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床屋政談

101キラーカーン:2015/05/09(土) 03:05:21
憲法96条改正論議から「立憲主義」という言葉が人口に膾炙するようになりましたが、
それに関連して、伊藤博文の「立憲政治家」としての再評価が進み、
大日本帝国憲法についても、その再評価を行う書籍も出てきました

例えば
「明治憲法の真実」伊藤哲夫著
「帝国憲法の真実」倉山満著
「『憲法とは何か』を伊藤博文に学ぶー「憲法義解」現代語訳&解説ー」 相澤理著
というものです。
立憲主義者としての伊藤博文については、滝井一博氏や伊藤之雄氏ら
による著作があります

で、立憲主義とは何かということで、
「憲法は国家に対する命令」
という命題を出発点とすれば

「国家権力の行使は憲法の条規に則り、恣意的な運用をしない」

というのが、最低限になるでしょう。
また、国権の最高機関が国会であることから鑑みて
「国民の権利を制限するのは法律によることを基本とする」
ということも派生します。

このことは、刑法や行政法という公法分野における
「罪刑法定主義」や「法治行政」という原則にも現れています。
このことから、警察権を含む行政権行使は「ポジリスト」によるべき
という原則が生まれてきます。
(ここから、軍隊の本質及び「ポジリスト」、「ネガリスト」論争が
 生起するのですが、本稿では本題ではないので措いておきます)

で、閑話休題

この大日本帝国憲法及びその起草者である伊藤博文の再評価は
「政治学」の分野であり、憲法学では未だに
日本国憲法という「理想の憲法」に対する「悪役」
という地位しか与えられていません。

日本国憲法の「先進性」と大日本帝国憲法の「後進性」を示すのに

大日本帝国憲法では法律の範囲内でしか基本的人権が認められなかった
(ゆえに、「公共の福祉」による制限のみという日本国憲法より劣る)

とされていますが、裏を返せば、大日本帝国憲法においては
法律によってしか人権制限ができないという「立憲主義」の
王道を行くものだったのです。

日本国憲法において「公共の福祉」とは何かという重要な論点があります。
これは、憲法学会で「基本的人権の尊重」が三大原則のひとつとされている
ことからみても、避けて通れない論点です。

しかし、日本国憲法において、どのような形式で「公共の福祉」により
基本的人権を制限するかということには触れられていません。
一例を挙げれば、法律で「その他『公共の福祉』のため」と記載し
詳細は政令以下で規定するという形式で基本的人権を制限することは
憲法上否定されていません。

例えば、日本国憲法上、明確な根拠がある罪刑法定主義でさえ
「政令以下の命令にどこまで委任できるか」
ということは論点となっています。
(コレは、私も大学の憲法の授業で習いました。
 肝心な内容は粗方忘れてしまいましたが)
いわんや「公共の福祉」においておや

この観点からすれば、「権利の制限は法律を持って行うべし」
という大日本帝国憲法のほうがよっぽど「立憲主義」的です
この傍証として、つい数年前まで英国の最高裁判所の機能は
上院が有しており、違憲立法審査権もなかった
という事例もあります

つまり、国民の代表である国会の議決(≒法律)は最高の権威があり、
それこそが「公共の福祉」の発現である
という論理構成なのでしょうが、それはそれで納得できます。

もちろん、国会が暴走することもあるでしょうが、「国民の意思」
を表すのが国会であり(だからこそ日本国憲法でも「国権の最高機関」とされる)、
重要事項について国会承認事項とされるのもその延長線上にあります

まぁ「公共の福祉にかなうとして制定された法律によって」と
憲法訴訟となった場合に備え、解釈指針として「公共の福祉」
という文言を入れる必要があるかもしれませんが


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