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◆出願期間が短いのを危惧します◆
673
:
龍谷人@また〜り
:2007/04/05(木) 13:47:17
須藤 瀬田キャンパス誕生のいきさつや国際文化学部設立の意図はどのようなものだったんでしょうか。
信楽 龍谷大学は深草へ進出してからさまざまな学部を新設、大学院を設置するなど、前向きに走り続けてきました。大学創立350年の節目として平成元年に設立されたのが瀬田キャンパスです。当時、武村正義・滋賀県知事が経済学部の非常勤講師だったこともあって、滋賀県と大津市から理工系学部を新設してほしいとの誘いがあったんです。瀬田キャンパス6万坪を無償で提供、60億円の資金も提供するからと。瀬田以外に湖西にも候補地(後に成安造形大学が進出)がありましたが、千葉乗隆学長の判断で瀬田になりました。湖西の候補地は立地として北過ぎるし、学長の専門的見地から湖西の地は遺跡が出るかもしれないからと。
河村 龍谷大学第二次長期計画(1985〜1990)での西本願寺の精神的バックグラウンドは大きくて、理系、それも医学部などの生命系の学部を持ちたいというものでした。でも、結論は財政的にムリ。当時考えていた新設学部は宗教学部と社会学部のどちらかで、まずそれを新設、資金を蓄えた後、21世紀になってから理工学部や生命系の学部をつくろうと考えていました。そう決定しかけていた1985年1月、滋賀県から理工学部を設置してもらえないかの打診があり、それに乗ったのです。
当時、瀬田キャンパスは龍谷大学にとって、とても重要で実験的意味合いの強いものだと考えており、将来は理工学部以外に増えていくだろうから、新たな可能性を開く学部として社会学部も設置しようということになりました。社会学は人間の日常生活での現実的な問題を扱う実践的側面がありますから。ここまでが第二次長期計画による動きですね。
上山 新しい学部をつくるのは大変なことで、最初は滋賀には醸造や薬品の産業があるのでバイオテクノロジーをやろうという話も出ましたね。
信楽 いろいろ調査しましたね。
河村 瀬田キャンパスを実践と直接結びついた学問の場、新しい学問分野をつくり出す場にしたかったこともあって、国際文化学部もこれまでにない学問分野の創出を狙いました。理工学部をつくった時に、理学と工学が融合した新しい学問分野をつくろうとしたように。
国際文化学部は、「文化」「国際」「情報」をキーワードに、既存学部との連携を勘案した文理融合の学際学部です。現実に存在するのは個々の文化であり、世界中のどこを探しても「国際文化」なる文化は存在しません。これを異文化のコミュニケーションと理解して、異文化間の意志の疎通を図る学問の樹立を目指したわけです。方法論はコミュニケーションとしての語学と、コンピューターを使った分析能力。
そして、あくまでも現場とリンクした学問であり、カリキュラムも従来の学部とは違うものにしたいと考えました。これまでは国際関係を政治・経済中心に見てきたけれど、これからは文化を中心に理解できる人間が大切だと考えたからです。
精神的な面を含めた人と文化の交流、国際協力が緊急の課題だと考え、互いの固有の文化を尊重しながら、全人類が共存しうる新しい世界、新しい価値観の創造を狙ったわけです。
信楽 当時、私がお願いしたのは、龍谷大学の建学の精神である仏教と、キリスト教、イスラム教の3つを国際文化の基本の柱にしてほしいということです。21世紀は宗教の世紀ですから。最終段階で文部省(現文部科学省)の委員会へ出席して、「国際文化をテーマにした学部は既にたくさんあるが、よその大学では成立し得ない学部をつくるんだ」と一席ぶったのを覚えています。
御前 他大学の国際文化は外国語学部や一般教養の作り替えでした。宗教を核に据えてコンピューターを使ってのコミュニケーションまで含めたものは、他になかったですよ。
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