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Vikipediaを訳そう

28Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/11/16(金) 21:43:34
(>>17から続く)
禁止と第二次世界大戦

労働者エスペラント運動に対する妨害は以前に存在した。1930年代にはドイツ
とポルトガルで中立的エスペラント協会も禁止されるに到った。ソ連でもエスペラ
ンティストはもはや組織を持てなくなった。第二次世界大戦は特に1940-194
4の間に運動に更に打撃となった。中立国や非交戦国でも戦争は例えば若い男が召
集されるという帰結を持った。

冷戦の中のエスペラント1945-1989

戦後の短期間だけ東ヨーロッパのエスペランティストは国別の運動を再組織する権
利を持った。すでに1949年、共産主義独裁が強固に確立したときそれらの国別
の運動の多くは活動を停止しなければならなかった。1953年のスターリン死後
にやっと状況は改善されたが、一つ一つの国では国別協会の再結成は長い年月の後
に許可された。それらの諸国の協会がUEAに加入することができるまでには充分長い
年が経過した。例えばソ連はやっと1989。

東ヨーロッパの協会の復帰(1955年ごろまたはその後)の後、運動は東でも西で
も支持を持った。人々は骨を折って可能な限り共同し共産主義独裁における問題に
もかかわらず関係を持った。たとえば、世界大会は何回か共産主義国で開催された。最初のケースは1953年ユーゴスラヴィアのザグレブだった。ソ連圏で開かれた最初のUKは1959年のワルシャワ大会だった。その後ほぼ4回毎にUKは東ヨーロッパの国で行われた。

この時期に中国でも南半球でもエスペラントは強化された。それは1970年代に
例えば複数の南米諸国の協会のUEA加入に見られた。1981年には南半球すなわち
ブラジリアで初めてUKが開かれた。

技術の発展はオーディオディスクの製造を低コストにしたのでエスペラント音楽を
利した。1970年代にコンパクトディスク(オーディオカセット)が出現し、19
80年代にはコンパクトディスク(光デイスク)が出現した。

ベルリンの壁倒壊後のエスペラント(1989-)

1990年代初めに東ヨーロッパが共産主義から解放されたことは東ヨーロッパの
エスペラント協会にとって新しい時代を意味した。そのときからそれらはもはや国
家に資金援助されたプロパガンダの道具ではなく自由な市民の協会となった。

インターネットが一般大衆の通信手段として立ち上がり、エスペラント共同体を利
した。エスペラントの通信と広報のかなりの部分がインターネットでだけ行われて
いる。2007年ポーララジオは地上波のエスペラント放送を終えてインターネッ
トに移行した。
(*本文訳完)


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