
無我になったら認識を観察できる、という「無我」という状態が
漠然としていて具体的によくわかりません。
仮に、「自分は肉体だ」、という観念が落ちて死の恐怖が消えたら無我に至った(=認識を観察できる状態に達した)
と思っていいですか?
それとも、「自分は肉体だ」という観念がドーン!!と落ちて肉体の死の恐怖が完全に
消えるような劇的な境地に至っても、しかもそれが一時的な状態じゃなく生涯にわたって
ずーっと継続するような類の境地に至っても、他にまだ「自分は○○だ」という自己同一化の観念
(例えば自分は目の裏から外を見ているぼんやりした自己感覚だ、というような観念)が
少しでも残っていたら(=認識以外自己同一化している対象がないくらい極限の無我じゃないと)認識を観察
する地点には立てませんか?
それとも、
「肉体は自分じゃないから死ぬのも怖くない、思考しているのも自分が意志して
行っているわけじゃなくて自然発生的に起こってるんだ。」
くらいの気づきを心底体感として得とくしているくらいの境地なら「認識を観察する」ことは可能ですか?
「認識(阿頼耶識)を観察して厭離することができる境目」というのが具体的にどこか知りたいです。
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