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つれづれなるままに

1名無しのひつじさん:2015/06/25(木) 05:28:57 ID:2uQmnQCk0
流しては惜しいと思う考えを書き込んでください

36名無しのひつじさん:2015/08/27(木) 05:56:43 ID:2uQmnQCk0
原爆に関してはどうだろうか?
 
原爆を落とした側でなく、落とされた側で本当によかったと思う。
かりに日本人が落としたなら、それこそ永久に責められ、
永久に謝罪させられることだろう。
 
核はこれからも持たない方がいい。そのために日米安保がある。
同盟国アメリカを信頼してアメリカの核抑止力に委ねよう。
それ以外の選択肢はない!
 
明治時代の日本は、李氏朝鮮の事大主義にはうんざりしていた。
それが結局、日韓併合条約につながってしまった。
これは歴史の教訓であって、アメリカにとっての現代日本が、
日本にとっての李氏朝鮮になってはならないw

37名無しのひつじさん:2015/08/27(木) 06:00:03 ID:2uQmnQCk0
それではアメリカに頭が上がらないではないか、
と心配する向きもあるだろう。
しかし、世界はアメリカに頭の上がらない国ばかりだし、
軍事的にも物質文明的にもアメリカには勝てない。
  
日本がアメリカから自由になる日は来るのだろうか。
その可能性はある。精神文化でアメリカに勝てばいいのである。
アメリカはプロテスタントの国だから、
キリスト教を粉砕すればアメリカに勝つことができる。
  
人間は精神的なバックボーンがなければ弱体化する。
キリスト教が粉砕されたら、白人優位の世界秩序は崩壊するだろう。
それが誤り(洗脳)であることは明らかになりつつある。
あとはそれをどう発信するかである。

38名無しのひつじさん:2015/09/20(日) 13:06:30 ID:2uQmnQCk0
自衛戦争も集団的自衛権も合憲である

9条1項は、侵略戦争を否定するが、自衛戦争を否定していない。
9条2項は、侵略戦争をするための戦力保持を禁止している。
従って、自衛戦争は完全に合憲であり、自衛隊も完全に合憲であり、
自衛戦争であれば個別的・集団的自衛権のどちらも認められる。
これは日米安保条約の前文でも確認されている。

9条に13条を絡ませようとする学者もいるが、
9条は国際法に関係し、13条は国内法に関係するわけだから、
9条と13条とは絡みようがない。

13条は個人の尊重と公共の福祉を規定している。
国が亡くなれば、憲法もなくなるわけだから、
9条による自衛戦争は、法理として13条に優先している。

39名無しのひつじさん:2015/09/29(火) 22:44:04 ID:2uQmnQCk0
ヨハネ15:13
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
ヨハネの手紙4:8
「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」
 
これが真実ならば、神は最善のものを人間に与えるはずである。
これを前提に、次の聖書個所を読んでみよう。
 
創世記2:7
「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹きいれられた。」
ヨハネの黙示録22:17
「命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」
 
神は人間に、最善のもの、自分自身を与えなければならない。
ゆえに聖書からも、神は命そのものである、という結論になる。

40名無しのひつじさん:2015/09/29(火) 22:50:10 ID:2uQmnQCk0
神と聖霊は同じものである。
なぜなら人間は、聖霊体験以外に、神を知る方法がないのだから。
 
問題は、イエスが神に類似したものかどうかである。
かりに神が全能ならば、イエスは単なる人間でしかないだろう。
なぜなら、神の力を使えば人類の罪を赦せるのに、わが子を十字架で生贄に
するはずがないからである。愛の神ならそんなことはやらない。
  
神が全能でないならば、人間は自分の罪を背負って生きざるを得ない。
この場合も、イエスは人類の罪を少しも購っていないのだから、
自動的に単なる人間ということになる。
いずれにしろ、イエスを崇拝するキリスト教は作り話ということになる。

41名無しのひつじさん:2015/09/29(火) 22:52:25 ID:2uQmnQCk0
福音書は、人類の贖罪のため、神がわが子イエスを十字架で処刑する
話である。この話から想起するのは、旧約の過越祭と贖罪日とモレク神への
生贄である。パウロはモレク神への生贄もイメージしたかどうか。
 
モレク神への生贄は、レビ記20章に「自分の子をモレク神にささげる者は
必ず死刑に処せられる。」とある。列王記上11章に、ソロモンはモアブ人の
憎むべき神ケモシュのために、エルサレムの東の山に聖なる高台を築いた。
アンモン人の憎むべき神モレクのためにもそうした。列王記下23章には、
王はベン・ヒノムの谷にあるトフェトを汚し、だれもモレクのために自分の
息子、娘に火の中を通らせることのないようにした。

42名無しのひつじさん:2015/10/28(水) 12:07:05 ID:2uQmnQCk0
ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も他の宗教もすべて、
神だ、神だと言うだけで神の正体を語らずに信仰を説いてきた。
仏教は空だが、正体がわからない点は神と同じである。
しかし今や、神の正体は明らかになった。神は「命」である。
それゆえ、既成宗教はすべて過去の遺物になる。
 
何千年も、こんな簡単なことがなぜわからなかったのか。
無知で愚かな民衆に、じつは人間が神とつながりのある存在だと、
気づかれたくなかったからかもしれない。
民衆が神とつながりのある存在だと知ったら、支配者や権力者は
彼らを奴隷にできないし、虐殺することもできなくなくなる。
民衆は洗脳によって神から遠ざけられていた。
 
神は「命」である。これが新しい時代の宗教になる。

43名無しのひつじさん:2015/10/28(水) 12:15:11 ID:2uQmnQCk0
坐禅は霊魂体験を目的とし、次のように展開する。
雑念 → 非想非非想 → 魔境 → 想受滅 → 霊魂 → 成道
 
① 非想非非想は、想うでもなく想わないでもないという、その名が示す
ようにまだ意識が残っている。悟りの境地と誤りやすい。
② 魔境には非想非非想を続けることで入る。ここでは、鮮明な映像世界で
心の奥底を試される。心を試されるのだから当然、意識がある。
③ 想受滅。魔境を無事渡ると脱魂し、想受滅に落ちる。意識が消滅する。
④ 霊魂が突然、白い霧の世界に出現、その中を猛スピードで飛行。
霊魂には意識があり、意識は清浄な霧に100%満足している。
⑤ 成道。その霊魂が坐禅中の身体に生還できれば成道(悟り)である。
 
* この経過中、③と④に死ぬ危険性が伴う。
* この危険性を避けるために半眼で行う。ただし非想非非想止まり。
* いずれにしろ、坐禅は自分の責任で行うものです。

44名無しのひつじさん:2015/10/28(水) 12:18:20 ID:2uQmnQCk0
成道においては、自分の霊魂が空中に満月のように浮かび、
それが猛スピードで自分に向かって来る。そして霊魂に飲み込まれる。
自分が霊魂を飲み込むのではなく、霊魂に自分が飲み込まれる。
次の瞬間、集中が急速に緩んで坐禅が終了する。

この情景は自分が自分を見るわけだが、
そんなことはあり得ない、と思っている人がほとんだろう。
事実は小説より奇なり、そんなことがあり得るのですね。
トカゲの尻尾切りと同じで、身体から霊魂が抜けても、坐禅中の身体
にはまだ意識(マナ識)が残っている。これが反応している。
 
死んだ状態でも、すぐに火葬しないのは正しい葬儀作法だと思う。
少なくても24時間以上は様子を見るべきである。

45名無しのひつじさん:2015/10/29(木) 10:52:04 ID:2uQmnQCk0
念仏禅や求聞持法なども、半眼で坐禅するのと同趣旨であり、
坐禅中に死ぬことを防止するためである。
親鸞は念仏禅(?)で魔境体験をし、空海は求聞持法で霊魂体験をする。
その坐禅方法は不明だが、夢窓も霊魂体験をしている。
 
釈尊の霊魂体験はまったく別の入り方だったと思う。
聖霊体験から、坐禅による霊魂体験に入ったのはまちがいないだろう。
聖霊とは、命そのものであり、神そのものでもある。
神を知って坐禅をするならば、死を恐れるということは生じない。
聖霊体験があれば、神を信頼し、神に自分を委ねるから短期間で成道する。
 
悟るためには、聖霊体験 → 霊魂体験という順序が王道だと思う。
しかし、聖霊体験は霊魂体験よりさらに難しい。
神に愛されないと聖霊体験は生じない。

46名無しのひつじさん:2015/10/29(木) 11:01:18 ID:2uQmnQCk0
聖霊体験をするにはどうしたらいいのか。
神との出会いが聖霊体験だから、まず神を探すことが出発点になる。
生きている意味は何か。自分は何のために生きているのか。
こういった問いも神探しと同じ意味である。
 
30歳の頃、幸い聖霊体験に続いて霊魂体験をすることができた。
それまで宗教本とは無縁、フロイトで「心の仕組み」を学び、
唯物弁証法で「空」を自分なりに理解していた。
とはいえ、なぜ聖霊体験ができたかと言えば、貧乏のどん底で苦しみ、
精神的にも追い込まれていたからだろうと思う。
 
この体験には「どん底」で苦しむこと、精神的に追い込まれることが
欠かせないようである。なぜなら、そうでないとその人間の心底の思いに
ならないからではないだろうか。神はその人間の真実の声を聞こう
としている。神は人間に騙されるような御方ではない。

47名無しのひつじさん:2015/10/29(木) 11:04:04 ID:2uQmnQCk0
そんな「どん底」で、自分の何が悪いのかと考えていたが、
すべて自業自得、自分が悪いことにふと気づいた。
この世に生を受けた最初から、自分中心にしか生きて来なかった
ことにやっと気づいた。これを猛烈に悔い、その取返しなさに、
もう死ぬしかないと心が潰れてしまった。
 
そしたら突然目が見えなくなり、「中」という漢字を横倒しにした
幻覚が一瞬浮かびあがり、命の雫が頭の中、眉間の辺りにスッと
一滴落ちてきた。これがわたしの聖霊体験です。
 
命の雫によって、神を笑っていた唯物論者が一瞬のうちに
180度逆の有神論者に変わってしまった。その後に霊魂体験や
龍神体験もしたが、聖霊体験が最大の神秘だったと思う。

48名無しのひつじさん:2015/10/30(金) 08:55:11 ID:2uQmnQCk0
ただし、自分が歩んできた道のりを思うと、
悟りや聖霊体験をすすめる気が起きなくなってきた。
それより、命こそが神なのであり、人間の本質は霊魂なのであり、
神の分霊である霊魂はけっして死ぬことがないと知り、
それを信じて生きる方が何十倍も簡単なのです。
 
旧約聖書、エレミヤ書31:33-34
来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、
と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、
彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神になり、彼らはわたしの
民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」
と言って教えることはない、彼らはすべて、小さい者も大きい者も
わたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、
再び彼らの罪に心を留めることはない。

49名無しのひつじさん:2015/10/31(土) 15:25:07 ID:2uQmnQCk0
輪廻についてはわからない。
霊魂があるのだから輪廻があっても不思議ではないが、
輪廻の体験的な証拠がない。
 
心のどこかに前世の記憶が保存されているなら、たとえわずかでも、
その名残りが発見されてもいいはずである。
それを坐禅の中に探せば、魔境の中で出会った自分自身だろうか。
 
魔境の中、わたしは小川を前に坐禅をしていた。すると上流から人間が
流れて来る。それは頭を先に仰向けになり、少し水に沈んだ状態で
すぐそばまでやってきた。その顔を見てぎょっとした。まったく違う顔だが、
それが自分であることを直感したからである。それは蠱惑的な顔をした、
生きている死体であった。わたしは言い知れぬ恐怖感に襲われ、
助けるのではなく、流れてきた自分をそのまま水に流した。
その瞬間、バチンという音とともに、電気が切れるように想受滅に落ちた。

50名無しのひつじさん:2015/10/31(土) 15:29:19 ID:2uQmnQCk0
ここに現われた自分自身はいった何なのか。いろいろ考えた末、
いまは唯識で言う所のアラヤ識ではないかと思っている。
 
アラヤ識が汚れたものであることはわかったが、
具体的に何がどう汚れているかはまったく伝わって来なかった。
それは生きているのに、何も発信できないから死んでいる。
自分の中にそんなものが潜んでいたことになる。
 
唯識では、アラヤ識が輪廻を担うものとして想定されている。
アラヤ識と死ぬことのない霊魂がそろえば、輪廻の可能性が極めて
高くなる。しかし、それでも輪廻を肯定できないのは、
前世の記憶がまったくなく、確たる証拠がないからに他ならない。
ゆえに、このテーマは「無記」とするのが妥当だと思う。

51名無しのひつじさん:2015/10/31(土) 15:30:55 ID:2uQmnQCk0
霊魂とアラヤ識の関係
 
小川に流れてきた自分を見捨てたら脱魂し想受滅に落ちた、ということは、
アラヤ識である自分の中に霊魂があったからに違いない。
その後、神界に霊魂だけで出現するが、これはアラヤ識である自分が
何らかの経過で清算されたことを意味している。
 
たとえば、霊魂がアラヤ識から抜け出る経過なのかもしれない。
アラヤ識から抜け出るのに時間がかかるのか、それともかからないのか。
ここに想受滅の時間に個人差が生じる理由があるように思う。
わたしの場合は想受滅で2時間ぐらいが消えた。

52名無しのひつじさん:2015/11/03(火) 09:41:44 ID:2uQmnQCk0
さて、いよいよ本題に入りたい。
神が命であること、人間に霊魂があることはすでに繰り返して語った。
これを基準にすれば、既成宗教の真偽が簡単に判別できる。
 
ユダヤ教もキリスト教もイスラム教もヒンドゥー教も、
真理に触れる部分がないわけではないが、その核心部分で全部落第である。
空を説く伝統仏教もしかり、創価などの新興仏教もしかり。
そんなことだから、すべてをいったん切り捨ててしまおうじゃないか。
 
仏教を含め、アーリア系の「一神教」的発想を乗り越える者は誰か。
中国人は儒教だから、残るは日本人しかいない。
そろそろ、日本から新しい宗教を世界に発信してもいいのではないか。
出口なしの「一神教」に風穴を開けようじゃないか。

53名無しのひつじさん:2015/12/27(日) 07:44:04 ID:2uQmnQCk0
ヨブ記を解読するには42:5-6から始めるのが近道です。
ここに物語における、ヨブの最初の信仰レベルが書かれており、
最終的な到達点が書かれています。
 
5あなたのことを、耳にしてはおりました。
 しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
 
6それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
 自分を退け、悔い改めます。

54名無しのひつじさん:2015/12/27(日) 07:55:05 ID:2uQmnQCk0
5あなたのことを、耳にしてはおりました。
 
この内容から、ヨブは神を直接知らず、周囲から学んだだけであり、
知識の信仰でしかなかったことがわかります。
その中心的信条は「悪いことをしない、善いことをする」に尽きます。
 
この信条は、七仏通戒偈(諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教)と
同じであり、非信仰者も持つことができる内容です。
従ってヨブ記は、仏教徒にも非信仰者にも参考になるような物語です。

55名無しのひつじさん:2015/12/27(日) 07:58:51 ID:2uQmnQCk0
5しかしこの目で、あなたを仰ぎ見ます。
6それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
 自分を退け、悔い改めます。
 
これがヨブの到達した地点です。
文章的には、神を見る → 悔い改める の順番になってますが、
実際にはこの逆、悔い改める → 神を見る になります。
その理由は、いきなり神を見ても、悔い改めは生じないからです。
   
では、ヨブはどこで悔い改めをするのか。
これは32章〜37章に登場する謎の男、エリフが鍵になります。
ヨブのもとには三人の友人しかいないのに、突然エリフが登場します。
このエリフこそ、無意識に自問自答し始めたヨブなのです。

56名無しのひつじさん:2015/12/28(月) 19:54:32 ID:2uQmnQCk0
31:35-37には、悔い改める直前におけるヨブの心境があります。
わたしは絶対に正しい、という思いが力強く綴られています。
 
どうか、わたしの言うことを聞いてください。
見よ、わたしはこれに署名する。全能者よ、答えてください。
わたしと争う者が書いた告訴状を、わたしはしかと肩に担い、
冠のようにして頭に結び付けよう。わたしの歩みの一歩一歩を彼に示し、
君主のように彼と対決しよう。

神とは無関係に、すべて自業自得だったと気づくのが悔い改めです。
自分の不幸を全部飲み込んで、
自分の力で「虚空」に「正義」を打ち上げたのです。

57名無しのひつじさん:2015/12/28(月) 20:02:20 ID:2uQmnQCk0
神が登場する38章〜41章までは、作者による「神の賛歌」ですね。
ざっとですが、こんな流れになるだろうかと思います。

神とは無関係に、すべて自業自得だったと気づくのが悔い改めです。
自分の不幸を全部飲み込んで、
自分の力で「虚空」に「正義」を打ち上げたのです。
  
その直後に、神との出会いが生じます。
神は圧倒的であり、心の傷を完全に癒してしまいます。
思いがけない、地獄から天国への飛翔です。
ヨブの次の言葉は、神への、心からの感謝です。
 あなたのことを耳にしてはおりました。 
 しかし、この目であなたを仰ぎ見ます。
 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
 自分を退け、悔い改めます。

58名無しのひつじさん:2015/12/29(火) 16:04:09 ID:2uQmnQCk0
そうすると、ヨブが悔い改めた内容が見えてくる。
 
自分は絶対に正しい、という思いが、じつは単なる思い込みでしかなく、
本当は少しも正しくなかったことに気づいてしまう。
ああ、全部わたしが悪かったのか・・・
これがヨブの心を圧倒し、ヨブの心を粉砕してしまう。 
次の瞬間、ヨブは神に出会う。
 
神が登場する38章〜41章までは、作者による「神の賛歌」ですね。
ざっとですが、こんな流れになるだろうかと思います。

59名無しのひつじさん:2016/02/05(金) 09:11:44 ID:2uQmnQCk0
命と物質の二元論 〜 その1
 
宇宙は138億年前、ビッグバンによって誕生しました。
このとき、無から有へ、命と物質が同時に対になって出現したのです。
 
無をゼロにすれば、プラスの方向が命であり、マイナスの方向が物質です。
二つ合わせればゼロだから、命は凸、物質は凹であるとも考えられます。
陽と陰の関係と言ってもいいでしょう。
ですから、命の側にある性質は、物質の側にある性質と逆になります。
両者は凹凸の関係、あるいは陰陽の関係になります。
 
この命が神です。物質のことを神とは言いません。
以上から、神=命には神の摂理があり、物質には物質の法則があります。
神が万物を創造したという一元論は、作り話でしかありません。

60名無しのひつじさん:2016/02/05(金) 10:12:24 ID:2uQmnQCk0
命と物質の二元論 〜 その2
 
では、神とはいったい何でしょうか。
私たちが絶対に知ることのできない存在なのでしょうか。
仮にそうであったら、神が絶えず語られ続けているのはなぜでしょうか。
 
神が語られ続けるのは、何らかの心当たりがあるからではないでしょうか。
そんな神はいったい何でしょうか。「命」以外にありえません。
 
シルバーバーチ霊は、神は命であり霊である、と繰り返し説いています。
この定義に、わたしも100%同意します。

61名無しのひつじさん:2016/02/05(金) 10:25:14 ID:2uQmnQCk0
命と物質の二元論 〜 その3
 
他方、神と対になっている物質の方は明らかです。
物質の世界にいる私たちは、五感によって物質を知ることができます。
ここでは、物質の法則である自然法則が機械的に支配しています。
たとえば、引力や重力、作用と反作用、因果の法則などです。
 
生き物が全くいない、荒涼とした大地は死の世界ではないでしょうか。
オーロラや星々が輝いている夜空も無意味でしかありません。
物質は鈍重であり、愛とも叡智とも真理とも永遠とも関係ありません。
要するに物質は、神(命)とは別の存在なのです。

62名無しのひつじさん:2016/02/06(土) 12:27:30 ID:2uQmnQCk0
命と物質の二元論 〜 その4
 
ここまで来れば、「人間とは何か」が明らかになります。
私たちは、命と物質が合体した、二元的で矛盾した存在なのです。
愛と憎、叡智と愚鈍、真理と虚妄、永遠と変化などが、
私たちの中で渦を巻いて同居しているのです。
 
私たちは生きている限り、二元的で矛盾した存在であり続けます。
それに悩まされながら生きることになります。
私たちが二元的に考えるのは、私たちの構造上、必然なのです。
 
こういったことを悟ったから釈尊は、神(命)にも物質(身体)にも、
どちらにも偏らずに生きる「中道」を説いたのだと思います。
同じことをシルバーバーチ霊も説いています。

63名無しのひつじさん:2016/02/06(土) 12:32:05 ID:2uQmnQCk0
命と物質の二元論 〜 その5
  
神(命)は、霊魂(形ある命)として、私たちの中に存在します。
物質は、霊魂の生命力を得ることで、身体となります。
霊魂と身体のクッション役が、心(意識・マナ識・アラヤ識)です。
 
神(命)と霊魂(形ある命)との区別に触れておきます。
霊魂は神によって誕生します。ところが、霊魂は透明な球体であり、
個人意識の究極でもあるのです。
どういうことかと言えば、霊魂は神から生まれたはずなのに、
もはや神ではない別の存在になっている、ということです。
 
神の愛はアガペーです。神(命)には形がないから可能なのです。
が、霊魂は形のある命だから霊魂は個体です。自分を砕くような愛は
不可能なのです。この違いは天地ほどの開きになります。

64名無しのひつじさん:2016/02/06(土) 12:36:27 ID:2uQmnQCk0
命と物質の二元論 〜 その6
 
神と霊魂との間には天地の開きがあります。
そのうえ霊魂を、アラヤ識という「無明」が覆っています。
私たちはアラヤ識によって、鈍重な物質世界の奴隷にされているのです。
だからこそ、私たちは「神の息」によって誕生したとは言え、
神の子などとは口が裂けても言えないわけです。
私たちが神の子などと言わないように、何重にもロックされているのです。
 
そういう意味で、人間を「神の子」と呼ぶことには同意できません。
その言葉には、愚かな人間を傲慢にする要素があるからです。
そう呼んで憚らない、シルバーバーチ霊に距離を置きたいと思います。

65名無しのひつじさん:2016/02/06(土) 12:41:08 ID:2uQmnQCk0
命と物質の二元論 〜 その7 <霊界>
 
シルバーバーチ霊は、人間は死後、
その全員が霊界に復活するのだと説いています。三千年前に死んだ自分が、
こうして今、霊媒を通して語っていることが何よりの証ではないかと。
彼は霊界が存在することの証人でもあるわけです。
 
命と物質があり、命かつ物質である人間もいます。
しかしまだ、命でもなく、物質でもない論議領域が残されています。
シルバーバーチ霊はこの領域の住民であり、この領域が霊界になるのです。
これは「中論」の四区分別ですが、ベン図で確認するのが簡単です。
 
霊界の話になれば、シルバーバーチ霊の本領発揮です。
身体から離れた人間は、思念のみの存在になるそうです。霊の世界は
夜の夢に似ているが、もっと鮮明で多様であるとも語っています。

66名無しのひつじさん:2016/02/11(木) 16:43:29 ID:2uQmnQCk0
命と物質の二元論 〜 その8 <不幸の原因>
 
地球が誕生してから46億年が経過しました。
人類出現は20万年前だから、人類出現に46億年が費やされたわけです。
この膨大な時間は、命が物質に宿ることの困難さを物語っています。
霊魂=心(意識・マナ識・アラヤ識)=身体という、
人間の重層的な構造からも、命が物質に宿ることの困難さがわかります。 
 
地上には悲しみや苦しみが常に満ち溢れています。命と物質の二元論は、
この不幸の原因を「命と物質が合体した必然である」と説きます。
 
命と物質はなぜ合体を目指すのでしょうか。それが神の願いだからです。
神(命)は、この地上を神の楽園にしようと計画しています。
この地上は神の戦場です。人間は神の戦士なのです。

67名無しのひつじさん:2016/02/11(木) 16:48:01 ID:2uQmnQCk0
命と物質の二元論 〜 その9 <命と物質と霊界の関係>
 
① 神(命)は、愛であり叡智であり永遠であり、変化しません。
真理が変化したら真理でなくなります。凹凸の凸、陰陽の陽にあたります。
 
② 物質は逆に変化します。その変化は因果の法則に従います。
しかし物質には愛も叡智も永遠もありません。凹凸の凹、陰陽の陰です。
 
③ 霊界は、命と物質を生きた、死者の霊魂が向かう場所です。
死者はすでに、命から愛を学び、物質から因果の法則を学んでいます。
この二つ、愛と因果の法則が霊界に秩序をもたらします。
この秩序が霊格に基づく界層を作り、霊界に天国と地獄を作り出します。
 
◇従って人間は、生前から、愛と因果の法則に的を絞るべきなのです。

68名無しのひつじさん:2016/02/29(月) 17:50:22 ID:2uQmnQCk0
カフカの変身 〜 その1 <贖罪説>
 
人間は生まれながらに罪人であり、その罪を贖うためにイエスが十字架で
死んでくれた、という設定がキリスト教です。罪が購われるのは
死んで天国に行ってからだから、生きている間はその真偽はわかりません。
 
しかし、生まれたばかりの赤子が罪人なら、人類は滅びた方がよいでしょう。
この地上が、神によって呪われていることになるからです。
赤子が罪人? こんな話をまじめに信じているのがキリスト教徒なのです。
 
神は愛です。愛の神なのに、最初から人間を罪人に定めるのか否か。
しかも全知全能ですよ。そんなサディストでは信じるに値しないでしょう。 
人間に原罪がなければ、パウロの贖罪説は自動的に破綻します。
赤子に罪などあるわけがないのです。

69名無しのひつじさん:2016/02/29(月) 17:53:33 ID:2uQmnQCk0
カフカの変身 〜 その2 <プラトン説>
 
キリスト教が広まったのは、国教化という権力による強制だけでなく、
贖罪説が人々の共感を得たということにもあります。子供たちは別にして、
大人たちは何かしら後ろめたいものを感じて生きているのです。
その後ろめたさがキリスト教の土壌にあるのです。
 
それについては、プラトンが比喩の形で鮮やかに語っています。
人間の心は、卵 → 青虫 → サナギ → 蝶 と変身して行く。
卵自体に問題はない。しかし青虫になり、罪に似たものが次第に芽生え、
ついにはサナギになって心が固まってしまう。
さて、そこから蝶に変身できるかどうかが問題なのだと。
 
大人たちが何となく感じる後ろめたさは、青虫やサナギのままで、
蝶に変身できない苛立ちのあらわれなのです。

70名無しのひつじさん:2016/02/29(月) 17:56:36 ID:2uQmnQCk0
カフカの変身 〜 その3 <思春期>
  
サナギの時期は、人間(男性)で言えば思春期にあたります。
性に目覚めると同時に、社会への巣立ちを前に、
なぜ生きるのか、どう生きたらいいのかを自然に考え始めます。
 
しかしこのテーマは、難問中の難問であり、簡単には結論が出ません。
そこで思考停止、サナギから青虫へと退却します。
これが後ろめたさの始まりです。自分が未熟者だとわかっているから、
お前は罪人だと指摘されると、ギクッとして思わず頷くのです。
 
蝶は生物的にその姿を変身させます。
人間の場合はどうか? そう言えば、女性はその姿を変身させますね。
しかし男性は、心の変身、精神の変身しかありえないのです。
どうしたら変身できるのか。考えること、考え抜く以外にありません。

71名無しのひつじさん:2016/03/02(水) 16:53:06 ID:2uQmnQCk0
カフカの変身 〜 その4 <問題の整理>
 
サナギは何かを考え、自分の中に固まっています。
それは何か。蝶と青虫を比較すれば自然に明らかになります。
そしてそれはすぐにわかります。
 
① 結婚相手を見つけ、子供を残す → 愛せそうな相手を見つける
② 自分の妻を養い、子供を養う → やれそうな仕事を見つける
 
ん? 簡単じゃないか、と思うことなかれ。
先のことが少し見えれば、何も考えずに突っ走るわけには行かないのです。
愛の行く手に待ち構えているものは、自分の死だからです。
つまりサナギは、愛と死を考えているのです。

72名無しのひつじさん:2016/03/02(水) 16:56:24 ID:2uQmnQCk0
カフカの変身 〜 その5 <愛と死>
 
エロスとタナトス。蝶はこの問題を簡単にクリアします。
人間は深刻に考えますが、実際にはそれほどでもないのでしょう。
答えはわかってます。愛は死を受容して成立するのです。
 
理屈ではわかりますが、人間は理屈だけでは納得しません。
その理屈を体験したいのです。死を受容した先にある愛とは何か。
命を捨てるのに価するものなのかどうか。
 
まだ生きているのに、どうして命を捨てた後の愛がわかるのか。
ここで再び解決不能なジレンマに直面してしまいます。
しかし、結論を言えばそれは可能なのです。
昆虫にできるのだから、霊長類の人間にできて当たり前です。

73名無しのひつじさん:2016/03/02(水) 16:59:00 ID:2uQmnQCk0
カフカの変身 〜 その6 <悟ることの難しさ>
  
孔子(BC552-479)は、三十にして立つ、と語りました。
釈迦(中村説BC463-383)は、29歳で出家、35歳で成道です。
イエス(BC2-AD33)は、30歳のころに宣教開始です。
ムハンマド(AD570-632)は、40歳でジブリールに出会います。
 
聖者たちでさえ、愛の何たるかを知るのに苦労を重ねたのです。
彼らは30歳を過ぎてやっと愛を知ります。 
 
それなのに今は、中学・高校・大学を卒業したら社会に放り出されます。
なぜ生きるのか、どう生きたらいいのか、愛とは何かなどの、
人生上の疑問が解けないうちに、人生をスタートせざるを得ないのです。
その結果、多くの若者が宗教に逃げ場を求めています。
時間的余裕がないから、正体不明の宗教に飛び込んで溺れる人もいます。

74名無しのひつじさん:2016/03/04(金) 19:37:03 ID:2uQmnQCk0
カフカの変身 〜 その7 <カフカの挫折>
 
カフカ(1883-1924、40歳)は、現在のチェコ出身のユダヤ人。
その作品は未完のものが多く、変身のほかに城、審判などがあります。
それらをどう読むかは自由ですが、次のような読み方はどうでしょうか。
  
変身 → サナギになってしまった精神状態
城 → 城が神の比喩、神を測量しようという測量士Kのジレンマ
審判 → 罪がないのに裁かれて処刑される。ユダヤ教由来の罪の意識?
 
カフカは結局、自分の殻を破れずに終わりました。
どんなに頑張っても蝶になれないとしたら、人生は悪夢のようなものです。
昆虫の方がよかったかもしれません(TT)

75名無しのひつじさん:2016/03/04(金) 19:39:42 ID:2uQmnQCk0
カフカの変身 〜 その8 <そうだ、蝶になろう>
 
できるだけ早く蝶になろうの五カ条
① 出発点 → 宗教書無用、神を否定する唯物論者がベスト。
② 因果の法則 → 結果から原因を推理し、原因から結果を予測する。
③ フロイト著作集 → 読むだけで癒される。×ユング ×解説書
④ 唯物弁証法を学ぶ → 作用と反作用、正反合は一つコインの裏表。
⑤ 詩集、小説、絵画、音楽など → 作家たちの多様な個性に触れる。

76名無しのひつじさん:2016/03/05(土) 08:24:42 ID:2uQmnQCk0
蝶になるために何で唯物論者がベストなのか。
これは畑を考えたらわかる。新しい種を蒔こうとしたら、その畑に育った
古いものを根こそぎにしてから蒔く。心の畑もこれと同じ。
  
そういう意味で、子供に対する宗教教育には賛成しない。
善いこと悪いことは教えるべきだが、宗教教育はやってはいけない。
幼い頃の宗教教育は、素直で柔軟な子供心にそのまま吸収されてしまう。
洗脳だよね。宗教は理性や判断力がついてから学ぶべきだろう。

77名無しのひつじさん:2016/04/05(火) 14:16:11 ID:2uQmnQCk0
命と物質の二元論 〜 その10 <地上の不幸>
二元論にすると何がどう変わるのでしょうか。以下箇条書きします。
 
① 神は全知全能ではなくなります。全知ではあるが全能ではありません。
② 物質への働きかけは、生き物を通路として行われます。
③ 自然災害は「神罰」ではなく、物質世界の因果関係によって生じます。
 
④ 地上の不幸は、地上に命が誕生することで発生します。
⑤ 命と物質との合体が非常に困難だからです。
⑥ しかし、この地上こそが神の戦場であり、われわれは神の戦士なのです。 
  
⑦ 神の目的は、この地上を命の楽園にすることです。
⑧ 神は、命を拡大再生産するために、この地上にやって来るのです。 
⑨ あの世ではなく、この地上を目指しているのです。

78名無しのひつじさん:2016/04/05(火) 14:18:34 ID:2uQmnQCk0
命と物質の二元論 〜 その11 <カルマの法則>
 
① 神一元論は、自然災害や交通事故を、前世のタタリにしてしまいます。
② 二元論は、それらを「偶然」によるものと解釈します。
③ それはカルマの法則から、自然災害や交通事故などを除外します。
 
④ 二元論に立てば、古くからのカルマの法則は成立しません。
⑤ しかし、カルマの法則が成立するケースもあります。
⑥ アラヤ識に異熟すれば、アラヤ識を通じてカルマの法則が発動します。
⑦ カルマの法則は、生き物同士の関係を支配しています。

79名無しのひつじさん:2017/02/02(木) 17:04:54 ID:2uQmnQCk0
神秘体験への道
 
現状は苦 ・・・ 罪と悪。
原因は集 ・・・ 欲望から罪悪が生じる。
結果は滅 ・・・ 欲望の消滅。精神的な死。聖山の頂上。
方法は道 ・・・ 欲望を【根こそぎ】にする。
 
神秘体験は三つある   
順序は ・・・ 聖霊(甘露)体験 → 霊魂体験 → 龍神体験

80名無しのひつじさん:2017/02/02(木) 17:08:53 ID:2uQmnQCk0
神秘体験の意味
 
聖霊体験ができれば、残りの二つも簡単にできる。
ハードルは精神的な死だが、これは聖霊体験で経験済みだから。
 
古い自我の崩壊 → 聖霊体験 ・・・ 神との出会い。聖書の領域。
滅尽定 → 霊魂体験 ・・・ 自分との出会い。仏教の領域(坐禅)。
アガペー → 龍神体験 ・・・ 天使との出会い。聖書や神道の領域。
 
イエスを含め、聖書には霊魂体験が抜け落ちている。
霊魂体験をするには坐禅の技術が欠かせない。
自分を知れば、自分が神だなどとは決して思わないだろう。
地上に生まれた以上、イエスであっても決して神にはなれない。
イエスもわれわれと同じ人間でしかない。

81名無しのひつじさん:2017/02/02(木) 17:10:28 ID:2uQmnQCk0
パウロが作った贖罪説
 
イエスが人類の罪を贖ったという話はパウロの大ウソだ。
人類はイエスの前も後も、欲望まみれで生きている。
この欲望から罪悪が生まれて来る。人類は罪悪から解放されていない。
欲望を手放したら死んでしまうと思うから、欲望が手放せない。
 
イエスの死は、人類の欲望、罪悪にはまったく関係ない。
自分がどう生きるかは自分で決め、自分が責任を負わなければならない。
イエスは人類の教師ではあるが、神でもキリストでもない。

82名無しのひつじさん:2017/02/09(木) 10:43:46 ID:2uQmnQCk0
龍神体験をしたのは偶然です。
そしてこれこそは奥義中の奥義なのです。
 
聖霊体験は強烈でしたが、坐禅中の霊魂体験はそれほどでもなかった。
坐禅を開始してわずかな期間だったので、もっとすごい体験はないかと
しつこく坐禅をやり続けたのです。失業中でヒマだったし。
そして龍神体験をしたのですが、その時はそれほどの体験ではないと
思いました。でもその後生きて行く中で、不思議なことがたびたび起こり、
龍神様に助けられていることを次第に実感するようになったのです。
 
聖霊体験や霊魂体験すると、この世間で生きるのが困難になるのです。
自分のことしか考えない世間の中で、周囲を優先したら当然
追い詰められます。龍神様の力がないと死ぬ以外に道がなくなります。

83名無しのひつじさん:2017/02/09(木) 10:52:51 ID:2uQmnQCk0
その体験をする前は絶望しかありませんが、
聖霊体験は目を開けたままでやります。ですから安全です。
 
ところが、霊魂体験と龍神体験は坐禅中にやります。
非想非非想処の先にある魔境という段階で、これしかないという
場面設定に放り込まれ、そこで心の深奧を試されます。
これしかないという答えを出せないと失格です。
ですから、神秘体験の順番がきわめて重要になるのです。
 
聖霊体験を経ないで滅尽定をやると死ぬ可能性があります。
霊魂体験を経ないで龍神の魔境に入ったら悪い結果になります。
 
龍神が鷲掴みにしている丸い球は、龍神の怒りに触れた
人間の霊魂だろうと思います。たぶん腑抜けにされるのでしょう。
神秘体験をするには、動かすことのできない順序があるのです。

84名無しのひつじさん:2017/02/09(木) 10:53:58 ID:2uQmnQCk0
ビジョンの危険性、十字架の聖ヨハネ、カルメル山登攀 で検索し、
最初に出てくる「完徳の山の図」をコピーし、
これをじっと眺めてください。何か得るところがありますよ。

85名無しのひつじさん:2017/05/08(月) 20:11:51 ID:SIiIu./.0
S牧師と金ちゃんのFBのアクセス数って段違い!
     ■■■■■■■■■■■■■■■
    ■■                  ■■ 頭悪いんだから素直に注卒でええやろ!滑稽な偽学位で騙さんても!
    iiiiiii                    iiiiiii
    iiii     __        __    iii 数々の不祥事、 パワハラや強姦紛いの宗教を騙った暴力!
    ii    /               \   ii    
   |                        | 金銭トラブルに嘘の総会、反抗する者には83で恫喝!
   |                         | 虚偽宣伝、自意識過剰な虚栄心!
   |      \          /      |  やり直し出来るなんて真っ赤な嘘、何人の人を神から遠ざけましたか?    
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  |                           | 神学的知識も自慢するが間違いだらけとある牧師が笑ってました!
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   |        \       /        |  
   |         \    /         |  周囲の牧師と異常な競争心を燃やす♪ 
    |            \/          |  下らない自己顕示欲が幼稚♪
    \_______________/ それも年下の牧師に嫉妬ばかり♪ 若い牧師から嫌われている♪
牧師金ちゃん、まだしゃぶって末世!目的は自分の名を挙げ上座に座ることや♪
今も元◎X△を強調しそれをひけらかせては周囲を恫喝!
教会を離れた信徒の悪口に陰口、自己正当化を謀る様々な愚行!
日本の教会の未来はまるで自分の肩にかかってるかのようにかっこ良く語るが、とても尊敬できるような人ではない!


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