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科学と疑似科学とを判別する

344Ken:2019/04/17(水) 00:33:36 ID:YihEQjIU
「(¬P)∧P」の可能性について、シュレーディンガーの猫よりも簡明な例がないかと考えてみました。
歴史上のこのケースはどうでしょう?

1887年、マイケルソンとモーリーの実験で、光を伝える媒質と想定されていたエーテルが存在しないことが明らかになりましたが、これは重大な問題を引き起こしました。なぜなら光が電磁波という波であることはあらゆる検証によって確立されていたからです。媒質つまり振動の実体が無い波など、絶対矛盾としか思えませんでした。まるで「水の無い雨」や「空気の無い風」が存在するというようなものです。

その後の歴史を見ると、1900年にプランクが量子の存在を唱え、1905年にアインシュタインが量子論を発展させ、光は粒子と波動の2重特性を有し、粒子としての性質があるから媒質を必要としないのだと主張しました。結局、この理論の正しさが認められて媒質問題が解決しました。マイケルソンたちの実験の18年後です。

私の問題提議は、その18年のあいだに、科学はどういう立場をとるべきであったか、というものです。

光が波であることと、光を伝える媒質が存在しないことは、(当時の人には)絶対に矛盾する点で、Pと¬Pの関係に該当します。しかもなお、この両者は並立するとなれば

(¬P)∧P

以外に表現しようがないのではありませんか? たしかに新しい事実が見つかり、新しい理論が構築されたら、2つはPと¬Pの関係ではなくなるし、矛盾は矛盾でなくなるかもしれません。そして今の私たちは歴史がそのように進行したことを知っています。しかし上記の18年を生きた人がそれを予測するのは不可能で、彼らにとって観測できる事実は「(¬P)∧P」しかないのです。それなら、たとえ矛盾であろうが、観測事実を「事実」として受け入れるのが科学ではないでしょうか?

もちろん「(¬P)∧P」を最終結論にする必要はないし、矛盾の無い理論の探求は続ければよい。でもそれは矛盾が無いと思われる理論があっても同じことです。科学に最終結論はないのですから。


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