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エサウとヤコブ

1名無しのひつじさん:2015/04/12(日) 13:43:31 ID:2uQmnQCk0
創世記25章以下にあるヤコブの話を解読する

2名無しのひつじさん:2015/04/12(日) 13:49:24 ID:2uQmnQCk0
読んだことがあるかもしれないが、旧約聖書の創世記にヤコブの物語が
ある。その主要部分(創25.19-34、26.34-36.8)は
それほど長くはないが、その内容はけっこう難しい。
 
双子の兄エサウとの確執から、ヤコブは家を追い出され、母の兄ラバンの
下で20年間苦労する。ついにヤコブは、妻子や下僕や家畜を引きつれ、
生まれ故郷へ脱出をはかった。しかし、それを許すまいとするラバンに
追跡される。ラバンとの間には一波乱あるが、二人の間に境界線を設ける
ことで何とか切り抜けることができた。
 
そして今度は、兄エサウが四百人の部下を引きつれ、場合によっては
ヤコブを殺そうとやって来る。エサウは親の近くで暮らし、親の遺産を
結局は独り占めしてしまうような男である。
兄エサウとの再会を前に、苦悶するのがヤコブの物語の山場、
ペヌエルでの格闘(創32.23-32)である。

3名無しのひつじさん:2015/04/12(日) 13:54:43 ID:2uQmnQCk0
ヤコブのぺヌエルでの格闘は、天使との格闘として描かれている。
しかし実際は、心の中で格闘したのであり、その挙句に自分の悪さ、
罪に気づいたという話だろうと思う。
 
神はそんなヤコブを祝福し、ヤコブは聖霊体験をすることになる。
神が認めた以上、ヤコブは罪を洗われた義人なのだね。
神は野の人エサウを義人として認めない。
(聖霊は取り合えずヨハ14.15-31にある説明に従っておこう。)
 
ヤコブは格闘の翌朝、自分は何も悪くないのに、兄エサウに
七度ひれ伏して謝罪する。これはエサウに謝るというより、
自分自身の罪や悪を神に謝罪するという心境ではなかったろうか。

4名無しのひつじさん:2015/04/13(月) 09:11:23 ID:2uQmnQCk0
ヤコブと戦った者は誰か
 
ヤコブはひとりヤボクの渡しに残る。普通に想像すれば、迫り来るエサウ
に、どうしたら殺されないかを必死で考えていた。
夜の闇が深くなるにつれ、ヤコブの集中力はいよいよ研ぎ澄まされる。
 
何者かとの格闘はそういった精神状態で始まる。
それは内心の葛藤であり、
生きたいと願う心(欲望)と、正義を願う心(良心)の格闘である。
 
そのまま瞑想状態に入り、生きたいと願う心を自分から折ってしまう。
外見的には正義を願う心が折ったようにも見える。しかし実際は、
神とは無関係に、自分が罪人だと洞察し、自分を自分で折る。
それが悔い改めの純粋性を保証し、聖霊体験につながる。
→ 神とは無関係に、と言うところが悔い改めのポイントなんだね。

5名無しのひつじさん:2015/04/13(月) 09:14:19 ID:2uQmnQCk0
つぎは祝福の話に飛ぼう。この祝福が聖霊体験になるが、ヤコブは
「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、
その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。この話からわかるのは、
神との出会いが聖霊体験だというである。
 
以上から、ヤコブが戦っていた相手は二通りに解釈できる。
① 生きたいと願う心(欲望)を強めるサタンである。
ヤコブは【神とは無関係】に、正義を選択、自分から自分の罪を悔いた。
② ヤコブが正義を選択したからこそ、正義の神が姿を見せ、
神の祝福である聖霊体験が起こる。→ そこに神もいたことになる。
③ ということは、ヤコブの心の中に、最初からサタンが住んでおり、
ヤコブを祝福した正義の神も住んでいたことになりそうである。
④ ヤコブは、サタンに勝ったのであり、正義の神に勝ったわけではない。
ただし、サタンは神の使いだから、この辺は微妙な話ではある。
⑤ ヤコブは、神からイスラエル(神に勝つor神が勝つ)の名をもらう。

6名無しのひつじさん:2015/04/13(月) 09:18:55 ID:2uQmnQCk0
神との出会い、聖霊体験は、悔い改め → 聖霊体験の順序になる。
このとき重要なのは、無信仰の状態で悔い改めをすることだ。
 
なぜなら、どんな宗教であれ信仰すると、それによって精神的に救われ、
本格的な悔い改めが生じなくなるからである。
何かあっても、すでにある信仰に頼り、小手先の悔い改めで終了する。
こんなことなら唯物主義者の方がましだろうw
 
信仰すると神との出会い、聖霊体験のチャンスを奪われてしまう。
だから釈迦が、「おのが信仰を捨てよ」と言っている。

7名無しのひつじさん:2015/04/14(火) 10:35:25 ID:2uQmnQCk0
ではヤコブはどうだったのか。
聖書では神を信じているように書いているが、ラバンの所で自分の羊を
増やしていく経過は唯物主義者そのものである。エサウからレンズ豆で
長子の権利を奪ったり、目が悪いイサクをだまして祝福を受けるのも
唯物主義者の面目躍如ではないか。神を恐れていない。
 
ヤボクの渡しで苦悩するのは信仰がないからに他ならない。
信仰があるなら神に祈るはずなのにwww
 
創28.10-22に、天から地への階段とか、天の門とか神の家とか、
ヤコブの夢の話がある。これらは筆記者の作り話だと思っていい。
だいたい神がしゃべるはずないw 神がしゃべったらマユツバである。
 
そういえば、神からイスラエルという名前をもらったとあるが、 
これも実際には筆記者の勝手な編集なんだろうね。

8 ◆xGHO1E8e7M:2015/04/14(火) 10:38:59 ID:2uQmnQCk0
ヤコブはヤボクの渡しで何を悔いたのだろうか。
かれが考えていたのは、双子の兄エサウのことだったのではないか。
 
エサウは巧みな狩人で野の人となった。 創25.27
かれは長子の権利をレンズ豆で売ってしまう愚か者である。創25.30
 
エサウは、ヤコブが長子の権利を奪い、父親の祝福を奪ったと、二度も
自分の足を引っ張り、欺いたことを怒っている。創27.36
そしてヤコブを家から追い出し、親の財産を自分のものにする。
 
ヤコブは、エサウを考えているうちに、エサウが自分に重なる。
兄の足を引っ張ろうとした出生の時から、自分のことしか考えない道を
歩んできたことに、やっと気づいたのである。何ということだ!
もはや取り返しのつかない過ちに、真っ暗な絶望しか残されていない。
これがヤコブの悔いである。→ その瞬間、聖霊と出会う。

9 ◆xGHO1E8e7M:2015/04/14(火) 10:40:40 ID:2uQmnQCk0
欲望と暴力で生きる、野の人エサウは祝福されなかったw
祝福されたのは、苦労に苦労を重ねたヤコブだ。
なぜか、生きることそれ自体が罪であり悪だからだw そう気づき
自分を完全に否定したとき、神が逆に完全に肯定してくれる。
神が姿を見せる。これが聖霊体験だね。
 
神とは何か。命だよ。聖霊とは何か。命の雫だよ。
これは、あちこちのスレでずいぶん書いたから知ってる人もいるだろう。
聖霊体験をした者は、命そのものを見たのであり、神を見たのだ。
イエスなど、どこにもいない。そこには聖霊しかいない。
 
ここから言えるのは、宗教もない太古、人間は唯物的に生きているが、
その状況で、それでも神を見つけた人間がいたということだよね。
たとえばツアラストラ、釈迦もたぶんそうだろうと思う。
イエスはパウロに利用された憐れな若者でしかないw

10名無しのひつじさん:2015/04/15(水) 13:13:02 ID:2uQmnQCk0
宗教など、全部滅びてしまえばいいw
宗教がなくても、神がいるという真理は永遠に滅びない。
その方がむしろ、人間は神に近づくことができる。
 
イエスを崇めるキリスト教はパウロの妄想の産物だし、
空を崇める大乗は竜樹の妄想の産物だw
 
妄想の闇がだんだん深くなれば、逆に真理の夜明けも近づいて来るw
人間には寿命があるから、寿命との競争だね。
光あるうちに光のなかを歩めw

11名無しのひつじさん:2015/04/15(水) 13:17:07 ID:2uQmnQCk0
ヤボクの渡しは三途の川のようなものである。皆を導いて川を渡らせ、
持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。創32.24-25
→ ヤコブには迷いがあった。エサウの前に立つ勇気がなかった。
集団の先頭ではなく、集団の後ろに隠れたのである。
 
その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、
格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。創32.26
→ 実際に腿の関節がはずれたのではない。利己的な生き方を悔い改め、
生きようとすることをやめ、精神的に死んだのである。
 
ペヌエルの格闘の翌日、ヤコブは、自分の集団の先頭に進み出て、
兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。創33.3
→ ヤコブは、死ぬ覚悟ができたから、集団の先頭に立つことができたし、
精神的に死んでいるから、神の前にひれ伏すように【腰を折り】、
素直な気持ちでいくらでもひれ伏せたのである。

12名無しのひつじさん:2015/04/15(水) 13:18:52 ID:2uQmnQCk0
聖霊体験がどれほどすごい体験なのかは、
当たり前だが、やってみないとわからないだろう。
それは神(命)との出会いである。
誤解されないように言うが、イエスとはまったく無関係だよ。
 
ユダヤ人は、この聖霊体験を忘れないために肉の割礼をやる。
洗礼は、心の汚れを落とすこと(悔い改め)の象徴になっている。
同じように肉の割礼は、聖霊体験の象徴なのである。
  
信仰の時代になってから、聖霊体験をする人がいなくなり、
肉の割礼が何を意味するのかわからなくなっている。
じつはそれは聖霊体験なのであり、これが心の割礼の正体である。
ローマ書にある心の割礼とは、聖霊体験のことを言う。
そして聖霊体験は肉の割礼で象徴される。

13名無しのひつじさん:2015/04/16(木) 05:47:45 ID:2uQmnQCk0
わたしの主要な心霊体験は三つあり、
聖霊体験 → 霊魂体験 → 龍神体験、この順番で体験している。
 
聖霊体験は3秒程度、目が見えなくなり(1秒)、 漢字の「中」を
横倒しにした幻覚が見え(1秒)、頭の中、額のあたりに一滴の
しずくが落ちてくる(1秒)。それが神であることはすぐにわかった。
 
霊魂体験は坐禅中に起きた。霊魂になり神界を猛スピードで飛行する。
いつもは1h程度の坐禅だったが、その時は3hやっている。
魔境 → 想受滅 → 霊魂体験 → 地上に無事帰還という流れ。
 
龍神体験も座禅中に起きた。100mぐらいある巨大な龍の背中に乗り、
霊界を見させてもらった。眼下には大きな川が流れている。
龍神の背中に乗ったまま坐禅が終了。この時は1hぐらいの坐禅だった。

14名無しのひつじさん:2015/04/16(木) 05:50:38 ID:2uQmnQCk0
聖霊体験 → 半年後に霊魂体験 → さらに半年後に龍神体験
 
この三つを並べたのは、ヤコブの話とも絡め、この三つの順番と関係を
考えたいからだ。関係がないのではなく関係があるようなのだ。

15名無しのひつじさん:2015/04/16(木) 05:52:09 ID:2uQmnQCk0


悔い改めるから聖霊体験が起こる。悔い改めは、自分の罪に気づき、
自分で自分を断罪することである。この成り行きを注意深く観察すると、
二つの段階があるようなのである。
 
① 最初の段階は、自分との戦いに勝ち、自分の罪を悔いる。
この罪の背後に、信じられないかもしれないが、本当にサタンがいる
可能性がある。いるとすれば、それが龍神様ではないか。
坐禅中、龍神様に出会う理由がそれ以外にまったく考えられない。
 
② 次の段階は、悔い改めをした後の、粉々に砕かれた心である。
心が砕け散ったままなら生きていけない。それが聖霊で救われるのだが、
その砕け散った状態が、想受滅ときわめてよく似ているのである。
坐禅では、想受滅の後に来るのが霊魂体験である。
つまり、聖霊体験をした時、無意識レベルで霊魂体験もやっているのか?
そう考えれば、短期間で霊魂体験ができた説明もつく。

16名無しのひつじさん:2015/04/17(金) 09:53:25 ID:2uQmnQCk0
このあたりの流れは、内容は少しずつ違うが、福音書にもある。
この中ではマタイが一番いい。龍神様は悪魔でもあり天使でもある。
福音書に書かれているのだから心強いw
 
マタイ3.16、4.1-11
聖霊体験 → 荒れ野で四十日間断食 → 悪魔の試練 → 天使が仕える
 
マルコ1.10-13
聖霊体験 → 荒れ野で四十日間、悪魔の試練を受ける
〜 その間、天使たちが仕える
 
ルカ3.22、4.13
聖霊体験 → 荒れ野の中を霊によって引き回され、悪魔の試練を受ける
→ 悪魔は誘惑を終えるとイエスを離れた

17名無しのひつじさん:2015/04/17(金) 10:00:35 ID:2uQmnQCk0
それでは、聖霊体験の後、霊魂体験、龍神体験をする意味は何か。
悔い改めは、
①まず自分に勝つ → サタンに勝たなければならない。
だから悔い改めができれば、ここですでにサタンに勝っている。
しかし、まだ無意識であり明示的ではない。
 
②次に心が粉々に砕けるが、これは坐禅中の想受滅に当たる。
想受滅ならば霊魂が姿を現すのに、これも無意識であり明示的ではない。
 
③そこで聖霊体験(たった3秒)の意味を明確にするため、
聖霊体験の後、だれに教わるともなく、坐禅や瞑想に向かうのだろう。
 
わたしは坐禅経験がなかったが、最初からいきなり1hほど座れたよ。
そのころは聖書も読んでいた。自己流もいいところだったね(^^)

18名無しのひつじさん:2015/04/17(金) 10:02:10 ID:2uQmnQCk0
わかりにくくなったので、話をわかりやすくしよう。
 
まず「上り」がある。
悔い改め <① 自分に勝つ → ② 砕かれた心> → 聖霊体験(天)
次に「下り」がある。
聖霊体験 → <② 霊魂体験 → ① 龍神体験> → 現実肯定(地)
 
霊魂体験から地上に帰還できたのは、神界ではなく地上を選んだからw
龍神体験で霊界を望んだが、龍神様がそれを許さなかったからw
坐禅の「下り」で教えられたのは、生きていろ、ということだろうか。
 
神はいるし、霊魂は不滅だし、神風も吹く。
そのためには、自分の罪に気づき、悔い改めなければならない。
あきらめなければ、だれでも聖霊体験ができる。

19名無しのひつじさん:2015/04/18(土) 06:40:23 ID:2uQmnQCk0
肉の割礼は聖霊体験を象徴している。
 
包皮は心の汚れや罪である。それに気づくことが悔い。自分の正体に
気づけば自分との勝負は終わる。→ サタンに勝つことでもある。
 
包皮を切り取ることは悔い改めである。心は粉々に砕かれ、心の汚れや罪が
消滅する。→ 坐禅における想受滅の前触れ
 
包皮がなくなれば亀頭が現れる。
無意識的だが、その人の霊魂が姿を見せている。→ 霊魂体験の前触れ
 
聖霊体験 〜 頭の中に神の雫が落ちてくる。
その人はこの雫を心眼で見ている。雫に心を奪われ、雫が心に広がる。
肉の割礼の意義はこの聖霊体験にある。

20名無しのひつじさん:2015/04/18(土) 06:42:28 ID:2uQmnQCk0
ここで重大な結論が出てくる。
 
肉の割礼が聖霊体験を象徴するなら、それは女性には聖霊体験ができない
ことを教える。つまり、女性は本質的に神と出会えない。
女性は男性を通し、神を想像する以外にない。
 
なんでそうなるかと言えば、自分の心を粉々に砕く必要があるから。
女性の場合はそれに耐えられず発狂する。
本質的な領域における、男と女の役割の違いなのだろう。

21名無しのひつじさん:2015/04/18(土) 06:43:47 ID:2uQmnQCk0
女性は出産し、子育てをしなければならない。
そのため、自分を守ってくれ、自分を愛してくれる男性が必要である。
夢など見ていられない。だから男性以上に、打算的・物質的である。
 
女性は愛されようと願うばかりだから、
自己愛の塊りであって、自分中心主義者ということになる。
女性はそれだけ、神から遠い存在であると言えよう。
 
では女性に救いはないのか。そんなことはない。
出産し育児を始めたら愛することを学ぶ。女性には子供が救いなのである。
母になり、愛される側から、愛する側に回ることで救われる。

22名無しのひつじさん:2015/04/19(日) 09:32:01 ID:2uQmnQCk0
男の頭は神である。女の頭は男である。子供の頭は母である。
男の愛が女の愛になり、女の愛が子供の愛になる。
 
こういう流れがあるから、男性の愛がその家系の興亡を左右する。
国家の運命も同じ、愛情深い民族は栄え、薄情な民族はやがて滅びる。
 
地位や財産だけでなく、その男性がどんな愛を持っているのか。
女性はそれを見分ける必要もある。

23名無しのひつじさん:2015/04/19(日) 09:33:19 ID:2uQmnQCk0
信仰の意味を考えてみよう。
 
悔い改めによって聖霊体験をすることは理解できたろうか。
信仰はこの悔い改めを省略、救われたような気持ちにさせてしまう。
ということは、聖霊体験を遠ざけてしまうわけである。
 
肉の割礼から言えば、信仰とはコンドームである。
包皮を切り取るのではなく、人口の包皮をさらに装着するわけである。
安心ではあるが、去勢されたような空虚さもある。
〜 比喩だからオギノ式とか言わないでね ^^
 
女性は感覚的だから、偶像などがないと信仰しずらいだろうね。
女性の信者が多くなると偶像依存度が高まりそう。

24名無しのひつじさん:2015/04/19(日) 09:39:34 ID:2uQmnQCk0
聖霊体験は簡単にはできない。
ヤコブは、家を追い出されてから、20年間も苦労に苦労を重ねる。
参考書を読むだけでは無理。もちろん参考書も必要だが、
実際に世の中で苦労しないと心が砕けない。
聖霊体験の前に、何らかの準備が欠かせないのである。
  
そのヒントは肉の割礼にある。
包皮を切り取る前に、縦に切れ込みを入れなければならない。
では縦に切れ込みを入れるとは何か。

25名無しのひつじさん:2015/04/20(月) 09:15:00 ID:2uQmnQCk0
その答は、旧約・創3「蛇の誘惑」にある。
アダムとエバが、神によってエデンの園から追放される話だが、
ここには二人のほか、神と蛇と、善悪の知識の木と命の木とが登場する。
 
二人は、善悪の知識の木の実を食べたのでエデンの園から追放された。
そうすると善悪の知識の木、その実を食べるとは何かを知らないと、
自分の罪もわからないことになる。
 
命の木の実は聖霊体験のたとえである。この実を食べさせないために、
神は二人をエデンの園から追放し、命の木に到る道を守るために、
エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置いた。創3.24

26名無しのひつじさん:2015/04/20(月) 09:18:17 ID:2uQmnQCk0
罪の発生 → 善悪の知識の木の実を食べること
 
ここには二つのテーマがある。
① ひとつは善悪の知識とは何か → これがなぜ罪なのか
② もうひとつは食べること → 食欲や性欲がなぜ罪なのか
 
簡単には解けないが、これを考えることによって心に亀裂が入る。
この亀裂がやがて心の割礼を導く、縦の切れ込みになる。
 
個人的には、世の中で苦労をする以外、次の参考書を使った。
① 唯物弁証法 〜 簡単なものでいい
② フロイト心理学 〜 精神衛生にもよい

27名無しのひつじさん:2015/04/20(月) 09:21:39 ID:2uQmnQCk0
ついでだから、創世記2〜3章のことにも触れよう。
 
 創2.7 「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、
 その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」
ここに人間が、命と物質が合体した存在だと明記されている。
これは二元論であり、人間は命と物質が合体した、矛盾した存在になる。
では神とは何か。命そのものだね。個体としての命が人間だね。
 
 創2.8 「主なる神は、東の方のエデンに園を設け・・・」
創世記はバビロン捕囚(BC586〜538)から解放された後に、
バビロンで知った神話を参考にして書かれている。
アブラハムの出身地メソポタミヤは、エルサレムから見れば東になる。
 
 創2.9 「園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生え出でさせ」
ふたつの木は、園の中央、目立つ所にあったわけだね。

28名無しのひつじさん:2015/04/21(火) 07:44:40 ID:2uQmnQCk0
 創2.10-14 「エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、
 そこで分かれて、四つの川となっていた。」
ここにチグリス、ユーフラテスが出てくるから、エデンはメソポタミヤ、
それも河口近くにあったのではないかと推測できる。
大洪水伝説を持つシュメール文明が想定されていてもおかしくない。
 
 創2.17 「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べては
 ならない。食べると必ず死んでしまう。」
これも変な話だよね。食べてダメなら、そんな木を生え出でさせるなよ。
しかも園の中央。まるで食べてくれと言わんばかりだw
 
 創2.19-20 
自然物の名前の由来だ。それらは人間が名づけたと言っている。

29名無しのひつじさん:2015/04/21(火) 07:47:42 ID:2uQmnQCk0
 創2.21-23 男のあばらの一部から女が造られる。
次のように考えることもできる。霊魂を想定すると、霊魂のレベルでは
男も女もない。どちらに生まれるかは神秘なのである。
男の場合もあれば女の場合もある。その話を逆にし、男から女が造られた
と表現することで、元をたどればひとつの霊魂に由来しているのだと
暗示する。この場合は、性別を超えた霊魂に重点がある。
 
 創2.24 「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、
 二人は一体になる。」
これを言いたいがために、前段があったと解釈することもできる。
しかしこれだと、自分の片割れが結婚相手ということになり、結婚相手の
意味が強調され過ぎてしまう。世界中に一人しかいない相手を探す?
そんなことは現実的に不可能だ。カトリックの離婚禁止には無理がある。
ただ、そのくらいの気持ちでいれば、結婚することに慎重になり、
離婚することにも慎重になる。若気の至りを防止する教訓かもしれない。

30名無しのひつじさん:2015/04/21(火) 07:49:01 ID:2uQmnQCk0
霊魂だが、これは創2.7にある「命の息」のことである。
 
霊魂体験をしないとわからないだろうが、 
それは「形ある命」であって、透明な球である。
透明な球だから男でもなく女でもなく、そこには性別がない。
そういった意味で、男にも女のような部分があり、
女にも男のような部分がある。〜 肉体的にも精神的にも。

31名無しのひつじさん:2015/04/22(水) 05:00:07 ID:2uQmnQCk0
性別のない霊魂は、男に生まれることもあり、女に生まれることもある。
男にも完全な霊魂があり、女にも完全な霊魂がある。
霊魂の片割れなどというものはない。
結婚したら一つの霊魂になるわけではなく、二つの霊魂のままである。
かりに一つの霊魂なら、相手が死ねば自分も死ぬことになる。
そんなことはありえないから、そこには二つの霊魂があることになる。
 
ではなぜ、創2.24「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、
二人は一体となる。」とあるのだろう。二人の子供に視点を移せば、
二人が一体になるのは子供の身体であることに気づく。
旧約では、こういったひっくり返し技法がしばしば用いられる。
人間は命と物質が合体した矛盾した存在であり、直線的な話では真理を
語り尽くせないからだろう。
次の創3「蛇の誘惑」にも、ひっくり返し技法が用いられている。

32名無しのひつじさん:2015/04/22(水) 05:02:43 ID:2uQmnQCk0
 創3.1 「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは
 蛇であった。」
なぜ蛇なのか。それは実際の蛇ではない。蛇の形をしたサタンである。
サタンなどいないと思ったら、失楽園の話は理解できない。
信じられなければ、神がサタンを造ったと仮定しよう。
サタンは、エデンの園にいるのだから、神が造った天使でもある。
 
 創3.1 「蛇は女に言った。」
聖書の記述は、蛇の誘惑 → 女の誘惑 → 男の欲望 → 原罪の発生 
という順序になっている。この順序は、女がより感覚的・物質的である
ことから納得できる。女の方がサタンにだまされやすい。
男は女にだまされる。事件の背後には女がいる (^^)
サタンは天使だから、これが神の最初からの計画ということになる。

33名無しのひつじさん:2015/04/22(水) 05:04:23 ID:2uQmnQCk0
 創3.3 創2.17 〜 善悪の知識の木の実を食べると死ぬ
 
エデンの園は神話であり、天上にあるわけだから、
エデンの園を追放されることで、人間は地上生活を開始することになる。
地上なら善悪の知識が必要だし、寿命があるから必ず死ぬ。
 
そうすると、原罪によって追放されたのではなく、命の息を泥人形に
吹き入れた時からの、神の計画が実行されただけになる。
命が地上に根付いて人間になる。それを神は「よし」とされた。
話がひっくり返しになっているね。
 
命と物質が合体した、矛盾した存在が人間なのである。
ここに人間の苦しみも楽しさもある。

34名無しのひつじさん:2015/04/23(木) 08:08:42 ID:2uQmnQCk0
 創3.9-13 責任転嫁(アダム→エバ→蛇)
蛇は神に責任転嫁しない。サタンは天使だから神の奴隷である。

 創3.14 「主なる神は、蛇に向かって言われた。このようなことを
 したお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で、呪われるものと
 なった。お前は生涯這いまわり、塵を食らう。」
人間は蛇を生理的に嫌う。不幸の元凶、サタンを愛する人はいない。
 
 創3.15 「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意
 を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」
お前の子孫とは、生物としての蛇の増殖ではなく、
人間の増殖によってサタンもまた増殖するという意味である。
どの人間にもサタンが住んでいる。サタンは人間の数と同じだけいる。
サタンは霊なので、分身の術を使うことができる。
 
女の子孫には、男もいれば女もいる。イエスだけを意味しない。

35名無しのひつじさん:2015/04/23(木) 08:10:55 ID:2uQmnQCk0
 創3.15 「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意
 を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」
彼はお前の頭を砕き → 女の子孫からサタンの頭を砕く者が現れる。
お前は彼のかかとを砕く → サタンは人をだまして人を倒す。
 
 創3.16 「神は女に向かって言われた。お前のはらみの苦しみを
 大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、
 彼はお前を支配する。」
昔から出産は苦しみである。これは事実を語っているに過ぎない。
 
お前は男を求め → 女は愛される側に立つ。基本的に受身だよね。
彼はお前を支配する → 男が愛する側に立つ。

36名無しのひつじさん:2015/04/23(木) 08:12:08 ID:2uQmnQCk0
 創3.17-19 「神はアダムに向かって言われた。・・・
 お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。・・・土に返るときまで。
 お前がそこから取られた土に。 塵にすぎないからお前は塵に返る。」
昔から、男が食べ物を獲得し、女が家事と子育てという相場だから、
前半で語られる男の苦労は罰ではなく、当たり前の話だよね。
 
問題は後半の、塵にすぎないからお前は塵に返る、という話にある。
食べ物の獲得は昔なら命がけの仕事だった。
昔の男は必然的に、命がけで女を愛することになるわけだね。
それなのに、塵に返ると宣言されたら、命がけになれないというか、
妻子のために死ぬことを躊躇するだろう。
だから死や愛や神を真剣に考える。
 
死んだら終わり(仏教では断見という)では、簡単には死ねないよね。
これは、エデンの園を追放される理由、命の木に関係している。

37名無しのひつじさん:2015/04/24(金) 06:27:58 ID:2uQmnQCk0
 創3.20 「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて
 命あるものの母となったからである。」
女性は感覚的で物質的だからこそ、女性の命が末広がりに広がる。
そう考えれば、母系社会の方が基本的なのかもしれないね。
 
男は女を愛するために、どうしても神を見つけ出さなければならない。
ヤコブは、神を見つけ出したがゆえに「漢」になることができたw
 
神から見れば、男と女のどちらも不可欠であって、そこに上下などない。
神に向かう男だけ、出産と育児に向かう女だけでは、人類が消滅する
男と女が協力することで人類は存続し発展することができる。
  
 創3.21「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」
神はやさしいね。これは、エデンの園からの追放が、神の計画であった
ことを暗示している。皮の衣は、もちろん人間が考えたものだが。

38名無しのひつじさん:2015/04/24(金) 06:30:51 ID:2uQmnQCk0
 創3.22 「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。
 今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となる
 おそれがある。」
神が人をおそれるわけがないw この神は複数だから、創世記を書いた
神官だろうと推測できる。聖書にある神の言葉は、神の言葉であるわけが
なく、神官が神の思いを想像して書いたものに過ぎない。
  
その神官がわざわざ、命の木から取って食べる可能性を示唆している。
命の木の実は食べることができるよ、と誘っているのである。
しかも、それを食べれば永遠の命を得ることができると。
そこまで誘われたら、もう何としてもその実を食べなくてはならない。
命の木の実を食べる 〜 これが聖霊体験だ。
 
塵にすぎないお前は塵に返ると宣告されたが、同時に
唯一の希望も書かれている。これが創世記3章のすごいところだね。

39名無しのひつじさん:2015/04/24(金) 06:32:08 ID:2uQmnQCk0
 創3.24「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、
 エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」
神官は、命の木から食べる者が出てくるのを予想している。
むしろ「さあ来い」と挑発している。そのうえ、そこの番人の正体まで
明らかにしている。
 
ケルビムと剣の炎は火を吐く龍だね。またの名はサタン。
神の領域・エデンの園に汚れた、罪深い心が侵入するのを防いでいる。
サタンの誘惑はエデンの園を守るためにある。
サタンは天使なんだね。それも第一級の、最高の天使だ。
 
エデンの園の東とは、エルサレムから見て東の意味だろうと思う。
創2.8にある東も同じ、エルサレムから見て東の方か。

40名無しのひつじさん:2015/04/25(土) 08:07:26 ID:2uQmnQCk0
 創4.1 「さて、アダムは妻を知った。」
蛇はどこに消えたのだろうか。神話には、神と蛇とアダムとエバしか
登場しないから、命の木を守るケルビムは蛇だろうと考えられる。
これはこれとして、では追放されたはずの蛇はどこにいるのだろうか?
蛇は、アダムの心の中、エバの心の中に住みついている。
 
この神話は太古の一回限りの出来事なのではなく、
個々の人間の、心の中にある真実を表現したのではないだろうか。
そう考えれば、人間全員にサタンが住みついていることになる。
サタンが住んでるからこそ、人間は物質世界に根付くことができる。
いなければ欲が湧かず、あっさり死んでしまう。
  
でも、自分の中にサタンが住んでいるなんて思いたくない。
実際に見たことがないから、サタンを無視、サタンを忘れて生きている。
創世記の神話はこれを、それとなく思い出させるのだ。

41名無しのひつじさん:2015/04/25(土) 08:08:34 ID:2uQmnQCk0
 創3.15 「彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」
彼はお前の頭を砕き・・・とはいったいどういうことなのか。
わたしは大中小の龍神様を見ている。そこで胴や背中を見たが、龍神様の
頭や顔を見たことがない。
 
見たいとも思わないが、たぶん見ない方が正解なのだろう。
龍神様の頭や顔を見ることは、自分とは別の存在が自分に向き合っている
ことを意味する。これでは対決であり、恐怖で圧倒されることだろう。
それより、わたしが龍神様の頭や顔になった方がいい。
自分に勝つ、サタンに勝つことは、蛇の頭を砕くことなのだろう。

42名無しのひつじさん:2015/06/15(月) 05:29:27 ID:2uQmnQCk0
参考 〜 一元論と二元論
 
創世記1章は、神によって万物が創造されたと主張する。
この世界観によれば、世界は神で始まり神で終わる。
人は神からやって来て神に帰る、ことになる。
これが神をベースにした一元論である。
神を否定する唯物論は、物質をベースにした一元論である。
 
これに対し、創世記2章3章では二元論を主張している。
人間は神によって、神の息(命)と土(物質)によって造られ、
ヘブライ語でその名を、アダムとエバと命名された。
エバとは命のことであり、アダムとは土(物質)のことである。
人そのものは二元論で説明される。
 
死ねば、神の息(命)は天に帰り、土(物質)は地に帰る。

43名無しのひつじさん:2015/06/15(月) 09:25:04 ID:2uQmnQCk0
創世記1章は、バビロン捕囚後、バビロニア由来の「祭司資料」に
基づいた、神をベースにした一元論になっている。
これがキリスト教であり、その傾向は、肉を否定するパウロの手紙、
ロゴスを強調するヨハネ福音書に著しい。
総じて現世否定的であり、浄土真宗も似たようなものである。
 
創世記2章、3章は、バビロン捕囚前、「ヤハウェ資料」である
イスラエル神話に基づいた二元論になっている。
これが本来のユダヤ教であり、モーセ五書やコヘレトなどに、
その影響が色濃く出ている。神と人間を峻別し、現世的である。
神への信頼が絶大だから、死後の運命を何も心配しない。
そういう意味では、神道に近いのかもしれない。
 
聖書は霊感によって書かれたと言われるが、
その冒頭から立場の違う神話が並んで編集されている。
丸ごと信じたら頭が混乱してしまう。

44名無しのひつじさん:2016/07/30(土) 16:10:14 ID:2uQmnQCk0
今日は龍の大きさを少し考えてみた。
 
人間各人には、それぞれの大きさの龍がついている。
小さいのは5cmぐらいから100mぐらいまで、さまざまな龍がいる。
もっと大きいのもいるかもしれない。
 
そこで龍の大きさは、龍の能力に比例していると仮定しよう。
そうすると、龍の実際の大きさは、その人間の欲深さに反比例する。 
なぜなら、欲深い人間だと簡単に誘惑できるから、小さな龍で間に合う。
その逆に無欲な人間だと誘惑が困難だから、大きな龍でなければダメだろう。
  
従って、欲でギラギラしているような人間は、意外にも小さな龍になる。
無欲な人間には、えっと思うような巨大な龍がついている。

45名無しのひつじさん:2016/07/30(土) 16:12:36 ID:2uQmnQCk0
サタンとはいったい何者なのか 〜 その1
 
① それは、善なる神、全知全能なる神によって造られた。
② それは神のひざ元、エデンの園にいる。
③ ゆえに、それは善なるものであり、神の支配下にいる。
④ まだ悪が発生する以前の話だからである。
⑤ ゆえに、蛇がエバ(命)を誘惑したことは善なる行為であった。
⑥ アダムもエバも天使のようであれば、地上で生きられないからである。
⑦ 二人は善悪の実を食べることによって地上の生活が可能になった。
⑧ サタンがそれを助けた。ならばサタンは人類の恩人ではないのか。
⑨ すべては善なる楽園の出来事であり、そこには罪も悪もない。
⑩ そこで、すべては神の計画だったと考える方が自然ではないだろうか。

46名無しのひつじさん:2016/07/31(日) 11:26:07 ID:2uQmnQCk0
サタンとはいったい何者なのか 〜 その2 <その役割の二重性>
 
① アダムとエバはエデンの園から追放される。創3:23
② エデンの東に、命の木を守るケルビムと、きらめく剣の炎が置かれる。
③ 蛇は創3:15より、アダムとエバに出会える場所にいる。
④ それは現実の蛇ではないから、いるとしたら霊界以外にない。
⑤ 人の心(マナ識)は霊界と交流できる。
⑥ それゆえ人は、霊界で蛇=サタンと交流することになる。
⑦ サタンは人の欲望を刺激し、人を物質的な世界に執着させている。
⑧ そうすることによって、人が神界に近づけないようにしている。
⑨ 逆から言えば、地上の物質性から神界を守っている。
⑩ つまりサタンは、命の木を守る「ケルビム」、神の天使なのである。

47名無しのひつじさん:2016/07/31(日) 11:28:11 ID:2uQmnQCk0
サタンとはいったい何者なのか 〜 その3 <それは必要不可欠!>
 
① 神の試練は常に、その人が乗り越えることができる程度である。
② なぜなら、その人が判断してサタンの誘惑に応じるのだから。
③ 年齢相応の判断力があれば、道を大きく踏みまちがえることはない。
④ その意味では、幸不幸の真相は「自業自得」にあると言ってよい。
⑤ 人を恨み、世を恨むのはたいがい間違っている。
⑥ 怒りや恨みが生じたら、自分のどこかが間違っていると考えるべきだ。
⑦ 人には先天的に良心がある。同時に、生きたいという欲心もある。
⑧ 良心と欲心は常に戦っているが、サタンはこの欲心に働きかけている。
⑨ 人の自由意志は、サタンと欲心によって明確になる。
⑩ サタンと欲心がなければ、人は神の奴隷、ロボットにすぎない。

48名無しのひつじさん:2017/05/08(月) 20:13:32 ID:SIiIu./.0
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   |        \       /        |  
   |         \    /         |  周囲の牧師と異常な競争心を燃やす♪ 
    |            \/          |  下らない自己顕示欲が幼稚♪
    \_______________/ それも年下の牧師に嫉妬ばかり♪ 若い牧師から嫌われている♪
牧師金ちゃん、まだしゃぶって末世!目的は自分の名を挙げ上座に座ることや♪
今も元◎X△を強調しそれをひけらかせては周囲を恫喝!
教会を離れた信徒の悪口に陰口、自己正当化を謀る様々な愚行!
日本の教会の未来はまるで自分の肩にかかってるかのようにかっこ良く語るが、とても尊敬できるような人ではない!


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