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小谷野 コピペ
106
:
名無しさん
:2007/08/23(木) 09:14:50
● 2007-08-21 あらかじめ失われた時を求めて
大林宣彦監督の映画『ふたり』を観た。中嶋朋子と石田ひかりの演ずる美少女姉妹に、くらくらしながらやられる映画。
それにしても、普通はこの種の「美しき少女時代」のような主題に接すると、たとえ平凡な少女時代を送ったに過ぎない女性であっても、心のどこかで自らの少女時代を美化しつつ、懐古や感傷に浸る余地があるはずなのだが、この映画に関しては、観客のそういうささやかな自己陶酔を全く許してくれないのが酷なところである。なぜなら、ヒロインたちの少女時代があまりにファンタジックで美しすぎるので、誰もおいそれとそれに同化・共感することなどできないからである。
だからこの作品を見て、何かとめどない喪失感を感じたとしたら、それは「過ぎ去りし少女時代」に対する感情ではなく、「あらかじめ失われた少女時代」への痛恨の情なのである。あるいは、「戻るべき少女時代などない時」。ああ、もう何でもいいや。全てにおいて、大仰な物言いを旨としております。
ところで『ふたり』の主題歌が、宮崎駿の『紅の豚』のテーマ曲に酷似していることに気がついた。正確な曲名は、『ふたり』の「草の想い」、そして『紅の豚』の「セピア色の写真」「失われた魂」「帰らざる日々」「Porco e Bella」。作曲はいずれも久石譲。
サントラの中のちょっとした一曲が似ているというのならまだしも、二つの映画全体のテーマ曲がそっくり、というのは私としては驚きなのだが、一緒に観ていた夫は、何でそんなことで驚くのか分からないと言う。私にとって不思議なのはまさにそこで、じゃあなぜロッシーニやビゼーは、そういうことをして許されてしまうのだろうか?(同時代においても、そして現代の評価においても)。ロッシーニなんかはオペラ量産のために序曲やアリアを使い回していたわけで、偉大なオペラ作曲家が曲の使い回しをしても、なぜか「粗製濫造」という批判を免れてしまうのは不思議なことだ。
というわけで、久石の場合、「メロディーラインや雰囲気がそっくり」というだけで全くの使い回しではないから、あまりとやかく言う気にはならないのだが、むしろ気になったのは19世紀のオペラ作曲家の方である。
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