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〜〜官職市場〜〜つわものどもが夢の跡

44輔漢の流浪の民:2015/08/01(土) 01:46:36
輔漢全書 主要戦場

天下坂の戦い
霊帝を庇護し、逆賊を次々と討伐する蕎序。
徐々に高位高官の位を得る。蕎序の天下統一は目前へと迫っていた。

第一次世界史城の戦い、三戦民の乱
蕎序の前に後漢を統治する自信をなくした霊帝は退位を決意、劉協に位を譲った。
劉協を擁立した蕎序は、皇帝より協の名を偏諱される。
遂に極位極官に上り詰めた蕎序。その前に霊帝を再擁立せんとする反乱軍が立ちはだかった。
蕎序は猛攻撃によりこれを撃退。世界史城に追い込まれた霊帝は再び退位を決意する。
また、元々なりきりをローカルルールで禁止しているので他板でやれとする
三戦民らの反乱などもおこり、霊帝はこれの鎮圧に追われることになる。

輔漢城の戦い
霊帝派は輔漢城に出兵。城外から人格や精神を誹謗する罵詈雑言を投げかける。
20万本もの大量の矢を射掛けた霊帝派であったが帝都の堅牢な城壁の前ではそれも焼け石に水であった。
それよりも蕎序の尋常ではない精神力の前に爆撃攻撃は通用しなかった。
霊帝派の城下での略奪に加え、異民族の可児坊も侵掠を開始し、輔漢城外は大量の敵兵で包囲された。
しかし、蕎序は可児坊を懐柔し、蕎可同盟を締結。可児坊は背後から霊帝派を急襲し、蕎序も城内から呼応し出兵。
霊帝派は世界史城への退却を余儀なくされる。

志多良場城の戦い
霊帝派の猛攻は劉協の私城、志多良場城にまで及び、蕎序の人格や精神を誹謗中傷する罵声に対し、
王羽が呼応してしまい、城外での激戦の末、霊帝により撃破されてしまう。
しかし、甫偉格や王翼らが事態を収拾し、城の陥落はまぬかれることに成功した。

第二次世界史城の戦い
蕎序は世界史城への侵攻を決意、張達のふりをして城下に侵入するも龍符という番号を付ける制度があることに
気付かず、霊帝派に撃退されてしまう。

三戦新城の戦い
霊帝派は三戦板に復帰し、三戦新城の運営を試みるも、蕎序派や魔玉、可児坊、本間賢輔らに荒らされ阻止される。

痴淫坂の戦い
ここで蕎序は霊帝派の格好をした武将に淫乱な話をさせ人心を失わせる「痴奸の計」を打ち出し、これに大いに民心はどよめいた。
さらに三戦民が霊帝の顔を預かり知らぬことにかんがみ、霊帝の影武者を夜な夜な町を走らせ火をかけさせる計略に打って出、
これに激怒した三戦民らが怨嗟の声をあげて霊帝城を包囲し、霊帝は世界史城に退却した。
また、この付け火は三戦本城の城下町の3分の2にまで延焼したが、下手人であった蕎序は三戦警察に逮捕され、
1ヶ月の間三戦本城に幽閉された。

劉旗の乱
霊帝派に投降した劉真に変わり皇帝を務めていた劉旗が、突如門を開け霊帝派の武将を招き入れた。
しかし、蕎序が官軍100万の軍権を掌握していたため、行き場をなくした劉旗は霊帝派に投降した。

劉協の乱
蕎序の境遇を悲観して見守っていた劉協であったが、遂に決断し、志多良場城を霊帝派へと明け渡した。
志多良場城は長年霊帝派の猛攻にさらされており、一面焼け野原となっていた上に、
すでに輔漢は慶京城を完成させていたこともあり、蕎序もこの城に興味を失っていたので、志多良場城に火を放って焦土にした上で、
戦わずしてこの城を捨てて洛陽城に退却した。

洛陽城の戦い
官職市場との激戦の後に、洛陽城の前に現れたのは三戦第二の勢力を持つ異民族の頭目魔玉との激戦であった。
魔玉軍のゲリラ戦法の前に大敗北を喫し、10万の兵馬を失ってしまう。
しかし、このゲリラ戦法は後の蕎序の自演潜伏戦法の根幹を支えることになる。
これ以後は魔玉とは融和し、魔玉派との慣れ合いなど緊密さを深め、今はなき魔玉板や輔漢板での慣れ合いも見られる。
また、魔玉が去る際にその見送りをするなど最後は気心を通わせていたようである。

金可児魔玉三帝会談
この頃、蕎序は公孫讃岐や自信の石山幕府の臣下にもなった黒金兵卒など可児派のコテとも馴れ合うような関係であり、
日頃から魔玉と可児に対して馴れ合いと埋め立て荒らしをやめるように申し出ていて周りもそんな雰囲気になってきていた。
そこでいつものように蕎序と可児が馴れ合い、それを魔玉があおるような感じで三帝会談が始まった。
結果的に蕎序の言い分通り、可児が以後馴れ合いをやめることを約束し、可児派は消滅解散となった。
そのあとすぐに可児も引退を発表して三戦を去った。

魔玉坊IP事変
魔玉亡き後の魔玉坊。満を持して輔漢城に攻め入ったが、蕎序にIP公開という弱みを握られ、土下座での謝罪を強いられる。
また、以後は絶対服従を誓い、蕎序に官位を与えられ、蕎序の臣下となった。

45輔漢の流浪の民:2015/08/01(土) 01:47:58
闘騎坂の戦い
魔玉との連戦で三日三晩の一騎打ちを戦った蕎序であったが、なよたけの物腰の静蘇との一騎打ちを受ける。
ここでは五日五晩、さらにジルジンクスという武将とも五日五晩の一騎打ちを繰り広げた。
勝敗はつかず、さすがに疲弊した蕎序は輔漢城へと帰っていった。

日本史城の戦い
霊帝派と国交を持った日本史官位スレに激怒し、蕎序は日本史官位城に武田騎馬軍団と示し合わせて出兵。
二ヶ月にわたってこれを包囲して城下を荒らしまわった。日本史官位城の群臣の間に動揺が発し、
責任をとって吏僚三人が辞任するという大事件に発展した。
さらに愉快犯的婆沙羅大名の本間賢輔に援軍要請をしたため、本間まで日本史城を荒らしだし、日本史城は荒廃を極めた。
百戦錬磨の蕎序の前に日本史板朝廷は為す術もなく、ただ日本史支城に避難し、震えて待つ他はなかった。

自治の大乱(第一次三戦世界大戦)
元々は強引にIDを導入しようとした自治厨とこれに対して話しあおうと称した金宰陽や可児坊の反乱にことを発した大乱である。
自治厨は強引に他板の自治スレにおける自分たちの議論で全て完了したとする立場でIDを導入しようとした。
また、自治新党自体を潰しにかかり、これに対して可児坊や金宰陽、ロコドールやロコ三郎がその強引な手法を批判している。
ただこの頃のロコ家はロコドールとロコ三郎しかおらず、ロコドールに至ってはほとんどロコ家の活動をしていなかったので
全く力はなかった。こうして自治新党を強引に他板自治スレに統一した自治厨であったが、この出来事に対しては反対の声が大きいくらいであった。
このことは別の確執を呼び、自治新党と自治厨の間で激闘が繰り広げられ、やがて自治新党によって自治スレは統一されることになる。
これに激怒した蕎序は自治スレに乗り込み、自治新党の主であった学徒出陣の登場を待ったが現れず、遂にその強行処置の対抗手段として、
異民族VIP族から蛮族を誘引させ、三戦板に誘引させて三戦板中のスレッドを攻撃する自体に発展してしまい、
その境遇に同情していた沖田などはこれを止めようとしたがその言葉も虚しく、遂に攻撃の火蓋が切られたのである。
また、可児なき三戦で第一の勢力を誇っていた永井尚志も蕎序の臣下となってこれに加担したため、旧可児、旧魔玉家で永井に仕えていた
者達の間にも大きな混乱をもたらした。そうして三戦全土を手中に収めた蕎序であったがこれに気付いた将軍雷音によって包囲され、
まあcの退き口によって辛くも逃げ延びたがその勢力の大半を失ってしまうことになる。また、雷音を殺害したはいだらーらは自らを自治三傑と称し、
この功績を奪い取ったのであった。これ以後は自治三傑の天下となる。

自治州大虐殺
大乱以後、自治三傑が三戦を支配することになったが、三戦板のID導入を本格的に進めようとして単独で反対にまわった魔玉坊と対立、これを
よってたかって袋叩きにした。このことだけではないが、元々はいだらーや向こうの888は気性が荒く、彼ら自治三相の反対派を嘲弄するレスが
自治における議論レスの減少を誘発し、最終的にはID導入は議論のみでは導入することは出来ないと説得されるとうやむやで終わる玉虫色の結果となった。
これらのことで批判を受け、これに懲りた自治三相は自治スレへの出席率が格段に落ち、互いに馴れ合いの道に走るようになる。

自治四相の失脚
自治三傑は、互いに行き場を失い、その政治は腐敗、はいだらーとビジオタは難民板大使館に、向こうの888はピンク難民板で毒苺らと慣れ合うようになり
政治は腐敗していった。さらに元は雷音の実績を横取りした自治三傑であったが、さらに何をしたか意味不明な郭周牙を加えて自治四相と名乗るなど
迷走が続く。また、はいだらーはビジオタを大衆の面前で公然と侮辱するようになり、それに耐え切れなくなったビジオタが下野。
そして彼らの凋落を決定的にしたのは三戦志であった。これは彼らが作った妄想の物語であるが、三戦民で作ろうとの計画であったのに対し、
自治四相を設けたり、果ては関係のないコテの誹謗中傷まで始め、三戦民の意向も軽視したものであったため各所で不満が爆発。
やがては彼らの批判へとつながっていた。

三戦自治統一戦争
まあcが長年続いた自治厨と自治新党の対立を収め、旧自治厨を批判要望板へ追放。 自治新党を最高し中興の祖ともてはやされた。

46輔漢の流浪の民:2015/08/01(土) 01:49:42
張春華の乱
三戦本城の牢獄から数年の刑期を満了した蕎序は金宰陽として復活。
その頃ちまたでは張春華が一世を風靡しており、張春房、勇魚らと共に独裁政治を執り行っていた。
この頃はまあcも排除された上に、新党の皇帝でもあった学徒出陣でさえ名誉総裁に祭り上げられていた。
そこで金宰陽はキチガイの佐倉広夢と同盟を結び、さらにひょーりみや中野区民憲章らとともに反張春華包囲網を築き上げた。
攻防は一進一退であったが、持久戦に持ち込んだ後、張春華が逃亡、それとともに敵軍は総崩れとなり、勇魚、張春房らは討ち取られた。

金八戸ロコ戦争(第二次三戦世界大戦)
金宰陽は先の功績もあって次期新党皇帝候補にあげられた。しかし、この頃は夏厨という移民が各所から大量に流れこんでおり、
その中からは八戸のぶながを首領とする八戸族などが現れ各地で猛威を振るった。金宰陽はその中から生き別れの弟であったロコ常陸四郎を見出して登用する。
そこで金宰陽は損権厨房のBBSに使者を派遣して自分の勢力を朝廷として認めさせるなどの工作を経て、最終的には義勇兵として集まった愉快犯や
数人の仲間と自身の幻術で生み出した自演兵などで圧倒的大差で勝利することとなる。

戦国城攻略(三戦、戦国、日本史天下統一達成)
歴代皇帝では唯一ロコ常陸四郎を戦国板の代理統治者として送り込み、戦国板を統一することに成功する。
日本史板は、前に日本史板おまいら官位スレが霊帝派に使者を送った際に攻撃しており、現在では日本史官位城すら存在しない有り様で空城であった上、
石山幕府なるものを設置しており、定例の仕官希望者募集中スレを立てて東海王に統治させていた模様。
それ以後、金宰陽は細川政元のように姿をくらませた。

ぴよりん城の戦い、可児城の戦い
帰ってきた金宰陽ははいだらーを騙り、ぴよりんに対しセクハラ罵声攻撃を加え、ぴよりんを野戦におびき出し撃破。ぴよりん城に籠城する。
さらに昔から自分の家臣であった可児麿を可児家当主に擁立、これに対してはいだらーは南可児家当主の座に就き、抵抗した。

関羽城の戦い(はいだらーの戦い)
はいだらーは神出鬼没であったが、金宰陽はいだらーが関羽城で夜な夜な関羽のコスプレをして徘徊しているという情報をピムン(密偵)から聞き、
夜間に大軍を関羽城の前に移動させ包囲することに成功する。その際の懐柔工作により、日頃からはいだらーが関羽を取ることにいらつきはじめていた
ちゅぷ、三浦らが城門を開いて呼応し、一夜にして関羽本城は奪い取られた。しかしその後もはいだらーは、さらに支城で30日にわたって籠城し、
交戦するも金宰陽の前に敗れ去った。はいだらーは最後に命乞いをしたが金宰陽によって斬首に処された。
魔神時代のはいだらーはほとんど不眠不休で関羽をする存在であり呂布に匹敵する強さだったと言われている。
はいだらーの生家の跡地は学徒出兵の家になったとされている。

47輔漢の流浪の民:2015/08/01(土) 11:50:56
金王家が学徒公認の王家へ
金龍馬が株板に避難中の学徒出陣の元を訪れ公認の王家のお墨付きをもらう。

三種の神器の政変
学徒出兵が魔法剣士、聖臣永常、学徒出陣を説き伏せ、ムコーニンやプヒャ孔明などからお墨付きの三種の神器を受け取れば学徒家の皇太子として認めると
約束させたことに対して謀議をめぐらせた金宰陽は、ムコーニンらのトリップを破って偽の三種の神器を渡させ、朝政を支配しようと試みた。
しかし、それらの計画は頓挫し、金宰陽の計画は水泡に帰した。

紅武帝の擾乱(学徒王朝の終焉)
学徒出陣のトリップを破った金宰陽が紅武帝を自称、これに対して金宰陽、学徒出兵、聖臣永常、婿ビンゴ、ロコドールらが紅武帝派、
ロコ三郎、ロコ常陸四郎らが全受帝派に分かれて戦闘する事態に発展。金宰陽がロコ三郎、ロコ常陸四郎、クマッタらのトリを次々に破ったため、大混乱が生じた。
最後に聖臣永常が自分は学徒候が来るまで城を守っていただけでこの領地は全て献上するとして紅安城で反乱を起こしたため、結果的に全受帝側が勝利することとなった。
しかしこれ以後、常に偽帝の疑念にさいなまれ、信用は失墜。遂に数十年続いた学徒王朝に引導が渡ったのである。

金龍馬の乱
温和だった金龍馬だったが、金宰陽との党首争いとなり、金宰陽の挑発により皇帝を僭称し、決起。
金宰陽や新党の官軍勢に鎮圧される。

学徒出場の乱(神ツコツの乱)
新参コテだが一世を風靡していた神ツコツが学徒出場を名乗り、新党城を占拠。
元老のひょーりみやクマッタらもこれに同調して反学徒を唱えた。
しかし、ロコ三郎やロコ常陸四郎、金宰陽や聖臣永常らの袋叩きとなり3日で討ち取られた。
今まで学徒に忠実であったひょーりみまでもが反旗を翻しており、紅武帝の擾乱により低下した全受帝の権威の失墜を表す騒乱であったとされる。

聖臣永常党首後継戦争
聖臣永常が党首に名乗り出るも、聖臣を金宰陽だと思っていたクマッタが荒らしだし、聖臣家の当主の位を取られたことを快く思っていなかった金宰陽もそれに乗じて
大量の自演投票部隊を投入して思わせぶりな工作をしたため、聖臣永常は党首候補の座を放棄して退転せざるを得なかった。

ロコモティブの乱
ロコモティブとクマッタが示し合わせて学徒出陣に反旗を翻し、ロコモティブが三戦皇帝を僭称して新党城に攻め入った。
その際、聖臣永常が単独でこれに当たり学徒出陣が帰還するまでの間、新党城の死守に成功。この戦いによってロコモティブは討ち取られた。

三戦維新の大乱(可児の禍)
聖臣永常が可児数奇(実は八重樫)を討伐、この頃、学徒出陣に出兵と聖臣、初陣と常陸で新党の陣代を交代で務めるようにいわれていたのにもかかわらず、
何故か学徒初陣とロコ常陸四郎は1ヶ月半〜2ヶ月の間新党を開けており、その罪を学徒や皆から問われて、聖臣永常によって捕縛、ひょーりみに引き渡された。
一時期、この事件によりロコ常陸四郎はキチガイとなって宮大工となっていたが、後に快復し、復職した。
これにより皇統は学徒出兵へと定められた。

最上義光、聖臣の姓と忠臣の位を賜る
最上義光は学徒出兵から聖臣の姓を賜り聖臣永常に改名。学徒出陣からも忠臣という格段の位を賜った。

聖臣家当主抗争勃発
金宰陽はしたらばBBSを訪れた聖臣永常のことを金家の当主としては容認してはいなかった。
これを気に聖臣常緑(ロコグリーン)らを味方につけて攻勢をかけ、聖臣家の当主の座を奪還する。

クマッタの乱
2011年4月、クマッタが学徒出陣に無断で選挙を実施、三戦皇帝を名乗るもロコ三郎、ロコ常陸四郎、金宰陽、聖臣永常、婿ビンゴらの集中砲火に敗退。
ロコ康三郎はクマッタ派に無能だとそしられてしまう。

宰天の変
突如復活した自治厨の前に宰天が和平による交渉を決意。自治厨城に赴くがその頑ななまでの排他的態度に失望。
交渉失敗の責任を取り還俗し、出奔した。その後、人々に請われて復職。

聖臣常勝の墜星
急遽現れたカリスマ的指導者、聖臣常勝。クマッタを撃退し学徒出陣を守るなどの功績を立て、ムコーニン以来となる「将軍」の愛称で親しまれたが
人々に惜しまれながら夭逝した。

学徒出国の聖臣家への臣籍降下(学徒王朝の滅亡)
大漢スレなどに君臨し、気性の荒いことで有名な学徒退陣との覇権争いで神経をすり減らしていた学徒出国は遂に聖臣家を頼って臣籍降下した。
その後、学徒退陣も大漢スレで乱戦の最中に落命。これによって学徒家の祭祀は聖臣家に継承され、本当の意味での学徒王朝の滅亡を迎えたのであった。

48まあc:2016/12/11(日) 01:20:57



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