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 佛教の經典・祖録・禪語等の保管庫

797避難民のマジレスさん:2024/02/25(日) 19:27:00 ID:lcrFFG3M0
これの秀逸なところは
フリーソフトながら
youtubeのplaylistが読みこめるという点だ

ある登録チャンネルをねこそぎ
ぶっこ抜くときは
そのチャンネルのプレイリストを
https://chromewebstore.google.com/detail/youtube-%E3%81%AE%E8%A4%87%E6%95%B0%E9%81%B8%E6%8A%9E/gpgbiinpmelaihndlegbgfkmnpofgfei
を使って作成する

あとはそのリンクのアドレスを
リンクラバーに貼り付けると
動画が根こそぎもってこれるということができてしまう

動画収集家にはオススメ

798安堂:2024/09/01(日) 09:28:23 ID:kYPiI31g0
「今」を看る

法の実証という禅の修行は、自己を忘じて本来の自分になることによって、一切の問題を解決する道です。自分が本来の自分になれば、自分とは何ものか、真実とはどういうことかを一切問う必要もなく、迷いや悟りもまったく不要なものになります。

あえて申し上げれば、仏法という支え、坐禅というステッキが本当に要らなくなつたところが、釈尊のお示しになられた真の仏法であり、正伝の坐禅です。「実相は無相なり」の証明へ向かうことですから、くれぐれも修行の道理を常識の鞄囲で測らないように注意していただかなければなりません。

現在の禅の修行の様子を見聞するとき、誤りに誤りを重ねて行く様子が目につきます。これは禅宗のみならず、主だつた仏教の各宗派も同じですが、原因は、「人」が法を伝えてきたために、真の解脱がなくなつたからです。

そういうなかでは、真の法を説く正師のことばは、あるいは耳に逆らい、あるいは心に逆らつて聞こえます。なぜかというと、常識とか人の分別の支配するなかでは、何が真実であり、何が誤りであるかは、単に統計の問題か、または指導者の風向き次第によって処理されることが多いからです。

799安堂:2024/09/01(日) 09:30:34 ID:kYPiI31g0
禅の修行で広く伝えられている誤りに、「坐禅によって今の自分の様子を修正していくことである」あるいは、「坐禅をして自我を忘じ、無我となることである」あるいはまた、「禅を学んで無や空を思想として勉強し、自由なものの見方や新しい考え方を習得することが禅である」という例が多くあります。

しかし、間違えてならないのは、「修正していくのが修行ではなく、修正しようとしている自分を捨てるのが修行である」ということです。

無我になろう、あるいは仏となろうとしている自分を忘じた様子が、真の無我であり、仏というべきです。いい換えれば、ものの見方や考え方を学ぼうとしている自分を捨てたところに、無とか空というものの見方や考え方を離れたものがある。そういうことを実証していくのが、禅の修行です。

禅の修行においては、修行を始める前に、修行の方向、即ち自己に参ずるということの道理をよくよく学ぶべきです。無我になろう、仏になろう、あるいは只管になろうとする、その自己を忘れるのが修行ですから、自分の思いどおり坐禅をしても、なんにもなりません。

「自己に参ずる」という修行の道理が明確にわからずに坐禅をし、公案功夫をいたしましても、先ほど示したように解決の場所を誤るために、修行が真の修行にならないということです。

修行の道理を学ばなければならないもうひとつの理由があります。「法」という認識以前の事実を求める修行は、一般的な分別や判断を離れた世界へ向かうことになりますので、日常の常識は到底及びがつきません。これは難易の問題ではなく、「無一物」の世界へ向かう道理を普通の尺度で測っては誤りやすいということです。
(原田雪渓、『自我の本質』pp.135-137)

800安堂:2025/06/14(土) 22:45:11 ID:kYPiI31g0
https://youtu.be/-AVggxkBnCE?si=g0gxi69hjvNQHbSf
栖雲居士殿の室内
これはすごい


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