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科学と疑似科学とを判別する
669
:
Ken
:2020/08/26(水) 22:53:20 ID:CGdfQfpg
それでは話を続けます。ここからの話には量子力学が入りますが、その前に、18世紀の話題が長く続いたので、議論の全体像を明らかにするために、基本的な背景を述べておきます。diamonds8888xさんには先刻承知の話かもしれませんが、行き違いを生じないためですので、どうか我慢を願います。
まず、私がなぜ光の正体論争を持ち出したかですが。基準に違反する「疑似科学」は、単なる「間違った理論」とは異なるはずという認識があります。「間違った理論」とは、現実を反映しない理論という意味です。科学史には多くの論争があったし、今でもあります。
「光は粒子である」 vs 「光は波動である」
「鳥は樹上生物が進化した」 vs 「鳥は地上を走る恐竜が進化した」
「宇宙は永遠に膨張する」 vs 「宇宙はいずれ縮小に転じる」
「邪馬台国は九州にあった」 vs 「邪馬台国は畿内にあった」
一方の説を唱える人は他方の説を間違った説、現実を反映しない理論と主張しますが、だからといって疑似科学と見なしたわけではありません。ですから、例えば学術論文としては常に邪馬台国九州説を唱え、畿内説を論駁する人が、一般向けの教養書や教科書を執筆する時は、両論を併記するものです。疑似科学と見なす理論を教科書に載せる人はいないでしょう。そして、現実を反映するのはどの理論であるかという論争なら、新しい発見があり知識体系が変わるにつれ、正しいと思われた理論が間違いと分かったり、その逆のことが起こったりします。光の正体論争でも、時代によって粒子説が優勢になったり、波動説が正しいと確信されたことは、diamonds8888xさんがご承知のとおりです。
ところが私は、数理的背反関係にある2つの理論をどちらも認めるのは疑似科学である、という基準を見たときに、ある理論が疑似科学であるのかないのかもまた、知識体系によって変わるのではと思ったのです。ある時代の知識体系の中では疑似科学と見なされる理論が、新しい時代の知識体系の中では疑似科学でなくなるのみか定説にすらなりうるのではないかと。それなら「間違った理論」といわず、ことさら「疑似科学」と称することに何の意味があるのでしょうか。いずれは正しいと分かるかも知れず、よって正当な探求対象たりうる点では「間違った理論」も「疑似科学」も同じではありませんか。
そこでまず、18世紀の知識体系の中で「光は粒子でありかつ波動である」と唱えるのは、基準に照らして疑似科学になることを論証してきました。20世紀以降の知識体系の中でどうなるかは、これから論じてゆきます。
以上が、私が光の正体論争を持ち出した直接の理由ですが、もう1つのより根本的な問題提議を述べておきます。これはdiamonds8888xさんから何度かお尋ねがあったことですが、現在進行中の議論ではそこまで踏み込まないのがよいのではと、私から申し出たもので、ここでは背景説明として述べておきます。
すなわち「(¬P)∧P」を否定するような純粋な数理論だけで、現実の事象を否定できるのかということです。言い換えれば、現実観測からすべてが出発する自然科学と、純粋な抽象対象を扱う数学を、同列に扱えるのかということです。自然科学が数理的に整合性のある理論構築を目指すのはたしかですが、それ以前に自然科学は現実をあるがままに認識するものであり、現実認識と数理的整合性が一致しない場合は前者を優先し、理論的な矛盾を容認するのではないかということです。話が長くなるのでここでは省略しますが、現在、定説になっている理論にすら、究極的には矛盾を含むものがあるのではという疑念を私は抱いています。
以上のような背景と目的のもとに、これから量子力学を取り入れた形で光の正体論争について述べてゆきます。疑問または異論がありましたらご指摘ください。
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