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近代日本の右翼史について

1しかっち:2020/02/01(土) 21:08:15
「ネット右派の歴史社会学」の誤謬スレ
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/6152/1580084154/

にて、同書による「右翼」の位置づけの変遷をまとめたところ、若干の反響があったので、ここにスレを作成する。
いちおうタイトルは右翼史としたが、保守派・左翼なども含めて諸派の動向を概観するスレとして活用していただければさいわい。

2しかっち:2020/02/01(土) 21:09:49
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/6152/1580084154/5
よりコピペ。

5: しかっち :2020/01/28(火) 19:30:35
「ネット右派の歴史社会学」にて、伊藤氏は橋川文三・堀幸雄・猪野健治・松本健一・中島岳志などの議論をふまえつつ、「右翼」の位置づけの変遷を以下のようにまとめている(P191〜)。

(1)明治維新…復古主義的な「右」への志向と進歩主義的な「左」への志向とが結びつき、体制打破への原動力となった。
(2)明治期…明治国家体制の補完物(「保守」)となるのを拒んだのが、「右翼」(頭山満→内田良平)と「左翼」(中江兆民→幸徳秋水)へ。
(3)大正〜戦前期…「右翼」・「左翼」は緊密に交流を持ちつつ、腐敗した体制(「保守」)を打破しようと運動。軍部の膨張とともに、「左翼」は弾圧され、「右翼」は時流に飲み込まれる。
(4)戦後期…「右翼」は「保守」政権と結びつき、「左翼」の伸張を押さえ込む先兵に。親米反共。
(5)昭和後期…「新左翼」への対抗意識から「新右翼」が台頭(野村秋介)。「既成右翼」とは一線を画し、反体制・革新的な勢力へ。
(6)平成初期(90s)…ソ連崩壊により最大の敵を失ったことで、「既成右翼」と「新右翼」の垣根もなくなり、「右翼」の再生が図られる。

3しかっち:2020/02/01(土) 21:18:24
>>2に補足すると、
憲法公布・国会開設を通じて、藩閥政府に民権派が合流してゆく(または取り込まれていく)なかで形成されたのが、帝国憲法下の体制派(保守派・主流派)であり、
そこから外れたのが右翼と左翼だというのが、伊藤氏の認識のよう。

戦後期については、右翼は政治的には体制側についたわけだが、当時は思想・言論的には、むしろ左翼に主導権があったわけで、その意味においては当時の右翼もやはり反体制であったと言えるかもしれない。

4まむし連:2020/02/03(月) 22:01:45
>>2については
Dio氏の見解(より素晴らしい修正分類)も貼っておいきたいところ。

本人の許可ないとできないが。

5まむし連:2020/02/05(水) 02:46:35
昭和天皇について
МLでは書き忘れたが
戦前の昭和天皇は形式上は立憲制度を重んじ内面は民主主義を信奉していた
天皇機関説を無問題とし立憲政治の形式を踏めば
民主主義が貫徹されると信じた、そしてその信念は間違ってなかった。
つまり天皇機関説は
掲げるべき理想としては誤り(國體観として誤り)だったが
当時の日本のシステムの現状認識としては完全に正しかった

しかし終戦の詔勅は立憲君主を逸脱してる
昭和天皇の信念はここで崩れた
世の人すべて象徴天皇とは立憲君主だと誤解してる。そうじゃない
立憲君主は民主主義を追認する存在だが
民主主義が不完全で国民を滅亡に導くシステムである以上
天皇が立憲制に縛られてはならないことになる
昭和天皇はそれを自覚した上で象徴天皇として振る舞った
宮台真司が天皇は(戦前も戦後も)立憲君主ではなくアジア的専制君主だといったのが正しい
戦後の昭和天皇は
戦前のように政府代表を安易に「国民の民意」と同一視することをやめて
積極的に関与していった
全国巡幸で国民とふれた結果、自分は国家の機関ではなく現人神だったことを
改めて知った。民主主義の前提になる人間観が虚妄だったと思い知ったから。

6しかっち:2020/02/06(木) 09:34:15
>>5
興味深い所説ですね。参考になります。
わが世界代表は、戦後体制について「純化された北朝体制」と批判的に言及してましたが、密教的にはそうともいいきれない。むしろその逆だということになりましょうか。


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