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15
:
Raku
◆yP0a9GGqWA
:2007/11/07(水) 06:22:19
(*
>>10
から続く)
歴史的鳥瞰(*本文無し)
最初期の構造("ロシア""フランス"時代)
新言語の最初の募集書は1887年7月にルドヴィック・ラザル・ザメンホフ(*原
文ではLudoviko Lazaro Zamenhof)がワルシャワで発行した『第一書』だった。事
実上は40ページの小冊子だけが問題だった。『第一書』その他の募集書をザメン
ホフは配布し、また雑誌に広告を掲載した。
新しいエスペランティストたちを結び合わせるために彼は住所録を出版した。18
89年の最初の住所録には既に100人が含まれていた。但し、その全員が必ずし
もエスペラントを(うまく)話したわけではない。とはいえこの控えめな数が示して
いるようにザメンホフは単にかれの事業を公開しただけではなくてその最終的勝利
を期待していたが、多大の金と時間を投じた。住所録は後に年鑑になった。
1888年末、ニュールンベルグ(ドイツ)のヴォラピュック会がエスペラントに移
った。ニュールンベルグ市民とともにザメンホフは『ラ・エスペランティスト』誌
を出版した。それは新言語のメンバーの最重要な紐帯となった。そして今ではこの
時期の重要な資料である。寄付のおかげで事業は継続できたが、1895年ロシア
の検閲は短期間この雑誌のロシアへの持込を禁じた。世界に定期刊行物を供給する
という任務はウプサラの若いスェーデン人が引き継いだ:『リングヴォ・インテル
ナツィーア』。
1894年に運動を去ったニュールンベルグの会の他に幾つかの個別的な会が例え
ばモスクワ、ぺテルグルグ、シャルケ(現在はゲルゼンキルヒェンの一部)に存在し
た。一般に運動の成長はゆっくりだった。
1898年、フランスのエスペランティスト、ルイ・ド・ボーフランがフランス語
協会(1903年に自ら事実上フランス語(*原文ではfranca)を称した)。そこには
非フランス語諸国のメンバーも入っていたが、機関紙L'espérantisteはほとんど
フランス語だけで書かれていた。宣伝家ド・ボーフランに人々は知識人例えばテオ
フィル・カールやカルロ・ブールレやイポリット・セベールの募集をも断定(*この
訳未定。原文はaljuĝas)している。
(*続く)
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