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【ザ・分室】 嗚呼、ひかりもの禍劇団! 【痛い系】

111たまご:2005/09/20(火) 00:18:14 ID:Yof8EW6U
>>110
エートスさん、こんばんは。
いつも誠実なるご意見ありがとうございます。

>さらに言えば、自分で「男は顔じゃないわ、心よ、生活力よ」と納得している分には構わない。しかし、こーしたことを声高に叫び、賛同を募るようになるとプチ宗教への道が開けてくる。

賛同を募る…個人的には嫌いな行動パターンですね。
それと「男は顔」かもしれません。顔という造作ではなく面構えってありますから。〈片岡球子ではないが)生き様は如実に出ますでしょ。

>私が新宗教に対して警戒するのは、「他者に対するネガティブな感情をてこに、信者の宗教倫理が促進されることがあり得る」ということです。

これは逆ですね。他者への理解、慮る心はやはり信仰によって培われている大きな要素の一つです。他者に対するネガティブな感情は、生身の人間ですから避けられないものとしても、肯定してよい心の状態ではないので、そのもとに宗教倫理を行使しようとすれば厳しい反作用があると思います。

>例えば「怖いモノ知らずは、さあどちら? 」とか「全てを捨てたときに得られるものを体験している」などから、自らを神の栄光のもとにあるとする思いこみが感じられてしまうのですね

信仰の入り口には立たせていただいていますが、自分が『神の栄光のもとにあり』とは正直思えません。そう確信できたら、迷いなく日々送れるでしょう。ただ、ある時期に思慧を通して「大いなるものに生かされているのだ」と思えたのは事実で、そこから感謝の質が変わってきましたが。怖いもの知らずのくだりはイケズな書き方でした。誰もが通過する『死』とそれ以後について、早くから学んでいた方がより有意義な人生になることは確かです。先に何もなくこの世限りだとしたら、努力放棄する人が後を絶たなくなるのでは。やはり、失望や挫折の時に甘い慰めを第三者から与えられるのでなく、悲しみ苦しみのどん底で、自らの内に宿る光(内部神性・仏性〉に気づくという瞬間は、この世ならざる存在の見えざる手を示唆していると思います。生きながら死している状態を経験して申したことなので、論理性には欠けるのですが。
知性・理性=悟性ではないですし、悟性の部分こそ日々問われているのでしょう。それをどのような生き様でもって示せるか、は謙虚に精進を重ねる以外にないです。ニヒリズムであれ、厭世思考であれ、スタイルとして解る気はしますが、末路が幸福でないのはこれからの時代のニーズには合わないと思っています。


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