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【ザ・法論】+☆+KK8+☆+【論戦2日目】
615
:
タム
◆M/L2k2Eq72
:2010/11/27(土) 07:36:30 ID:eATZr/6I
その主張も、今となっては空しいと思います。
よしもんさんによれば、天上のエルカンターレは全知全能だが、
地上の大川総裁は全知全能ではないのでしょう。ということは、
大川総裁は、天上のエルカンターレの御心を百パーセント体現
しているとは必ずしもいえないことであり、大川総裁を信じる
ことが、そのまま天上のエルカンターレを信じることになる
とは限らないということですよ。
むしろ、大川総裁を信じないことが、天上のエルカンターレを
信じることになる場合が少なくないということにもなりえる。
こういう状況からは、大川総裁を信じないことが後悔につながる
という考え方は説得力に乏しくなります。
それから、天上のエルカンターレは目に見えず、よくわからない
が、肉体を持つ大川総裁を信じることはできるというのは、
ある種の唯物論信仰といえなくもないです。目に見えない、物質
ではない、天上の高次なる存在を直接信じるのではなく、目に見
える、肉体を持つ大川総裁を介して信仰するのだから、そういわ
れても仕方ないでしょう。
この点から見ても、肉体を持つ大川総裁を信じないで、天上の
エルカンターレを信じるというのは、唯物論の影響から抜け出し、
より純粋な信仰に近いことであり、より正しいといえなくもない。
聖書について言えば、よくあるのはこういう流れですよ。
・人が神に神である証を求める。
・神は奇跡を見せる。
・人は神だと信じるが、そのうちに信じなくなる。
・そこで神は再び奇跡を見せる。
・人は神を信じるが、また信じなくなる。
・神は再々奇跡を見せる。
・人は神を信じるが〜
こういうことが延々と繰り返されている。神様は忍耐強く、決して
人を見捨てずにいてくださるという話。
聖書の神は、目で見てわかる奇跡をあらわしてくれる神だから、
HS正当化のために聖書を引っ張り出すのは得策ではないと思います。
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