[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
| |
神は誰だ
26
:
AH1
:2015/07/08(水) 12:09:44 ID:???
周回遅れですが
例えば雷が落ちる中には「神の怒り」が混じっているかもしれない、という命題は非常に否定しにくいでしょう。神の介在を検出するのが難しいからです。というか多分無理。例えばそこに積乱雲が発生し、帯電して「いつどこに落ちても不思議じゃない」状態になったとしても、「なぜ今ここに落雷した?」を解明できるのか。「空気中での放電現象における電子の行く先」などという自由度の高そうな現象は、いくらでも偶然の入り込む余地もあるでしょう(*)。
逆に言えば「じゃあ神の介在を証明してみせろ」も、同じく無理なんですけど。
そうなると「科学的な根拠は出せないが自分はそう信じる」になりますかね。
実はこれ、「神とはそんなに無慈悲なのか」に対する逃げでもあります。全てが神の意思であるとすると、死亡事故や火災を引き起こしたのも神の意思となり、なぜ人をそんな目に遭わせたのか、という説明が必要だからです。
と、ここで止めておけば科学として極めて否定しづらい命題になるはずなのですが、どうして「観察すれば明らかだ、愚か者共め」みたいな大風呂敷を広げちゃうんですかねえ…
(*)逆に言えば気象条件を揃えてやらなければ落雷が起こせないということになり、神の能力を相当にデチューンしてしまいますが。
あからさまに不自然なことをせずに気象条件を揃えようとすると周到な事前の準備が必要になり(気温や気圧の分布を前もって設定しなければならない)、そうすると運命論・決定論的になってしまいます。
また、仮に科学の進歩によって、現在は偶然に見えていたことも非常に細かな条件設定から読み取れるようになった場合、その観測網をすり抜けて、神が偶然を装うのは難しくなって行きます。そうすると観測可能な自然条件の全てが神の意思ということになり、より決定論に近づきます。そうなると、自分や他人のどんな不幸も事故も悲しみも、全ては神の意思である、と考えざるをえません。
こう考えると、自然を観測し法則や条件を見出すという行為は、自然現象の自由度を奪う事であり、必然的に神のハードルを上げて来たのかもしれません。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板