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自然科学的ではない存在とは何か?

1diamonds8888x:2008/02/27(水) 05:58:39 ID:wqiL7.lg
 「神と科学は共存できるか」のスレッドで派生した問題ですが、別スレッドにしました。あちらの本論はドーキンス本の批判ですが、私は読んでいないし、当面読む予定もないので本論自体にはあまりかかわれない、ということもあります。が、かなり別問題だという理由の方がおおきいです。

 地下に眠るMさんの言う【自然科学的な意味で】の存在と【人文・社会科学的な意味で】の存在の違いについて考えて見ましたが、どうも私の中ではこの分類はしっくりときませんので、ちょっと私なりの分類を考えて見ました。

「神と科学は共存できるか」の281より
> 基本的には自然科学・社会科学・人文科学の区分けはその研究対象によるものという伝統的な考えを採用しますにゃ。
> ニンゲンの行動というものは、自然科学的に見ても実在する現象であり、社会的に実在(流通)する現象であり、内的な心的現実としても実在するので、それぞれの学問によるアプローチがありえるということにゃんね。

 普通はこういう分類だと思いますが、その普通の分類が今ひとつあいまいに見えるもので。

16:2008/03/06(木) 09:14:03 ID:sUQ1SW32
>キリのない話は私の意図するところではなくて、キリを明示しての話を試みています。私が試みているのは、唯物論ないしは素朴実在論だけでどこまで突っ走れるものかということです。それともマッハ流の「観測されるものしか実在しない」という論法でどこまで突っ走れるものか、と言うべきでしょうか。(>>13;diamonds8888xさん)

弁証法的唯物論での「物質定義」が、若しかしたら参考になるかも、と言うことで書き込んでみます。『唯物論と経験批判論』の中でのレーニンの有名な物質定義ですが、しばらくはこれで突っ走れるものと私は思っています。

「物質とは、人間にその感覚において与えられており、われわれの感覚から独立して存在しながら、われわれの感覚によって模写され撮影される客観的実在を言い表す為の哲学的カテゴリーである」

ここで述べられている「カテゴリー」は範疇の意味でなく、「ある科学を構成する基本的な概念」と言った、哲学的な言い回しです。例えば「プランク定数は物理学のカテゴリーである」「貨幣は経済学のカテゴリーである」とか。

この物質定義で注目すべき点が二つ有ります。

○一つは、「われわれの感覚から独立して存在する客観的実在」と言い切らないで、「われわれの感覚によって模写され撮影される」ことを物質の要件として付け加えていることです。これは主に神への対応です。
何らかの理由で削除されたらしい、No-5 でのカクレクマノミさんの問題意識に繋がることですが、「われわれの感覚から独立して存在する」と言い切ってしまうと、ここに神を排除できません。神を信じている人は「神は客観的実在であって、あなたが信じようが信じまいが関係なく、つまり人間の意識から独立に、ちゃんとおいでになるんですよ」と主張している訳で、これに対抗できません。

「われわれの感覚によって模写され撮影される」は、感覚されるものだけが物質であり実在であるとの主張です。この場合直接感覚器官に与えられるだけでなく、望遠鏡やさまざまなセンサーなど、装置を使ってのことも含みます。カミオカンデや加速器なんかもそうですね。
神は直接感覚で捉えることも出来ないし、いかなる装置を持ってしても感覚に与えられない。だから神は物質的な実在では無い。頭の中や心の中に「実在」しても、それは客観的実在とは言えないと、唯物論は定式化している訳です。
ポパーの反証可能性を持ち出しても良いのですが、唯物論者としては「いると言うなら見せてみな」と言えば済む訳です。

マッハの「観測されるものしか実在しない」と言うフレーズは、上記物質定義と共通しているように見えますが、マッハの主張は更に進んで、最終的に「純粋な感覚だけを存在するもの(世界要素と命名)とみとめよう」と言う形で、事物はこの要素(感覚)の複合であり、物理法則は外的事物の関連ではなく感覚と感覚との関連を示すもので、科学の目的はこれらの関連を最も単純な形で表すことだと主張しました。
マッハ自身はこの「世界要素」を中性的なものとみなし、唯物論も観念論も克服した見解だと称しましたが、実際は客観的実在より主観的な感覚を根源とする主観的観念論に他ならず、同時に不可知論への回帰だと言うのが私の見方です。
上掲『唯物論と経験批判論』は、このマッハ主義への批判の書とも言えます。


○二つ目として、この物質の定義に関連して重要なことは、社会関係のなかにも「物質的」と呼ばれるものが有ると言うことでしょう。 例えば「生産関係」「国家」とかがそうです。
つまり自分の意思とは独立に、国家があることを意識さえしないで必然的にそこに組み込まれるからです。
(>>13;)で、diamonds8888xさんが問題意識とされていた「社会科学・人文科学的な意味での存在」についても、充分に実在的なものとして「学問」の対象になり得るものだと思っています。

17:2008/03/06(木) 09:15:42 ID:sUQ1SW32
唯物論での物質定義に関して特に問題になるのは、20世紀以降の量子論台頭ではないかと思われます。コトのついでと言ってはなんですが関連することなので、「神と科学は共存できるか」でNANさんからクレームが付いた、物理学での物質理解との違いを述べて見ます。

【哲学の根本問題】と言うのが有って、物質と観念(意識)のどちらが根源的か?と言うことですが、この問題を巡って哲学は唯物論、観念論の二大陣営に分かれて、デモクリトス、プラトンの時代から2500年に渡って論争が続いている訳です。
ですから「物質」は唯物論にとって最も重要なカテゴリーと言えます。

日常的に「物質」と言った場合、石や水、紙などを差すかも知れません。或いは水素、酸素、ナトリウムなどの化学元素を物質だと想定している場合も有るでしょう。
特に物理学で物質と言った場合、原子、電子、陽子、中性子などが想定されるでしょう。勿論これらは物質です。
しかし唯物論で言う「物質」はこれらを含む、更に広い概念です。

「物質とはなにか?」についての考えは歴史的に変わってきました。これは主として自然科学、特に19世紀以降の物理学の発展によるものです。錬金術なんかも一定の役割を果たしたでしょうね。
ここで注意すべきは、物理学で物質が問題になるとき、主にその構造が問われていると言うことです。物理学は物質の構造に関する学問だと言えるでしょう。
この問いに対する解答は人間の自然に対する理解の深まりに伴い、歴史的に変わって来たし今後も変わってゆくでしょう。今では物質の理解は量子ヒモ、場、或いは多世界宇宙なんてところにまで到達しているかも知れません。

ただ哲学としては、そう言った自然科学の一定水準の発展に縛られて、その都度変更しなくてはならない物質定義では困るのです。哲学の命題は最も一般的、普遍的で有るべきで、デモクリトスの「アトモス(アトム=原子)」にも、カントの「物自体」にも、或いは現代物理学での素粒子・場などにも共通に適用できる物質定義でなければなりません。

例えば物理学のある時期まで、物質とは質量を持つものと言った理解が有りました。今でも同じような理由でフェルミ粒子だけを物質、ボース粒子は物質ではない、と言う見解も有るようです。
私のような物理門外漢にも数式を使わずに物理を解説してくれて、その意味でとても尊敬している本間三郎博士も、著書の中で「光、エネルギーは質量を持たないので物質とは言えない」旨の記述をしていました。

このような時々の物質理解、立場の違いによる物質理解に縛られて、電子、陽子、中性子など質量を持つものだけが物質だと考えると、自然科学上の新しい発見が起った時に、例えば、電子と陽電子との衝突で、ガンマー線に転化するという事実が発見されたときに混乱が生じます。
と言うのは、電子も陽電子も質量を持ったもので有るのに、ガンマー線は電磁波の一種で質量(重さ)を持たないので、物質(質量=重さをもつもの)が消滅した、ということになるからです。現に電子と陽電子の対消滅、対発生は頻繁に起こっていることらしい。
もしも物質が消滅するとすれば、唯物論はその基礎を失った、といって観念論者は大喜びをします。

哲学が問題にしている物質とは、観念・意識との関係で、どちらが根源的かと問われる場合の物質であって、物質の構造についての自然科学的知識とは関係がないからです。
だから、唯物論哲学は、その時どきの自然科学の発展水準に縛られることなく、つまり物質の構造がどのようであるかについての知識に関係なしに、「物質」という哲学的カテゴリーを確立しておかなければなりません。それが冒頭の「物質定義」です。
この物質定義によれば、電子もガンマー線(電磁波)もどちらも当然物質です。単に存在の形態が違うだけです。電磁波、例えば電波はケータイ1つ有れば簡単に感覚で捉えられます。

18:2008/03/06(木) 09:16:09 ID:sUQ1SW32
物理学の発展による物質構造の具体的知見は、唯物論哲学の物質の内容をより豊かにして普遍性を高めることになる筈です。
そしてより普遍性を増した物質の唯物論的命題は、逆に物理学など実証的諸科学が全く新しい現象に出くわしたとき、基本的な指針として機能するでしょう。つまりその普遍性を土台にすることで余計な回り道を回避できる訳です。

「無からの宇宙創成」などと言う、それだけ聞けば創世記を地で行くような、創造論者、観念論者が大喜びしそうな現象が推定されたときでも、おそらく唯物論の立場に立つ物理学者は誰一人、そこに神の存在を想定しなくても済んだでしょう。
無、或いは真空の揺らぎから宇宙が生まれたのであれば、その無、真空は物質的で有る筈です。言葉はなんであれ。
物質的であればそれを認識の対象とし、何れ自然科学がその内容を明らかにしてゆくだろうと、私は期待しています。勿論その内容は今のパラダイムでの理解とは大きくかけ離れているかも知れませんが、量子論も大きなパラダイムシフトでしたからね。

観測問題、不確定性、絡み合い、ブラックホールの内側、観測地平、多世界宇宙等など、門外漢の私にはどれもその理解は難しい問題ですが、やはりその解が物質そのものの中にあることだけは確かだと思う「今日この頃」。

19:2008/03/06(木) 09:19:36 ID:sUQ1SW32
あー、訂正!!

(>>16;)
>>何らかの理由で削除されたらしい、No-5 でのカクレクマノミさんの………、

削除されていませんでした。単に表示されていなかっただけです。すみません。

20地下に眠るM:2008/03/07(金) 01:26:41 ID:KR.VDxTU
ttp://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/jk/jk16/iseda.txt

上記リンクは伊勢田哲治によるパトナム「実在論」の変遷のお話。

最近、パトナムを少し眺めており、もちろんまだ全然こなれていにゃ−ので、かえってここの議論に絡みようがありませんにゃ。
自然科学分野における実在論ですら、そうそう簡単なものではにゃーです。リンク先をご一読を>みにゃさま




あとなあ>雄くん
レーニンの言葉をひくのはいいとして、

>○二つ目として、この物質の定義に関連して重要なことは、社会関係のなかにも「物質的」と呼ばれるものが有ると言うことでしょう。 例えば「生産関係」「国家」とかがそうです。
>つまり自分の意思とは独立に、国家があることを意識さえしないで必然的にそこに組み込まれるからです。

レーニンはこんなトンデモをいってるの?

21ちょちょんまげ:2008/03/07(金) 03:13:35 ID:vUxNW.gI
例によって良くわかってないちょちょんまげです。
雄さんの大作や猫さんの伊勢田さんの紹介のあとで気が引けるのですが、投稿させてもらいます。
えーっと、「人工物」も自然科学の対象となる存在ですよね。そしてその人工物が動くものだとして、その「運動」もまた自然科学の対象となる存在だと思われます。
ここで、円形のサーキットを一台の自動車がくるくると回っています。人は乗っていません。プログラムされていて自分で走っています。この「運動」は存在していて、既存の科学でほぼカンペキに記述できる現象ですよね。(惑星の「運行」のような。)
それで、この自動車にニンゲンが乗り込んで同様にサーキットをぐるぐる回りだしたとしたら、その「事象」はニンゲンの「意識」とは無縁じゃなくなって、「意識」と独立とは言い難くなると思います。そうなると、その「存在」は、自然科学の取り扱い範囲外になるのかな?
それから、「卓球ロボ」なるものを考えます。まぁ、ラケットを持ったロボットアームみたいなもんかな。その卓球ロボはカンペキではなく、ニンゲンと同様にプレーしてミスしたりします。(ボールのスピードに追いつけなかったとか)
それで、この「卓球」というロボとボールの動きを含めた「現象」はどう考えても、自然科学の対象となる「存在」だと思われます。
またそこで、「卓球」をニンゲンがプレーしていたとしたら、その「現象」はニンゲンの意識が入りまくり(絶対勝ちたいとか、可愛い女の子相手だからわざと手加減したりとかw。)なので、「範囲外」?
さらに、チンパンに卓球教え込んだとしたら(覚えてくれるかどうかわかんないけど)、その「卓球」という現象はニンゲンの意識と独立だから「範囲内」?
う〜む〜、「卓球ロボの卓球」と「ニンゲンの卓球」と「チンパンの卓球」はどこが違うんだ?

22ちょちょんまげ:2008/03/07(金) 03:19:44 ID:vUxNW.gI
補足です。
>それで、この自動車にニンゲンが乗り込んで同様にサーキットをぐるぐる回りだしたとしたら
ここではニンゲンが運転しています。

23diamonds8888x:2008/03/07(金) 06:20:01 ID:Vp18Hqt6
>>15
 なにせ試論の途中ですので、まだ中途半端なところは御容赦下さい。最後まで中途半端かも知れませんが、まあどこまで行けるか。

 一点だけ、「違和感が拭えない」原因というのが、感覚や意識や心についての【学問】と【芸術】と【実践論(実戦論)】に関わる側面を同時に考えていることに起因するという可能性はないでしょうか?

24e10go:2008/03/07(金) 12:23:33 ID:5/V6R9W6
ちょちょんまげさん、>>21
>それで、この自動車にニンゲンが乗り込んで同様にサーキットをぐるぐる回りだしたとしたら、その「事象」はニンゲンの「意識」とは無縁じゃなくなって、「意識」と独立とは言い難くなると思います。そうなると、その「存在」は、自然科学の取り扱い範囲外になるのかな?

人間の意識をそのまま自然科学で扱う事はできません(例外はあるかも?)が、意識による行為・事象はパターン化できる場合に限り、自然科学として扱えます。

25NAN:2008/03/07(金) 20:32:54 ID:CTE40lKg
>>21

疑義はもっともですよね(笑。
ただ、人間が運転していようといまいと、自動車が周回コースを運行している、という現象そのものは純粋に力学的に記述できますので、ここで問題になる側面があるのだとしたら、なにが「ニンゲンの意識と無縁なのか?」というポイントです。

私が操縦しようがちょちょんまげさんが操縦しようが、タイヤのグリップ力だとかコーナリングフォースが変化するわけではありません。あるいはサーキットアスファルトの摩擦係数が変化するわけでもありません。これらの係数は純粋に客観的な事象であり、力学の公式に当てはめてモデル化することができますので、個別の、というか微分的に事象を観察した際の極限値は常に自然科学の範囲内に留まると考えて差し支えないでしょう。

では「どのポイント」が自然科学の範囲を超えるのか?という問題が浮上しますが、これは云い変えるとなにが「ヒトの意識と無縁ではなくなるのか?」という点です。それはたとえばハンドル操作の正確さや他の競争相手との駆け引きだとか、レース全体の勝敗、さらには各周回ごとの順位、もっと細かく云えばある周回のあるコーナーにおける順位などでしょうか。これらは複雑系の科学モデルを用いた予測でかなり精密な近似値を計算できると予想できますが、それでもミサイルの放物線軌道の予測に比べれば随分確証の低いものになるでしょうし、なるべきだ、とも云えます。(現実にはヒトが運転していなくても自動車のような複雑な機械の運行はカオス的になりますが)

極論を云い出すと、レース中にライバルのマナーがあまりに悪いことに激怒して、操縦者がリタイヤしてしまうなどという、ヒトの意識に支配されまくったアクシデントが起きることも想定できるので、この問題はかなり予測不可能な面を持っています。ただ、一般に科学はそれらを「思考節約」することで各周回ごとの燃料消費量やタイヤの能力低下などを係数化し、各周回の予想ラップタイムをかなり正確に予測できることも確かです。(実際、私は以前そういう仕事をしていましたので)

26NAN:2008/03/07(金) 20:52:57 ID:CTE40lKg
ちょちょんまげさんの疑問でちょっと触発されたのですが…
ある作家が自分の小説の中で、主人公がいきなり自動車のギヤをトップに入れて急発進する、という描写を行い、読者や評論家から失笑されたことがあります。当時、この作家は自動車免許を持っていなくて、クルマを運転したことがなかったので、そんな馬鹿な描写をしてしまったのでしょう。

しかし、大半の読者はその描写をそのままスルーしました。その作家はその後免許を取り、しばらくマセラッティ・ビトゥルボ(ツイン・ターボの意)というクルマに乗っていましたが、あれはひどいクルマでトップギヤで急発進するどころか、ローギヤで急発進するとボディが千切れそうになった挙句に真っ直ぐ走らない、というステキなボディをしているクルマでした。そう、クルマを急発進させたければ、ギヤはローギヤに入れなければなりません。これが自然科学の要求であり、現実です。しかし、ヒトの空想世界である文学の中では、そんなあり得ないことだって「いやオレの作品世界ではアリなんだ!」と言い張るだけで良いのです。というか、そんなことを言い張る必要もなく、読者の大半はそのまま描写をスルーしてしまいます。現実にはまずあり得ないことなのに、です。

空想世界の産物に自然科学による「縛り」を導入するのは、ハードSFでもない限り野暮にしか見えませんが、現実のヒトの五感そのものが、実は非現実を感知しているのかも知れない、という事実は重要でしょうね。ヒトは「意識」という厄介なフィルターを通して現実を「知って」います。だからこそ、現実には絶対にあり得ない出来事をいくらでも想像できてしまう…こうしたヒトの「創造性」というものは、もしかしたらヒトに特有の「性質」なのかも知れませんね。

27カクレクマノミ:2008/03/07(金) 22:25:48 ID:hevW81fM
いろいろと議論は進んでいるんですが、やっぱり僕には、「存在」という言葉を自然科学的/人文・社会科学的と分類することの必要性が理解できません。

ここまでの議論で繰り返し出てきているように、あるものが自然科学的なものか人文・社会科学なものか判断に困るケースはたくさんあります。
また同じものでも見方によって自然科学の対象になったり人文・社会科学の対象になったりもします。
そしてNANさんの>>25の投稿にあるように、ヒトの意識が強く関与するにつれて自然科学による取り扱いは難しくなるにしても、量的で連続的なものであって、どこまで自然科学でどこから人文・社会科学だとか言えるものではありません。
もし境界があるとしても、たぶんその境界の位置は不変なものではないでしょう。NANさんの車の例で言うなら、たとえば新しい数学的なモデルが開発されるにつれて、自然科学で扱える範囲は広がっていくことになります。

そして、現在は「学際」という言葉が(ちょっと過剰かもしれないほど)もてはやされ、分野横断的な研究がどんどん行われている時代です。
進化心理学は「学問」領域におけるその典型例の1つです。「実践論」としては、たとえば保全生物学の(中でも特に現場の実践に近い)分野では、生態学や遺伝学だけでなく、社会学や倫理学、経済学、あるいは政治学や法学などの知識が必要になります。

このような現状を踏まえて、それでも自然科学/人文・社会科学の壁を擁護する必要性って、いったいどこにあるんでしょうか?
それがわからないので、このスレでの議論はどうもピンときません。

28:2008/03/08(土) 06:44:42 ID:sUQ1SW32
RE 地下猫氏

>>○二つ目として、この物質の定義に関連して重要なことは、社会関係のなかにも「物質的」と呼ばれるものが有ると言うことでしょう。 例えば「生産関係」「国家」とかがそうです。
>>つまり自分の意思とは独立に、国家があることを意識さえしないで必然的にそこに組み込まれるからです。

>レーニンはこんなトンデモをいってるの?

レーニンが言っていると言う訳では有りません。定義上必然的にそう言うことになるだろうと言うことです。
まあ、私の見解だと取って頂いて結構です。

(>>17;)でも触れたように、哲学の根本問題と言うのが有って、意識・観念と物質のどちらが根源的か? と言う問題が有る訳です。
主観的な意識・観念に属することなのか、物質つまり客観的実在に属することなのかとした場合、国家や生産関係は客観的実在の側に属するのでは無いかと言うことです。現実と言い換えれば分かりやすいかも知れません。
繰り返し述べているように、物理的な物質と混同しないで下さい。物理的な物質は当然唯物弁証法での物質に含まれますが、更に広い概念として述べています。

要するにここで言いたいことは、自然現象だけでなく社会的な現象の中にも、客観的な実在として科学的な検討の対象になる事象はいっぱい有るということです。例えば競合他社の動向なんてのも客観的で冷静な検討の対象でしょう。そう言うものも唯物弁証法では、物質「的」な存在だと言っている訳です。
よく言うじゃ有りませんか。「現実を科学的に分析して、方針を立てろ」って。

なお猫氏の疑問については次の点を指摘しておきたいと思います。

自然科学の場合、立場や考え方の違いを超えて同じ結果を確認しやすい。例えば酸素と水素を混ぜて火を付けたとして、同じことをブッシュがやってもフセイン(死んじゃったけど)がやっても、結果は同じ水ができるでしょう。
そう言う中でさえ、子供が自分の子供であるかどうか? を科学的な問題と見るか見ないかについて、猫氏と私の間で見解が異なったりする訳で、まして社会科学、哲学を巡る問題で見解が異なるのは珍しいことでは有りません。何しろ哲学は2500年に渡って論争しているんですからね。

国家や生産関係を「物質的なもの」とみる私の見解を、猫氏がトンデモと思うことは自由です。私も「それはそれでいいんじゃないの」と思うだけで、それ以上のコメントは有りません。
まあでも、単なる疑問、批判だけでなく、何故トンデモか、猫氏自身はどう思うのかと言う、中身の議論を、出来たら論理的に述べて頂けると、私としても違った視点として参考にさせて貰えるんでしょうけどね。

見解の違いは違いとして、建設的な議論とはそう言ったものだと思いますが。

29:2008/03/08(土) 08:34:47 ID:sUQ1SW32
RE ちょちょんまげさん

>雄さんの大作………、

大作かどうかは別として、長く独りよがりな書き込みになってヒンシュクを買っていることは、いつも気が引けるところです。何とか少しでも短くまとめたいと何時も思うのですが、「そもそも………」と言う話になるとどうしても長くなってしまいます。今回も又「大作」になってしまいました。
ただ本人が気にしていると言うことだけは汲んで頂き、今後も悪しからずご了承下さい。

>この自動車にニンゲンが乗り込んで同様にサーキットをぐるぐる回りだしたとしたら、その「事象」はニンゲンの「意識」とは無縁じゃなくなって、「意識」と独立とは言い難くなると思います。そうなると、その「存在」は、自然科学の取り扱い範囲外になるのかな?

色々な方からレスが入っていて、NANさんからは力学的な視点から自動車の運行の「客観性」について解説をしてもらったようです。私はそれを含めてより広い視点から、意識から独立した哲学的な「存在」と言うことに関して………、

人間が(意識的に)運転しようが、自動運転であろうが、或いは酔っ払い運転であろうが、自動車そのものの存在に関わることでは無いですよね。それは自動車の機能や状態に関わる問題であって、自動車が物質として、客観的に存在するかどうかとは全く別の問題です。

ただちょちょんまげさんが提起された、自動車(物質)とその機能・運動との関係は面白いテーマです。唯物弁証法でのコア部分に関係しそうなことなので、少し立ち入ってみます。

>「運動」もまた自然科学の対象となる存在だと思われます。

運動は正に物理学の中心テーマですが、ここで少し考えて頂きたいことは「運動」そのものを対象に研究は出来ないと言うことです。
運動は常に、何らかの物質の運動です。電子の運動であったり自動車の運動であったり地球の運動であったり。
これらの物質と切り離して、運動だけが独立して存在している訳では有りません。運動は物質の属性であって現実に実在しているのは、やはり具体的な物質でしかない訳です。

このことは一般的に「実体」と「派生」との関係として理解できます。実体とは「それ自身で存在するもの」と言うような哲学用語であり、派生とは実体に付随しての性質、機能、属性と言った理解で良いかと思います。

例えばリンゴとその色・味で考えて見ます。
リンゴはそれ自身で存在しています。何か別のものが有ってそれを前提にしなければ存在出来ないと言うことでは有りません。だからリンゴは一つの実体です。
しかしリンゴの色とか味は、それ自身で存在しません。リンゴがあって初めてその色や味が存在します。リンゴ無しにリンゴの色は有り得ないと言うことです。当然ですが。

一般に色や味は、常になにかの色であり、なにかの味です。人間は色や味のようなものを「性質」と呼んで、「実体」とは区別します。性質は常になんらかの実体の性質であり、実体が存在しないのに性質だけが独立に(それ自身で)存在することは有りません。

或いは、包丁と切れると言う関係もそうです。包丁は実体ですが、切れると言うことは包丁の機能であって、包丁無しに「切れる」と言う機能だけがそれ自身で存在することは有り得ません。
「機能」も常に何らかの実体の機能です。
これら性質・機能など、一般的に属性と言われるものを、哲学では実体に対し「派生」したものと呼びます。

そして現実世界に(固まりとして)実在しているのは「実体」だけです。と言うか実体だけを客観的実在(物質)と認める考え方を唯物論と言う訳で、そうでない立場、観念論も有る訳ですね。
同時に、実体には必ず何らかの派生、つまり属性が有ります。属性を持たない実体も又存在しない訳で、ヘーゲルが観念論の立場からカントを批判したように、全ての属性を汲み尽くした後に、それでもなお残ると言う「物自体」は有り得ないのです。

「運動」も又同じことでは無いでしょうか。常に何らかの実体の運動です。
人間は最初これら、個別具体的な実体を対象にその運動を研究し、その帰納的総合によって一般的な運動法則を見出してきたのでしょう。一旦一般法則が確立されると、新しい対象に対しても演繹的に適用されることになります。
そして18世紀以降、専門の科学である力学が生まれたのだと思います。

30:2008/03/08(土) 08:35:22 ID:sUQ1SW32
実は演繹だの帰納だの、或いは一般法則だのを考えることが出来るのは、人間が「概念」を持っている為です。
概念は言葉と結びついての意識への一般的反映です。言葉が全て概念である訳では有りませんが、概念は必ず言葉と結びついています。
目の前の犬を指差して、その個別具体的な犬を表すことは出来ますが、犬一般を表すには「いぬ」と言う言葉抜きには絶対出来ません。或いはそれを代用する言い回しが。
地図上の▲を指差して、山の概念を仮に表すことが出来たとしても、それはあくまでも「やま」と言う言葉の代用です。

人間は概念を持つことで、必ずしも感覚しない事象に対しても、言葉で意識に反映できるようになりました。例えば神などはその典型です。或いは、運動、権力、無、などと言う抽象的なことも意識化できるようになりました。
概念を使って問題を一般化して考えることを概念的思考と言いますが、これが出来るのは言葉を持つ人間だけです。

実は一連の書き込みを読んで最近感じたことなのですが、この言葉・概念の持つ融通性は同時に、曖昧さ、更に言えば味噌糞一緒的傾向に陥りやすいのではないかと言うことです。
どう言うことかと言うと、実在的な関係つまり現実世界では、運動は必ず物質、例えば自動車と結びついている訳です。しかし一旦言葉として、概念として「自動車」「運動」が出来てしまうと、頭の中では実在的関連と切り離して別々に、言葉として同列に扱うことが出来ます。
ややもすると、現実から遊離した単なる頭の中での議論、スコラ的議論になる恐れは無いか?
今、そう言った問題意識を持っているところです。
この点は皆さんとの議論の中で私自身、更に深めてみたいと思っています。


実はこれから20年ぶりの高校のクラス会で、新潟に出発します。2日ほどネットとは繋がりません。
又この問題を含めて、帰りましたら私も色々考えてみたいと思います。

31tema:2008/03/08(土) 09:43:59 ID:L2083kes
 久しぶりに真面目な投稿を。

 自然科学/人文科学/科学の対象外、という分類の切り分け方について、地下に眠るMさんが示された以下の観点に同意します。
>・ニンゲンの意識とは独立した物質・事象・法則

 但し、「意識」というより「心(注)」としたいです。

 科学の不可欠な要素として、「論理」があります。例えば、A=BかつB=CならばA=C、という考え方です。
 観測された事実は、これら論理に良く適合します。というより、観測事実に適合するように論理は作られてきました。

 しかし心は論理を超越します。すなわち、A=BかつB=CかつA≠C、ということを許容できます。
 このため、心は科学の対象外です。

 心は論理を超越しますが、行動は論理に制約されます。どのような人も”「A=C」と言った”という行動と”「A=C」と言わなかった”という行動を両方満たすことは出来ません(これが、「意識」でなく「心」という言葉を選んだ理由です)。
 このため、人の行動は科学で扱うことができます。人の行動を科学で扱った学問が「人文科学」である、とtemaは考えます。但し、人の心が科学で扱えない以上、人の未来の行動は科学では予測不可能です。結果、人文科学は未来予測を苦手とします。

注)人だけでは無く、犬の心も扱えないと想像してます。蟻の心は微妙です。

32tema:2008/03/08(土) 09:44:24 ID:L2083kes
 上記を前提に、diamonds8888xさんが>>2で提示された以下の研究対象を考えてみました。

>1.実体的存在; 物体や物質。五感で検知できるもの。
>2.現象; 五感や心で直接検知または認識できるなんらかの変化
>3.ルール的もの; 法則、ルール、アルゴリズム、法、契約、慣習、言語
>4.抽象概念物; 1や2の集合を示す概念が代表的("犬という概念"など)
>5.架空の実体的存在; 1と同じものだが現実に存在はしないもの
>6.架空の現象; 2と同じものだが現実に存在はしないもの

 上記1,2は人心と関わりが無い(薄い)ため、自然科学の対象と考えます。
 3については、法則、ルール、アルゴリズムまでは、自然科学の対象と考えます。法、契約、言語は検討課題によります。慣習は人心と関わりが深いため、人文科学の対象と考えます。
 4〜6は厳密に定義できれば自然科学、人心によるならば人文科学になるでしょう。

 神を自然科学で扱う対象にするか否かは、神の定義によります。そして数学は人心から切り離されているため、自然科学なのです(満足)。

33この子です。:2008/03/08(土) 22:42:52 ID:xgmSaafc
とある事をすると日記を更新している女の子のサイトです。
むちゃくちゃ生々しい文章なので初めは衝撃受けました。

中毒性が高いので注意が必要です。

ttp://www.geocities.jp/yfhdso1/hrk/

34diamonds8888x:2008/03/09(日) 07:40:33 ID:s1.Kf0eg
>>21 ちょちょんまげさん、するどーーーーい。Good Questions !

35diamonds8888x:2008/03/09(日) 07:41:36 ID:s1.Kf0eg
 さて『通貨』で計られるGDPや資産総量をどのように観測するかと言えば、個人が自分の家計を観測する方法と本質的には変わりません。GDPのようなフロー量であれば、日々の入出金を記録しておくことで観測できますし、資産総量のようなストック量であれば、現金を数え、預金通帳の数値を確認し、家やローンがあればその評価をして観測します。日々の入出金としては、すなわち現金や預金の移動を観測するわけです。

 だったら『通貨』も現実に観測可能な「自然科学的存在」かと言えば、そうではありません。なぜなら、現金である紙幣やコインの数量と対応する『通貨量』は人間が想定している量であって、「自然科学的存在」そのものの量ではないからです。にもかかわらず、それは『客観的な量』と見なせます。しかしこの『客観的』という意味は、「自然科学的存在」の客観性とはちょっとだけ異なり、「経済活動に参加する全ての人間が、同じ基準で紙幣やコインの数量と通貨量とを対応させている」という意味になります。このことは経済学では「その通貨が信用されている」と言います。信用がなくなりゼロとなれば、その通貨は実在しなくなります。

 この事情を指して、いみじくも「貨幣とは共同幻想である」とも言われています。しかし、なぜこのような共同幻想が成立し長期にわたって持続するのでしょうか? そもそも「貨幣という共同幻想が成立し、人々は日々貨幣により取引を行っている」という『現象』そのものは、明らかに、五感により観測可能な「自然科学的存在(現象)」です。人々は日々買い物に出かけ、貨幣をだせば商品と交換してくれることを確認し、『貨幣』の実在を確認しているのです。ある日突然、交換をしてくれないという現象が起きたら、『貨幣』は消失してしまったということになります。

 『貨幣』はいわば共同幻想であり、物質やエネルギーのように保存則がきっちりと成り立つとは限らないものですが、その共同幻想を成立させ『貨幣』を実在させている基盤は、「自然科学的存在(現象)」であると言えるでしょう。

36diamonds8888x:2008/03/09(日) 07:47:59 ID:s1.Kf0eg
 ここで『資産量』の話にも踏み込みますが、『資産量』は各資産の『資産価値』の総計ですから、『資産価値』がどんな性質を持つかが問題となります。『資産価値』はその資産が取引された時には、唯一の値として観測されます。しかしそれから時間が経つと同じ価格で取り引きされる保証はなくなりますが、一般的には取引時に確定した価格からあまりはずれない価格だろうと、多くの人が推定します。時間経過と共に推定の幅は広がり『資産価値』の値は不確定さを増しますが、また取引が行われると、そこで『資産価値』の値は唯一の観測値に収束します。

 量子力学の用語を持ち出して類似性をアピールした部分はかなり妄想的ですが(^_^)、経済学の言い方では「価格は市場で決められる」ということになります。取引せずに単に保持しているだけでは、取引による価格の観測が行われていないのだから資産価値は存在しない(観測されないものは存在しない)、という極論も主張し得るかも知れません。まあ極論に過ぎませんが。

 大事なことは『資産価値』は時間的に変化すると言うことです。それを決めるのは個々の取引の結果ですが、その結果を左右するのは、資産自体の性質やそれを取引主体の人間がどう評価するかという、自然科学的現象や心理学的現象です。昔の経済学では「合理的な個人」という取引主体を仮定して理論を組み立てたのですが、現在では本当の人間は「合理的な個人」ではないという点を認識しての経済学というのが盛んです。これはつまり、『資産価値』という自然科学的存在とはいえないものを成立させている自然科学的、心理学的基盤に経済学者が目を向け始めたということでしょう。

 日本国内に暮らす限りは『貨幣』と言えば日本銀行券ですから、通常の個人から見れば『貨幣』は保存量であるように見え、『資産価値』は保存量ではないように見えます。しかし為替変動を見ればわかるように、『貨幣』と言えどもその価値は『資産価値』同様に変動し、市場によりその価値が決められるものです。信用がなくなりゼロとなった『貨幣』は実在しなくなるのですが、その過程はある日突然ゼロになるというものばかりではありません。むしろだんだんと価値が目減りしてついにはゼロになるという方が多いかも知れません。まあどちらが多いかは経済史の研究テーマでしょうが。

37ちょちょんまげ:2008/03/09(日) 16:18:32 ID:vUxNW.gI
>>34
わ〜い、ほめられちった〜、っと素直に喜んでいいのか微妙なところなのですが(^▽^;)
diamonds8888xさんの博愛精神を感じざるをえない、今日この頃ではあります。

で、調子に乗って、取り合えずもう一本投稿したく思います。

>>36>>37のようなふか〜い考察ができなくて自分ながら悔しいのですが、>>21の投稿の根っこはすこ〜し似たところがあるかなぁ、と。
もともと、「野球」とはなんじゃろって所から考えが始まったのですが、契機は

猫さんの
>・ニンゲンの意識とは独立した物質・事象・法則
>と、とりあえず言ってしまってもそう悪くはにゃーと思いますけれど、どうでしょうにゃ?
と、
NANさんの
>1:ヒトの定義によってのみ存在するもの→代表例:通貨・国家
でした。

まず、野球にはルールが「存在」します。diamonds8888xさんの「3.ルール的なもの」に入ると思います。
それで、ロボットが野球をしてると想定します。ロボットのスペック(センサーの精度とか、バットを振るスピードとか、ボールを投げるためと性能とか)は全て明らかだとしてください。
この野球と呼ばれる「運動」の「存在」(ボールやバットの「運動」そしてロボットそのものの「運動」)はかなり自然科学的なものだと思うんです。(ルールという存在をどう考えるかは別として)
そしてさらに、野球には「チーム」が存在します。これって「国家」に近い「存在」だと思うんです。で、ロボットをチームとして行動するようにプログラムしてやった場合、その「チーム(国家)」としての「運動」もまた自然科学的な「存在」なのではないかと。(ここんとこ、あんまり自信無し。)
この場合の「チーム(国家)」の定義は確かにニンゲンの意識によって生まれた存在ではあるのですが、定義後の「チーム(国家)」は確かに自然科学的に「存在」しているように思えるのです。というのは、その「チーム(国家)」の「運動」は全て予測可能だからです。

で、今度はニンゲンの「野球」という「運動」を考えると、話はいきなり複雑になります。あっちゃこっちゃに「意識」は入り込んじゃってるし、「共同幻想としてのチーム」などという言葉も頭をよぎってなにやら訳がわからない状態になります。(私の頭では、ですが)

そこで、話を「車の運転」や、「卓球」ぐらいまで単純化してみたわけです。

眠いので話をはしょりますが、NANさんにしていただいた私の車の例に対するレスは、私としては「複雑系」のモデルで、自然科学的であるという御解釈、と私としては理解しました。
それで、私が考えていることは、

1.もし、ニンゲンが運転する車の「運動」が「複雑系」で解釈可能ならば、「卓球」、「野球」、ずっととんで「国家」や「通貨」まで系がやたらと複雑になるだけの話(って簡単に言っちゃいけないのでしょうが)で、結局「自然科学的存在」なのではないか。
2.逆に、ニンゲンが運転する車の「運動」が「複雑系」で解釈できないならば、上記全ては「自然科学的存在」ではないと言うことではないか。
です。

38NAN:2008/03/09(日) 21:15:51 ID:CTE40lKg
>>37
>NANさんにしていただいた私の車の例に対するレスは、私としては「複雑系」のモデルで、自然科学的であるという御解釈、と私としては理解しました。

違いますよ(笑。
私の考察は>>27カクレクマノミさんの解説がすべてです。

厳密に云うと、人間が運転していようがいまいが、自動車のように複雑なパーツが絡み合って機能する機械と、天候や経年劣化などに縦横に左右されるサーキットという「場」を想定しての運行は、必ず複雑系になるでしょう。ただし、かなりの簡略化・近似値化は可能です。たとえば、エンジン出力とギヤ比、タイヤの直径と車重などが分かれば、単純な力学モデルで最高速度や加速性能を推定することは可能ですし、かなりの精度で観測と一致することでしょう。しかし、微妙な差は必ず生まれます。云うまでもなく複雑系モデルの特徴は初期値に対する鋭敏性なので、微妙な差はマクロな視点では計り知れないほど大きくなることが予想されます。しかし、どこからが単純な力学モデルで計算できて、どこからが複雑系を持ち出さなければいけないのか?について、明確な基準はありません。それがあるとしたら「取り決め」を行うしかないでしょう。

こうした複雑系に、もっと曖昧でいい加減で予測不可能な人間の意識(心 by tema氏)を重大要素として持ち込むと、予測はほとんど不可能になります。現実のF1などでも良くありますが、スターティング・グリッドに着いた瞬間リタイヤするだとか、オフィシャルの指示に従うことを不服として失格になるだとか、モデル化するのがバカらしいような「人間模様」こそ、現実の醍醐味である、と私は思います。ただ、そうしたヒトの心が密接に絡み合う領域でさえ、数学的なモデル化は可能と云えば可能であり、どこからが自然科学的でどこからが自然科学的ではないと「決める」ことは、恐らく不可能であろうというのが私の主旨です。(決めれば出来ますけど、根拠薄弱性は甚だしいでしょうね)

>1.もし、ニンゲンが運転する車の「運動」が「複雑系」で解釈可能ならば、「卓球」、「野球」、ずっととんで「国家」や「通貨」まで系がやたらと複雑になるだけの話(って簡単に言っちゃいけないのでしょうが)で、結局「自然科学的存在」なのではないか。

厳密に云えば、すべての観測可能な現象は自然科学的である、と私は思います。
ただし、その計算は著しく信頼性に幅があるものでしょう。

>2.逆に、ニンゲンが運転する車の「運動」が「複雑系」で解釈できないならば、上記全ては「自然科学的存在」ではないと言うことではないか。
です。

形式論理の限界ですね(笑。
そもそも、どこかで「割れる」ような問題ではないだろう、というのが私のあらかじめ持っている結論です。
>>31
>しかし心は論理を超越します。すなわち、A=BかつB=CかつA≠C、ということを許容できます。
上記のtema氏の説明でOKと私は思います。

39NAN:2008/03/09(日) 21:36:17 ID:CTE40lKg
>>32
>神を自然科学で扱う対象にするか否かは、神の定義によります。そして数学は人心から切り離されているため、自然科学なのです(満足)。

コヅルイtema氏のことだからマチガイなくワザとだ、と思いますが…数学は自然科学なの?(苦笑。
まぁいいや。数学が自然科学かどうか?は私の論点じゃありません。もっと小さく「ゼロってなんだ?」ってのが私のテーマ。
特にその中でも「0/0=?」ってのが興味のもと。

量子論のファインマン・ダイアグラムでは、どでかい数にゼロを掛けちまえばゼロじゃないか!って云うウラワザで無限大を消し去るなんて数学トリックが使われたそうですが、そもそもゼロってなんなのだ?
無、とか、真空、という概念を古くは指していたのだろうけれど、どうやら真空は「無」じゃなくてディラックの海に象徴されるみたいに賑やかな場所らしい。すると、ゼロはなにかを象徴しているとは云えないし、観測することもできない。

ならば、ゼロは自然科学的な存在とは云えないのではないでしょうか?

40NAN:2008/03/10(月) 02:16:31 ID:CTE40lKg
連投ごめん&補足

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/0
一応wikiのページを貼っておきます。ここで0/0も問題なんだけれど、x/0(x>0)という疑問点もあります。
wikiにもあるとおり、IEEE754などでx/0は無限大となります。xがゼロ以外であれば、この答えは妥当だと思うのですが、無限大であるということは、無、もしくは無限小である概念に比較して、なんらかの「掴みどころのある実体」であるかのように見えます。

では、時速10キロで走るクルマと、時速100キロで走るクルマ、さらに時速300キロで走るクルマを「無限大の時間」走らせた場合、それぞれの解は変わるのでしょうか。

→10*∞、100*∞、300*∞、がそれぞれ解なのであれば、なんだか100*∞-10*∞=90*∞みたいな演算が成立してしまうように見えます。
しかし現実にそれは成立するのでしょうか。答えが「計算不能」であることを含めて、ゼロと無限が数学の一部なのであれば、それを自然科学で扱う存在と述べて差し支えないのかどうか、私は疑問です。また、tema氏が指摘しているように、この問題はヒトの心と直接関連しているわけではないようです。

41NORTON3rd:2008/03/10(月) 09:39:39 ID:tQvpJqX6
>>21
>それで、この自動車にニンゲンが乗り込んで同様にサーキットをぐるぐる回りだしたとしたら、その「事象」はニンゲンの「意識」とは無縁じゃなくなって、「意識」と独立とは言い難くなると思います。そうなると、その「存在」は、自然科学の取り扱い範囲外になるのかな?

えー、タイムリーな話題がココに

ttp://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1204620156

ちゃんと数理モデルで扱えるようです

42e10go:2008/03/10(月) 11:34:18 ID:5/V6R9W6
>>41
>ttp://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1204620156
私が、>>24、のコメントを入れたのは、上の渋滞学がタイムリーに話題になっていたからですが、それを解説しよう思ったら、風邪引いちゃった。
今も、あたまが回らない。(*´ρ`*)ホワワーン

43tema:2008/03/11(火) 08:01:49 ID:3TB2ign6
>>39
>コヅルイtema氏のことだからマチガイなくワザとだ、と思いますが…数学は自然科学なの?(苦笑。

 ”数学は自然科学だ”派のtemaとしては、この機会に派閥の主張ができて満足しております。なおtemaはコヅルくありません。正義と真実をモットーとしております。

 以前より、本掲示板では”数学は言語だろ”派が多いと認識しており、その主張には多少の説得力を感じています。ただ、数学が自然科学を記述する言語であったとしても、単語に当たるゼロや無限大は、自然科学を記述するために欠くことができないでしょう。

 例えば、e10goさんが示された渋滞学では、「車間距離によって車の加速度が決まる数理モデル」を立てています。加速度といえば微分であり、微分といえばd/t(d→0,t→0)という式が途中に出てきます。少なくともゼロは力学に欠くことが出来ない単語である、と考えます。

 他にも色々書きたいことはありますが、スレッドの趣旨から反れてるので、このへんで。

44NAN:2008/03/11(火) 08:50:39 ID:CTE40lKg
0の0乗→ttp://ja.wikipedia.org/wiki/0%E3%81%AE0%E4%B9%97
ゼロ除算→ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%AD%E9%99%A4%E7%AE%97

調べてみるとwikiだけでも興味深い項目がありますね。私の持つ数少ない数学解説本の中でも、ゼロの難しさと興味深さについて解説しているものがありました。必要があれば後に紹介したいと思います。

さて、>>32>>33の発言には数々のアラがあり、分かっているんだけど「まぁいいか」ってな具合にそのまま思いつきを書いておきました。
ただ、真空が「本当の無」ではないからと云ってゼロが自然科学的存在ではない、というのは「やっぱやりすぎか」と考え直し(笑)、ゼロという概念に対となる実体があろうがなかろうが、そういう概念(情報)の存在について考察できるのであればいいだろう、ということにします。

>>43のtema氏によれば、「少なくともゼロは力学に欠くことが出来ない単語である、と考えます」とあります。微分を持ち出すまでもなく、位取りのためのゼロだとか、数直線上の原点だとか、なにがしかの基点を必要とするモデルにおいてゼロは有効です。しかし、数直線に出てくるゼロと「裸のゼロ」は果たして同じモノと云えるのでしょうか。もし目盛り1と目盛り-1と目盛り0とが、等しく同じ意味を持つのであれば、なぜ1/1やその他は難なく計算できるのに、0/0だけは計算できないのでしょう。

そもそも数学という体系自体が、ヒトが定義した知識の体系であり、未完成である、もしくは成立時に抱えた矛盾や誤りをずっと引きずっている可能性があることも見逃せません。ニュートン力学と相対論と同様に、ある条件においては今の数学が有効であっても、別の条件に置き換わったときには、未知の数学が必要となるのかも知れません。無論、数学は演算を行うための抽象化された概念を統合し、体系だてた知識ですから、自然科学を説くために必要な次元を上にするツールですが、自然科学そのものとは云いがたいでしょう。それはアプリケーション・プログラムとプログラム言語の違いに近いだろう、と私は思います。(プログラム言語に対して数学はさらにメタな存在ですが)

いろいろと書いてみましたが、私としても依然「ゼロという概念は自然科学的存在と云えるのかどうか」について、明確な考えはありません。正直云って「さっぱり分からない」というのが本心です。

45カクレクマノミ:2008/03/11(火) 14:31:43 ID:hevW81fM
>いろいろと書いてみましたが、私としても依然「ゼロという概念は自然科学的存在と云えるのかどうか」について、明確な考えはありません。

そもそも、この問いに意味はあるんでしょうか?
数学が自然科学だったとして、あるいはそうでなかったとして、何が変わるんでしょう?
数学が自然科学だとしても、そうでないとしても、数学の体系も方法論も応用の仕方も、数学に対する理解も、何も変わらないのではないでしょうか?

だったら、数学が自然科学かどうか決めることに意味はあるんですか?

46NAN:2008/03/11(火) 18:34:54 ID:CTE40lKg
>>45
あ〜、うん、そうですねぇ。
ごもっとも(苦笑。

ただ、まぁ…考えることが「ホビーになっている」だけなのです、私の場合。
少なくとも、このスレッドではそうです。

47diamonds8888x:2008/03/13(木) 05:56:37 ID:s1.Kf0eg
 『貨幣』や『資産価値』という自然科学的存在とは言いにくい「共同幻想」を成立させている基盤は自然科学的現象や心理学的現象だと述べましたが、それは先に述べた『権力』についても当てはまるでしょう。頑健な若い個体が、肉体的闘争では楽々と圧倒できそうな年老いた個体に唯々諾々と従うかわりに、「奴の権威なんて幻だ」と叫んで戦いを挑めば、年老いた個体の『権力』は雲散霧消するかも知れません。しかしまた、その時権力側の暴力機構が発動し、たてついた個体を物理的に制することで『権力』の実在性がより確認されるかも知れません。してみると、『権力』という必ずしも自然科学的とは言いにくい存在も、それを実在させている基盤は暴力という自然科学的存在であるとも言えます。もちろん『権力』を実在させている要素は他にも色々あって、暴力もそのひとつであることは社会科学でも常識でしょう。社会科学においては『暴力』や他の色々な要素の自然科学的側面を強調することは少ないと思いますが、どの要素も最終的には何らかの自然科学的存在につながっているのではないでしょうか。

 そして貨幣価値や資産価値と同様に、権力の強さも時間の経過と共に変化します。それがどのような仕組みで変化するのかを知ろうとすれば、それらを実在させている自然科学的存在にまで遡って知っていく必要が出てくるでしょう。

 以上のことは権力以外の諸々の『社会関係』についても同様です。ヒト以外の動物でも、群れの中での順位とかなわばりとか色々な『社会関係』がありますが、これらにもある種の「共同幻想」の面があります。自分の住み慣れた場所から離れて別の個体が占有している場所に近づくとなんとなく不安になる、といった「共同幻想」を皆がもっていれば、ケンカの強さとは別の要素によるなわばりが成立します。順位にしても、通常は「ケンカしてもボスにはかなわん」という「共同幻想」を皆がもっているために、やたらとボスにケンカを売ったりはしないのだ、とも言えます。もっとも、ヒトのような高度な知能を持つ動物以外では、この「共同幻想」には遺伝的要素が強いでしょうから、ヒト社会の「共同幻想」よりは遙かに強固な幻想でしょうが。
 
 さてヒトにおける『社会関係』と動物における『社会関係』に何か質的な違いがあるかと言えば、私にはそうは思えません。ヒトの『社会関係』の方が遺伝的要素は少ないとは言えるでしょうが、それは無視できるような量ではないでしょう。また動物の『社会関係』も、物質や物質的現象といった実体的なものとは一段抽象的な『存在』であるという点では、ヒトの『社会関係』と同質に見えます。動物の『社会関係』は動物行動学という自然科学のテーマであり、ヒトの『社会関係』は社会科学のテーマであるのは、単に学問の発展の歴史的経緯による人為的な分類に過ぎないと、私には思えます。

48diamonds8888x:2008/03/13(木) 05:57:05 ID:s1.Kf0eg
 まとめてみます。

1.『社会関係』は情報的存在であり、物質でも物質的現象でもない。情報的存在はその情報を解読し認識できるなんらかの主体がいないと、無意味であり存在しているとは言えなくなる。

2.『社会関係』という情報的存在を存在させている認識主体は、社会の個々の個体である。狼の社会関係は全ての狼に共有されているという意味で、狼にとっては『客観的存在』であるが、ヒトのような狼以外の動物にとっては存在していないという意味では『主観的存在』かも知れない。

3.ヒトにとっては「狼の社会関係」は主観的に認識できるものではないが、狼の行動を子細に観察すれば、「狼の社会関係」を推定することができる。その意味では、ヒトにとっても「狼の社会関係」は【学問】上で客観的に存在すると言える。


 2のようなことを考えていると、主観的ということと客観的ということも、明確に二分できるかどうか疑問にも思えてきます。全くの余談になりますが、考え方の違う者同士が共存するためには、主観と客観の境界は曖昧なものであるという心構えが必要なのかも知れません。

49diamonds8888x:2008/03/21(金) 05:50:49 ID:u8pRrzdI
 話題が少しずれますが、我々はどうやってあるものが『実在する』と認識するのでしょうか? ひとつの必要条件として、ある程度の期間に渡り変わりない姿が認識される、という点があると思います。この際に認識する手段は五感が多いでしょうが、別に五感には限りません。いつの日も変わりなく心の中に神の存在を認識したとすれば、その人は変わりない姿の神が実在すると認識することでしょう。
 運動して位置を変えた物体も同一の実在物と認識しますが、それは姿形が変わらないとか、位置が連続的に変化することを認識できたからでしょう。ゴムまりや動く動物や成長する植物のように形を変えるものでも、それが連続的なら同一の実在物と認識するでしょう。離れた場所に瞬間移動して同時に姿形もかけ離れたものになったら、とても同一物とは認識できません。
 つまり『実在する』という概念自体が、何らかの認識体験に基づくものと考えざるを得ないのではないでしょうか?

 さてすると、人がなにかを『実在する』ものか『実在しない』ものかに区別する基準のひとつとして、そのものが変化せずに認識され続ける期間の長さというものがありそうです。物質や自然現象のように誰もが自然科学的存在と認識するものの場合だと、いつ誰でも同じ方法で観測すれば再現性良く観測されることが『実在する』と保証される条件です。貨幣のように、情報的存在であっても有史以来存在し続けているような存在は、人間ならば誰にとっても非常に強く『実在する』と感じられます。

50:2008/03/23(日) 09:41:43 ID:sUQ1SW32
【人間社会】

>47;diamonds8888xさん

>社会科学においては『暴力』や他の色々な要素の自然科学的側面を強調することは少ないと思いますが、どの要素も最終的には何らかの自然科学的存在につながっているのではないでしょうか。
>さてヒトにおける『社会関係』と動物における『社会関係』に何か質的な違いがあるかと言えば、私にはそうは思えません。

上記前段の、一貫したdiamonds8888xさんの主張には共通性を感じるのですが、後段の、人間社会と他の動物の「社会」について、私は質的に異なるだろうと思っているところです。オウム流の言い方をすれば、「ステージの違い」とでも言うか。

アリやミツバチの「昆虫社会」から、ライオンやゴリラのハーレム的な群れ、チンパンジーやボノボの群れに至るまで、人間以外の動物の場合、おそらくその種としての進化生物学的な適応で説明が付くと思います。言わば本能的なものです。
個体や生息域が異なっても、同じ種なら概ね同じ様式の群れを形成します。又その群れの中に序列が有る時、その地位は適応度、つまり残した子供の数に直結します。

それに対し人間の場合、例えば同じ民族でありながら、韓国と北朝鮮では作っている社会の有り様が全く違います。
或いは同じ国民で有りながら、江戸時代と明治維新後、或いは敗戦後の日本では、社会の有り様も全く違います。
又今の資本主義で、社会の序列と子供の数との間に相関関係は殆ど有りません。ビル・ゲイツの資産が話題になることは有っても、彼の子供の数がニュースになることは殆ど有りません。
今世界で一番の権力者としてアメリカ大統領を挙げることに、そう間違いはないと思いますが、この地位こそ建前上は一番貞節を要求される地位です。ビル・クリントンはそれで大統領を辞めた訳ですからね。つまり進化生物学の適応だけでは、人間の社会は説明が出来ません。

動物の場合、群れ同士が幾つか集まってより上位の、何らかの階層を作ることも有りませんが、
人間の場合、家族を基本としてその上に幾重にも渡る壮大な構造を作っています。この全体を社会と言う訳ですが、この点でも両者の本質的な違いを感じます。

51:2008/03/23(日) 09:42:31 ID:sUQ1SW32
続きます。

若しかしたら上記diamonds8888xさんの、前段の主張に通ずるのかも知れませんが、次のような見方は如何でしょうか?

私は人間の社会や歴史も、「物質の運動」で統一的な理解が出来ると思っています。
運動は物質の基本的な属性ですが、その運動形態は一様でなく、低い段階から高次の段階への発展が有ることを認めるのが唯物弁証法でも有ります。

力学的運動は、最も単純・低次の運動形態で、空間での位置関係の変化として、二つ以上の物体の相互関係としてのみ意味を持ちます。
二つの離れた物体が位置を変えた時、或いは二つの物体が部分的に接触しながら位置を変えた時、衝突、摩擦が生じる場合が有ります。衝突と摩擦は熱を生じ、ある条件の元で、音・光・電気・磁気を生じます。
つまり、力学的運動形態から物理的運動形態への移行が起こります。

力学的運動は力学の法則に従っていますが、物理的現象は力学の法則では説明できません。運動形態が変わると、物質は新しい法則によって運動するようになる訳です。
それ以前の運動形態で作用していた法則(今の場合には、力学の法則)が、相変わらず作用し続けますが、それだけでなく、その運動形態に固有の法則(今の場合、物理学の法則)が付け加わる訳です。

次に炭素と酸素を高温にすると、化合して炭酸ガスになるように、物理的運動(この場合、加熱)形態にある物質は、一定の条件のもとで化学的運動形態に移行します。

原始地球の海の中で化学進化が進み、高分子化合物が形成され、その中から一個の自己複製分子が合成されます。極めて初歩的なものではあるにしても最初の生物が生まれた訳です。
つまり、化学的運動形態から生物学的運動形態への移行がなされたのです。

地球上に一旦生物が生まれると、それから後は進化論でよく知られているように、進化と多様化が急速に進み、ついにはある種の類人猿から人間への進化が行われました。
これは同時に、サルの集団が人間の社会になったことを、生物学的運動形態から社会的運動形態への移行が行われたことを意味すると、私は理解します。

社会的運動形態で運動している物質とは、人間に他なりません。
人間は生物であり、したがって生物特有の諸法則(物質代謝、細胞分裂、生殖、遺伝の法則など)に従っています。又人間の体内で行われている消化などの過程は、化学の法則にも従っていますし、熱伝導や電気伝導の法則のような、物理学の諸法則も人間の身体内で作用しています。
さらには、歩いたり腕でものを持ち上げたりする場合には、力学の法則も作用しています。

人間は社会的運動形態よりも低次の、あらゆる運動形態で作用している法則に従いますが、それだけでなく、社会的運動形態に特有な諸法則である社会法則に従っていると言えます。
社会への発展の契機は道具と言葉だったでしょうし、その前提は直立二足歩行だったでしょう。
言わば「連続と飛躍」です。

飛躍を認めず、人間社会をより低次の生物進化の法則で理解しようとすると、社会ダーウィニズムに陥る危険が有ります。
同時に人間社会も一つの自然史的な、連続的過程として理解することで、人間だけを神聖なものとして考える、例えば創造論等を退けることができるのではないかと思っています。

52:2008/03/23(日) 09:44:03 ID:sUQ1SW32
【実在】

>>16;)の「物質定義」でも触れておきましたが、私は『実在』の条件を「感覚される」ことと言い切って構わないように思います。その場合様々なセンサーや装置を使ってのことも含みますが。

カミオカンデによるマゼラン星雲からのニュートリノ観測は、1回限りで特に永続性も無く、しばらくは再現性も無いでしょう。しかし1回であれ観測に掛かって人間の感覚に与えられた訳で、それによって『実在性』が証明されノーベル賞の受賞になったのですから、「ある程度の期間に渡り変わりない姿が認識される」と言う条件は特に必要ないように思います。

状態が突然大きく変わったとしても、その因果関係さえ理解されれば、それは『実在』否定の条件とはならないでしょう。
上記リンク(>>16;)でも例に出しておきましたが、電子と陽電子の衝突でガンマ線に転化する現象は頻繁に見られますし、その逆も又同じです。
一般的に粒子加速器内での現象は、運動エネルギーからの新しい粒子(質量)への転化でも有る訳で、衝突の前後で様相は大きく変わります。

質量が生成したり消滅したり、逆に片方でエネルギーの消滅や生成が起こると言う、フェルミオン⇔ボソンに関わる、物質の本質現象が頻繁に見られる時、「そのものが変化せずに認識され続ける期間の長さ」と言う条件を『実在』定義に含めることには難が有るんじゃないでしょうか。


同時に幾ら強く長く意識したとしても、感覚に与えられない限り『実在』と言えないとするのが上記(>>16;)「物質定義」の内容です。

>いつの日も変わりなく心の中に神の存在を認識したとすれば、その人は変わりない姿の神が実在すると認識することでしょう。

diamonds8888xさんも「認識」と言う言葉を使っているように、これについては「神が実在する」と言うことでなく、「『神が実在する』と思う」ことだと理解しています。
唯物論は「有る」と言うことと「『有る』と思う」ことに、特別に拘って区別する立場でも有る訳で。


表の掲示板での、観測地平や光速度についてのdiamonds8888xさんの書き込みを、分からないながらも興味深く読ませて頂きました。
私は今、漠然とした疑問と言うか興味が有って………、

「無、或いは真空の揺らぎからの宇宙創成」と言う、創造論者や観念論者が聞けば小躍りするような、逆にそのフレーズだけからすると、唯物論の根幹に関わるような、しかし確からしい仮説が出た時、もう少し物理学の現場での混乱が有るのかな、と思ったりもしたものです。或いは創造論者が飛びつくのではないか、と。

でも幸いなことにあまりそう言うことを聞きません。
その辺の雰囲気について、若しdiamonds8888xさん、ご存知でしたら聞かせて頂けないかな、と前々から思っていたところです。

53カクレクマノミ:2008/03/23(日) 12:09:08 ID:yWsJGwZk
本筋からずれていて申し訳ないんですが、ちょっと見逃せないので。

>アリやミツバチの「昆虫社会」から、ライオンやゴリラのハーレム的な群れ、チンパンジーやボノボの群れに至るまで

それなんて「存在の大いなる連鎖」?
この「から・まで」の間には、いったい何が入るのでしょう?
イカの群れは入りますか?真社会性のエビや粘菌は?バクテリアのコロニーは?

>個体や生息域が異なっても、同じ種なら概ね同じ様式の群れを形成します。

ミスジリュウキュウスズメダイでは、生息地によって乱婚的な複雄複雌群になったり、一夫多妻のハレムになったりすることが知られています。
テングカワハギでは、密度などさまざまな条件によって一夫一妻になったり一夫多妻になったりします。

>動物の場合、群れ同士が幾つか集まってより上位の、何らかの階層を作ることも有りませんが、

ヒヒの仲間では、雄1頭と数頭の雌、そしてその子からなる社会単位があり、さらにそれが多数集まって大きな群れを構成することが知られています。

ヒトの社会や行動を動物と比較して、その類似点と相違点(雄さん流に言うなら連続と飛躍)を理解しようとする試みは非常に重要だと思うんですが、動物についての正しい知識に基づかなければ、それこそ進化論を曲解した社会ダーウィニズムと同類です。

54:2008/03/23(日) 15:59:18 ID:sUQ1SW32
>>アリやミツバチの「昆虫社会」から、ライオンやゴリラのハーレム的な群れ、チンパンジーやボノボの群れに至るまで

>この「から・まで」の間には、いったい何が入るのでしょう?
イカの群れは入りますか?真社会性のエビや粘菌は?バクテリアのコロニーは?
>動物についての正しい知識に基づかなければ、それこそ進化論を曲解した社会ダーウィニズムと同類です。

あー、いえいえ特に深い意味は無く、単に「例えば………」と言う程度の意味合いです。
動物全般(生物でもいいけど)についての、特に個々の動物種の群れについての専門的な知識が有ってのことでは有りませんが、「人間社会との比較」でしたから、比較的近い哺乳類から類人猿などが頭に浮かんだに過ぎません。
或いは巷間良く言われる「昆虫社会」も含めたと言う訳で。

イカの群れ、真社会性のエビや粘菌、バクテリアのコロニーなど、単純になればなる程、進化生物学的な適応と密着した、それだけに「人間社会」との乖離が見られるのではないでしょうか?
特にバクテリアなど、無性繁殖のコロニーと、ミツユビカモメなどのコロニー、まして人間社会との比較は、この場合あまり意味が有るようには思えません。


>ミスジリュウキュウスズメダイでは、生息地によって乱婚的な複雄複雌群になったり、一夫多妻のハレムになったりすることが知られています。

それこそクマノミなどは雌雄転換さえするようですね。
生物の多様性は色々有るとは思いますが、やはり進化生物学的な適応の範囲を出るものでは無いと思いますし、それぞれに説明が付いているものと思われます。

これは私の個人的な考えで出典などを聞かれても困るのですが、動物は条件が許せばハーレム型の「社会」を構成する傾向が有るのではないかと思っています。
オスの個体ごとに、強いとか弱いとかの変異が有り、強い固体が繁殖資源であるメスを独占できる条件が有る時、自然状態でそれをしないオスは居ないでしょう。
そのハーレムの規模はオスの強さの変異を反映するでしょうし、見た目としては体型の性的二型として現れます。100頭ものハーレムを持つゾウアザラシのオスはメスの8倍もの体重だし、ゴリラは3倍程です。

ハーレムを作らせない条件は色々有るでしょうが、ヒトの場合メスだけでの子育てが困難でどうしてもオスの協力が必要となり、ペア型を発達させることがオスに取っても適応的だった為と思われます。
判明している人類の歴史の中で、ハーレムを作ることや、逆に乱婚が基本であったような時期は無かったようです。

人間の配偶システムについては、ジョージ・マードックの調査が有名ですが、世界中の849の民族社会を調べた結果、ヒトは全体として一夫一妻を基本として、ゆるやかな一夫多妻を含む配偶システムと言えるようです。
しかし、チンパンジーに次ぐ精巣の大きさから、相当旺盛な婚外Sex、つまりは浮気が有ったと推測されます。
この辺までは他の動物などとある程度共通な、つまり進化生物学的な適応を反映したものであろうと、私も考えます。
しかしその上に築かれる幾重もの構造は、やはり人間だけに特有なものだと思います。

ヒヒの「社会」構造については初めて知りました。有難うございます。
チンパンジーやボノボ、ニホンザルの群れも、単に繁殖とだけ結びついたものでは無いと言えるかも知れません。
そこには捕食者への対応と言う事情も有るかも知れません。その辺のバリエーションも私にとっては「連続」の範囲で理解できると思っている次第です。

ヒヒの「社会」構造がどう言うもので、環境からのどう言う要請が有ってのことか分からないのですが、やはり人間の社会はそこから大きく飛躍したものであろうことだけは言えると思っています。

55:2008/03/23(日) 17:34:15 ID:sUQ1SW32
追伸です。

>>個体や生息域が異なっても、同じ種なら概ね同じ様式の群れを形成します。

>ミスジリュウキュウスズメダイでは、生息地によって乱婚的な複雄複雌群になったり、一夫多妻のハレムになったりすることが知られています。
テングカワハギでは、密度などさまざまな条件によって一夫一妻になったり一夫多妻になったりします。

例えばこのミスジリュウキュウスズメダイが、生息地によってさまざまな配偶形式を採るとして、同じような生息地なら、全てのミスジリュウキュウスズメダイが同じように配偶形式を変化させるとすれば、それは私が言っている「同じ種なら概ね同じ様式の群れを形成します」を意味する訳です。

そうでなくて、同じ生息条件であるのに、群れのボスの個性によってさまざまな群れの形式を採ったり、生息地の条件が変わったにも関わらず、群れの形式を変えたり変えなかったりする個体がいたとしたら、それは上記私の主張が否定されることになります。

56NAN:2008/03/24(月) 10:55:15 ID:162zyN2E
せっかく静かに議論を見守ってたのに、なぜバカ発言を繰り返すかな(唖然。

>>50
>動物の場合、群れ同士が幾つか集まってより上位の、何らかの階層を作ることも有りませんが、
>人間の場合、家族を基本としてその上に幾重にも渡る壮大な構造を作っています。この全体を社会と言う訳ですが、この点でも両者の本質的な違いを感じます。

「人間特別論」がぷんぷん匂う、腐臭漂う発言だね。
既に>>53カクレクマノミさんによって論破されちまってるワケだが、自分自身が社会ダーウィニズムとしか評価しようのない発言を繰り返している自覚はないんだろうね、例のごとく。

いいかい、社会ダーウィニズムは>>51
>飛躍を認めず、人間社会をより低次の生物進化の法則で理解しようとすると、社会ダーウィニズムに陥る危険が有ります。
とは正逆。
飛躍を認めてニンゲンを特別視し、ダーウィニズムを曲解した結果、生まれるものなんだ。しかも生物に低次も高次もない。ステージなんてものも妄想だ。単に思想や経済、科学技術や物質文明という「修飾」が加わっただけのことで、他の動物が形成する社会(群れ)とヒトの群れの間に、本質的な違いなんてものはない。

>それに対し人間の場合、例えば同じ民族でありながら、韓国と北朝鮮では作っている社会の有り様が全く違います。
>或いは同じ国民で有りながら、江戸時代と明治維新後、或いは敗戦後の日本では、社会の有り様も全く違います。

どう違うんだよ?大笑いするしかないぞ、こんなの。
韓国と北朝鮮で「生物学的視点」から見た社会の有様がどう違う?支配階層があって、軍事力があって、生産者と消費者の関係があって、国家と国民の関係がある。そこに違いを認めるのは「ニンゲン的価値と目的の視点」に立った場合のみに限られるだろ?江戸時代と今の日本でなにが違う?風俗ブンカが違う?ちょんまげを結っていない?貨幣が違う?封建制と民主主義?そんなもんただの「修飾」なんだよ。

>今世界で一番の権力者としてアメリカ大統領を挙げることに、そう間違いはないと思いますが、この地位こそ建前上は一番貞節を要求される地位です。>ビル・クリントンはそれで大統領を辞めた訳ですからね。つまり進化生物学の適応だけでは、人間の社会は説明が出来ません。

どんな文才があっても、上段と下段の脈絡を理解することは不可能だぞ。なぜウイリアムやアメリカ大統領の貞節だとか子供の数が話題にならないことが、進化生物学からの「脱出」になるんだ?脳が腐っているとこんなことも分からないのか?「つまり」ってなんだよ。進化論どおりの「低次の」社会形態に甘んじる下等生物どもは常に子供の数や貞節を「話題にしている」ってことか?

社会の序列と子供の数の相関なんてことをキーにしている段階で、進化論を理解してない証拠じゃないか。社会の序列、つまり「権力」がもたらすものは自己と自分の一族による社会的価値の独占だよ。そう、一夫多妻がアンモラルである社会においてでさえ、時にはハーレムを形成できたりする。結果的に、危機的な状況に於いても子孫を「ほぼ必ず」生存させることができる。飢餓のある国でそれを考えれば明白だろう?ヒト社会の序列上位に与えられる特権がもたらす生物学的意味は、繁殖における最大限の効率化なんだよ。

57NAN:2008/03/24(月) 10:55:48 ID:162zyN2E
>力学的運動は力学の法則に従っていますが、物理的現象は力学の法則では説明できません。運動形態が変わると、物質は新しい法則によって運動するようになる訳です。
>それ以前の運動形態で作用していた法則(今の場合には、力学の法則)が、相変わらず作用し続けますが、それだけでなく、その運動形態に固有の法則(今の場合、物理学の法則)が付け加わる訳です。

そしてトンデモ炸裂か…。
まさかキミは「力学的現象」と「物理的現象」の間に飛躍や「本質的な違い」があるとでも思い込んでいるのか?一体いつの時代の科学論だよ…。あまりのキチガイぶりに脱力したよ、ホント。力学の現象がニュートン力学によって記述できる物理現象を指すのであれば、それは相対論の近似であり、本質的な違いなんかない。化学の現象や力学現象の大半は電子のやり取りで説明できることが今は理解されている。量子論と相対論の扱いさえGUTなどの大統一への試みが繰り返されている。それらは本質的に「すべて一緒であること」が示唆されるからじゃないのか?

>地球上に一旦生物が生まれると、それから後は進化論でよく知られているように、進化と多様化が急速に進み、ついにはある種の類人猿から人間への進化が行われました。
>これは同時に、サルの集団が人間の社会になったことを、生物学的運動形態から社会的運動形態への移行が行われたことを意味すると、私は理解します。

はいはい、ついにはニンゲンね…もうダメだ。挙句に「生物学的運動形態」から「社会的運動形態」ね…栄養袋が腸だからみたいな論理だな。

>一般的に粒子加速器内での現象は、運動エネルギーからの新しい粒子(質量)への転化でも有る訳で、衝突の前後で様相は大きく変わります。

はいはい、E=mc^2を知らないのね。質量とエネルギーは等価であり、「場」のポテンシャルにはなんの変化もないんだよ。
#全宇宙スケールでの質量/エネルギー保存が本当にあるのかどうかは疑問というか興味だけどね。

>質量が生成したり消滅したり、逆に片方でエネルギーの消滅や生成が起こると言う、フェルミオン⇔ボソンに関わる、物質の本質現象が頻繁に見られる時、「そのものが変化せずに認識され続ける期間の長さ」と言う条件を『実在』定義に含めることには難が有るんじゃないでしょうか。

このスレッドで云う「実在」は、どうやら学問的枠組みとしての実在であって、それはつまりヒトの素朴な「実在すると感じる根拠」についての見解をテーマにしているんだろう。だが上記は、物理学的な本質論としてのブッシツについての言及であって、ヒトの感覚とはほとんど関わりがない。光を粒子とするか波とするか、あるいは粒子であり波であるとするかは量子論の重大な議論だったけれど、そんな議論があろうがなかろうが、光は見えるし感知できるので実在すると「歴史的に」ヒトはしてきた。そういうことがテーマなんだ。

粒子加速器では、ブッシツの対消滅や生成以外にも、相対論的速度まで加速することによる粒子の寿命の変化なども観測できるけれど、だからといってある粒子が「実在する/しない」というヒトによる恣意的・経験的定義に対してなんら影響を与えるものではない。

総合的に云うと、トンデモ説の投下は議論の活発化を促進する面もあるから必ずしも拒絶はしないのだが…スレッドの流れに合わせているように見えて、キミのやってることはほとんど「ブログ向けの自説発表」なんだ、ということくらい気付こう。それから、常に云えることだが、云いたいことがあるなら簡潔に書けよ。余計な枝葉や補強にならない蛇足を追加しまくるから、たとえトンデモ説であるにせよ、本論がどこにあるのか誰にも見えないぞ?おそらくキミにも見えていないだろう?

58:2008/03/24(月) 21:22:51 ID:sUQ1SW32
>せっかく静かに議論を見守ってたのに、なぜバカ発言を繰り返すかな(唖然。

NANさんを相手の書き込みだった訳じゃないが、私はNANさんの同意が得られないことを、全く意に介しません。どちらかと言えばその逆で、「同意!」と言われたら心配になって自分の書き込みを慌てて読み直すでしょう。だからそれはそれで一向に構いません。

以前書いたことが有りますが、自然科学では見解の違いを、実在の中で検証し、決着を付けることが出来るのですが、哲学や社会科学で、見解の違いや立場の違いは普通のことです。NANさんを説得しよう等とは毛頭思っていません。

必要に応じ反論はして行こうと思っていますが、最初に一つ、見解の違いでなく、NANさんの事実誤認を指摘しておきます。


>いいかい、社会ダーウィニズムは>>51
>>飛躍を認めず、人間社会をより低次の生物進化の法則で理解しようとすると、社会ダーウィニズムに陥る危険が有ります。
とは正逆。
>飛躍を認めてニンゲンを特別視し、ダーウィニズムを曲解した結果、生まれるものなんだ。
>他の動物が形成する社会(群れ)とヒトの群れの間に、本質的な違いなんてものはない。


【社会ダーウィニズム】

(岩波生物学辞典、但し手元に有るのは第四版)
C.ダーウィンの進化論における生存競争(生存闘争)による淘汰の理念を人間社会に当てはめる社会進化論の一種。その理論に基づく政策といったものまでこの名で呼ばれることが多い。ダーウィニズムの受容が一段落した1870年代から登場し、第一次大戦までが主な流行期である(中略)。彼らの思想を具体化した優生学は、今日に至るまで影響力を持ち続けている(以下、略)。

(広辞苑 同じく第三版)
ダーウィンの進化学説、特に生物界に於ける生存競争・適者生存の原理を人間社会に適用し、社会には闘争と優勝劣敗の原理が支配すると主張する思想。

(社会科学辞典 新日本出版社)
ダーウィンの進化論を俗硫化して社会に当てはめた見解。社会現象を生存闘争によって説明し、社会的不平等や戦争を合理化する。又社会の発展における量的発展・進化だけに注目し、質的飛躍を否定する。
スペンサーによって展開され、明治初期の日本の思想界にも大きな影響を与えた。


NANさんにお聞きましょう。
○「(社会ダーウィニズムは)飛躍を認めてニンゲンを特別視し、ダーウィニズムを曲解した結果、生まれるものなんだ。」
上記3つの辞典のどこに、そんな線に沿った記述が有りますか?

事実は逆です。
社会ダーウィニズムが論理的に正当化される前提として、動物の「社会」と人間の社会の間に本質的な違いが無いことが条件となります。丁度NANさんの主張のようにね。
人間の社会も動物のそれと同じだから、同じ法則(自然淘汰、優勝劣敗など)が適用されて然るべきだ、と言うのが社会ダーウィニズムの主張・根拠です。
そして実際に、生物進化の法則をそのまま機械的に人間社会に適用したのが「社会ダーウィニズム」です。

動物の群れと人間社会の本質的違いを主張できないNANさんの立場に、社会ダーウィニズム批判の足場は持てないんですよ。出来ると言うなら試しにやってご覧。
尤もNANさんが、社会ダーウィニズムを信奉するのだとしたら、それはそれで私からすれば唾棄すべき立場ですが、論理的には一貫性を持ちます。

社会ダーウィニズムに対し、批判の足場を持つには、動物の社会(群れ)と人間の社会は本質的に違うと言う立場が必須です。
そうして初めて、違うものに同じ法則を適用することは不合理だ、と主張することが出来るんですよ。

上記三つの辞典の解説は、それぞれニュアンスの違いは有るにしても、基本的には生物進化の法則と違う人間社会の、独自の法則を認め、そこに機械的に生物進化の法則を適用することの弊害を述べているのです。

まっ、その他色々反論は有るのですが、NANさんからも簡潔に書けよ、と言われていますので、取りあえず今日はここまでにしておきます。
続きは仕事の合間を見て、ボチボチとね。

59NAN:2008/03/25(火) 09:06:54 ID:162zyN2E
つくづく、どうしようもないバカなんだなぁ。>雄クン

>>58
>社会ダーウィニズムが論理的に正当化される前提として、動物の「社会」と人間の社会の間に本質的な違いが無いことが条件となります。丁度NANさんの主張のようにね。

キミの文章力は致命的に狂っている。『淘汰の理念を人間社会に当てはめる社会進化論』『社会には闘争と優勝劣敗の原理が支配すると主張する思想』『ダーウィンの進化論を俗硫化して社会に当てはめた見解』などなど、そもそも生物進化のメカニズムを説いたダーウィン進化論をニンゲン社会に【俗硫化して】当てはめちゃ、いかんだろ?しかもこれらの思想を展開した連中は、自分が「適者」であり、自らが所属する社会階層や人種こそが「優れたモノである」ことを前提に優生学などを発展させていったのだろ?

ヒトも生物である以上、突然変異と自然淘汰のシステムからは逃れられない。だが、そういう根底にある原理と、社会の表層に現れる紛争だとか、貧困だとか、人種差別の正当化は関わりがないものだ。それらは淘汰でもなんでもない。ただの「欲望の正当化に疑似科学を用いた例」だってことが分からないバカだってことだ。>雄クン

社会ダーウィニズムとは、自然科学の知見、たとえば「万有引力の法則」があるからと云って、『他人』をビルの屋上から地上に突き落とすことを正当化しようという、途轍もない誤謬に基づくものだ。ここで河田雅圭氏のコラムを紹介しよう。
ttp://www.toshiba.co.jp/elekitel/special/2002/03/sp_02_a.htm

↑上記にあるように、『ところが、進化という言葉の普及に一役かった19世紀イギリスの社会学者ハーバート・スペンサー(1820〜1903)は、進化を、下等な形から、高等な形に生物が進化するという前進的な意味として使いました。このため、進化という言葉は前進的な変化、進歩に近い概念とみなされるようになったのかもしれません。』社会ダーウィニズムの普及に一役買ったスペンサーは、進化を「進歩」と誤解している。これは雄クンと一緒だな。
また、『進化を前進、進歩、あるいは「下等」から「高等」への変化とみなした極端な形が、弱い者、劣る者は淘汰されてよりよい社会ができるという、いわゆる社会ダーウィニズムと呼ばれる思想ですが、これは実はダーウィンではなく、ラマルクの発想が元になっています。』ともあるが、この辺の文脈も雄クンの主張と一致する。「適応」というのは、ある個体や表現型の機能を指すものではなく、結果として現れるものなのに、あらかじめ「こいつは適応している、こいつはしていない」と選別するのはただの人為淘汰。無論、それさえも進化の原動力となるのは確かだが、自然淘汰の本質でもなんでもない。

>社会ダーウィニズムに対し、批判の足場を持つには、動物の社会(群れ)と人間の社会は本質的に違うと言う立場が必須です。
>そうして初めて、違うものに同じ法則を適用することは不合理だ、と主張することが出来るんですよ。

脳腐れに特有のキチガイ主張だな。
社会ダーウィニズムの誤謬さえ気付かないバカが遠吠えをほざくなよ。>雄クン。
つまりキミは「ヒトの社会は特別なので進化論適用外」「その他の生物は進化論そのまま」だから、社会ダーウィニズムに反論できる、と述べているわけだよな。逃げずに肯定しろよ。ヒトあるいはヒト社会が飛躍した特別な存在でないのならば、適者生存の原理に従い、たとえば私のように「劣った存在」は淘汰され、滅亡する(殺されても文句が云えない)ということだよな。これのどこが適者生存だよ?さっきも書いたが、適応は結果なんだ。しかも環境との相互作用であり、どちらもめまぐるしく変化する。(ヒトの勝手な解釈で)進歩的な変化だけが「望まれる」わけでもなんでもない。

ところでこれ以上この手の議論を続ける気であるなら、自分で自分のクソ主張を垂れ流すためのスレッドを作りたまえよ。>雄クン。
キミはスレッドの主旨を無視し、二足歩行とハーレム論とヒト特別論と社会ダーウィニズムを主張し続けている。それならそれで「土俵」を作りたまえ。

60:2008/03/25(火) 09:24:34 ID:sUQ1SW32
>>59;)については又後ほど。

とりあえず用意したコメントだけ書き込んでおきます。

【人間特別論】

>「人間特別論」がぷんぷん匂う、腐臭漂う発言だね。


折角の機会ですから少し立ち入ってみます。しかしその前に………、

>>58;)でも述べておきましたが、自然科学では実在的な対象を観察したり実験に掛けたりすることで、一定の決着を得やすい。
しかし考え方の問題、哲学とか、或いは実験が難しい社会科学などで見解の違いは当たり前のことです。哲学は2500年に渡って論争しているし、社会に於ける見解の違いは日本の国会を見れば一目瞭然です。

元々「動物社会(群れ)と人間社会」については、NANさんにではなくdiamonds8888xさんへのコメントとして述べたものですが、その際に私は上記の事情を勘案して、(>>51;)の冒頭で、「次のような見方は如何でしょうか?」として、一つの視点の紹介と言う形を取っています。
つまり、当然異論があり得るだろうな、と言うことを前提にしています。
しかしそれでも、diamonds8888xさんやカクレクマノミさんとは、見解の違いは違いとして保留し、自分に無い視点を提供して貰える等、建設的な議論ができるものと期待して書き込んでいます。

NANさんが、私の主張に常に反発するのは承知しているし、トンデモだと判断するのは勝手だと思うけれども、私からすれば「自分はこう思う」とだけ言えばそれで済むのになと、いつもながらNANさんの戦闘性には感心させられる「今日この頃」。
それに私も1000に3つ位は正論を吐くことも有る訳で、後先検証もせずにこうも反射的に反発していると、後で自分自身矛盾を来たすことが無いのかと心配したりするのですが、まっ、これも余計なお世話でしたね。

と言うことで今回の書き込みも一つの個人的な見方、としてご理解下さい。


「人間の特殊性」ですが、やはり私は人間は特殊だと思っています。しかしそれは(>>51;)の最後でも述べているように、人間の神聖化などとは無縁の、「社会的存在」としてです。

例えば進化生物学などに一切無縁の、先入観の無い子供に、「人間と動物や植物は、同じ仲間だと思う?」と聞いた時、どう言う反応をするか?
同じく一切の先入観の無い宇宙人が地球に飛来して初めて見た時、最初に人間と他の生物との共通性を認めるか、或いは違いを最初に感じるか?
おそらく他の動物などしばらくは視野に入らないんじゃないかな。まあ飛来した場所によるけど。

あなたは、ニューヨークや品川の高層ビルで働くビジネスマンを見て、或いは眼下に広がるメガポリスを見て、そこに森の中のサルとの共通性を常に実感していますか?

理屈はさて置き私の素直な実感としては、やはり人間の特殊性を感じます。つまり感覚します。
そしてその上で、ではこの違いはどこから来るのか?、或いはその違いの中に底流としての共通性はどこに有るのか? を考えます。

61:2008/03/25(火) 09:25:33 ID:sUQ1SW32
続きます。

今、日本人の土井たかおさんが宇宙ステーションの組み立てに当たっていますが、無重力・真空の宇宙空間に滞在するなどは、どんな鳥であってもその生物としての特質の延長、量的な違いで絶対に出来ることでは有りません。私はそこに人間だけの飛躍を見ます。それも個人ではなく社会的な知識・技術的集積を。

ヒトの個体ごとの知識や技術・経験を、集団全体が共有し、蓄積出来た主な要因は言葉と文字でしょう。
又月や宇宙空間にまで足を伸ばすことが出来たのは、道具の発達でしょう。
道具は身体器官の延長・代用ですが、その進化に遺伝子の変異を必要としません。社会の知的・技術的集積に応じ限りなく発達させることが出来ます。
それが生物としてはチンパンジーと殆ど同じ連続性を持ちながら、これだけの違いを生み出した要因だと思っています。

ある種の恐竜が前肢を羽根に変え、空を飛ぶまでにどれ程の時間を要したか私は知りませんが、人間はライト兄弟の初飛行から僅か100年ほどの間に、宇宙に届くまでにその「羽根」を発達させた訳です。これら一切合財が人間の社会であり、その進化・発達の過程でしょう。
私はその人間の社会が、動物の群れ、昆虫社会の単なる延長、量的な違いだけだとはどうしても思えません。やはりそこに飛躍を感じます。

>>58;)でも述べたように、若し同じものであるなら人間の社会に、ダーウィンの淘汰の理論を適用して何の問題も無い筈です。
そもそも「社会ダーウィニズム」などと、特別の概念を用意して区別する必要も有りません。

「人間の特殊性」は、NANさんの投稿を見るまでも無く、進化生物学陣営であまり評判良くないようです。
「進化に目的は無い」「人間が進化の頂点であるとか、だから神聖だとするのは間違いだ」とする、それ自体は真理である進化生物学の命題がまず先に有って、頭の中での枠組みで現実を理解しているように、私には思える訳です。一種の慣用句になっているような感じさえします。
上記したように、子供の目で素直に現実を見た時、私にはやはり人間は特殊なものに映ります。
進化生物学者の間でも、長谷川真理子氏などは、勿論私とはニュアンスは違いますが「遺伝子と文化子」と言うような形で「連続と飛躍」を、ある程度認める立場のように受け止めています。

NANさん、又長くなってしまいましたね。悪しからず。

62:2008/03/26(水) 07:42:00 ID:sUQ1SW32
>つくづく、どうしようもないバカなんだなぁ。>雄クン
>脳腐れに特有のキチガイ主張だな。

前にもお願いしたことですが、そう言うバカでキチガイはどうぞお捨て置き下さいな。
NANさんも大変でしょ、そんな脳腐れの相手は。
私の方はトウの昔に、到底私ごときがお相手の勤まるお方ではないと、敬して遠ざけておりましたのに。

>キミはスレッドの主旨を無視し、二足歩行とハーレム論とヒト特別論と社会ダーウィニズムを主張し続けている(>>59;)。

私は、diamonds8888xさんの、「ヒトにおける『社会関係』と動物における『社会関係』に何か質的な違いがあるかと言えば、私にはそうは思えません(>>47;)」
或いは「話題が少しずれますが、我々はどうやってあるものが『実在する』と認識するのでしょうか?(>>49;)」

……に対する私の感想を、当のdiamonds8888xさん宛てに書き込んだものです。トピ主さんからクレームが有れば兎も角、私としては特にトピズレとの認識は有りません。
「二足歩行」「ハーレム論=配偶関係」「社会的存在としての人間」「社会ダーウィニズム批判」などは何れも、私にとってそれ抜きに人間社会を語れない、重要な社会関係概念です。
当事者でもないNANさんから、私の主張の中身について何で検閲を受ける必要が有るんですか?

「スレッドの主旨を無視」と仰いますがね、その私の書き込みに、当事者でもないのに勝手にシャシャり込んで来て、スレッド2つに渡って長々と論難を繰り返したのは、他ならぬNANさんですよ。
好きなだけ関わっておいて、今更「キミはスレッドの主旨を無視し」は無いんじゃないですか?
その駄々っ子のような、あまりに見事なダブルスタンダードには嗤うしかございません。
本当にNANさんが、私のトピズレ云々を感じているのなら、最初からそんな書き込みに対応しないことこそが、トピ主さんに対する礼儀ではないんですか。

冒頭述べたようにおバカな私に取って、今NANさんから得るところは些かも御座いません。一切関わる積りは無かったのですが、しかしそれでもNANさんからのご指名で論難されれば、私としてもむげに無視する訳にも行かず、今回も止む無く一定の反論をしました。
そうしたら今度は、「これ以上この手の議論を続ける気であるなら、自分で自分のクソ主張を垂れ流すためのスレッドを作りたまえよ。>雄クン。」と来た。

謹んでお断りします。
呆れてものが言えません。ナルホド、他人を見ればバカかキチガイにしか見えない高貴なお方は考えることが違う。

私の「クソ主張垂れ流し」が迷惑だったら、NANさんが私を無視してもらえばそれで済むことです。私の方はもともと、畏れ多いNANさんにお相手をして頂く積りなど、ハナっから無かったことですから。
トンデモと駄々っ子と代官様には近づくなと、死んだじいちゃんの遺言です。

拝見したところ、(by雄)として、私個人を対象にした、或いは私の「クソ主張」を中心テーマとしたトピを立ち上げてもらったようですね。余程脳腐れのキチガイに執着がお有りのご様子だ。
上で述べたように、私自身はNANさんに関わる意義を全く感じません。ここで見ただけでも分かるように、「バカ」「脳腐れ」「キチガイ」「クソ主張」等など、エレガントな言葉が行きかうだろうトピで、建設的な議論など出来よう筈が無いからです。
従ってそんなトピで私が書き込むことは、今後も一切無いでしょう。そこまで人間を堕したくない。

そう言うことで、ハッキリ言ってそのトピ建ては、非常に不愉快であり迷惑です。特定の個人を対象に、その本人の意思に反し、こう言うことは妥当なのかどうか?
一応今後の為、取りあえず当事者として意思表示だけはしておきます。


それにしても驚き呆れるのが、社会ダーウィニズム批判をメインテーマにしている私の立場が、NANさんに掛かると、いつのまにか社会ダーウィニズム信奉者に、全く反対に捻じ曲げられてしまっている。
社会ダーウィニズムへの、あまりにお粗末な理解と共に、相手の主張を180度捻じ曲げないと相手を批判さえ出来ない駄々っ子の議論に、その意味でも参加する意義を全く感じません。
では、オタッシャデー!!

63diamonds8888x:2008/03/27(木) 05:51:30 ID:47KDahkU
>>52
 ヒトにおける『社会関係』と動物における『社会関係』に質的な違いがないと言った主旨は、次の点で両者が同質だということです。
 ・どちらも物質や物質的現象といった実体的なものとは一段抽象的な『存在』である
  (本スレッドでのわたし流には、情報的存在)
 ・どちらも「共同幻想」と言える
 ・どちらも存在の基盤は物質的なものである
 そして、単に学問的分野が文系と理系に分かれていることで、ヒトの『社会関係』は人文・社会科学的存在で動物の『社会関係』は自然科学的存在だと分けることは変だろう、というのが一番の主旨です。

 認識され続ける期間と言うと連続して認識しつづけないといけないのだと誤解されかねませんでしたね。そもそも人間がひとつのことにそんなに連続して注意しつづけることなど不可能ですから、連続して認識しつづけることはあり得ませんけど。一応、再現性ということも書いておきましたが、その方が適切でしょうか。

>カミオカンデによるマゼラン星雲からのニュートリノ観測は、1回限りで特に永続性も無く、しばらくは再現性も無いでしょう。

 そうですねえ、歴史的事実の実在性ですねえ。これをどう解するかも別の問題でしょうねえ。とりあえずは面倒だから、「過去の現象というものは、現在は実在しない」ということで手が打てませんか? いや「ニュートリノ」とか「超新星でニュートリノが発生する現象」とかは再現しうるので実在すると言えますけど。

 ちょっとずれるかも知れませんが、「超新星でニュートリノが発生する現象」は理論的に予言されているだけの段階と実験的に確認された段階では、やはり実在性にレベルの差がある、というのが自然科学者の一般的認識ではないかとは思います。


>(>>16;)の「物質定義」でも触れておきましたが、私は『実在』の条件を「感覚される」ことと言い切って構わないように思います。その場合様々なセンサーや装置を使ってのことも含みますが。

 いえあの、物質だけの話ではないので。いや御紹介の唯物論では【現象】も【物質】に含めるというのは理解しましたが、【情報】については明確に意識しているんでしょうか?

> diamonds8888xさんも「認識」と言う言葉を使っているように、これについては「神が実在する」と言うことでなく、「『神が実在する』と思う」ことだと理解しています。
> 唯物論は「有る」と言うことと「『有る』と思う」ことに、特別に拘って区別する立場でも有る訳で。

 「認識」という言葉は単に「思う」という言葉よりも強い意味で使ったのですが、同様な意味で解釈されましたか? そんなことを言えば人は常に「『有る』と思う」ということしかできないでしょう。単に「『有る』と思う」と言うことよりも強く「有る」とだけ言えるのは、どんな場合かという考察が大切だろうと思います。むー、中途半端でごめんなさい。

64:2008/03/27(木) 18:53:26 ID:sUQ1SW32
>ヒトにおける『社会関係』と動物における『社会関係』に質的な違いがないと言った主旨は、次の点で両者が同質だということです。

ヒトにおける『社会関係』と動物における『社会関係』の問題は、このトピでも色々「問題」にもなっており、特に見解の分かれるところだと思います。
と言うことで、立ち入ったことについては取りあえず保留して置きます。

ただ(>>51;)でも述べたように、私もdiamonds8888xさんの「ヒトの『社会関係』は人文・社会科学的存在で動物の『社会関係』は自然科学的存在だと分けることは変だろう、というのが一番の主旨です。」とする見解には、基本的に(少なくとも半分)共感します。
同意出来そうな(若しかしたら出来るかも知れない)ところから述べてみたいと思います(人生、共感が大事です)。

上記(>>51;)スレッドで長々と述べましたが、私は人間の歴史・社会も又、一つの自然史的な課程だと理解しています。
つまり、ビッグバンに始まる宇宙の物理的過程→原始地球の海の中での化学進化→生物の誕生とその進化→ヒトの誕生とその後の人間社会の発展=歴史。
それぞれの過程・現象にはそれぞれの科学が用意されていると同じ理由で、人間社会の解明には、やはりその為の専門的な科学、「社会科学」が必要だろうと思っているところです。

そのことを理解せずに、人間社会に生物進化の法則である「淘汰の理論」などを、それも俗論的に適用したのが「社会ダーウィニズム」であろう、と言うことでした。
ダーウィン自身著作の中で、自分の見解が人間社会に適用されかねないことを危惧し、繰り返しその弊害を述べている訳ですからね。

同時に上記のそれぞれの過程は、必ずその前段階の過程を前提としている訳で、化学進化が起こる為にはその素材である各種元素が、宇宙の物理的過程の中で用意されている必要が有ったし、ヒトの誕生には、類人猿に至る迄の長い生物進化の過程が必要だった訳です。
その立場に立つことで、一発で全てを創ったとする「創造論」に対抗する足場を持てるのだと思います。

自然史的な過程という点で「連続性」を確認して『創造論』を批判し、同時に、動物「社会」と人間社会との間の質的な「飛躍」を承認することによって、『社会ダーウィニズム』などの機械論を排除すると言うのが、先の私の趣旨だった訳です。


※「機械論・機械的に」と言うのは、元々は全ての現象を力学的な運動に還元して解釈する立場です。総じて、様々なレベルの現象をより低位で単純な現象で解釈しようとする立場です。
現実社会では、色々個別的な事情が有るにも関わらず、原理原則だけを押し付けようとするようなことでしょうか。

※ 「社会ダーウィニズム」については「進化と人間行動(長谷川寿一・長谷川真理子、東京大学出版社)」11ページ〜20ページに、非常に適切な解説が有ります。社会ダーウィニズムに限らず、全体として非常に良書だと思います。推薦します。


ところで………、
今、私は酩酊状態に陥っています。
diamonds8888xさんからの、例えば「情報」とか「認識」とかについては、又後程と言うことで。

65diamonds8888x:2008/03/28(金) 06:39:02 ID:47KDahkU
 歴史的事実の実在性、つまり過去の事実の実在性というのは、記憶や記録で確認されるものですよね? そして記憶や記録の確認には再現性があります。人の記憶などは劣化しますから、昨日は確かだと思ったのに今日になって記憶を再現しようとしてもどうにもはっきりしない、なんてことになると、記憶されている事実が本当に過去にあったことかどうかも確かではなくなってきます。文字の記録ならば、遙かに再現性は強くなりますが、ある歴史的事件の記録やら残留品やら証人やらが何かの事故で消失してしまったとしたら、その歴史的事件の実在性も認識することができなくなります。

 だから公文書の保管は大事なのだ!  あっ、話がずれた。


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