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【仏教】悟りを開いた人のスレ避難所51【悟り】

1偽和尚★:2017/11/24(金) 01:00:29 ID:???0
元スレ
【仏教】悟りを開いた人のスレ 271【天空寺】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1511299878/

前スレ
【仏教】悟りを開いた人のスレ避難所50【悟り】
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1478129537/

言い合いが「個人の中傷」にまでいったらやめましょう。
悟りとは究極的には個人こじんのことです。
いくら他人を中傷したところで、決して悟ることはないでしょう。

「数息観のコピペ」は >>2 にコピペします。

注) この板は2000まで書ける設定です。但し、だいたい1000ぐらいで
 次スレ立てておいた方が良いと思います(1000以上に未対応の専用
 ブラウザが存在するため)。ということで本スレと同じ>>970の人が
 次スレを立てるということにしておきますが、慌てなくても大丈夫です。

2偽和尚★:2017/11/24(金) 01:01:00 ID:???0
数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。

 先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
 息を吐く時に、頭の中で一と数える。
 又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
 このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
 たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
 夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。


初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
 そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
 暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
 そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。

 更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
 潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
 そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
 もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
 人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。

 例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
 人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
 潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。


数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
 その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
 先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
 木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
 最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。

 例えば花なら花という言葉を使わず、
 「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
 それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
 などと観察していくのじゃ。

 出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
 次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。

 そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
 例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
 などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
 観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
 連想や記憶は雑念なのじゃ。

 そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
 数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
 止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
 そうすれば雑念は自然に消えていく。
 このような時に止の行は役立つのじゃ。
 やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。


 未だ自我のある者は、更に感覚、感情、思考、分別知、認識などに観察を広げていくのじゃ。
 前にも書いたが、感覚から先の観察は鐘の音などを利用すると、簡単なのじゃ。

 感覚を観察するには鐘の音が鳴ったら、
 「今、鐘の音が鳴った、聞こえている、だんだん音が小さくなるのが判る、今消えた」などと、
 今、感じている感覚を観察するのじゃ。

 その鐘の音によって生じる感情も、「耳が痛くてうざいと思っている・・・」などと観察する。
 思考も「あの鐘は仏壇屋で買ったもっといいのが欲しかったと、考えている・・」などと
 巻き込まれないように注意しながら観察するのじゃ。

 物事を認識し、分別する心の働きは殆ど一つの動きになっている故に、鐘の音を聞いて、
 「これは鐘の音・・・今、鐘の音と分別し認識した」などと、観察するのじゃ。

 このように直接、心と体を認識する方法が、観の行の基本であり、
 最もシンプルでスタンダードなものであると言えよう。
 しかし、この方法はかなりの集中力と観察力が必要となる。
 これをシステム化してやり易くした方法が、縁起の法や、空の法なのじゃ。

3素人A:2017/11/24(金) 08:51:59 ID:gOqWUDAs0
生きる自由 ところで不可思議に満ちた通過と帰還はどんな結果をもたらすだろう。戦場は生を営む場の象徴である。そこで
は生きとし生けるものが他の生き物の犠牲のうえで生の営みをおこなつている。生にまつわる避けがたい罪の自覚で心があま
りに痛むため.ハムレットやアルジェナのように人は行き続けるのを拒否する場合がある。他方我々の大部分がそうである様
に.自分自身についてしょせんは正当化されない虚偽のイメージを作る場合だつてある。つまり自分はこの世の例外的存在で
あって.他人のように罪人ではなく.善人だから避けがたい罪を犯しても是認されるのだと想像するのである。このような
手前嘗てな正義からは.自己ばかりではなく人間と宇宙双方の本性について誤解がうまれる。神話の目的は個人の意識と宇宙
の意志を和解させ.それによってこのような無知に対する要求を追放するところにある。さらにこの和解は時間といううつろ
いやすい現象と.すべてのなかで生きかつ死にゆく不滅な生命との真の関係を悟ることによつて成立する。
?まあそうは僧なんだけど今はお先は全く見えず明朗とも行かず迷路の中で糸も信用できず私の思うようにならず当たり前に居る

4541:2017/11/24(金) 18:58:45 ID:o7TfOr0I0
俺もここに書くことにしよう。

あのスレは「鬼和尚を先生として法話を聞く」と言うスタンスなので、
こちらはフラットな関係で話が出来るだろうし、そうしなくてはならない。


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