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聖イエス会金沢教会【カルト的・異端的・危険団体・洗脳教育】

1名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 22:59:42 ID:H.3.lmGc0
作詞:聖イエス会教祖様(聖イエス会創立者)

時の流れははやく 終末は迫り
しののめが近いと みな告げしめす
神の期待に われらは こたえん。
メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。

十字架の旗のもと 決意も新たに
いのちにはいのちを 愛には愛を
心燃えたち われらは こたえん。
メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。

新しいエルサレム ゴールをめざして
ハシッドの召命 神化の道を
ただひとすじに われらは こたえん。
メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。

神のビジョンを見つめ 聖霊に燃えて
新しい歴史と 輝く未来
メシヤの世紀 われらは 開かん。
メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。
↑「終末」「神のビジョン」…カルト的ソング???

2名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:01:06 ID:H.3.lmGc0
聖イエス会情報スレ
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/729/1541499057/
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/729/1541588780/

3名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:07:58 ID:H.3.lmGc0
聖イエス会金沢教会
http://kanazawachurch.org/

4名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:08:39 ID:H.3.lmGc0
曲名:神のことば
作詞:主の十字架クリスチャンセンター関係者??
神のことばに従い
進み行こう
今 ゼロから
歩き出そう
主のみことばから
始めよう
たとえどんなに
行く道 閉ざされても
共におられる主は
いつも新しい道を開く
十字架で贖われた
我らは主のもの
主のみ声に聞き従い
どこまでもついて行こう
後の雨が全地に降り注ぎ
リバイバルが訪れる
神の恵みが全地に
満ち溢れ
大いなる主をあがめる
https://www.youtube.com/watch?v=VRtZvOX_fs8
https://www.youtube.com/watch?v=1pPOonttTM4
https://www.youtube.com/watch?v=zPm9ZMKGiFs&feature=youtu.be

5名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:09:15 ID:H.3.lmGc0
曲名:神のことば
作詞:主の十字架クリスチャンセンター関係者??
(つづき)
神のことばは
必ず成就する
遅くなっても待ち望め
まぼろしを書き記せ
主がくれた勝利の剣
収穫のために
みたまの力
注ぎたまえ
栄光は主イエスにあれ
後の雨が全地に降り注ぎ
リバイバルが訪れる
神の恵みが全地に
満ち溢れ
大いなる主をあがめる
https://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=c7rzsUZEgUM
http://astone.tv/events/silver201709z/page/52/
https://www.youtube.com/watch?v=th0cCN_ECrs

6名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:09:50 ID:H.3.lmGc0
★細分裂★ホーリネス系スレ.6★不祥事★
https://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1263630486/
170 :一つの川:2010/12/13(月) 19:43:26 ID:HuNLQdfK
>>聖イエス会の悪質なところは、
>>考える力のない子供に、「天国行きの切符である聖霊を受けないと、天国に入れない」、
>>とか、「永遠の滅び」とかの言葉で恐怖を、人格の深いところに植え付けるところにある。
>>それで、神様の言葉を語るとする牧師に決定的な従属意識を持ってしまう。
>>だから、その子供が大人になっても、献金がどんなにキツかろうが、抜け出す事が出来ないんだ。
>>この教団、特に、子供を集める事に熱心だし、うまい事ばっか云うので、親も騙されてしまう。
>>未来のある、少年/少女には、大槻家一派のために、人生を誤って欲しくない。

7名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:13:19 ID:H.3.lmGc0
聖イエス会 聖職者のツイッター
https://twitter.com/hiro4097
気になるツイッター↓
https://twitter.com/dryacca/status/1001855285869166593

8名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:13:58 ID:H.3.lmGc0
>>♪聖イエス会の歌(セイイエス)


>>よけいなものなど買うなよ すべてが君と神との愛の契約さ
>>少しくらいのうそやわがままも まるで君を試すような
>>救済の条件になる このまま教会で終末臨んで
>>何気なくささげないか
>>神には金で応じあおうよ 戒律破りにならないように
>>何度もいうよ 残さず出せよ 金があふれてる

>>奉仕は金を超えない とても仕えたとしても金には勝てない 
>>神に会いたくて会えなくて 薄い財布金出せと
>>迫られて破産手続き このまま教会で終末臨んで
>>いつまでもささげないか
>>神には金で応じあおうよ 金の手触り消えないように
何度もいうよ 神は確かに金を愛してる

>>金を出せ 聖イエス 金を出せ 聖イエス

9名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:14:31 ID:H.3.lmGc0
聖イエス会【聖職者・信徒】研究資料・教材
他の教団
Gospel Station Tokyo 22 やすらぎの歌ベスト盤特集です。
「大雨を降らせ」など
https://www.youtube.com/watch?v=diSSErXIkjI&list=PLcsLLJebSYFZ1kHTbJlXMWw0PwauIm67k&index=13

10名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:15:15 ID:H.3.lmGc0
聖イエス会【聖職者・信徒】研究資料・教材
他の教団
2017/1/8 日曜第一礼拝 
主の十字架クリスチャンセンター/柏教会
https://www.youtube.com/watch?v=o83z_ipyGs8

11名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:17:13 ID:H.3.lmGc0
聖霊派のクリスチャン
https://twitter.com/snowman891
聖イエス会チラシ
https://twitter.com/search?q=%E8%81%96%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E4%BC%9A%E3%80%80%E3%83%81%E3%83%A9%E3%82%B7&src=typd

12名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:20:24 ID:H.3.lmGc0
聖イエス会 某プリントより 1999年09月01日発行分より
聖イエス会が記述した弁解 文章はほぼそのまま引用
聖書の終末預言
「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(使徒行伝2・20〜21、新共同訳)
「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」(エピソ人への手紙1・13〜14、新共同訳)
「主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(使徒行伝2・20〜21 新共同訳)
プリントには使徒行伝と記載されていました。新共同訳聖書は「使徒言行録」です。
ゴスペル賛美 世界の終わり
https://www.youtube.com/watch?v=yJhGiVXw9zQ
■聖書は歴史の時刻表■
 一九九九年の「七」の月は無事に過ぎ去りました。以前から言い続けてきましたように、七月に人類が滅亡するということはありませんでしたし、来年二〇〇〇年に世界に終末が来るということもありません。どうかご安心ください。
 なぜ確信をもってそう断言できるかと申しますと、天地宇宙を創造された、唯一のまことの神の言葉である聖書には、そのようなことは何一つ書かれていないからです。
 聖書には重大な預言がたくさんあり、世界の歴史は、聖書の預言どおり正確に進んで来ていることは、聖書を学んでいる人ならだれでもよく知っています。聖書は最も信頼できる神の言葉であり、また歴史の時刻表です。
 聖書はもちろん、世界の終末について、いかなる書物よりも多く、また具体的に預言しています。しかし、一九九九年七月に人類が滅亡するとか、二〇〇〇年に世界が終わりを迎える、ということは言っていません。
 確かに、聖書の中に千年王国時代のことが預言されていますので、ある人々は、一〇〇〇という数字にこだわります。そのために、紀元九九九年にも、反キリスト(偽メシヤ)が現れ人類が滅亡するとか、世界の終末が来ると騒がれ、大パニックが起こったことがあるのです。一九九九年にも同じ心理が働いて、同じようなパニックが起こっているのです。
 世紀末にはおいては、これからもさまざまな終末論が登場し、人々を不安に陥れることになるでしょう。
 そこで、今日は最も確かな「聖書の終末論」についてできるだけわかりやすくお話ししたいと思います。

13名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:20:54 ID:H.3.lmGc0
■「予言」と「預言」■
 まず最初に、「予言」とか「終末」とか一口に申しましても、一般に言われている「予言」や「終末」と、聖書の場合では全く意味が異なるのです。
 一般に「予言」という場合、「予」という字は、「予め」という文字、天気予報とか予想の「予」をつかいます。これは予知能力によって何かを前もって予告するという意味です。
 ある程度の予知能力をもった人間というのは歴史上何人も存在しました。ケーシーやノストラダムスなどは特に有名です。しかし、人間の予知能力とか霊感というものは、個人の性格や感情、置かれた環境に左右されるので、確実なものとは言えません。
 ご承知と思いますが、ノストラダムスはカトリックに改宗したユダヤ人でした。ですから彼の思想の根底には、旧約聖書、新約聖書、ユダヤ人の神秘主義であるカバラがあります。
 その上に、占星術(星占い)が加わり、しかもフランス人でもわからない、古代のフラン語(?)で書かれているので、専門の研究家たちも、ほとんどわからないと告白しています。専門家でもわからないものを、全くこれらのバックグランドも知識も持たない日本人の解説者が、わかったような解説をして世間を騒がしているわけです。事実、ノストラダムスの予言は、事が起こったあとから、この事件は、あの予言の実現だというようにこじつけて解釈されてきたのです。
 ここで、一番警戒しなければならないのは、人間の予知能力や霊感にはしばしばサタン(悪霊)が絡んで、人々を惑わし、滅びに導くということです。
 以上が、一般の「予言」、「予め」という字の「予言」ですが、それと対照的に、聖書の「預言」は、「預ける」という字、預金の「預」という字を用います。
 これは、預言者が神様から預かったメッセージという意味で、預言者自身の個人的な感情や予知能力などとは無縁のものです。
 聖書の預言は、神様から重大なメッセージを預かった預言者が、それをそのまま人間に伝えたものなのです。ですから、どちらが信頼性があるかは、申し上げるまでもありません。
 残念ながら日本では、一般に聖書の知識が浸透していませんので、聖書の預言はことごとく世界の歴史の中に実現してきているという事実が、余り知られていません。
 その実例はあまりにも多く、それだけでも何冊もの本になるほどです。限られた紙面ではとてもすべての預言に触れることはできませんが、例えば、世界を支配した国々の発生から滅亡まで、また、世界の救世主となられるイエス・キリストの誕生から贖罪としての十字架の死、復活、そして聖霊の降臨まで、それらは、微にいり、細に至るまで、逐一預言通りに実現しています。
 また、終末時代に関する預言も、現代において次々と実現・成就しています。聖書は、歴史の時刻表といっても過言ではありません。

14名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:21:34 ID:H.3.lmGc0
■「終末」の意味■
 次に、注意したいことは、「終末」または「終末時代」という言葉の意味が、一般の「予言」と聖書の「預言」では全く異なるのです。
 一般に、「終末」といえば、人類の滅亡、地球の崩壊、すべての終わりという意味で使われています。
 しかし、聖書の場合は、一つの時代の終わりと共に、新しい時代の始まりを意味しているのです。
 一つのわかりやすい例として、学校の卒業のことを考えてみましょう。中学校を卒業する人は、確かに、親しい友達や先生たちとの別れという寂しい経験をしますが、それがすべての終わりとは考えていないのです。
 確かに中学という一つの時代は終わりますが、その後にすぐ、さらに、夢多き、希望に満ちた高校時代が待っているので、絶望することはありません。
 英語で、卒業式のことをコメンスメント(COMMENCEMENT)と言いますが、これは終わりという意味ではなく、物事の始まりを意味する言葉なのです。
 聖書で言う「終末」は、まさにそれで、すべてが滅亡して無に帰するのではなく、一つの時代の終わりと共に、新しいさらに輝かしい時代の始まりを意味しているのです。
 聖書の言う「終末」には希望と喜びが満ちていますが、ノストラダムスをはじめとする、一般の予言には夢も希望もありません。そこにあるのは、ただ絶望も恐怖だけです。そこが、同じ終末という言葉を使っても、一般の予言と聖書の預言が全く違うところなのです。
■「主の日」■
 さて、聖書では歴史を二つの時代に区分しています。それは、「今の世」と「きたるべき世」の二区分です。イエス・キリストご自身も、使徒たちもそのように表現しました(マタイによる福音書12・32、ルカによる福音書18・30、エペソ人への手紙1・21、テモテへの第一の手紙4・8)。

図表をご覧下さい。(プリントの図は省略します。)この二つの時代を区分する日が「主の日」なのです。
 これはヘブル語では、「ヨム・ハフー」また「ヨム・アドナイ」と呼ばれ、時代を分ける決定的な日を意味しています。
 その決定的な日をもって、「今の世」が終わり、「きたるべき世」がスタートするのです。
 その日こそはメシヤが来られる日、キリストの地上再臨の日と、聖書は言っています。復活し、昇天されたキリストが再びこの地上にお帰りになる日です。
 このイエス・キリストの再臨について、聖書は三百六十回以上預言しています。聖書の預言は、ただ一度しかされていないものでも、ことごとく歴史の中に実現・成就してきましたので、三百六十回以上も預言されていることについては疑う余地はありません。

15名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:22:26 ID:H.3.lmGc0
■「終末時代」の三つのしるし■
 その決定的な「主の日」が近づくある期間を、聖書は、「終わりの時」、「終末時代」と呼んでいます。
 それでは、世界の歴史が、「終末時代」に入ったかどうかは、何によつてわかるのでしょうか。聖書の預言を調べますと、三つのしるしがあることがわかります。
 第一は、核兵器の出現です。聖書の時代にはもちろん核兵器という言葉はありませんが、何億という人間を一瞬にして殺戮(さつりく)する恐るべき火について預言しています。これは、一九四五年に原子爆弾の出現によって現実となりました。
(ヨハネの黙示録9・18など)
 第二は、イスラエル国の再建です。聖書は、長い世紀にわたって国を失い、世界に離散していたユダヤ人が、終末時代に父祖の地パレスチナに帰って来て国を再建し、その国の名をイスラエルとすることが預言されています。これもすでに、一九四八年に実現・成就しています。
(エゼキエル書 37〜38章など)
 第三は、エルサレムの統合です。神の都と呼ばれるエルサレム、神がご自身の聖なる名を置くと宣言された世界でただ一つの町エルサレムが異邦人の支配から開放されイスラエルに帰することです。二つに分かれていたエルサレムが一つになることです。これも、一九六七年に実現しました。(ヨハネの黙示録11章、ゼガリヤ書12章など)
 この三つのしるしが出そろった今、歴史は間違いなく「終末時代」に入っているということになります。

16名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:23:18 ID:H.3.lmGc0
■「艱難時代」の三つのしるし■
 この「終末時代」の最後の七年間、「主の日」の前の七年間を、特に「艱難(かんなん)時代」と呼んでいます。
 それは、この期間が世界と人類にとって非常に厳しく、苦しみに満ちた苛酷(かこく)な時代となるからです。
この時代、人間の欲望と堕落が極限に達し、道徳は地に落ち、犯罪は日常茶飯事となり、また、いたるところで紛争が起こり、ついには、地域的な核戦争も起こるでしょう。人間の自然破壊による洪水、干ばつが頻発し、世界的な大飢饉となります。性道徳の堕落が原因となる恐ろしい病気が蔓延することも預言されています。
 そして、最も恐ろしいのは、サタンの悪霊による人間支配です。もちろん、現在においても、戦争や犯罪、不道徳すべての罪の背後にはサタンの力が働き、人間を滅びへと導いているのですが、この時代には、サタンの力が強烈に働くので、人間の意志や頑張りでは到底抵抗できないことになるのです。
 聖霊を受け、神様に守られている人は、サタンの攻撃にも勝利することができますが、聖霊の力がなければサタンの思うままに操られてしまうのです。
 それでは、「艱難(かんなん)時代」に入ったということは、何によってわかるのでしょうか。これも三つのしるしによって判断することができます。
 第一は、エルサレムに神殿が再建されることです。紀元七〇年に、ローマ軍によって破壊された神殿が再建され神殿の祭儀が復活することです。(テサロニケ人への第二の手紙2章、ヨハネの黙示録11章など)
 第二に、反キリスト(偽メシヤ)が現れ、神殿に座し、すべての人に礼拝を強要することです。
 第三に、世界の国々がエルサレムを再びイスラエルの手から取り上げようと、エルサレムに攻撃をしかけることです(ゼカリヤ書12章など)。これがハルマゲドン戦争の引き金となるのです。
 以上の事実によって明らかなことは、現在わたしたちは、もう既に、終末時代には入っているが、まだ「艱難(かんなん)時代」には入っていない時点に立っているということです。
 いずれにしても、わたしたちは「艱難(かんなん)時代」に非常に近づいているのです。日々のニュースで見聞きする戦慄するような出来事は、まさしく「艱難(かんなん)時代」の前兆と言えるでしょう。
 それゆえ、今、わたしたちにとって一番大切なことは、この厳しい時代をパスして、輝かしい「主の日」を迎え、すばらしい時代に、喜びをもって入ることができるように準備をすることです。備えあれば憂いなしです。

17名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:23:58 ID:H.3.lmGc0
■聖霊の証印■
 さて、わたしたちが輝かしい千年王国、新天新地、永遠の神の御国に入るためには、不可欠の条件があります。
 それは、「聖霊の封印」を受けているということです。それはちょうど、海外旅行をする時、パスポートが必要であり、自分が入りたい国のピザが必要なのと同じです。
 もう一度、はじめに読みました、エペソ人への手紙第一章十三節以下の御言葉に注目いたしましょう。
 「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」
 以上の御言葉は、わたしたちが神の国に入るための保証、絶対に無くではならぬものは、「聖霊の証印」であると宣言しています。
 それでは、「聖霊の証印」とは何でしょうか。印には何が刻まれているのでしょうか。日本人ならすぐわかります。それは名前です。
 わたしの印にはわたしの名前が刻まれています。「聖霊の印」とは神の名、御名のことです。
 聖霊を受けるということは、「我は主なり」「神は愛なり」という神の御名を、心に刻まれることです。
 ですから、聖イエス会のすべての教会では集会ごとに、「神様の御名を呼び求め、聖霊を受けなさい」と強調されているのです。
 預言者ヨエルもこう預言しています。
 「主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(使徒行伝2・20〜21 新共同訳)
ゴスペル賛美 「世界の終わり」 https://www.youtube.com/watch?v=SPfNIkRdU5A
【プリントには、使徒行伝と記述されていました。使徒行伝ではなく、使徒言行録の間違いです。新共同訳聖書で確認を。】
 愛する皆さん。今日、「聖霊の証印」をいただくために、心から主イエス・キリストをまことの神様、救い主様と信じ、真剣に主の御名を呼びましょう。
 神は約束されました。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」と。
 聖霊来てください! 聖霊来てください!
「今より、我は主なり!」…プリントには聖イエス会おなじみの御名が記載されていた。

18名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:24:40 ID:H.3.lmGc0
■永遠なるものを求めて■
 はじめに申しましたように、一九九九年「七」の月に、人類が滅亡するとか、二〇〇〇年に世界は終わるということはありません。
 しかし、このことは知っておかねばなりません。
 すべて目に見えるもの、物質には限りがあるということです。いつか終わりがくるという厳粛な事実です。
 あなたの体、あなたの家、あなたの車、あなたの財産、すべて限りがあり、必ず終わりがあるということです。
 しかし、終わりのない永遠なるものが存在します。神は永遠なるお方です。聖霊の証印も永遠のものです。神の国も永遠です。
そして、あなたの霊魂も永遠です。あなたの肉体には限りがありますが、霊魂は永遠に存続します。
 わたしたちにとって最も重大なことは、わたしたちの霊魂が、永遠という無限の時を、どこでだれと過ごすかということです。
最近のアンケート調査によりますと、現代人の最大の関心事は、老後の十五年か二十年を、だれとどこで生活するかということだそうですが、しかし、みなさん、永遠という終わりのない時を、どこでだれと過ごすかということはもっと大切な問題です。
 あなたは、神の国に入るためのピザ、聖霊の証印をもう受けたでしょうか。これだけが無くてならぬ唯一のものです。明日と言わず、そのうちにと言わず、今日、今という最も確実な時に、聖霊の証印を受けましょう。
 主は言われる、
「きょう、わたしの招きの声を聞いたなら、あなたの心をかたくなにしてはいけない。」
(へブル人への手紙3・7〜8参照)

19名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:25:25 ID:H.3.lmGc0
「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。」
(コリント人への第二の手紙6・2)
「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」
(使徒行伝2・21、新共同訳)
※正しくは、「使徒言行録」です
「今より、我は主なり!」…プリントには聖イエス会おなじみの御名が記載されていた。

プリントには記載はありませんでしたが、
「我は主なり」のところ
イザヤ書 43:13 文語訳聖書 
今よりわれは主なりわが手より救ひいだし得るものなし われ行はば誰かとどむることを得んや
口語訳聖書
「わたしは神である、今より後もわたしは主である。
わが手から救い出しうる者はない。
わたしがおこなえば、
だれか、これをとどめることができよう。」
新共同訳聖書
「今より後も、わたしこそ主。わたしの手から救い出せる者はいない。わたしが事を起こせば、誰が元に戻しえようか。」

20名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:26:06 ID:H.3.lmGc0
聖イエス会【聖職者・信徒 ◇参考資料・教材◇】
聖書塾動画 創世記24:1
https://www.youtube.com/watch?v=YERmUXntR3g

献金の祈り(讃美) 大波のように…聖イエス会作成のオリジナル讃美ではありません。
https://www.youtube.com/watch?v=AnsbelQKqRQ

日本基督教団発行の讃美歌集(古い本)に「大波のように」がのっています。
1991年10月1日 47版発行 (日本基督教団讃美歌委員会)
讃美歌第二編171番「大波のように」作詞者不詳、作曲者不詳 (名前あり)訳

主をほめたたえよ〜新世紀さんびか〜 (聖イエス会発行) 2001年4月1日初版発行
21番 大波のように

カトリックの十字架とプロテスタントの十字架の違いについて (特に聖イエス会の信徒さん ネット(Googleなど)で検索・確認を)
イエス・キリストと十字架:カトリック
十字架のみ:プロテスタント

聖イエス会の一部の教会は、十字架にイエス・キリストの磔刑像が付けられている。
例えば、URL http://growupintoxp.wixsite.com/seionoch
    URL http://www002.upp.so-net.ne.jp/taibouch/details1.html
    URL https://gifuchurch.themedia.jp/posts/3469293
http://akenohoshi-ch.sakura.ne.jp/wp/%e6%98%8e%e3%81%ae%e6%98%9f%e6%95%99%e4%bc%9a%e3%81%ae%e8%a1%8c%e4%ba%8b/

21名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:26:36 ID:H.3.lmGc0
讃美「神の家族」【1】…聖イエス会の信徒さん…参考に
https://www.youtube.com/watch?v=bJLAnGsA2Uw
https://www.youtube.com/watch?v=Ez_0mvugNQU
https://www.youtube.com/watch?v=jshLe0AwVBo

22名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:27:09 ID:H.3.lmGc0
讃美「神の家族」【2】…聖イエス会の信徒さん…参考に
https://www.youtube.com/watch?v=NNrk7fhnN9g

23名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:27:46 ID:H.3.lmGc0
聖イエス会の資料より 某信徒からプリントを頂きました。
キリストの名号
Q 浄土宗では「南無阿弥陀仏」という六字の名号を唱えるですが、
キリスト教で唱える名号は何ですか。
牧 神には十二の御名があり、その中のどれを唱えてもよいのですが、
一番よく唱えられ、また初めての方にも覚えやすい御名、「我は主なり」
を紹介しましょう。・・・・

24名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:28:16 ID:H.3.lmGc0
作詞:聖イエス会初の女性牧師(創業家の親族) 現聖イエス会スミルナ教会牧師 (某信徒さんの証言より)

みもとにひれふす …    …部分省略
みもとにひれふす …    …部分省略
イエスは 言われた
「わたしのこころだ きよくなれ
われは主なり われは主なり。」


み衣にさわる 病める人
み衣にさわる 病める人
イエスは 言われた
「信仰のように なりなさい
われは主なり われは主なり。」


あなたはわたしを だれという
あなたはわたしを だれという
ペテロは 答えた
「あなたは キリスト 生ける神」
「われは主なり われは主なり。」

25名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:28:51 ID:H.3.lmGc0

桑の木の上の ザアカイに
桑の木の上の ザアカイに
イエスは 言われた
「あなたのところに 泊まりましょう
われは主なり われは主なり。」


十字架の上の 罪人に
十字架の上の 罪人に
イエスは 言われた
「わたしと一緒に 天国へ
われは主なり われは主なり」


わたしの傷に ふれなさい
わたしの傷に ふれなさい
トマスは 答えた
「アドナイ わが主よ わが神よ」
「われは主なり われは主なり。」


終わりの時が やってくる
終わりの時が やってくる
イエスは 言われた
「わたしを信じて み名を呼べ
われは主なり われは主なり。」

(最後に)
「われは主なり われは主なり。」

26名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:30:21 ID:H.3.lmGc0
ある人から新たに同じメモを入手しました。
全国の聖イエス会の共通の心得ではありません。
会員心得は、信徒さんと相談なしに作成されたプリントの
ようです。
会員心得をよく読むと、「心得」というよりも
「命令」(〜しなければならない、務めを果たすこと
…義務的な表現)になっている気がしますが。

聖イエス会姫路教会の会員心得
一 会員は聖日を厳守して礼拝を守り、
その他の集会にも努めて出席すること。
◎聖日は聖別された日であり【旧約聖書 出エジプト記20章8節】
私たちが世の煩いから解放され、
神と交わる為に与えられた日である。
◎聖日礼拝は、祝福を受ける秘訣である。
【イザヤ書56章6節〜8節・58章13節〜14節】
◎聖日厳守は、神の律法である。「故にこれを破る者は、打ち殺さるべきである」。
【旧約聖書 出エジプト35章1節〜3節】と聖書は警告している。

二 会員は集会時間を厳守し、出来得る限り、
前から着席し、静まって待ち望むこと。
◎外面的な態度だけが問題にされるのではなく、
その背後にある神に対する心構えが必要である。
何事も神の御眼差しの下に行うことが、霊的に成長する秘訣である、

三 会堂内の霊的雰囲気を清く、静寂を保つように努力すること。
◎特に集会中、子連れの方は、集会の雰囲気を壊さないように、
細心の注意を払わなければならない。
◎集会中は御霊の御思いに合流し、聖霊の御導きに従うことが
恵まれる秘訣である。

四 集会後は、求道者や新来会者のために、愛をもって礼儀正しく、
暖かく声をかけ、キリストの愛の交わりの中に迎えるように努力する事。

五 礼拝や集会における服装は、何時も清潔で控えめに、
品位の有るものが好ましい。
また儀式の時には(冠婚葬祭)それにふさわしい服装で出席すること。
(ラフな普段着は慎むこと。)
◎神は外面に問題にされない、大切なのは内面であるとの考えがあるが、
私たちに与えられた立場と、委ねられた使命があることも忘れては
ならない。すべての人の前に、キリストの花嫁としてふさわしく
装わなければならない。

六 教会員は、教会を美しく、清潔に保つように協力しなければならない。

27名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:30:58 ID:H.3.lmGc0
《日常生活において》
◎ 会員は、祈り有る毎に自分の救われた恵みを証し、
キリストの良き証人となること。また進んで祈りと奉仕に加わり、
使命を全うするように、愛をもってキリストに仕えよう。
◎ 親しき中にも礼儀あり、普段から丁寧な言葉を使うように
心がけよう。どんな場合にも、激しい言葉・崩れた言葉を使わず、
穏やかに語りたい。言葉はその人の品性をあらわすと言われている。
◎ 特に会堂内においては、なれなれしい軽率な振る舞いに注意しよう。
◎ 冠婚葬祭、その他の諸行事、又、事故・病気などは、できるだけ速やかに
教会に連絡し、此等のことにおいても、信仰の良き証を立てるように
努力しよう。
◎ いつでも、どこでも、私たちの周りには、救われなければならない
人々がいる。学校・職場・家庭において、キリストの良き証人と
なるように努めよう。
◎ 霊的生活に害有りと思われる過度の飲酒・煙草・
マージャン・競輪・競馬・映画・テレビ・読み物・
その他の俗悪な娯楽を避け、交友にも心を配るようにしよう。
(朱に交われば赤くなる)
◎ 他人の悪口、噂話を絶対にしないこと。全てを善に解釈し、
神の御言葉に委ねよう。
◎ 噂話や悪口は、教会の中に不信感を持ち込み、
教会の霊性を著しく乱す原因となる。この巧妙な
サタンの働きに、極力注意すること。
「神を愛する言いながら、兄弟を憎む者は、真理、すなわち神は、
その人の内にない。」(ヨハネ手紙の一 4章20節)
◎お互いに重荷を負い合い、主に有る愛により祈り合おう。
「どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ
思いになって、私の喜びを満たして欲しい。何事も
党派心や虚栄からするのではなく、譲った心をもって、互いに人を自分より勝れた者としなさい。」(ピリピ2:2-3)
◎神の言葉である聖書を味読し、祈りと宣教の生活を実践しよう。
◎各部(ヨセフ会、マリヤ会、ヨハネ会、聖歌隊)の例会(会合)には、出来得る限り出席し、信徒としての務めを果たすこと。
◎やむをえないことで集会(礼拝)を休む場合は、必ず各部(ヨセフ会、マリヤ会、ヨハネ会、聖歌隊)に連絡すること。
以上聖イエス会信徒さんからの情報提供(古い資料)より

28名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:32:39 ID:H.3.lmGc0
◆聖イエス会信徒さんからの情報提供より◆
平成〇〇年度 予算書 会計サンプル
平成〇〇年1月1日から平成〇〇年12月31日まで 
 宗教法人 聖イエス会 〇〇教会
収入
科目 前年度予算額(A) 本年度予算額(B) 増減(△) B-A
1. 本年度純収入
 (1) 義務献金
  礼拝献金
  什一献金
(2) 特定献金
 学院献金
 平和献金
 年会献金
 健康感謝献金
(3) 特別献金
 営繕献金
 備品献金
 特別集会献金
 クリスマス献金
 恵箱献金
 臨時献金
 CS・ジュニア献金
(4) 特殊献金
 建設献金
 他教会援助
 その他
(5) 資産収入
 財産収入
 財産処分収入
(6) 雑収入
2. 借入金
3. 仮受金
4. 前年度繰越金

29名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:33:25 ID:H.3.lmGc0
平成〇〇年度 予算書 会計サンプル
平成〇〇年1月1日から平成〇〇年12月31日まで 
 宗教法人 聖イエス会 〇〇教会
支出
科目 前年度予算額(A) 本年度予算額(B) 増減(△) B-A
1. 本年度純支出
(1) 教会維持費
 本部献金
 学院献金
 平和献金
 福祉献金
 年会献金
 健康感謝献金
 営 繕 費
備 品 費
保 険 費
地代・家賃
租税公課

30名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:34:10 ID:H.3.lmGc0
平成〇〇年度 予算書 会計サンプル
平成〇〇年1月1日から平成〇〇年12月31日まで 
  宗教法人 聖イエス会 ●●教会
(2) 教会経営費
 伝道費
伝道部費
ヨセフ会部費
マリア会部費
ヨハネ会部費
ジュニア部
教会学校部費
聖歌隊部費
出版視聴覚費
礼典費
研究費
特別集会費
クリスマス費
交際接待費
慶弔費
会議費
事務費
印刷図書費
通信費
旅費交通費
水道光熱費
自動車費
消耗費
寄付(寄附??)及び援助費
雑費
社会保険負担金

(3) 人件費
聖職者給
献身者手当他


(4) 建設費
土地購入
建築費
その他
(5) 予備費
2. 借入金返済
3. 仮払金
4. 立替金
5. 剰余金
合計

31名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:36:18 ID:H.3.lmGc0
聖イエス会情報スレ
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/729/1532273819/

32名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:37:54 ID:H.3.lmGc0
※聖イエス会信徒さんからの情報提供より※
聖イエス会古い資料集(プリント)より
信徒生活Q&A
〜質問募集〜
 社会部では、…で信徒生活におけるトラブル解消のために
窓口をもうける」とお約束いたしましたが、日常の信徒生活
の中で出会ういろいろな問題について、皆さまはどのように
解決しておられるのでしょうか。
 聖イエス会の信徒の方の中には、深い祈りの中でキリスト
と一致し、御名(神性)の流出によってすべてを解決して
おられる方々が多いと思います。
 しかし、知・情・意を備えて創造された人間には、知的な
(理性の)納得もまた許されているのであります。
 解消されない疑問を持ちながら、神性の流出が起こらないで
灰色の信徒生活を送るより、解決が与えられて、ダイナミック
に経綸に参与したいものです。なぜなら、聖書はクリスチャン
生活のあり方を次のように指示しているからです。
 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事に
ついて、感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5・16〜18)
 皆様の心の中に解決されないで放置されている問題を、ぜひ
「質問事項」として投書して下さい。解答は牧会経験豊かな
先生方にお願いいたします。
解答?? 回答??

33名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:38:57 ID:H.3.lmGc0
■ 質問事項の内容
 1 家庭内の問題
  ア 親子の問題(世代間のすべての問題を含む)
  イ 夫婦間の問題
  ウ 結婚に関する問題(未信者との結婚問題も含む)
  エ その他
 2 対社会的な問題
  ア 職場における問題
  イ 町内の未信者集団とのつき合いの問題
  ウ 他宗教、他宗派との問題
  エ その他
 3 神学的な問題

34名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:40:12 ID:H.3.lmGc0
※聖イエス会信徒さんからの情報提供より
聖イエス会古い資料集より(そのまま引用、抜粋)
 聖イエス会マリヤ会部
霊父学課より          霊父…聖イエス会創立者、教祖様
 み名の爆発を起こした時

「わが魂よ、さめよ。」 (詩篇57・8)
一人一人の魂の核心において
爆発がおこらねばならない。
アメリカもソ連も、
世界を何度も破滅させる核を持っている。
威力のある核でも、
爆発しなければ何も起こらない。
み名によって聖霊を受けた
その経験のみでよいのではない。
周囲の人が驚くような
み名の爆発を起こした時、
すべてが変わってしまう。
うちに宿りたもうたみ名は
オールマイティ―。
このオールマイティ―のみ名が、
あなたの心の核心で、
魂のどまん中で、
聖霊の強烈なチャレンジを受けて
爆発を起こした時、
驚くべきことが起こる。
終末のリバイバルは、
愛の爆発である。

35名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:40:42 ID:H.3.lmGc0
(つづき)
十字架の上までキリストをかりたてた、
あの圧倒的な愛が、
パウロのうちに燃えて燃えて、
うちから爆発したように、
あなたの内面において、深みにおいて
み名が爆発する。
爆発的なみ名の流出を経験する。
その時、ベールは吹き飛ばされ、
聖霊が外面的にのり出して下さる。
終末のリバイバルは、
愛の爆発である。
この爆発を
心の深みにおいて経験しないなら、
もう間尺にはあわない。


終末のリバイバル??? 愛の爆発???

※以上聖イエス会信徒さんからの情報提供より

36名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:41:17 ID:H.3.lmGc0
↑↑↑
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/729/1519300886/390

37名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:41:53 ID:H.3.lmGc0
聖イエス会古い資料集より(そのまま引用、抜粋)
聖イエス会マリヤ会部
あかし キリストの再発見
文:聖イエス会関係者???

 「わがしもべヤコブのために、わたしの選んだイスラエル
のために、わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを
知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。」(イザヤ45・4)
 この御言葉が揺らぐことのない確信として与えられ、内住の
キリストを再発見させていただきました。
 私がこの貴いキリストの福音に導かれてより今日まで三十年、
後に聖イエス会に導かれ、聖霊をいただきましてより、二十年
もたってしまいました。
 この長い年月の間に、私の心は霊的生活の怠慢と自我・自愛
心のために、いつしか初めの愛から離れ、イエス様を見失って
ゆきました。
「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、
わたしのうちに生きておられるのである」(ガリラヤ2・20)
という絶え間ないこの意識。「わたしを信じる者は、聖書に書
いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出る」
(ヨハネ7・38) というこの体験。御名のうちに鮮やかに
神様を見て、礼拝し、味わう、これらのどの一つを取り上げて
みても、私の霊魂が十分に満足する深い体験とはなり得ていま
せんでした。集会に出させていただき、その時は大変恵まれて
いても、いつしか消え失せ、内に残る満たされぬ思い、また霊
父が神様から啓示を受けられ、取りついで下さるメッセージは、
あまりにも高く、深く、霊的で、私の低い霊状では、受けとめ
ることができませんでした。

38名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:42:32 ID:H.3.lmGc0
 こんな状態にあって、最も私を苦しめたことは、御名なる神
様がわかっていないという事実でありました。最初、信仰へと
導かれましたのが他教団の教会で、そこでは「聖イエス会は真
の教会ではない」と教えられ、そのことがいつも離れず、聖霊
体験にあずかる時も苦しみましたが、今また、その古いつまずき
の石が完全に砕かれずに残っているのを知らされました。神の
御臨在はあっても、内に現存したもうキリストを見失って、
霊魂は渇きました。
 その渇きが、いよいよ切なるものとなったのは、去年のダビデ
青年の聖霊体験のお証をお聞きしてからであります。ダビデ青
年は、「御名は神であった。生まれて初めて、神がわかった。神は
私の内に内住し、現存しておられる。キリストの現存を持つ者は、
キリストの体です」と、生き生きと証しておられます。そして、
霊父は「あなた方が聖霊を受けた時、このような証ができたで
しょうか。あなた方とダビデ君とは、把握の深さが違います」
とおっしゃっておられるのでした。

39名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:43:31 ID:H.3.lmGc0
 「把握の深さが違う」この一言は、私に強くささりました。
選民イスラエルが救われ、イスラエルと異邦人とからなるエクレ
シヤの完成、実現成就は、神様の御心でありますから、私達異邦
人もダビデ青年のように、御名なる神様をこの深さまで体験する
必要があり、神様もそれを望んでおられるのではないかと、
思わされました。
 私は赤裸々に自分をさらけ出し、自己のみじめさに泣いて、
イエス様によりすがりました。「イエス様、罪人なる私をあわれんで
下さい。今こそ、軌道修正が必要です。御名のうちに現存した
もう神様御自身を見せて下さい。」
 今年の二月二十二日、……教会の新年聖会を迎えました。礼拝で
「リバイバルの挑戦」が取りつがれ、午後の集会では「愛の狂人」
が取りつがれました。先生は「この集会は、イスラエルのためにお
ささげいたしましょう」とおっしゃって、すすめていかれました。
 「愛は死よりも強く、最も激しい炎です。今こそここで、キリス
トの愛に燃焼され、愛の狂人となり」とメッセージがすすみ、「それ
は愛、愛、愛、神は愛なり」と御名が啓示された時、急に濃厚な
聖なる臨在が、会堂全体に満ちるのを感じました。

40名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:44:07 ID:H.3.lmGc0
 その臨在にすっぽり包まれていく自分を意識しました時、私の
深い所から、心の核心から、御名が次々とあふれてきました。「神は
愛なり、神は愛なり」と、御名は深いところでぐるっとひとまわり
して、流れでてゆきました。
 私であって私でない、こうこつとした状態で、周囲のものは一切
消え去り、我もなく、世もなく、ただ主のみいませばなり。この御
名が慕わしくて、この御名の中に、いつまでもひたりきっていたい
と、私の魂は喜び叫んでいるようでした。あの聖フランシスコの祈
りにあります「蜜のような愛の力」を、御名の内にかいま見た思い
でした。
 御名こそ、神様でした。私の内に内住し、現存しておられるキリスト
を再発見し、心から礼拝いたしました。一方的な神様の御愛、あわれみ
に深く感謝いたします。

41名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:44:51 ID:H.3.lmGc0
 「わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、イスラエル
が救われることである。」(ローマ10・1)
この終末時代に選びを受け、御名によって聖霊を受けたのは、イスラ
エルのためであったと、心の深いところでわからせていただきました。
イスラエルへの愛に、救霊の愛に、いよいよ燃やされ、神を映し出す
存在、昼も夜も、世の勤めにある時も、家事に追われている時も、
神様の現存を見失うことのない、そのような霊的生活にあこがれてお
ります。
  イエス様にすべてをゆだね、ささげきり、十字架上のイエス様と
同化されることを望み、あわれみを求めてゆくなら、砂漠のような
私の心であっても、わきいずる泉として下さることを確信いたします。
「神は来て、あなたを救われる。
…………………………
それは荒野に水がわきいで、
さばくに川が流れるからである、
焼けた砂は池となり、
かわいた地は水の源となる。」(イザヤ35・4、7)
 イエス様、あなたをお愛しいたします。あなただけで十分
です。お言葉どおり、この身に成りますように。
 「神は愛なり。」

※以上聖イエス会信徒さんからの情報提供より

42名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:45:36 ID:H.3.lmGc0
曲名:我は生きる
作詞:主の十字架クリスチャンセンター関係者???
https://www.youtube.com/watch?v=3U1Wetn9hK4&feature=youtu.be
神は愛なり
十字架の恵み
受けた我は生きる
我が神イエスと
ともに生きる
永遠に続く道を

43名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:46:10 ID:H.3.lmGc0
曲名:リバイバルの風
作詞:主の十字架クリスチャンセンター関係者???
https://www.youtube.com/watch?v=kARoUXDQVYA&feature=youtu.be
荒野に水がわき上がり
荒地に川が流れ出した
この国のため
積まれてきた
祈りがついに
聞き遂げられ
リバイバルの風のひびき
今 天から響きわたって
いやしと奇蹟(奇跡)の
みわざが現される
神への愛をつらぬいて
ささげられた命があった
一粒の麦 地にまかれて
救いの実が豊かに実る
リバイバルの風のひびき
今 天から響きわたって
いやしと奇蹟(奇跡)の
みわざが現される

44名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:46:46 ID:H.3.lmGc0
聖イエス会【聖職者・信徒】研究資料・教材
聖イエス会の信徒さんは、下の礼拝動画をみて、
聖イエス会の礼拝と比べてみてください。
動画の内容をよく研究してください。
下の動画は普通の礼拝です。
ホセア10:9〜15
今が主を求める時
https://www.youtube.com/watch?v=yZetZfisLx4

聖イエス会の聖書解釈本といえば、「言泉集げんせんしゅう、ごんせんしゅう」。
聖イエス会の信徒さんから言泉集をお借りしましたが、
書店で販売できる内容のレベルじゃないと思う。
ホセア書の解釈に関しては、言泉集にのっているかどうか不明。

45名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:48:25 ID:H.3.lmGc0
聖イエス会名古屋教会その他【聖職者・信徒】参考資料・教材
主の十字架クリスチャンセンター神のしもべ長崎教会
20180701 第2礼拝後半賛美
聖霊注いで下さい
https://www.youtube.com/watch?v=ZURTR9P6yyQ

46名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:49:29 ID:H.3.lmGc0
※聖イエス会信徒さんからの情報提供(古い聖イエス会資料集より)
聖イエス会聖職者会メッセージ

 「プレローマ‘96」の本質的意義と展望について
執筆者:聖職者・・・

 『プレローマ‘96』に関する『司牧教書』を出したのが、昨年の
十二月八日であった。それからちょうど四か月、きょう、四月八日、
いよいよ京都大宣教会の開幕の時を迎えた。感無量である。無我夢
中で、ようやくここまで漕ぎ着けたという感がする。心より主に感
謝する。
 『プレローマ‘96』が目指すところは、一九九六年のペンテコステ
には、イスラエルが永遠の生命への救いにあずかるための、後の雨、
聖霊の大傾注をいただくことである。その前哨戦とも言うべき戦い
の幕が、いよいよ今夕ここで切って落とされる。この時に当たり、
我々は、何を主に求めるべきであろうか。
 「これらのことを語り終えると、イエスは天を見あげて言われた、
『父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすよう
に、子の栄光をあらわして下さい。あなたは、子に賜ったすべての
者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与
えになったのですから。永遠の命とは、唯一の、まことの神でい
ますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを
知ることであります。わたしは、わたしにさせるためにお授けに
なったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました。
父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていて栄光で、
今み前にわたしを輝かせて下さい。』」(ヨハネ17・1〜5)
 まず私達は、大祭司の長として、神には人を与え、人には神を
与える、この祭司職を全うするために、主が御自身のために祈ら
れたことに注目しなければならない。特にその祈りの初めと終わ
りの部分に注目したい。そこで、主がこの偉大な人格救済の大事
業を実現・成就するために必要とされたことが、何であるかを学
ぶことができるからである。

47名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:50:13 ID:H.3.lmGc0
 「これらのことを語り終えると、イエスは天を見あげて言われた、
『父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすよう
に、子の栄光をあらわして下さい。…父よ、世が造られる前に、
わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて
下さい。』」
 「父よ、時がきました。」イエス・キリストの生涯において、
最も重大な時、御子が受肉した究極目的、人類救済のあがないを
実現・成就するその時、御子が御父の栄光を最大限に輝かすべき
時、それによって御子もまた御自身の栄光を燦然と輝かすべき時
がまさにきたのである。
 我々にとっても、まさに「時がきました。」終末時代において、
最も重大な時、十四万四千人のイスラエル人に生ける神の御名を
印するその時、聖イエス会が聖霊によって誕生した究極目的を、
実現・成就するその時が、まさにきた。
 「その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民(イスラ
エル)をそのもろもろの罪から救う者となるからである。」
(マタイ1・21)まさに、その「時がきました。」
 「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光
で、今み前にわたしを輝かせて下さい。」イエスは感極まり、ここ
で、ご自身が天地創造以前に前存し所有していた神性の栄光を想
起し、祈られたのである。
 「初めに言【ことば】(ロゴス)があった。言【ことば】は神と
共にあった。言【ことば】は神であった。」(ヨハネ1・1))キリ
ストはロゴスとして永遠の先在者であり、父と一体なること、
ロゴスは神であること、このロゴスのうちに永遠の命があること、
この栄光こそは、キリストが本性的に持っておられる栄光であり、
その栄光を今こそ、輝かせて下さるように、との意味である。
 キリスト御自身にして、なおこの祈りが必要であったとするな
ら、まして私達において、なおさらである。自己の神化を抜きに
して、もはや何事もできない。
 私達は恩寵により、キリストのご本性に参与することによって、
ロゴスの栄光にあずかった。その栄光を今こそ輝かせて下さるよ
うにと祈るべき時、『プレローマ‘96』のその時が来たのである。
 「これらのことを語り終えると、イエスは天を見あげて言われ
た、『父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわす
ように、子の栄光をあらわして下さい。……父よ、世が造られる

48名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:51:12 ID:H.3.lmGc0
前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝
かせて下さい。』」
 「主よ時が来ました。永遠の生命に予定されている、異邦人の
全数を満たし、十四万四千人のイスラエルに印するために、あな
たがお選びになった聖イエス会が、あなたの栄光をあらわすよう
に、聖イエス会(わたし)を神化して下さい。あなたが私達にお
与えになった栄光で、ロゴスの栄光で、今み前に、聖イエス会
(わたし)を輝かせて下さい。」「ロゴスは神なり!」
 すでに『司牧教書』を通し、また『あかしびと』の巻頭言を通
し、繰り返し強調してきた『プレローマ‘96』の具体的な活動が、
今夕、ここで開始される運びとなった。
 一九九六年という年は、「かれ子を生まん、その名をイエスと名
づくべし。己【おの】が民をその罪より救いたもう故なり」(マタ
イ1・21、文語訳)と、聖霊により聖イエス会が生み出されて、
五十年目の年である。「この年に一つの結論を」とはかねてよりの
念願であったが、聖霊のご指導を請い求め続けて来た我々に、来た
るべきこの年へのビジョンは次第に明確になり、今やそれは不動の
信仰となって来た。すなわち、この年のペンテコステには、イスラ
エルが永遠の生命への救いにあずかるための、後の雨、聖霊の大傾
注をいただくことである。お断わりしておきたいことは、これにつ
いての啓示を受けたと言うのではない。これはどこまでも、我々の
ビジョンであり、信仰である。エルサレムがまさに持ち上げられよ
うとし、イスラエルが未曾有の危機に直面している今、このすばら
しいビジョンが成るか、成らないか、ひとえに我々の勇気ある決断、
信仰の行動にかかっているといっても過言ではない。ここに『プレロ
ーマ‘96』と名付けて、一大宣教活動を展開することにした。今こそ
時が来た。この二年間、永遠の生命に予定されている異邦人の全数を
満たすために全力投球、邁進したい。「もし信じるなら神の栄光を
見る。」(ヨハネ11・40)
 このあと、ひき続き、信じて行動した時、神はどのように答えて下
さったか、その証【あかし】を府中教会の……先生と、パウロ教会の
……牧師にお願いしているので承りたい。(『あかしびと』第…号参照)
 さらに、……牧師から、『プレローマ‘96』の具体的対応について、
取り組みの経過と展望に関して、京都ブロックと嵯峨野教会の姿勢を
報告していただくことになっている。(『あかしびと』第…号参照)

49名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:52:02 ID:H.3.lmGc0
〔今後の展望について〕
大宣教会スケジュール
(省略)
その後順次、各地で大宣教会を展開していきたい。

宣教活動費
 教団本部は、去る三月二十一日に開かれた責任役員会において、
(1) 既に積み立てられている「宣教活動積立金」の中から、
鹿児島に建設する教会の土地代金として、三千万円を充当すること
にした。いよいよ「オメガの地、鹿児島」の決戦に乗り出したい。
(2) また昨年度の一般会計の剰余金の中から、一千五百万円を、
『プレローマ‘96』遂行の経費に充当することを決議した。明日の
代議員会で承認を得ることになっている。

ロゴス神学院の役割
 ロゴス神学院においても、『プレローマ‘96』に即応した態勢を
整え、カリキュラムを組んで、これに対処していただいている。
神学院の役割は、
(1) 「モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち」
(出エジプト17・11)「主のお選びになったモーセは破れ口で主の
み前に立ち」(詩篇106・23)と、祭壇を死守する祭司職を全うする
ことであり、
(2) 「涙をもって種まく者」「種を携え、涙を流して出て行く者」
(詩篇126・5、6)となり、使徒職を全うすることである。
 かつて、ロゴス神学院の移転建設のビジョンが院長から語られたこ
とは、記憶に新しい。そのビジョンは今やみごとに実現・成就した。
「石を一つ一つ積みながら、我々が建てているカテドラル」、エクレシヤ
建設のビジョンも、必ず実現・成就することを信じる。

イスラエルのための活動
 『プレローマ‘96』の目指す中心眼目であるイスラエルに対する我々
の活動について、展望を申し述べたい。
 まず、アメリカ・カナダに対しては、「こうして、人々は西の方から
主の名を恐れ、日の出る方からその栄光を恐れる。主は、せき止めた
川を、そのいぶきで押し流すように、こられるからである」(イザヤ59・19)
との預言の実現に参与するため、今年五月三十から六月十四日まで、

50名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:53:02 ID:H.3.lmGc0
第八次合唱団がアメリカ・カナダに派遣される。さらに年会後、聖職者
が一名、ボストンのへブル・カレッジへ留学する。また近い将来、
ボストンにシャローム・ハウスを開設するために、準備を進めることに
なっている。
 次に、エルサレムに関しては、来年二月二十七日から三月十七日まで、
第九次合唱団がイスラエルに派遣される。また今年から来年の初めに
かけて、二回にわけて合唱団の準備のために聖職者を派遣し、来年は
定住聖職者を派遣する予定である。イスラエルの救いは「がぜんそれは
起こる」ことを常に覚え、悔いのない献身を全うさせていただきたい。

「ホロコースト資料館」
 なお、この席を借りて別に報告したいことがある。御幸教会
に併設して、「ホロコースト資料館」(仮称)を建てることが計画
されており、既に、責任役員会の議決を得ており、これも明白の
代議員会で承認を得て、実行に移すことになった。
 これは従来、……牧師が、世界各地のホロコースト資料館関係
の方々との友好を深めて来られ、その交わりを通して各地より寄
せられた「愛と涙の贈り物」に対し、「愛には愛をもって、涙には
涙をもって」の精神のもとに、ヒロシマ、御幸と、二重の意義あ
る所に「ホロコースト資料館」(仮称)を建てることにしたもので
ある。
 これまで……牧師が個人の立場でやってこられた熱意あふれる
行為を、「平和の友の会」が受け継ぎ、発展させていこうとするも
のである。各位の了承を得たい。
 なお、今日まで、計り知れない好意を寄せて下さった関係各位
への感謝と、今回の計画の報告、さらに資料の収集を兼ねて、
……牧師は研修のため、七月から八月にかけ約四十日間、アメリカ・
ヨーロッパ・イスラエルを訪問される。成果を期待したい。
※以上聖イエス会信徒さんからの情報提供(古い聖イエス会資料集より)
…そのまま引用

51名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:54:19 ID:H.3.lmGc0
聖イエス会信徒さんからの情報提供(古い聖イエス会資料集より)
…そのまま抜粋
京都大宣教会メッセージ
神を慕う
 メッセージ:聖イエス会聖職者

 「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得る
ためである。」(ヨハネ3・16)

 ただ今、聖歌隊がメンデルスゾーン作曲の合唱曲を歌いました。
この歌は

 「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、
わが魂もあなたを慕いあえぐ。
わが魂はかわいているように神を慕い、
いける神を慕う」 (詩篇42・1〜2)

という聖書の詩篇の中でも大変有名な言葉から作られた曲であり
ます。それは、人間の心が神を慕う激しい渇きを、鹿が谷川を
慕いあえぐ姿に結びつけて、歌われているものであります。
 ところで皆さんは、この言葉からどういう光景を思い浮かべ
られるでしょうか。「谷川」という日本語のイメージは、「渓谷」
という言葉で置き換えられるものであり、緑の木々が生い茂る
深い山間いを、キラキラと輝く水が流れている光景であります。
そこへ鹿がやって来て、渇きをいやしている様子ではないで
しょうか。
 しかし、この歌が、日本で作られたものではなく、イスラエル
で作られた歌であることを考えますと、全く様子が変わってくる
のです。ちょうど一か月ほど前、私はイスラエルにおりました。
死海に沿った荒野を通っていました時、突然、高いところから一
頭の鹿が姿を消したのを見たのであります。その時、鹿と谷川に
ついての私のイメージは完全にくつがえされ、この詩篇の言葉が
じかに私の心の奥深くに飛び込んでまいりました。日本に帰り、
もう一度この聖書のみ言葉の前に座り直しました。

52名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:54:54 ID:H.3.lmGc0
 ある翻訳では、
 「涸れた谷に鹿が水を求めるように
 神よ、わたしの魂はあなたを求める」(同、新共同訳)
と訳しています。また「谷川」という言葉が、兄弟や友人から
欺かれる時の形容に使われている場合がありました
(ヨブ6・15〜17)。ヨブという人が、豊かに蓄えた財産、肉親、
健康、友人を次々に失い、悩みのどん底で、友や兄弟の「欺き」
を「谷川」に譬えて訴えているのです。ヨブ記は、この苦悩の
人ヨブが、ついに神と出会う感動の書であります。
 では、どうして「谷川」と「欺き」とが結びつくのでしょうか。
それはイスラエルの土地柄を見ればすぐ納得できることであります。
雨の降る季節には豊かに水を流す川も、いったん乾燥季に入れば
一滴の水もありません。そこへ水を慕いあえぐ鹿が、渇きをいやす
ためにやってきた時、この鹿にとって「谷川」は「欺き」と結び
つくのです。ヨブの場合も同じでありました。なんともあわれを
催す光景ではないでしょうか。
 そしてきょうの話題の主人公である「サマリヤの女」もまた、
「五人の夫」という「欺き」の「谷川」で、(今、第六人目の
「欺きの谷川」でも)自分の心の渇きが癒されないまま、真の
「水を求め」、生ける神を慕いあえぐ、哀れな一頭の「鹿」で
ありました。
 「あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。」
(ヨハネ4・18)このイエスの言葉は、文字通り不純な異性関係
と取るべきでしょう。また、ある人が言うように、人間の五官(注1)
という「谷川」が与える「欺き」であるかも知れません。また、
それは何をやっても満たされない、あなたのことであるかも知れ
ません。
(注1)…「タウラー全説教集」より。五人の夫とは、霊的意味に
おいては、五官であり、…六番目の夫は古き人である。(『…集』第…巻
…頁参照)

53名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:56:01 ID:H.3.lmGc0
このサマリヤの女とイエスとの出会いほど、感動的な場面はありま
せん。それは、神に渇く魂と、魂に渇かれる神との出会いであるから
です。そして、ここに最も人間的なイエスの姿と、最も神的なイエス
の姿とが現れているからです。端的に申しますなら、人であるイエスと、
神であるイエスとに出会うからであります。
 「そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、
そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時
ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエス
はこの女に、『水を飲ませて下さい』と言われた。」(同4・6〜7)
 旅路に疲れたイエスの姿は、私達に親近感を与えます。ところが
サマリヤの女は冷淡に答えました。「あなたはユダヤ人でありながら、
どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるの
ですか。」(同4・9)それはサマリヤ人の水は豚の血よりも汚れて
いると言って、日ごろユダヤ人がサマリヤ人を軽蔑していたからで
した。この女の言葉によって理解できますことは、イエスご自身を
単にユダヤ人と見て、敵意さえも抱いているということです。なる
ほど血統の点からすれば主イエスはユダヤ人です。しかし、それだけ
の認識では、まだ知るべき重要なことを何も知ってはいないのです。
 「イエスは答えて言われた、『もしあなたが神の賜物のことを知り、
また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知って
いたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらっ
たことであろう。』」(同4・10)この言葉の中で二つの重要なことが
求められています。それは、神の賜物と、イエスと言われる御方への
正確な認識であります。
 「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命
なのです。」(ローマ6・23、新共同訳)不死不滅の超自然的生命、
天的生命、永遠の生命こそは神の賜物なのです。何と比類のない
恩寵の賜物ではありませんか!
 自分に水を求めたその人が、逆に求める者に生ける水を与えよう
と言うのです。女は神の賜物である生ける水を理解することができず、
それを物質的な水と考えます。この井戸を与えてくれたヤコブよりも
よい水を与えることができると言うのなら、この人はヤコブよりも
偉大な人物なのか。まさかと思いながら、彼女は理解しないままに、
その生ける水を求めました。固く閉ざされていた彼女の心は、太陽
の直射を受けた花の蕾のようにイエスに向かって心を開いたのです。

54名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:56:49 ID:H.3.lmGc0
 「イエスは女に答えて言われた、『この水を飲む者はだれでも、
またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつま
でも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人の
うちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。』」
(ヨハネ4・13〜14)
 この井戸水はその源泉を地下に持つものです。このヤコブの井戸は
人間の生活の方便のために、人間がつくり出した宗教を暗示しています。
 人生の真の目的を満たし、人間の霊魂の渇きを癒すことができるのは、
神ご自身だけであり、それこそは永遠の生命にほかなりません。
主イエスは、なくてならぬものはただ一つであることを啓示されたので
あります。
 しかし彼女にとって、生ける水も、イエスご自身も、まだ神秘の
ベールの中に包まれたままであります。そこで、彼女をおおっている
この厚いベールを取り除くために、「イエスは女に言われた、『あなた
の夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい。』」(同4・16)すると
彼女はひどく狼狽しました。鋭いメスが触ってほしくない患部に
触れたからです。
イエスは神性の全知によって、彼女が六人の男性と罪深い生活をして
いたことを見抜いておられたのでした。彼女は自分の秘密を知ってい
るものがあるとすれば、全地の神と自分だけだと思っていました。とこ
ろが、はからずも今出会っているユダヤ人が、自分の恥ずかしい秘密を
知り尽くしているこの事実を、どう解釈すべきかと考え込むのです。
 これは全地の神の御霊を宿した預言者に違いない。そこで女はイエス
に言いました、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます」(同4・19)
彼女のイエスに対する理解は急速に前進します。ユダヤ人・偉大な人・
預言者。多くの人もまた、彼女がたどった同じ道を歩むのです。
 彼女はこのお方が預言者であるなら、ユダヤ人とサマリヤ人との間で
争っている宗教論争に、明解な回答を与えることができるに相違ない。
サマリヤの宗教か、それともユダヤ教か。
 それに対するイエスの回答は極めて深遠でありました。「女よ、わた
しの言うことを信じなさい。」(同4・21) この言葉は絶対的であり
命令的でさえあります。この女はサマリヤ人の信仰を受け継いできま
した。しかし、その信仰は彼女を罪深い生活から解放する力を持っては
いませんでした。まして、永遠の生命が与えられるというようなことは
ありません。ユダヤ教はどうかと言えば、厳格に唯一の神を信じ、儀式
を守り、厳格な律法を教えはしますが、それによって現実的な神との出会

55名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:58:09 ID:H.3.lmGc0
いを体験することも、永遠の生命が与えられることもありません。
 「わたしの言うことを信じなさい」ということは、「わたしを信じな
さい」(同、新共同訳)ということです。あなたがもし本当に神との出
会いを体験し、永遠の生命を獲得したいと思うなら、「わたしを信じな
さい。」わたしによって、わたしを通して、わたしにおいて、真理に出
会い、命に出会い、神に出会うのです。
 「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝
すべきである。」(同4・24)神は本性上霊であって、人間の肉眼をもって
見ることも、また触れることもできません。この霊なる神が見えるもの
となるために、触れることのできない神が触れることのできるものと
なるために、言(ロゴス)である神は肉体となって歴史の中に現れたの
です。それが主イエス・キリストです。人間の肉眼で見えないものも、
プリズムを通して見るならとらえることができるように、イエス・キリ
ストに対して信仰のプリズムを通して仰ぐ時、イエスにおいてキリスト
を見いだし、キリストにおいて神を見いだし、キリストの顔に輝く「神
の御顔」を明確にとらえることができるのです。
 「いつ、わたしは行って神のみ顔を見ることができるだろうか」
(詩篇42・2)と、きょうまで人知れず慕いあえいでいた「神の御顔」
を見る時が、ついに今ここに来たのです!
 女は感動に震えながらイエスに言いました。「わたしは、キリストと
呼ばれるメシヤがこられることを知っています!」(ヨハネ4・25)
 「イエスは女に言われた、『あなたと話をしているこのわたしは主で
ある。我は主なり!』(注2)」(同4・26)
(注2) ギリシャ語原典では「エゴ―・エイミ」であり、へブル語の
「アニー フー」に相当し、「わたしは主である」(イザヤ43・13)、
さらに「わたしは、有って有る者」(出エジプト3・14)を意味する。
 イエスはついに、ご自身の神性を鮮明に啓示されました。
 彼女はヤコブの井戸辺にて、はからずもイエスに出会い、イエスに
おいてキリストに出会い、キリストにおいて神と出会い、永遠の生命
の湧き出る真実の泉を発見したのでした。
 先ほど二人の方が信仰の体験談を証(あかし)しました。この二人
に共通していたことは、「我は主なり」という神様の名を呼び求めた
時、心の奥底から、その呼び求めた神の御名が、「我は主なり」と湧き
あがり、流れ出てきたことであります。この経験こそは、「わたしが
与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わき
あがるであろう」(同4・14)と言われた経験であり、後に「わたしを

56名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:58:52 ID:H.3.lmGc0
信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川と
なって流れ出るであろう」(同7・38)と言われた経験であります。
 イエスが「生ける水」と言われた水の実体は、この女に最後に
啓示された「我は主なり」との自己啓示であります。これこそは、
「み名によって命を得る」(同20・31)と聖書が記している、
極めて大切な、救いの神秘であり、救いの核心なのであります。それ
であればこそ「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」
(ローマ10・13)と聖書は具体的な救いの方法を、だれにでもわかる
ように、だれにでもできるように、示しているのであります。
 最後に、わたしはこれから皆さんのために祈りをささげたいと
思います。祈っています間に、もし本当にあなたがキリストを身近に
感じ、キリストご自身があなたを招いておられるとお感じになりま
したなら、ためらわずに、立ち上がり、招きに答えて前にお進み下
さい。お導きになった方もご一緒なら、なお結構です。そして、静
かに、真心から、主の御名をお呼びになって下さい。聖歌隊が讃美
歌を歌います。その賛美の間にお祈りをおささげいたしましょう。
 「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、
 わが魂もあなたを慕いあえぐ。
 わが魂はかわいているように神を慕い、
 いける神を慕う。
 いつ、わたしは行って神のみ顔を
 見ることができるだろうか。」 (詩篇42・1〜2)
 イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、
また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていた
ならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらった
ことであろう。」(ヨハネ4・10)

57名無しのひつじさん:2018/11/07(水) 23:59:32 ID:H.3.lmGc0
 「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、
わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがない
ばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の
命に至る水が、わきあがるであろう。」(同4・13〜14)
 「あなたと話をしているこのわたしは主である。」(同4・26)
 「主の御名を呼び求めるものは、すべて救われる。」(ローマ10・13)
 主よ、今み言葉に従ってあなたの御名を呼び求める者を顧み、
み顔をあらわして下さい。「み顔こそ、わたしの救いです。」
(詩篇42・6、新共同訳)
 「今より、我は主なり!」
以上聖イエス会信徒さんからの情報提供(古い聖イエス会資料集より)
…そのまま抜粋

58名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:00:35 ID:H.3.lmGc0
聖イエス会信徒さんからの情報提供(古い聖イエス会資料集より)
…そのまま抜粋
年会聖会メッセージ
 使徒職の秘訣
  〜 あなたは封じた泉 また流れ出る川 〜
メッセージ:聖イエス会聖職者
 「わが妹、わが花嫁は閉じた園、
閉じた園、封じた泉のようだ。」 (雅歌4・12)
「あなたは園の泉、生ける水の井、
またレバノンから流れ出る川である。」(同4・15)
 まずはじめに、この場をお借りいたしまして、聖イエス会全聖職者、
信徒の皆さんに感謝を申し上げたいと思います。皆さんの熱い祈りと、
尊い捧げ物によりまして、瑞穂町における、ロゴス神学院の第二期
工事もみごとに完成し、一昨日、新しいチャペルで初めての、感動的
な卒業式を行わせていただきました。
 メシヤの世紀を迎えるために、このすばらしいビジョンを与えて
下さった主に、そして、このビジョンの実現のために、信仰と愛とを
もって参与して下さった皆さんに、神学院一同を代表して、心よりの
感謝を申し上げます。皆さん本当にありがとうございました。
 さて、私たちは昨年八月末に瑞穂町に移転し、九月から、新しい
キャンパスで、二学期の授業を開始いたしました。移転に際し、霊父
から一つの厳しい注意がありました。それは、「神学院の移転にあたり、
様々なものを運ぶであろう。しかし、持ち運んではならないものが
ある。それは自我である」ということでありました。一同、新しい
決意をもって、瑞穂の地に移転いたしました。そこは、都会の騒音
から離れた閑静な自然のふところであって、澄み切った清水が流れ、
小鳥のさえずりしか聞こえない別天地であります。聖書を深く学び、
黙想や祈祷に励むには理想の地であります。このように恵まれた
環境のなかで、神学生たちは日に日に健康となり、霊的にも落ち着き、
非常に変わってきたのは確かであります。

59名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:01:36 ID:H.3.lmGc0
 しかし、日がたつにつれ、ときどき、捨ててきたはずの自我も顔を
出し始めました。自我を捨てて、一人で来たはずであったのに、
いつの間にか、もう一人の自分が、古い自分がそこにいるのです。
もう少しさかのぼって言うなら、ロゴス神学院は一人の人にしか
入学許可を出しておりませんのに、どういうわけか皆二人で入学して
きているのです。自我同伴で来ているのです。
 愛する皆さん、どんなにすばらしい、美しい所へ行っても、環境が
変わっても、自分自身が変わらなければ、変わりばえしないというこ
とです。年会において、任命を受け、新任地に赴任しても、変わりば
えがしないなら、それは自我を引き連れて、二人で行くからでありま
す。主はあなた一人に、任命を与えられるのですから、二人で行って
はならないのです。夫婦の方は四人で任地に行ってはならないのです。
 聖性の誉れ高きラビニャン師はこう言っておられます。
 「神学院で何をしたかとわたしにおたずねですか。そうですね。
わたし、いえわたしたちは二人でした。そしてわたしは、一人のわた
しを、窓から外に投げ飛ばし、もう一人のわたしが、たった一人残っ
たのです。」
 愛する皆さん、ここにリバイバルの秘訣があります。きょう、私た
ちがなさねばならないことがあります。
 ロゴス神学院新入生の皆さん、私は一人のあなたに入学許可を与え
ました。二人で神学院に来てはなりません。また、ロゴス神学院を
卒業し、明日任命を受けて、遣わされる皆さん、決して任地に自我を
引き連れて行ってはなりません。
 おお、今夕、リバイバルの最大の障害である、古き人、災いなる
自我を、窓から外に投げ飛ばし、葬り去ってしまわねばなりません。
おお主よ、今夕私を、あなたと共に、十字架につけて下さい。この
古い自我生命にとどめを刺して下さい。聖霊、来てください!
 「今より、我は主なり!」
 今朝の卒業生の証にもありましたように、この数か月のロゴス神学
院は、「聖霊、来て下さい! 聖霊、来て下さい!」と、聖霊の傾注を
ひたすら祈り求める、涙と祷告の日々でありました。

60名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:02:12 ID:H.3.lmGc0
 「私が変わらねば、ロゴス神学院は変わりません。ロゴス神学院が
変わらねば、聖イエス会は変わりません。ロゴス神学院が変わらねば
イスラエルは救われません。」一回、一回の祈祷会、礼拝は必死であり
ました。私も、これほどまで、神学生達と一体となり、共に泣き、共
に祈ったことがないほどでありました。
 今年に入り、いよいよ霊圧が高まり、いつ聖霊の爆発が起こっても
おかしくない状態となり、そして、ついに、二月十三日、聖霊傾注
十周年の当日を迎えたのであります。
 その日は、十年前と同じように、朝から大雪となり、教区合同の
聖会は行えなくなり、神学院だけの小さな聖会となりました。真っ白
に変貌した自然界の姿を見ます時、すべての者の心に、被造物でさえ
かくも美しく、みごとに変貌させたもう神は、神の似姿に創造された
私たちを、どうして神化してくださらないことがあろうか、との信仰
がわきあがり、力まないで、すべてを主に委ね、明け渡していこうと
いう心境になりました。
 愛する皆さん、主が聖霊の傾注をくださるのは、私たちに何か良い
ところがあったからではなく、私たちが頑張ったからでもありません。
それは、主が私たちを愛してくださるからであり、イスラエルの救い
のために聖霊の傾注が絶対に必要だからです。聖霊の傾注、それは
愛の賜物であります。ただ、愛の賜物です。
 ついに、最も小さく、無力な神学生たちの上に愛の賜物なる聖霊
が注がれました。
 主は言われる、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
もしあなたがわたしにつながっており、またわたしがあなたにつなが
っておれば、あなたは実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れて
は、あなたは何一つできない。だからいつも、わたしにつながって
いなさい。決してわたしから離れてはならない。わたいの愛のうちに
いなさい。愛のうちにいなさい。愛のうちに!」(ヨハネ15・5〜9
参照)
 「神は愛なり!」

61名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:03:05 ID:H.3.lmGc0
 二月十三日以降、ロゴス神学院は愛の花園、地上の天国となりま
した。いつも神の臨在が満ち、愛のあふれる所となりました。愛する
皆さん、この地上どこであっても、主のいますところ、そこが天国
であります。「ここにおるはよし、ここにおるはよし。」もうどこにも
行きたくない。この愛の園で、私の心を閉じた園、封じた泉となし、
ただ主にのみ開き、主との神秘的な交わりを楽しみたい。そうすれば、
この私も速やかに主の御形へと変えられていくであろう。ああ、もう
どこへも行きたくない。心からそう思いました。
 ところが、私の思いとは裏腹に、そのころから、急にあちらこちら
の教区から、また教会から、次々と聖会の招聘がまいり、海外からも、
来たれ、来たれと、招聘状が届き始めたのです。私だけではありませ
ん。神学生にもであります。毎週、毎週、神学生はチームを組んで聖
会に遣わされて行きます。そして、すばらしい集会をして、皆さんか
ら感謝されます。神学院は大忙しということになってしまいました。
これは感謝なことでありますが、これで、本当の霊的生活が、落ち着
いた教育ができるのだろうかという心配が起こってまいりました。私
はどうすればよいのでしょうか。
 そのとき私は、アシジのフランシスコの一つの有名なエピソードを
思い出したのであります。
 フランシスコはある時期、「自分はただ、絶え間ない祈りに専心すべ
きか、あるいは、出て行って説教もすべきか」ということで、たいそう
悩み苦しんでいました。そして、このいずれが、われらの主イエス・
キリストのおぼしめしにかなうかを知ろうと、苦心を重ねていました。
フランシスコは、このことについての神のおぼしめしを知るため、兄弟
マッセオを姉妹クララと兄弟シルヴェストロのところにつかわし、
このことについて、二人に祈りと意見を求めたのでした。兄弟シルヴェス
トロは、その伝言を聞くと、すぐに祈り始めました。そして、しばらく
祈っている間に、神からお答えをいただきました。かれはすぐに兄弟

62名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:03:52 ID:H.3.lmGc0
マッセオの所に行き、このように言いました。「主は、あなたが兄弟
フランシスコに、こう話すように仰せになりました。すなわち、神が
彼を今のような身分に召されたのは、彼自身のためではなく、大勢の
人が彼によって救われるためです。」姉妹クララが神からいただいた
答えも全く同じものでありました。兄弟マッセオはフランシスコの
もとに帰って行きました。聖フランシスコは、兄弟マッセオの前にひざ
まずくと、頭巾を脱いで腕を十字に組み、尋ねました。「わが主イエス・
キリストは、わたしに何をするようお命じになりましたか。」兄弟
マッセオは、キリストが、兄弟シルヴェストロと姉妹クララにお示し
になったことを伝えました。「主の御旨は、あなたが世間に出て説教
することであります。なぜなら、主があなたをお選びになったのは、
あなた自身のためだけではなく、同時にほかの人たちの救いのため
であるからです。」すると、主の御手が聖フランシスコを覆いました。
彼はこの答えを聞くとすぐに、キリストのおぼしめしを悟ったので、
立ち上がると、神からの力に燃えて、元気一杯叫びました。「さあ、
主の御名によって行きましょう!」
愛する皆さん、主は聖霊を受けたすべての人が、祈りの人、黙想の
人であると同時に、伝道する人、救霊の人であることを望まれます。
私たちもフランシスコのように、すぐ立ち上がり、神からの力に
燃えて、行きましょう。「さあ皆さん、主の御名によって行きましょ
う!」
 「主よ、いま、サタンの脅迫に目をとめ、僕(しもべ)たちに、
思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばして
いやしをなし、聖なる僕(しもべ)イエスの名によって、しるしと
奇跡とを行わせて下さい。」(使徒4・29〜30)
 「今より、我は主なり!」

63名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:04:45 ID:H.3.lmGc0
(復唱説教)
「わが妹、わが花嫁は閉じた園、
閉じた園、封じた泉のようだ。」 (雅歌4・12)

 キリストの花嫁である私たちの心は、愛するキリストにのみ
開かれ、他者は立ち入り禁止です。世俗は立ち入り禁止です。
宣教に参与する者は、まず霊的生活によって神と一致し、聖霊
の充満を受け、満水のダムとならねばなりません。

 「あなたは園の泉、生ける水の井、
 またレバノンから流れ出る川である。」(雅歌4・12)

 霊的生活の目指すところは、生涯孤独のうちに、黙想を続け
ることではなく、来たるべき終末のリバイバルに、イスラエルの
救いに、備えるためです。
 ついに時は来ました。時は来ました。イスラエル十四万四千人
に、生ける命の水を、注ぐときが来ました。
 主は言われる、
  「見よ、わたしは新しい事をなす。
  やがて(がぜん)それは起る、
  ………
  わたしが荒野に水をいだし、
  さばくに川を流れさせて、
  わたしの選んだ民(イスラエル)に飲ませるから
  だ。」 (イザヤ43・19、20)
イスラエルよ、来たれ、来たりて命を受けよ!
「アニー フー!」

聖イエス会信徒さんからお借りした資料によると、
聖イエス会の文書はカトリック的な表現が頻繁に出てくる。
カトリック的な表現…聖フランシスコなど
聖イエス会はカトリックとプロテスタントとのチャンポン
教団なの?普通のキリスト教とは思えないけど?
以上聖イエス会信徒さんからの情報提供(古い聖イエス会資料集より)
…そのまま抜粋

64名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:06:45 ID:H.3.lmGc0
聖イエス会信徒さんからの情報提供(古い聖イエス会資料集より)
…そのまま抜粋
新年年会メッセージ
聖なる生けるいけにえ
 メッセージ:聖イエス会創立者

 「神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に
喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、
あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12・1、新共同訳)

1 私の本日のメッセージの主題は、聖なる生けるいけにえ、
言葉を換えて申しますと、全焼のいけにえ、であります。

2 電光掲示板の文字のように、ただ今拝読しました、新共同訳
によるローマ人への手紙

3 第十二章一節のおことばが、私の心の中で、走馬灯のように
かけめぐるのです。

4 「自分の体(いのち)を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ
として献げなさい」と。

5 まずこの「いけにえ」という言葉に注目いたしましょう。

6 いけにえの意味するものは、人の罪をあがない、神と人との
和解を実現するために、罪人の身代わりとなり、自分の命を犠牲
として献げることを意味します。

7 旧約の全焼のいけにえ、そして、主イエス・キリストの犠牲
の精神を、自己において現在化することなのです。

65名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:07:19 ID:H.3.lmGc0
8 聖霊を受け、聖なる祭司職に参与する者は、キリストの十字
架のあがないの犠牲の精神を受け継ぎ、

9 再現し、現在化すること、これこそは、神を喜ばせる祭司職
であると、パウロはここに勧告しているのです。

10 皆さんに最も理解しやすい、実例を挙げましょう。

11 一九三六年、私が満州開拓伝道の任命を受け、あの大陸に
第一歩を印した時、

12 「満州にリバイバルを、しからずば死を!」と祈り、満州
のリバイバルに命を実際にかけたのです。

13 皆さんも御承知のように、……ちゃんは聖霊に捕らえられ、
完全に自分の命を燃焼させたのです。

14 奉天のリバイバルは、そして聖イエス会は、この聖なるいけ
にえに起因しているのです。

15 リバイバルは、命をかけた決断であり、全焼のいけにえを
必要とするのです。

16 主は仰せられます、「だれか自分の命をかけてわたしに近づく
者があろうか」(エレミヤ30・21)と。

17 親愛なる皆さん! 終末をすべくくるリバイバル、メシヤの
世紀を開くためには、

66名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:07:53 ID:H.3.lmGc0
18 自己を完全に燃焼させ、全焼の聖なるいけにえとなる必要が
あります。

19 口では、愛には愛をもって、命には命をもってと言いながら、

20 その美(うるわ)しい言葉とはうらはらに、自愛心の性(さが)
をそのままに生きている現実が、リバイバルの障害となっているの
です。

21 現在の聖イエス会の霊性では、間に合いません。きょう、
今、この場で、自己の内的世界を変えられねばなりません。

22 終末的召命、それは自己をいけにえとする犠牲、無私の純粋愛、
アハバット・ヒナムです。

23 聖霊、来て下さい。聖霊、来て下さい!
 「今より、我は主なり!」

24 神のご計画に対する「成れかし」、無条件の全面的献身、それ
こそは全焼の聖なるいけにえです。

25 それではここで、大使徒パウロが神に用いられ、その使徒職・
祭司職において、輝かしい勝利を獲得した秘訣を学ぶ必要があります。

26 「わたしは自分の行程を走り終え、主イエスから賜った、

27 神のめぐみの福音をあかしする任務を果し得さえしたら、この
いのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない。」(使徒20・24)

67名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:08:40 ID:H.3.lmGc0
28 彼は自己を完全に、全焼のいけにえとして献げ切っています。

29 「わたしは、主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られる
だけでなく、死ぬことをも覚悟しているのだ。」(同21・13)

30 真実の愛は死よりも強く、死を乗り越えているのです。

31 「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。
世を去る時が近づきました。

32 わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、
信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。」
(Ⅱテモテ4・6〜8、新共同訳)

33 おお、殉教! それは、主イエス・キリストに対する、キリス
ト者の愛の最高の表現です。

34 愛は愛に死ぬことにおいて、ゴールを見いだすのです。

35 本当の使徒は、キリストの生涯を自己の生涯に再現いたします。
それに命をかけるのです。

36 もう一度申し上げます。使徒は「もうひとりのキリスト」と
定義されています。それであればこそ、

37 キリストの犠牲の生涯を、自己の生活において、再現しなければ
ならないのです。

38 自分自身を、聖なるいけにえとし、全焼のいけにえとし、新しい
事、すなわちイスラエルの民族的救いと、

68名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:09:21 ID:H.3.lmGc0
39 メシヤの世紀を開くために、神のみ旨に命をかけること、そこに
こそ聖イエス会の存在の意味があるのです。

40 聖霊! 聖霊、来て下さい!
「今より、我は主なり!」

41 イスラエルをアドナイと出会わせ、十四万四千人のイラス
エル人(びと)に、神の御名を印し、

42 選民と異邦人とによる、終末論的エクレシヤを完成し、

43 栄光のメシヤをお迎えすること、これこそは聖イエス会に
与えられた使命の核心です。

44 終末に預言されていた、起こるべき事が、今すでに始まって
いるのです。起こっているのです。あなたはそれを知らないのですか。

45 決定的瞬間ががぜん起こる。

46 イスラエルよ、来たれ! 来たりていのちを受けよ!
 「アニー フー!」

以上 聖イエス会信徒さんからの情報提供(古い聖イエス会資料集より)
…そのまま抜粋

69名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:09:59 ID:H.3.lmGc0
聖イエス会信徒さんからの情報提供(古い聖イエス会資料集より)
…そのまま抜粋
‘94献身希望者セミナーメッセージ
リバイバルの条件
 メッセージ:聖イエス会聖職者

 「『主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕(しもべ)たちに、
思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばし
ていやしをなし、聖なる僕(しもべ)イエスの名によって、しるし
と奇跡とを行わせて下さい。』彼らが祈り終えると、その集まって
いた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言
(ことば)を語り出した。」(使徒4・29〜31)

《Ⅰ》
1 愛する皆さん、私たちはきょうここに、聖霊の傾注を求め、
リバイバルを求めて集まってまいりました。

2 私たちは集会ごとに、「聖霊、来て下さい。聖霊、来て下さ
い」と、絶えず祈り求めてきましたが、まだ決定的な、革命的な
聖霊の傾注を体験していません。

3 その原因はどこにあるのでしょうか。真剣に考えてみなければ
なりません。

4 神様の側では、一刻も早く私たちを聖霊に満たし、
ネシー・エロヒムにしようと、天を開き、聖霊の油を
注ごうとしておられます。

70名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:10:54 ID:H.3.lmGc0
5 しかし、私たちの方は、口では「聖霊、来て下さ
い。聖霊に満たして下さい」と言いながら、受け取る
準備が全くできていないのです。

6 「聖霊に満たして下さい」と言いながら、既に何
かが一杯に入っている瓶を、差し出したり、また、惨めな
自分の姿のみを見て、顔を上げようとはしないのです。

7 これでは、神様が聖霊の油を注がれても、私たちの
心の内には、一滴も入らないのです。

8 きょう、私たちが、口先だけではなく、本当に聖霊
の傾注を求めるのなら、自分自身を空っぽにして、主の
み前に出なければなりません。

9 自我・自愛心、不信仰・不従順、世俗の思いを捨て、
空っぽの瓶となって、全く無となって、主を求めなければ
なりません。

10 無の中にこそ、最大の受容力があるのです。無と
なる時、主は惜しみなく十分に、聖霊をもって私たちを
満たし、ネシー・エロヒムとしてくださるのです。

11 きょう、無となって、神を求めましょう。無とな
って聖霊を求めましょう。

71名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:11:56 ID:H.3.lmGc0
12 主は言われる、「無となって、わたしに近づけ、
そうすればわたしもあなたに近づこう。今、あなたの口を
広くあけよ、そうすればわたしは、良きものをもって、
聖霊をもって、あなたを満たそう! あなたを満たそう!」
 「今より、我は主なり!」

《Ⅱ》
13 それではここで、リバイバルについて考えてみま
しょう。私たちがリバイバルを求めて、もう久しいのです。
しかし、いまだに私たちは、正真正銘の、聖書的なリバイ
バルを体験していません。

14 その原因は、いったいどこにあるのでしょうか。
その原因を究明し、真のリバイバルを獲得するためには、
どうしても、リバイバルの教科書である使徒行伝に注目
しなければなりません。

15 使徒行伝は、聖霊に充満された弟子達によって起
こされた、すばらしいリバイバルの記録です。しかし、
リバイバルは偶然に起こったのではありません。

16 リバイバルは起こるべくして起こったのです。聖
書は、リバイバルの条件を、はっきり教えています。

17 リバイバルの時代はもう過ぎ去ったのではありま
せん。私たちさえ、その条件を満たすなら、この終末的
な不信の時代においても、リバイバルは可能なのです。

18 それでは、聖書の示すリバイバルの条件とは何
でしょうか。

72名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:12:38 ID:H.3.lmGc0
19 まず第一に、自分がいかに無なるものであり、
無益な僕(しもべ)であるかを自覚し、謙遜になること
です。

20 イスラエルの弟子達のほとんどは、教育もない、
ガリラヤ出身の漁師でありました。しかし、彼らはなか
なか無にはなれず、自分の経験や腕に絶対の自信を持っ
ていました。

21 そして、互いに張り合い、肉の力に頼ってリバイ
バルを起こそうと力んでいました。しかし、その結果は
惨たんたるものでありました。

22 ついには、最愛の主を裏切り、もっとも大切な時
に、主を捨てて逃げ去ってしまったのです。この手痛い
大失敗を通して、初めて彼らは、自分がいかに無益の僕
(しもべ)であり、キリストを離れては何もできない者
であるかを知らされたのでした。

23 主は言われる「わたしはぶどうの木、あなたがた
はその枝である。もしあなたがわたしにつながっており、
またわたしがあなたとつながっておれば、あなたは実を
豊かに結ぶようになる。

24 わたしから離れては、あなたは何一つできない。」
(ヨハネ15・5参照)わたしにつながっていなさい。
わたしにつながっていなさい。わたしの愛の内にいなさい。
わたしの愛の内にいなさい。
 「神は愛なり!」

73名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:13:25 ID:H.3.lmGc0
《Ⅲ》
25 リバイバルの第二の条件は、聖霊を受け、さらに
聖霊に満たされることです。ただ聖霊を受けたという
だけでは十分ではありません。聖霊の充満の体験が必要
です。

26 聖霊の充満なくしては、主のご期待にこたえるこ
とも、イスラエルの期待にこたえることもできません。

27 しかし、恐れることはありません。ペンテコステ後
の弟子達の変貌ぶりを見ても明らかなように、聖霊の充満
は、私たちに、実手に天的な変容、信仰の革命を与えるの
です。

28 主は約束されました。「聖霊があなたがたにくだる
時、あなたがたは力を受けて、…地のはてまで、わたしの
証人となる。」(使徒1・8)聖霊を受けよ!聖霊に満たされ
よ!
 「今より、我は主なり!」

29 愛する皆さん。今や私たちは、このすばらしい聖霊を、
キリストの内住・現存を持っているのです。

30 それゆえ、内住のキリスト、オールマイティ―の御名
に対する、生き生きとした、圧倒的な信仰をもって立ち上が
りましょう。

31 そうです、聖霊を受けた私はキリストの体です。私の
手はキリストの手です。私が病める人の上に手を置くという
ことは、キリストが手を置かれることです。

74名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:13:59 ID:H.3.lmGc0
32 そうであるならば、しるしと奇跡が起こるのは当然の
ことです。私は「わたしを強くして下さる方の、全能力の
お陰で、すべてが可能です。」(ピリピ4・13、新共同訳参照)

33 「主よ、いま、サタンの脅迫に目をとめ、僕(しもべ)
たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そして
み手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕(しもべ)イエスの
名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい。」(使徒4・29〜30)
 「今より、我は主なり!」

《Ⅳ》(復唱説教)
34 リバイバルの第三の条件は、全き献身です。神に用いられ
た、最大のリバイバリストである使徒パウロは、こう言っていま
す。

35 「神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を
神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、
あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12・1、新共同訳)

36 いけにえとは、人の罪をあがない、神と人との和解を実現
するために、罪人の身代わりとなり、自分の命を犠牲としてささ
げることを意味します。

37 それゆえ私たちは、キリストの十字架の犠牲の精神を受け
継ぎ、再現し、現在化していかねばなりません。

38 九歳の……ちゃんは、聖霊に捕らえられ、完全に自分の命を
燃焼させ、奉天のリバイバルと、聖イエス会誕生のために全焼の
いけにえとなりました。

75名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:15:34 ID:H.3.lmGc0
39 リバイバルは命をかけた決断です。主は言われる、「だれか
自分の命をかけてわたしに近づく者があろうか。」(エレミヤ30・21)
汝は十字架を負いて、我に従え! 汝は我に従え!

40 イスラエルをアドナイに出会わせ、十四万四千人のイスラエル
びとに、神の御名を印し、

41 選民と異邦人とによる、終末的エクレシヤを完成し、
栄光のメシヤをお迎えすること。これこそは、聖イエス会に
与えられた使命の核心です。

42 終末に預言されていた、起こるべきことが、今すでに
起っているのです。あなたはそれを知らないのですか。

43 主は言われる、
   「見よ、わたしは新しい事をなす。
   がぜんそれは起る、
    …………………
   わたしが荒野に水をいだし、
   さばくに川を流れさせて、
   わたしの選んだ民に飲ませるからだ。」
   (イザヤ43・19、20)

44 イスラエルよ、来たれ! 来たりて命を受けよ!
「アニー フー!」
以上 聖イエス会信徒さんからの情報提供(古い聖イエス会資料集より)
…そのまま抜粋

76名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:16:59 ID:H.3.lmGc0
聖イエス会信徒さんからの情報提供(古い聖イエス会資料集より)
…そのまま抜粋
キリストの生活の再現
執筆者:聖イエス会聖職者???
 「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、
自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」
(マルコ8・34)
 ロゴス神学院では、毎朝、「私たちは何のためにロゴス神学院に
入学したのですか?」「それは聖人になるためであり、もう一人の
キリストになるためです。」「神学生とはなんですか?」「極みまで
キリストに従いたい人のことです」との問答から一日が始まります。
そのようにして、皆さんは四年間、共に生活し、共に学んでこられ
ました。この四年の間に、皆さんは多くの事を学びましたが、最高
の学びは、ロゴスであるキリストご自身を学んだ事であります。
そして、この「キリストに倣う」学課は生涯継続されなければなら
ない学課であります。
 卒業式を英語では「commencement」と言いますが、これはラテ
ン語の「共に始める」という意味からきています。そうです。卒業
とは何かの終わりではなく、何かの始まりなのです。皆さんは、
四年間「キリストに倣う」ことを学び、修業してこられましたが、
いよいよきょうから、それを実践する新しい生活が始まるのです。
キリストの生活を再現する本当の使徒職が開始されるのです。
 一口に「キリストの生活の再現」と申しましても、それは決して

77名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:17:35 ID:H.3.lmGc0
たやすい事ではありません。あなたが自力でどんなに頑張ってみても、
なかなか実現できるものではありません。しかし幸いなことに、あな
たがたの内にいますロゴスなるキリストが共に始めてくださるのです。
キリストご自身があなたがたの内から生きて下さるのです。愛して
くださるのです。キリストがあなたの内から、生き生きと歩んで下
さるためには、あなたが自我によって歩まない、すなわち完全な
自己放棄と明け渡しが求められます。私たちは、自分に死んだ度合
いに応じて、キリストに生き、キリストを再現することができるの
です。

78名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:18:26 ID:H.3.lmGc0
 キリスト教会最大の使徒と言われる聖パウロも、使徒職の成功の
秘訣をこう教えています。
 「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、
もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておら
れるのである。」(ガラテヤ2・19〜20)

79名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:19:00 ID:H.3.lmGc0
 愛する卒業生の皆さん、あなたがたの使徒職の成功の秘訣もこれ
しかありません。
 きょうから皆さんも先生と呼ばれる人になられるのですが、世の
中には、先生、先生と呼ばれ、多くの人に仕えてもらうことを喜び
とし、誇りとしている先生が、余りにも多すぎるのです。私たちの
主は仰せになりました。「わたしは仕えられるためにではなく、仕
えるために来たのだ」(マタイ20・28参照)と。神であり、救世主
であられるキリストでさえ、仕えるために来たとおっしゃるなら、
私たち小さき者が、主に仕え、また、すべての人に仕えるのは、余
りにも当然のことではありませんか。
 終末的危機に直面しているこの世界が、今必要としているのは、
もう一人の政治家ではありません。もう一人の実業家でもありませ
ん。もう一人の、学者・先生でもありません。それは、もう一人のキリ
ストです。他者の幸せ、他者の救いのために自分を犠牲にするもう一人の
キリストです。

80名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:19:32 ID:H.3.lmGc0
 主は仰せになりました。「人がその友のために自分の命をすてる
こと、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ15・13)と。・自・己
・主・張と・利・己・愛によって、まさに崩壊しようとしている
この世界を救い得るのは、自己犠牲と無私の愛以外にありません。
すなわち、もう一人のキリストとなったあなたがた以外にはありま
せん。若人たちよ、さあ行きなさい。この世界は、この時代は君た
ちを待っているのです。

81名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:20:08 ID:H.3.lmGc0
 それでは最後に、日々の祈りの中で、いつも祈って来ました、
聖女バルトロメア・カピタニオの祈り、「主イエスよ、私自信を
すべて捧げます」をご一緒に祈りましょう。

(卒業生復唱)
 主イエスよ、あなたは教えて下さいました。
 あなたへの愛と、隣人への愛とが、
 切っても切れない関係にあることを。

 これから先、私の主よ、
 あなたが下さったものの何一つも、
 私の所有物として保持いたしません。

 いのち、健康、能力、
 言葉、行い、持ち物
 それらすべてを、他者への奉仕に用います。

82名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:20:45 ID:H.3.lmGc0
小さい者、貧しい者、病む者に、
 徹底的に奉仕できるよう、
 余分なものはすべて捨て去ります。

 この約束の実行を、
 主よ、私は厳かに誓います。

 主よ、私は自分に頼りません。
 あなたと、あなたの恵みにこそ、
 全幅の信頼を置きます。

83名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:21:38 ID:H.3.lmGc0
私の主、私の神よ、
 分からせて下さい。
 取るに足りない私でさえ、
 あなたの全能の手の中でなら、
 偉大な業を行えるということを。

 私の神よ、常に私と共にいて下さい。
 私の心から、
 利己主義をすべて取り除き、
 私の心を、
 愛と献身とに開かせて下さい。

 私は自分のすべてを、あなたに委ねます。
 私はもはや自分のものではなく、
 私の命である主よ、
 ことごとく、あなたのものなのです。
 ことごとく、あなたのものなのです。

 「神は愛なり!」

以上聖イエス会信徒さんからの情報提供(古い聖イエス会資料集より)
…そのまま抜粋

84名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:23:32 ID:H.3.lmGc0
聖イエス会古い資料集・プリント集より(そのまま引用、抜粋)
 聖イエス会ヨセフ会部
生活の中での霊の戦い
試練の中で成長していく信仰

嵯峨野教会ヨセフ会修養会における講義から 聖イエス会姫路教会にて 〇月〇日
(聖イエス会聖職者…個人名省略)

● はじめに
 今日は詩篇第七十三篇のみ言葉を、ご一緒に学びたいと思います。
 ヨセフ会の方々は社会の第一線で働き、そのところで信仰の戦いを
しておられますので、「生活の中での霊の戦い」というテーマをとり
上げてみました。
 実際、ヨセフ会の方々は社会での仕事が非常に忙しいということも
あり、信仰的な面ではマリヤ会やヨハネ会に少し遅れをとるところが
ありますが、その真の理由は、教会は教会、仕事は仕事、というよう
に、信仰が社会生活の中で実践されていないというところにあると
思います。
 私達は、この現実的な社会の中で生きていかなければなりませんが、
日々の生活の中で、いわゆる「この世の人々」の考え方と、聖書が
教える生き方との間の大きな矛盾にぶつかります。聖書の教えが頭で
はわかっていても、現実の社会の中で、それを実行することは難しい
ために、ある人々は非常に割り切ってしまって、教会は教会、仕事は
仕事、家庭は家庭、と三本立てで生きる、ということになります。
 しかし、私達が信仰者である、ということは、存在そのものをかけ
て信仰者であるということなのであって、「私は教会では信仰者である
が、会社や家庭では信仰者でなくなる」ということはあってはならない
のです。私達はどこにあってもキリスト者でなければなりません。

85名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:24:24 ID:H.3.lmGc0
 確かにサタンの支配下にある世俗の場は、私達信仰者にとって生きに
くい所です。世の中の人々の生き方と私達の生き方とは、多くの場合、
正面衝突してしまうわけであり、うまく合わせていくのは難しいこと
です。ですから、時には信仰の態度を貫くことによって、のけ者にさ
れてしまうこともあり、また、同調することによって信仰そのものを
失ってしまうこともあり得るのです。
 そのような霊的な葛藤の中で、皆さん方は生きていらっしゃるので
す。今日はこの詩篇を通して、霊的な戦いと試練の中で成長していく
信仰について学んでみたいと思います。

● 信仰の結論
 この詩篇第七十三篇は「アサフの歌」と言われています。アサフ
という人は、ダビデ王から楽長(聖歌隊の隊長のようなもの)の任
命をいただいた人であり、詩的な、音楽的な才能にも恵まれていて、
詩篇もたくさんつくった才人でありました。
 この詩は、単なる創作ではなく、アサフが自分自身の苦しかった
霊的な戦いの体験を、赤裸々に歌ったものですから、それを学ぶこ
とは私達にとっても、大きな光となり、挑戦となり、また慰め
ともなるのです。
 さて、第一節を見ますと、

 「神は正しい者にむかい、
 心の清いの者にむかって、まことに恵みふかい」

とあります。
 彼はまずここに、自分自身の体験をとおして得た信仰の結論を
歌っています。「神は公平な方であり、私達の行い、思い、動機
さえも見ておられます。最終的には、正しい者、心の清い者に
むかって恵みを与えられる」と証しています。

86名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:25:25 ID:H.3.lmGc0
● 信仰のつまずき
 ところが、二節以下を見ますと、彼がこの結論に到達するのは、
容易なことではなかったということがわかります。彼はある時に
は、信仰から落ちてしまいそうなところまで追い込まれ、神様の
現存さえ、わからなくなるような、みじめな霊的状態にありまし
た。

 「しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、
 わたしの歩みがすべるばかりであった」(2)

と、彼は正直に告白しています。
 信仰生活は順調なときばかりではありません。非常に魂が疲れ、
心も傷つき、集中力がなくなって、投げやりになってしまい、祈る
こともできない、聖書を読む気もしない、教会にも行きたくない、
突然いろいろな疑問や不信仰な思いがわいてくる、というような、
思いがけない試練がおそってくることがあります。
 これは、まさしくサタンの働きです。私達の魂が疲れるときには、
サタンはこの時とばかりに、一気におそいかかってくるのです。
アサフの場合もそうでした。
 信仰の落伍者のことを、英語では「バックスライダー」と言い
ます。前に進まないで、後ろにすべっていく人、という意味です。
彼は、信仰的に前に進めないで、後ろすべりにすべっていた、と
いうことをここに告白しているのです。

87名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:26:10 ID:H.3.lmGc0
● 悪しき者の栄え
 彼がそのようにつまずき、悩んだ原因は、三節に記されています
ように、
 「悪しき者の栄えるのを見て、
 その高ぶる者をねたんだからで」

ありました。
 わかりやすく申しますと、信仰もしないで、いい加減な生活をして
いる人が、不正な手段でどんどん金をもうけ、立派な家を建て、幸福
そうにしている。そして、自分のように一生懸命信仰し、まじめにし
ている者は、あまりいいことがない。少しも出世せず、お金もたまら
ない。正義の神がおられるのなら、こんな不公平なことがあってよい
のだろうか、という思いが彼の心にふっとわいてきました。そして、
その人々をねたましく思ったのでした。
 確かに世の中には、不公平なことがたくさんあり、神がおられるの
なら、なぜあのような事が行われているのか、なぜあのような人が
罰せられないのか、また、なぜあのような真面目な人が祝されないの
か、といった疑問を、多くの人々が持つのです。旧約聖書のヨブなど
もそうです。
 問題は、それが正義感からだけではなく、そこにねたみがあるとい
うことです。アサフの場合も、ねたみがあったと告白しています。
そのために、神に対する信頼までが、ぐらつき始めたのです。
 その後、四節から十二節までに、この世の成功者達の姿が実にリア
ルに描かれています。

88名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:26:52 ID:H.3.lmGc0
 彼らは何事も調子よくいき、健康にも恵まれている。そして、真面
目な人々のように悩んだりせず、他の人々から攻撃されることもない。
彼らは高慢で、暴力を振りまわして、すべてのことを思うように動か
す。
 そして、彼らは真面目に生きている人をちょう笑し、神に対して冒
とく的なことを言う。人々も、彼らを称賛し、おべっかを使い追従
する。彼らは悪しき者であり、不正な生き方をしているのに、良心の
かしゃくもなく、安らかで、富が増し加わっている。それにひきかえ
自分は……。彼はこの世の成功者と自分を比較して落ち込み、不信仰
になってしまいました。

 「まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、
 罪を犯すことなく手を洗った」(13)

 彼は信仰に熱心な人であり、心を清く保つために罪をさけ、汚れた
ものに手を出さず、一生懸命真面目な信仰生活をしていましたが、
その悪しき人達の成功する姿を見たときに、突然、自分のしている
ことが馬鹿馬鹿しく思えてきました。

 「わたしはひねもす打たれ、
 朝ごとに懲らしめをうけた。」(14)

とありますが、彼は確かに多くの問題を抱えていたようです。
 例えば、経済的に破産したときに、家族が大病をして入院しなければ
ならなくなった、というように、追いうちをかけられるように試練を
受けたのではないかと思われます。悪者達の楽しそうな生活に比べて、
神を信じている自分は次々と試練に会わされている。彼の心は不平不満
で爆発しそうでした。

89名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:27:30 ID:H.3.lmGc0
● 神の聖所に行く
 「もしわたしが『このような事を語ろう』」と言ったなら、
 わたしはあなたの子らの代を誤らせたであろう。」(15)

 彼はその不満を、だれかに話したかったのです。けれども、
そのようなことを語ったなら、多くの人々をつまずかせた
でしょう。彼は、口まで出かかっていた不満を、言わなかっ
たのです。これは正しいことです。
 私達が信仰の試練を受け、いろいろ不信仰なことを心に
思ったとき、すぐ教会に来て、神の前で悔い改め、導きを
受ければ、それで解決がつくのですが、霊状の悪い時には、
牧師にも会いにくいので、他の人々のところへ行って、い
ろいろなことを言います。それで、信仰の浅い人や求道者
がつまずくことがよくあります。しかし、彼はそれを言い
ませんでした。

 「しかし、わたしがこれを知ろうと思いめぐらしたとき、
 これはわたしにめんどうな仕事のように思われた。」(16)

 彼は、神の御心がどこにあるのか、なぜこういうことに
なっているのか、ともっと考えたかったのですが、疲れて
しまって、投げやりになってしまっていました。
 彼はおそらく、教会へも行きたくない、というような気持
ちになっていたに違いありません。そのような気持ちは、
人間としてはよくわかります。

90名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:28:17 ID:H.3.lmGc0
 けれども、人間にとって一番牧師に顔を合わせたくない
ときは、一番牧師に会わなければならない時なのです。一番
教会に行きたくない時は、一番教会に行かなければならない
時なのです。けれども、人間は自愛心のため、なかなか裸に
はなれないために、その逆になることが多いのです。そのた
めにいよいよ信仰のつまずきが大きくなり、サタンにつけ
こまれることになります。
 しかし、彼はそのような試練のどん底にあっても、

 「わたしが神の聖所に行って」(17)

と言っていますように、神の家に行ったのです。ここに彼の
救いがあったのです。
 神の前に出なければ、問題の真の解決はないのです。こう
いう時は、この世の知者のところに、また、自分の話に同情
してくれる人、また、一緒に涙を流してくれる情けの厚い人の
ところに行き、いろいろなことを言いたいものです。けれども、
果たしてそこに本当の解決があるでしょうか。
 人間的な同情や慰めはもらえても、真の問題の解決は、神の
所に行く以外に、絶対にないのです。神の臨在の中でこそ、
私達のすべての問題に解答が与えられるのです。「神の現存こ
そは救いである」と聖書に書いてあります。

91名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:28:50 ID:H.3.lmGc0
 彼は、どうしようもない状況の中で、それでも神の宮に行き
ました。神の前に出ました。そのとき、神は彼をあわれみ、そ
のところで変えて下さいました。そして、彼は神から一つの
啓示を受け、神の目をもって、もう一度、現実を見せられまし
た。
 神が人間の心に革命を与えて下さったとき、その人のものの
見方や考え方が変えられてしまいます。それまでは、低い所に
立って、信仰のない人々と同じものの見方で、現実を見ていま
した。すると、信仰のない人と同じ不満、つぶやきが出てきます。
けれども、彼の心に革命が与えられたとき、今度は神と同じ
立場で、神と同じ目で現実を見るようになりました。

92名無しのひつじさん:2018/11/08(木) 00:29:23 ID:H.3.lmGc0
● 悪しき者の末路

 「まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、
彼らを滅びに陥らせられる。」(18)

 そのなめらかな道こそは、滅びに至る道である
ことを、彼ははっきり見せられました。

 「なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、
恐れをもって全く一掃されたことであろう。」(19)

 人間は一瞬先の事も見えません。永遠のことは、ましてや何も
見えません。そのため、目先の現実だけを見て、物事を判断して
しまうのです。
 しかし、彼は永遠の目で、悪しき者達の末路を見せられたので
す。
 「あなたが目をさまして
彼らの影をかろしめられるとき、
彼らは夢みた人の目をさました時のようである。」(20)

 神はいつまでも、悪を放置しておかれるわけではありません。
神には、神の時があります。神は公平な方であり、義をもって
必ず裁かれる方です。
 ついに、神は彼らに、まことに厳しい裁きをお与えになった。
彼はそれを見せられたのです。


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