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皇室の危機・小室圭騒動

6まむし連:2019/04/24(水) 19:34:59
>>5 から続き

なお、些末などうでもいいことであるが「持参金を辞退するなら小室と結婚してもいい」という意見が一部にある。
俺の考えは「もらえるもんなら遠慮なくもらっとけ」というのが若者にいうべきおっさんからのあるべきアドバイスと信じる。
本人が自分の心に照らして、もらうべきではないと信じるなら、辞退するも良し。
だが、ちゃっかりもらっちゃったとしても、それをガミガミいう老害には死んでもなりたくない。
「わんぱくでもいい。たくましく育ってほしい」
という丸大ハムのCMを知らないか?
「憎まれっ子でもいい。世に憚ってほしい」
それが、ひ弱な子をもった親のこころだろう。
真子様には、どうか、こんな糞な世の中と戦って、生きるに値する真の人生を示して
綺麗事と建前ばかりいう愚民どもの死んだ魚のような目を覚ましてほしい。
…まぁ、これも俺の夢だ。実際には、眞子様は敗れ、挫け、死んだも同然になるのかも知れない。
だが民に夢と希望を賜うのも皇族に生まれた者の宿命なのである。

人生経験浅く若い二人の儚い恋路をぶっつぶして、その後にどんな幸せがあるのか
その後の真子様は、どっかの「釣り合いのとれた」御大層な御曹司とくっつけられて
いかにも皇族でござんすという作られた笑顔をふりまくだろう。
それをみて本心から「良かった、良かった」っていうのか、おまえらエセ保守は?
俺は「明治維新以降、何度でも、いつまでも繰り返される皇族たちの不幸」を思う。

「今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つわれは」
「ますらをの悲しきいのち積み重ね積み重ね守る大和島根を」

国体を守るのに必要なのは「ますらをのいのち」であり「醜之御楯」である。
乙女の涙のはずがないだろう。
国体を守るのに生け贄は必要ない。生け贄を求める神は、すべて神をなのる悪魔なのである。
おまえらは天照大神にも皇祖皇宗にも仕えていない。
ただ、天皇陛下はじめ皇族の方々を無駄に苦しめているだけだ。

7ぶらでぃ:2019/04/26(金) 02:59:03
■判断論

格上格下と言う風に、
安易に上下関係に話しを持っていく必要は無いと思う。
役割なり、立場の違いがポイント。

判定する権限が無い、と言う話しをすると、
「お前もないだろ」と言う反応が予期される。
所謂世間派の精神性には、「何様」反論が根本的に染み付いている。

さまざまな感性の相対化の嵐の中、
安定的な基盤となり得る一般原則は、
「自由は可能な限り、制約は本当に必要なだけ」。

善悪正邪を判断評価する義は各自相応にある。
相手が或る意味・身分上格上だろうが格下だろうが関係ない。
問題は、判断評価の基準や発想、考慮の深み。

「勘違い」は、基準や方法論、
自分の思慮の深みに関する自己認識などにある。


■「正しく生きる」の意味合い

皇族の仕事または使命が、「正しく生きてみせること」かどうか。

天皇陛下の仕事は、祭政統治に(何らかの程度)向け、
正しい判断、判別を行い、下すことを追求すること。
その他皇族の仕事は、それぞれの権能に応じて、その使命を輔弼することや、
その使命遂行の上での(多様性も包摂する)環境づくりに適宜寄与すること。

正しく生きることは、本来、あらゆる善人が目指すべきこと。
「正しさ」と言うと、品格派からすれば、品格の良さ、
と言う風に誤解される恐れありそうでもある。

皇族は、人間一般の理想を、「一般人」以上に真摯に向き合い、
真摯に挑むことが、使命宿命。

皇族や、真理に生きる人々は、
いわゆる平均人より真摯に真理や正義や本質をベースに、
判断を考えるべき。

すなわち、正しく生きる上での、正しさの深み、またはその視野が違う、と言うこと。
一部か大分の世間一般の慣習や思い込みや通念に必ずしも縛られずに、
本質的な正しさを模索して、判断や行動をすることがポイント。

小室氏との結婚の問題での、本質的正義は、
小室氏と内親王殿下の間で話し合って判断するべき事柄だ、と言うこと。

(制度上の問題としては、内親王殿下が形式上、皇籍離脱するのが、
妥当かどうか、と言うトピックも一応ある。
が、形式上でも、離脱するなら、余計結婚選択は自由であるべきだろう。)

(続く↓)

8ぶらでぃ:2019/04/26(金) 02:59:43
(続き↓)

■「衆愚」ではない

>国民の多くは衆愚

「衆愚」と言うのは、無駄な誤解を生むだけだと思う。
国民の多くは、学校や家庭や企業環境のムラ的な影響に形成された、
生活環境や、小局的な体験や感性や視野に依拠して、
過剰に断罪的な判断や関心を、無闇に展開適用する傾向にある。

こう言った国民の多くは、賢かったり、善良だったり、働き者だったりする。
一日中、仕事でがんばって、仲間と遊び、家族と時間を過ごした、善良の市民。
そう言った市民が、騒殺黙殺に加担する。

衆愚ではないが、
根本的な方法論の問題があると思う。

■問題の理解

先輩・後輩、お互い様、何様、ボケ・ツッコミ、
身分と実存の混同、過剰な自己責任論、過剰な風貌統制、
こう言った日常的要素が、日常の秩序に寄与しつつ、
容易に誤謬や暴発に陥っている印象。

これらは学校教育に始まる、
家庭や企業環境の悪影響に依拠していると思う。

これら要素を分析して、
それぞれの由来を特定して、見直す必要がある。
一部は、たとえば、薩摩藩や、明治の軍隊文化によるものもあろう。

現代人は、時代錯誤や「昔」に対して否定的な割りには、
或る時代に起因や形成された慣習的な制約の、
「時代性・歴史性」についてきわめて関心や思慮が低い。

自分に都合の良い現状基準は、「変わらず」善であり、
都合の悪いものについては、「変わるもんだ」と言う。
後手後手。

具体的に考えたい。
たとえば、先輩・後輩は時系列上の事実以外に意味は無い。
その言葉を使う必要さえない。

すべての成人とも、年上年下であろうが、仮定上、敬意がベース。
年上に対しては加齢による一般的な苦労と知恵が敬意のベースであり、
年下に対しては一般的な挑戦、使命や、今後の苦労が敬意のベース。
相互的であるべき。

本質に依拠して、先ず、日本の学校文化を抜本的に見直すべき。/


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