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お気に入りのローマ皇帝2

1カイザー:2004/04/18(日) 01:31
旧スレが1000を超えたんで新しくスレッドを立て直してみました。
ローマ皇帝となってますが、まあローマに関する話題なら何でもOK
です。
素人の雑談以上のことを求められても対応出来ないんで、はじめに
おことわりしておきます。

いるのかどうか分かりませんが、ROMしてたけど、途中から書き
込みにくいと思っておられるお客様がおられたら、これを機会にカ
キコして頂けると嬉しいです。

2マッティアス:2004/04/19(月) 23:13
すみません、昨日うっかり古いほうに書き込んじゃって。咄嗟に見つけられませんでした。

新スレということは、初心に還ってミーハー話をしまくってイイということですね?
ていうか、旧スレでも脱線するかバカ丸出しな発言しかしてなかったですけど。

いきなり、アホ発言していいですか?
ローマ兵の格好って、コギャル(もはや死語)顔負けのミニスカサンダルなんですけど、
あれってどう思います?密かにベテランとか嬉しくない気がするんですが。

3真奈美:2004/04/20(火) 07:17
かつて2ヶ月を過ごしたライン河畔の町で、そこの歴史などを記したパンフの
表紙に、ローマ兵の格好のコスプレが載ってました。
感想は、「寒そう!」でした。
初めてズボンをはいたローマ人はだれだ、いつだ?

4カイザー:2004/04/20(火) 23:51
おお、ちゃんとこっちのスレに移行して頂けてほっとしました。
もしかして、ここは放置プレイで、どんどん下の方に下がっていくんじゃない
かと(((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル((((してました(笑)。

「ローマ人の物語」を積ん読にして昨日から読んでいる本に、3〜4世紀頃に
はローマ軍の兵士はズボンを履いていたという記述がありました。元々はアレ
マンニ族が履いていたんだそうですが、どこまで信憑性がある話かよく分から
ない・・・。
ズボンって、騎馬民族の発明品だったと記憶しているのですが、ゲルマン人と
騎馬民族って、フン族以前に接点なんてあったのでしょうか?

今の我々は、当たり前のようにズボンとか履いてますが、昔はズボンなんてな
かったんですよね。だから、スカート(っていうのかな?)を履いてても、女
装にはならないんでしょうね。
そういえば、スカート=女の子、ズボン=男の子という図式は、いつの時代か
ら成立したんでしょうね?

5マッティアス:2004/04/22(木) 15:37
ゲルマン人って騎馬民族ではないんでしたっけ?狩猟・略奪生活をする騎馬民族的な
イメージを勝手に持っていました(爆)。ガリア人も騎馬軍団に利用されたくらいだから、
乗馬をこととする民族だったはずですし。

ローマ軍も3〜4世紀になるとズボンを履いたんですか。それと関係があるのかは、
よくわからないのですが、その頃になると、気候も寒冷化してきたらしいので、ちょうど
良かったですね。

そういえば、スカート=女性で思い出しましたが、イスラム世界では女子も袋ズボンを
着用しますよね。あと、騎馬民族もよっぽど裕福なおうちでもない限り、女子もズボンを
履いているイメージなんですが。モンゴルとか。
近代になって、服飾が西欧文明化してからの風習ではなかろうかと思うのですが。
かなり適当なコト言ってます。

6カイザー:2004/04/24(土) 00:13
帝政期のゲルマン人は定住して狩猟だとか農耕だとかに勤しんでるんで、騎馬
民族とは言えないでしょうね。北欧とかに定住する前のご先祖さまはスキタイ
人とかの係累だった可能性はあるのでしょうけど。

私も服飾の歴史には全く詳しくないですからね〜。
貫頭衣とか着物だとか洋服がどういう事情で成立していって、現在のジーンズ
とか背広に変わっていったのかとか、ちゃんと調べたら面白そうではあります
ね。
昔、ドイツのローデンブルグの悪趣味な博物館で、中世の貞操体とか展示して
ましたが、中世の女の人は本当にあんなもんを日常的に使ってたのか激しく気
になります。どっから見ても、拷問アイテムにしか見えなかった・・・。

7真奈美:2004/04/24(土) 06:24
ローテンブルクの「中世犯罪博物館」ですね、けっこうポピュラー。日本語の説明もわりについてるとこ。
(「拷問」の博物館はほかでもあります。)
「貞操帯」、貞操以前に不潔なものだったと読んだことあります、そのほうが
なおおぞましい。

8カイザー:2004/04/24(土) 10:57
確かに貞操帯は、衛生面からして最悪でしょうね。どうやってトイレの後始末
とかするんだろうと、実物の前で私も考えてました。

西欧中世なんて、間違っても住みたくない時代の一つですよねー。あんまり、
歴史を知らない時には素朴にあこがれてましたが。ローマも日本の平安時代も
唐や宋なんかも程度の差はあれ似たようなもんなんでしょうけど、人権思想が
根付いた現在は本当に素晴らしいですよね。
江戸時代の蓑踊りとか、イヤすぎ。

9真奈美:2004/04/25(日) 06:21
「中世」という語の範囲、うんと広くとれば500〜1500年と書いてありますが、
一般には実にでたらめですよね。2chの某スレッドで、ある少女マンガの
シリーズの紹介で「中世のイギリス」なんて書いてあったのは実は世紀末で、
切り裂きジャックのモチーフなんかも出てくる話、むしろホームズあたりに近い
服装してるのに、どうしてあれが「中世」に見えるんだと思いました。
 雰囲気のある昔のはなんでも中世にしてしまうんですよね。上記ローテンブルクも
「中世の宝石箱」といわれてますが、厳密には中世よりはあとの時代のものらしいし。

10カイザー:2004/04/25(日) 10:24
私が高校生の時の世界史の授業では、ヨーロッパの中世の定義はオドアケルに
よる西ローマ帝国滅亡(476)〜メフメト2世によるコンスタンティノポリ
スの陥落(1453)ということになってました。

古代と中世の境界というのは曖昧ですよね。
それこそ、カールやオットー1世の戴冠あたりを中世のスタートにしたってい
いぐらい。まあ、無理矢理古代→中世→近代(近世)なんて分け方をするのが
無茶なんですよね。

ローデンブルグの城壁って、中世以降に作られたんですか?宗教改革移行も、
農民戦争だとか30年戦争だとか、イヤな戦争はいっぱいあったんで、城壁の
必要性は十分にあったでしょうね。
でも、貞操帯をルネサンス以降も常用してたとしたら、イヤだなー、別に中世
でも、古代でもイヤなんですが。

11マッティアス:2004/04/25(日) 20:28
貞操帯と妙な拷問器具とは、使用されていた時期がかぶってますよね?確か。
いつの時代に使われていてもイヤなんですが、発想的には宗教的・道義的に不寛容な
時代ですよね。ああいうものが多用されるのって。

時代区分て、地域によってわかれますよね。中東は古代文明→ペルシア→イスラム→
近現代というカンジで教科書もわかれていましたが。中国は大体、隋唐あたりから中世
の枠組みにされてるカンジですよね。
にしても、ヨーロッパ史は他の時代に比べて中世がいちばんアバウトで長い気がします。

12カイザー:2004/04/25(日) 22:17
別に、古代とか中世なんてのを無理矢理に定義する必要はないような気もしま
すね。別に中世は停滞の時代だった訳じゃないし、ルネサンス以降も『中世的』
な慣習はいっぱいあったわけですから。
この間読んでた本に、新教派がグレゴリ暦の採用を拒否して、新教・旧教が混
在してる都市では、同時にユリウス暦とグレゴリ暦が存在してたりとかもあっ
たというようなことが書いていました。
宗教改革による新教と旧教の併存ってのは、ドイツにとっては中央集権を阻害
する最大の要因だったんでしょうね。

フランス革命やロシア革命まで、「ローマ帝国」という古代の権威に頼ってい
たのがドイツやロシアという、かつての蛮族だったのが皮肉というか何という
か。
あんまりこういうことは言われませんが、ローマ教皇領(バチカン市国)が、
現在でも生き延びてる最後のローマの後継国家なんでしょうね。

13マッティアス:2004/05/02(日) 22:36
時代区分はたとえ大雑把でも、教科書だったり書店のコーナーだったりと、便宜上
あるととても楽なんですよね。実はそれだけなんじゃないかと思わなくもないです。

ローマ教皇領をローマの後継国家と考えるのは、ちょっと抵抗はありますけども。
そう言われてみればそうなのかも知れないですね。う〜ん…。なにげに遺蹟とか独り占め
してるみたいですし。
ドミティアヌスの建造物が、教皇の私有地にあるとかなんとかいうような、いい加減
記憶があるのですが。それはともあれ、結構ローマ帝国時代に違った目的で作られたもの
をキリスト教関連の建物に変えたりして、密かに受け継いでいますよね。ローマは。

14カイザー:2004/05/03(月) 09:19
ローマ教皇庁は、間違いなく帝政時代から存続するローマの行政機関で、現存
する唯一の組織ですからね。しかも、中世ではローマ皇帝を任命する権限まで
有していたりとかしますし。
少なくとも、ロシア人がローマ皇帝を名乗ることがOKなら、ローマ教皇領が
ローマ帝国の後継国家だと主張するのに何の問題もないでしょう。

ヴェネチアにも第4回十字軍の時にコンスタンティノポリスからゲットしてき
た遺物があるみたいですね。ラヴェンナにも、サン・ヴィターレ聖堂にユステ
ィニアヌスやテオドラのフレスコ画がありますし、何と言っても古代→中世に
かけてローマの西方領土の中心だった所ですからね。
いつか、またイタリア行って、こういう所を見物してみたいですねー。

15マッティアス:2004/05/08(土) 00:09
長い事放置プレイしてすみません(笑)。
中世においてコンスタンティノポリスは聖遺物という観点からすれば、台湾の故宮
博物館のようなものだったのではないでしょうか?ローマが紫禁城で。
十字軍はバシレイオスにもムスリム国家にもいい迷惑でしたよねo(`ω´*)o
でも実は、第4回以降の時代になると、十字軍に行く事の虚しさとか、実はその遠征
自体が聖地を汚す行為に他ならないのではないか?なんていうテーマの歌を吟遊詩人
が歌ったりしてるんですよね。第4回がトラウマだったのか、第3回でのリチャード・
サラディン協定によってキリスト教徒の聖地巡礼は安全が確保されたからなのか。
はたまた、第3回以降、十字軍国家の衰退があまりにも著しくてイヤになっちゃった
のかはわかりませんが。

脱線してすみません。
ローマ教皇庁が宗教機関というだけでなく、最高の世俗的権威だというのが、何と
言うか政教分離してない時代なんだな、てカンジですよね。
まあ、最高司令官の呼称が“皇帝(元首)”から“教皇”になったと考えれば、教皇領
はローマ帝国の後継国家と考えてもおかしくないかも知れませんね。
キリスト教が国教化したのだから、最高神祇官(ポンティフェクス・マクシムス)が
教皇になったわけですもんね。
ロシアがローマ皇帝を名乗るのは、確かになんか違う。ハザールがユダヤ帝国という
のと同じくらい。

16カイザー:2004/05/08(土) 21:19
ロシア皇帝がローマ皇帝を名乗ってたのは、最期のローマ皇帝コンスタンティ
ヌス11世パレオロゴスの妹ゾエがモスクワ大公イヴァン3世の皇后であると
いうこじつけから、勝手に自称してるだけですからね。血縁も歴史的な繋がり
も皆無な、デタラメにも程がある話です。

カール1世のカロリング帝国やオットー1世の神聖ローマ帝国なら、ローマ教
皇による戴冠とか、コンスタンティノポリス政権の正式ではないにしろ不承不
承の黙認があったりと、それなりの手続きを踏んでるんですよね。
特にカール大帝の辿った、フランク王→ローマ皇帝のステップは、カール本人
はともかくローマ教皇レオ13世が、本気で新たなローマ皇帝を作り出そうと
したプロジェクトなんですよね。

こういう歴史的背景を考えると、ローマ教皇の権威が中世に渡って絶大であっ
たのは、当然といえば当然なんですよね。もちろん、民衆の素朴な信仰心とか、
教会による長年の愚民化政策とかも、あるんでしょうが。

17マッティアス:2004/05/09(日) 22:55
う〜ん…でも、イヴァン3世(←雷帝?その父くらい?)とゾエの息子は“ローマ皇帝”
を名乗るのはアリでしょう。百年戦争のときもカペー王朝の正統が途絶えた時に、
自分の母親がカペー家の出だったからという理由で、英国王がフランス王位の継承権
を主張したくらいだし。ゾエは息子を生んでないのでしょうか?

教会による愚民化政策はおそろしいですね。高度の文明を誇ったローマ帝国の生活or
文化水準に達するのを産業革命以降ですもん。ひいいいい。

18カイザー:2004/05/10(月) 23:00
100年戦争の頃のイングランド王は、フランスの有力諸侯ですからね。普通
にフランス王位を争うことが可能な立場ではないかと思います。

私も初期ロシア史がいまいち理解出来てないんで、おおざっぱな年表にしてみ
ました。

1243 バトゥ、キプチャク・ハン国を建設
1326 ロシア府主教座、ウラジミールからモスクワに映る
1328 イヴァン1世、モスクワ大公国を建設
1448 ロシア正教会、コンスタンティノポリス正教会より独立
1453 オスマン朝にコンスタンティノポリスが占領され、パレオロゴス朝が滅亡
1463 イヴァン3世、モスクワ大公に即位(〜1505)
1472 モスクワ大公イヴァン3世、パレオロゴス家のゾエ(ソフィア)と結婚
1477 イヴァン3世、ノブゴロドを占領
1480 イヴァン3世、キプチャク・ハン国の遠征軍を退ける(モスクワ大公国の独立)
1547 イヴァン4世、公式にツァーリの称号を採用
1581 イェルマークのシベリア征服

モスクワ=第3のローマというテーゼはイヴァン3世自身の考えではなく、エ
レアザル修道院とかいう所のフィロフェイという修道士がイヴァン3世、ワシ
ーリー2世らに宛てた書簡から見いだされるそうです。コンスタンティノポリ
スを初めとする他の正教会勢力が、全てトルコの手中に落ちるという危機的状
況からこのテーゼが受け入れられたようです。
ちなみに、雷帝はイヴァン4世ですね。イヴァン3世は、4世の祖父だったと
思うんですが、系図が手元にないんで確認出来ないです(汗)。
イヴァン3世やその他のリューリク朝の皇帝がゾエの血を引いているのかも、
手元に資料がないんでいまいち分からないです。

19マッティアス:2004/05/20(木) 00:18
私、一時期はイヴァン雷帝に興味もってたはずなんですが、記憶が見事なくらい消え
去っています。
年表ありがとうございます。
反論があるとすれば、百年戦争でイングランド王がフランス王位継承権を主張できた
のは、あくまで血縁関係があったからだと思いますよ。有力諸侯というだけでは、
多分王位を取る正統性が得られないと思うんですよね。
(例えば、ルイ14世が自分の孫だかひ孫を擁してスペイン継承戦争に乗り出したのも、
ハプスブルグ家との婚姻関係による血のつながりですから)
ロシアの場合は、コンスタンティノープルの皇帝の血縁であるゾエと血のつながりが
あったかは調べてみないとわかりませんが。皇后にした、ってだけでも義理の母子関係
が成立して、その流れと主張する事は、可能といえば可能なんだと思います。

20カイザー:2004/05/20(木) 22:45
もちろん、イングランド王エドワード3世がカペー家の血縁に連なるのは前提
条として理解していますよ。私が言いたかったのは、イングランド王には「カ
ペー朝の血筋」+「フランスの有力諸侯」という、フランス王位を主張する為
のダブルの条件があるということです。
それにプランタジネット朝とカペー朝の血縁関係の濃さとリューリク朝とパレ
オロゴス朝とのそれには、相当の差があると思います。エドワード3世の母親
イザベルがフィリップ4世の娘だというだけでなく、祖父エドワード1世の王
妃もカペー朝の出身です。エドワード3世はカペー家の一員だと、言えなくも
ない立場だからこそ、フランス王位を主張し、かつそれを受け入れた諸侯もい
たわけです。

もちろん、マッティアスさんが仰るようにゾエとイヴァン3世の婚姻だけでも
、ロシアがビザンツ帝国の相続権を主張するのは妥当というか、可能だという
のまでは否定しませんが。

イヴァン3世やイヴァン4世の比較としては、チンギス・ハンの子孫を自称し
モンゴル帝国の継承を目指したティムールあたりの方が、妥当であるような気
がしますね。

21マッティアス:2004/05/20(木) 23:16
ティムールについては、劉備並に強引だなあ、というイメージがあったんですが(汗)。
中央アジアの遊牧民とか中国とかって、わりに一旦国(王朝)が滅んでしまえば、実力
主義なイメージあるし、別に血縁なんて唱えなくてもなあ、という。

ロシアがビザンツの相続権を主張した背景には、何と言ってもほかに正教を国教とする
王朝がいなくなってしまっていたことが大きいとは思うんですけどね。
政教分離が完全ではない時代だと、教会(宗派)というものを中心に何とか国家の正当性
を持たせようとしそうですから。

プランタジネット朝は最初から、何か歪んだ王朝でしたよね。カペー朝の臣下と言い
つつ、領土は3倍以上で婚姻関係もある、というヤな家で。足利将軍と織田信長みたい
な関係ですかねえ。あるいは4代目以降の鎌倉将軍と執権みたいな。
フィリップ2世とジョン王の時代に、ようやく逆転あるいは同等くらいの力を持つの
ですが、フィリップ4世が王子を残さず死んじまいやがったのでねえ。

22カイザー:2004/05/23(日) 22:36
そういえば、いまいち分かってないのですが、ゾエは何でロシアに何かいたん
でしょうかね?
昔はコンスタンティノポリスが陥落する前から、イヴァン3世とゾエは結婚し
てるのかと思ってましたが、コンスタンティノポリスはおろかコムネノス朝の
生き残りのトレビゾンド帝国までトルコに滅ぼされた(1461)後の話なん
ですよね。

十字軍に夢中になったリチャード1世と、ヘンリー2世時代から続く、リチャ
ード、ジェフリ、ジョンといった王族同士の内乱があればこその、フィリップ
2世の巻き返しですね。
仮にプランタジネット朝がフランス全土を制圧したとしても、大陸派とイング
ランド派に分かれて、フランク帝国みたいに解体しちゃってた気がします。こ
んなこと言うと、ちょっとジャンヌ・ダルクが無駄死に思えてきます。
・・・・ファンの人、ごめんなさい。

23マッティアス:2004/05/24(月) 19:20
私もジャンヌ・ダルクは好きなんですが、別に意見に腹は立たないですよ。
プランタジネット家の本拠地は、どちらかというと大陸なんですよね。リチャード1世
なんかはイングランド滞在が在位中合計半年にも満たないし。ブリテン島自体が、ヘンリー
2世のときでしたっけ?プランタジネット朝が正式に領有したのって。意外と歴史が
浅いのですが、あのときはブリテン島の王室が途絶えて、多少なりとも血縁があった
プランタジネット家当主のヘンリー(アンリ)がイングランド王に名乗りを挙げたんだ
と記憶しています。←捻じ曲がってる可能性大ですが。

リチャードが十字軍に夢中になった挙句、他の領主の恨みを買って帰国途上で幽閉された
りしなければ、フィリップもあそこまで好き勝手できなかったでしょうね。ていうか、
実際には、リチャードが帰国してから連戦で、フィリップはかなり命からがら逃げて、
奪った領土のほとんどを奪い返されたんですよ。リチャードがうっかり流れ矢に当たって
くれなかったら、フランスはかなりやばかったですね。ジョンも大陸ではフィリップに
大負けしてますが、イングランド(ブリテン)本土では負けてないんですよね。実は。
イングランド王ジョンが窮地に立たされたのは、リチャードが戦と築城が大好きで、
あとは幽閉された際の多額の身代金とかで、財政が逼迫していた状況下で王位についた
からなんですよね。ジョンって可哀想。

24カイザー:2004/05/25(火) 01:36
よく知らなかったのですが、フィリップ2世ってジョンとの戦争でイングラン
ドに渡ったりしてたんですか?リチャードと結んでヘンリー2世と戦ったりと
かもしてた筈ですし、まるっきり戦争が出来ないなんてこともなかったんでし
ょうね。
そういえば、ジョン様には泣き虫ジョンという事実に裏打ちされた渾名があっ
たとかいう話を聞いた記憶が微かにあるんですが、本当なんでしょうか?

プランタジネット朝の出自はいまいち分かってないんですが、イングランド王
位を手中にしたのはヘンリー2世からになりますね。征服王ウィリアム1世の
曾孫にあたるそうですが、系図が分かんない(汗)。
ヘンリー2世までのプランタジネット(アンジュー)家は、それほどの領土は
なかったみたいです。ヘンリー2世一代で、イングランドと大陸の広大な領土
をゲットしたみたいです。

25マッティアス:2004/05/26(水) 23:54
ヘンリー2世の父、ジョフロア・ダンジューも美男子でそれなりにやり手だったような
気もします。ていうかフィリップ2世の父、ルイ7世がダメダメなんですが。
ルイ7世王妃→ヘンリー2世王妃となったアリエノール・ダキテーヌがものすごく大きな
領土の継承者で、だから彼女との結婚は大陸の領土拡大に影響を持っていて、不仲に
なっても幽閉したりするだけで、近親婚を理由とした離婚に踏み切れなかったんですね。
アリエノール自身も自分の領土や財産があるから、息子達(お気に入りはリチャード)
と組んで陰謀をめぐらしたりなんなりできたのですが。

フィリップ2世は王位についたとき15歳で、序盤は老獪なヘンリー2世に苦戦していた
のですが、息子達と父王がもめまくっていたおかげで、その間に政治的駆引きやら、
戦争の経験を積めたんですよね。
リチャードとフィリップよりもジョンとフィリップのほうが年齢は近いんですが。経験
の差が大きいんですよ。
ジョンに“泣き虫”なんてあだ名があったのは初耳ですが、あってもおかしくはなさそう。
末っ子だし美男子だしで、うまいこと父王の愛顧をこぎつけた辺り、絶対泣き落としとか
あった気がします。

26カイザー:2004/05/30(日) 10:08
確か、ヘンリー2世は大陸でリチャード・フィリップ2世連合軍との戦争中に
陣没しちゃったんですよね。この過程で、リチャードがフィリップに臣従とか
してたのが、ややこしい中世の英仏関係を象徴してますね。
ジョンなんかも、リチャードにちょっかいを出してる最中にフィリップ2世に
臣従してそうですね。いや、よく知らないですけど(汗)。

大陸との関係でゴチャゴチャしまくってたイングランド史は漠然と理解はして
いるのですが、近隣のウェールズだとかスコットランドだとかアイルランドの
歴史というのが、完全にちんぷんかんぷんです。
大王クヌートなんかは、スコットランドなんかも支配下においてたんでしょう
かね?

27マッティアス:2004/06/01(火) 22:15
私もピンポイントでしか記憶がないです。てか、本を読んでいない気がします(爆)。
リチャードに限らず、ヘンリー2世の王子達は父やら兄弟やらと対立する度に、仏王
と同盟を結ぼうとして、ルイ7世かフィリップ2世に臣従しているはずです。
しかしクヌートとかノルマンディー公ウィリアムとか、見事にわかりません(汗)。
いいのか、それで?

で、話を久方ぶりにローマに戻すと、スコットランドがローマの支配下にあったのって、
多分、ブリタニア総督アグリコラがイケイケGO!GO!作戦で頑張ってた頃くらい
ですよね?あれ?ハドリアヌスの頃まででしたっけ?
これまた記憶が曖昧でやばやばですが。この辺りに詳しいと、サトクリフのローマン・
ブリテン4部作が面白く読めるんでしょうね。

28カイザー:2004/06/05(土) 16:32
多分、ローマ史でブリタニアの最深部に侵攻したのは、アントニヌス・ピウス
の時代ではないかと思います。ブリタニア総督ロルカが築いたアントニヌスの
長城は、ハドリアヌスの長城よりさらに北に位置するんですよね。
もっとも、アントヌス・ピウスの時代の後半には、アントニヌスの長城もハド
リアヌスの長城も放棄されて、ブリタニア北部の直接統治は止めてしまったよ
うですが。

アフリコラの総督時代は、多分、ブリタニア南部の完全制覇までで、そこから
スコットランドやアイルランドに手を伸ばそうとして、ドミティアヌスにダメ
を出されたのだと思います。いや、ちゃんと知ってるわけではないですが。


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