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【ザ・KK退会者】がものを言うスレット【二言目】

13RANDY:2007/12/06(木) 20:54:44 ID:???
◆時間・物・行為など、この世的に見すぎてないか?

まず時間について。_ある信者さんは、信仰年数にこだわっていた。たしかに教団内の秩序維持のために、方便的に在籍年数を数えることは有効かもしれない。けれども霊的に考えるならば、時間というものはあまり意味がないと思う。たとえば○○定をマスターするのに、一日で充分の人もいれば、三十年かかる人もいるだろう。これを思えば、何年間修行したとかは、あまり意味がない。

またイエスの活動期間は数年間だという。けれどもその数年間は、多くの人々の人生に多大な影響を与えたわけだ。それを思えば、イエスの活動した数年間には、この二千年の間にクリスチャンとして生きた全ての人々の生涯を足した年数だけの期間が含まれているとは言えないだろうか。「極論だ!」と言われそうだけれども、私には霊的視点から考えるならばそんな風に感じられてならない。

次に物について。_2ちゃんの信者さんは、精舎建立に肯定的のようだ。でも私はこの考え方にはすごく違和感がある。本来、精舎教会というものは、心のうちに打ち立てるものなんじゃないの? 信仰がある者が数人集まれば、そこに霊的な精舎教会が建立されるのじゃないの? 精舎の建設ラッシュとか、信者さんの会話を傍から聞いてるとなんか違和感ある。

私はずっと前に、パイプオルガンを聞きに教会に行ったことがある。その教会ははっきり言ってオンボロだった。教会に入って礼拝堂に行く途中に、一般家庭と似たような炊事場があって、その使い古した感じから生活の匂いがぷんぷんしてた。でもそれは不潔な感じではなくて、信仰と生活と信徒同士の絆とかがいい感じに交じり合ってて、温かみがあった。私は生涯クリスチャンにはならないだろうけれども、あの雰囲気は、ついつい、なごんでしまって長居してしまいそうだった。

最後に行為について。_先日、2ちゃんの信者さんから繰り返し「精舎に行ったか」を尋ねられた。「精舎に行ってないならKKについて意見する資格なし!」みたいな口吻だったので驚いた。この発言を聞いて、まず私の頭に浮かんだのはこんな事だった。「障害者や難病患者など外に出かけることが出来ない人はどうなるんだろう? 低所得者で遠出できない人はどうなるんだろう?」

それから次の思いも浮かんだ。「信仰の熱心さは信仰によって判定されるべきもの。布施や伝道したからといって本当に信仰熱心かどうかは分からない。信仰の熱心さは行為では分からず、信仰そのものによってはかられるもの。そしてこの熱心さは、神様にしか分からず、他人に判定することはできない」

まあ何はともあれ、「精舎精舎」と連呼するのを聞いたお陰で、以前ファルコン氏が書いてた、精舎に行った信者が実質信者と算定される云々というのが事実らしいことは想像できたのは良かった。
でもなあ。2ちゃん、ヤフーでの信者発言は全体的に見て、私はあまり霊的なものを感じないです。そしてそれが少し残念で、少し腹立たしい気もする。


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