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「未信者とつりあわぬくびきにつけてはならない」の意味は?

1へっぽこ@躓き:2004/02/25(水) 23:29
「未信者とつりあわぬくびきにつけてはならない」の解釈は?
へっぽこの躓きのひとつがこれでした。
「これは、未信者との結婚を禁じる意味である。」という解釈の
教会がいくつかありました。しかし、現実には困難。

クリスチャン人口0.8%の日本では、そんなこと言ってると結婚
できなくなっちゃう。首尾よく教会員同志で相手がみつかれば
いいけど、教会員同志でも牧師が赦さないという変な教会も
ありました。

クリはノンクリと結婚しちゃいけないのか?へっぽこの先輩
クリスチャンは息子さんの結婚式を教会で行ないましたが、
新婦はノンクリでした。

ギデオン協会前会長の鈴木留蔵先生は、結婚した時ノンクリで
奥様がクリスチャンでした。奥様は所属教会で叱られたか?
教派にもよるでしょうが、ケリを付けておきたい問題です。

102名無しの神学さん:2004/03/13(土) 21:44
わかり難かったですか ごめんね。


50ですね。「阿弥陀菩薩」という阿弥陀仏を菩薩という言い方は「中傷」ですね。(笑)
という冗談はともかく、・・・。
人間が修行して仏になった阿弥陀の「永遠・無限」と、セム一神教の創造神の「永遠・無限」(性)とを同一視してはいけないという説が、阿弥陀に対する無理解であり、中傷ね。事実に異なることを主張して「阿弥陀の名誉?(笑)」を誹謗しているので中傷ね。

半可通な理解だと「人間と隔絶した神」と「人間が成りうる仏」は別物と言い、阿弥陀も「人間がなりうる仏」だとみなすわけです。人間という設定だからね。その阿弥陀の設定ではさ、法蔵は「五劫」という時間、思索しました。「五劫」は実は…「永遠×五」だったりします(汗)。一説に、一つの宇宙がね、創造され存続され破壊されるのが「一劫」です。それを五回ほどの長時間修行したという設定ですから、ヤハウェの創造を五回ほど体験していることになります汗。ふつーの人間じゃないのです、設定では汗。阿弥陀の名誉は、この設定からすると、ヤハウェの五倍は「永遠・無限」なわけです(滝汗)。
だから、「阿弥陀」って普通に考えると私たち普通の人間と絶対的に隔絶しています。そんなに長生きできませんからね。
と言いましても設定を真面目に説明すると、ギャグにしかならならないです。ごめんなさいね。

一点は、阿弥陀に先行するインド宗教の「絶対的世界な創造原理」を踏まえて阿弥陀思想は発生しているので、セム一神教の創造神の「永遠・無限性」はさして特別でもないつーことですね。
二点目はイエスね。そうですね。正統派解釈では、「人性」と「神性」ですね。
あなたのギャグ論理「弥陀は修行するような元人間だから・・・セム一神教の創造神の「永遠・無限性」と同質ではない」なら、同論理からはイエスも「人間であるイエスがセム一神教の創造神の「永遠・無限性」と同質」とはいえないわけです。
「イエスに人性も神性もありうるなら、弥陀にも人性(法蔵)も神性(弥陀)もありうるわけです」

103名無しの神学さん:2004/03/13(土) 21:44
「スピノザ以上に論理的」に関して・・・。

松本さんは如来蔵思想を汎神論ではなく実在論と書いています。

「底流にスピノザ以上に理性的な論理体系がある」というのは、「如来蔵思想」は思想体系なんです。大乗経典 論書。幾人もの思索を経ています。
スピノザは自分で「汎神論」の体系を作り、これが「汎神論」と主張したわけではないのです。彼は彼の「神と世界」に対する哲学を語っただけ。その哲学の体系は所詮一人の頭脳の中の体系なのです。如来蔵思想はインド・中国・日本の色いろんな人々が長い時代を経て作り上げてきた思想体系なのです。スピノザ一人の思索より以上に思索を経ています。

あなたが論理的ではなく曖昧とみなしたのは「日本の精神風土」です。
私も松本さんも「密教」だけが汎神論に近く「哲学的に昇華」されていて、残りの大半の「日本の精神風土」が「アニミズムの上に多神教の層がのっかっている」と見ないのですね。
如来蔵思想の影響を見ます。松本さんは「根源的実在論」とみているわけですね。
私は、「汎神論」と言って構わないと主張しているのね。
どちらにしても「日本の精神風土」が「哲学的に昇華」されてないと見ないわけね。

104名無しの神学さん:2004/03/13(土) 21:45
いえいえこちらこそ横様から生意気失礼致しました。
HNも決めずに失礼しました。ちらっと一言で去ろうと思っていましたのに、
根があほなもので汗
荒らしてしまいましたようです。ご寛恕のほどを願います。


投稿しようとしましたら、93発見

称名について・・・

「法然さん、たくさん。親鸞一回」という理解は一般的です。
「法然さんが自力の痕跡を残し・・・たくさんがいい」という理解は真宗護教的です。
事実に反します。

善導流浄土教はとても特殊です。普通の仏教は「瞑想」が実践です。
ここから離脱しましたのです。浄土教そのものも「瞑想」だったのです。
「念仏」というのは、元々は、仏を瞑想する観想念仏という「瞑想」です。
善導だけが、漢語「念」という字に「称える」という意味があったのに注目し、
経典には「観想念仏」の意味で「念仏」「念」とあるのを「称名念仏」に再解釈したわけです。観経という経典に「十念」「一念」とあります。ここを「十回の称名」「一回の称名」と解釈したわけです。十回の称名で沢山の罪が滅罪される。死ぬ間際の一回きりの称名で来迎往生できる、と。
法然以前の天台の良源の「九品往生義」では大経18願の「十念」をもって「十回の称名で往生できる願」だと言ってますし、その後輩の禅瑜の「新十疑論」は、「一回、十回の称名で往生できる」と言っています。数で言えば日本天台の浄土教が既に一回の称名で往生できると言っています。一回は親鸞のオリジナリティーではないです。
法然さんは、例えば「七か条起請文」で、一回二回称えても自力の心なら、自力の念仏だし、千万回称えても願力他力を頼んでの称名なら他力だよ、と言い、「和語登録」では、他力の念仏は、その数の多寡、(一か多)など無関係と言っております。親鸞もこの理解を継承しています。(「一念多念文意」で、一回か多数かで争っているいる人がいるけど、両者とも自力派だ、と批判しています)
さてどうして「法然さんたくさん」という一般理解が生まれ、流布しているかといいますと、真宗が、法然さんを低く見、親鸞さんを持ち上げるためでもありますが、しかし論拠もあります。法然さんは天才だったので、きちんとした説明をしません。で、「数なんか関係ねぇよ」とも言いつつ、門下には「いっぱいせい。 いっぱいせい」と勧めますし、自分もします。実際の行動を見れば、法然さんは多数派ということで門下に「多数派」「一回派」が生まれ侃々諤々と・・・。

ちなみに「阿弥陀菩薩」という表現はないです。
岩波の解説は間違っています。訂正を要請したほうがいいですね。
原語的には「悟りを求める人」です。
仏教では「悟りを開く以前の釈尊の尊称」→「前世での釈尊の修行時代」→「悟りを求めて修行する人」、大乗になってからは→「未来の仏」「大菩薩」弥勒が代表的(ほんとんど仏と同質)→利他に注目し→「利他から衆生済度をする人々」「仏道志す人みんな」

「悟りを備えた人々」は、弥勒を想定していると思われますが、<悟りを求める人びと><悟りをそなえた人びと>という二つの意味が考えられると二点を並列的に紹介するだけでは不充分。弥勒の場合は56億年後に仏になる釈尊の次の将来仏という設定になっているので実質、仏なんですが、菩薩ですね。あと仏に大乗の大菩薩は、阿弥陀の前身の法蔵菩薩もそうですね。皆が仏になるまで菩薩でいる。衆生を仏道に入れしめるためにわざわざ菩薩に留まるわけですね。弥陀は設定では完成して仏となっているわけです。一遍はだから、もう既に永遠の昔に私の救いは完成しているのだという十劫往生説を唱えます。

あっ、でも阿弥陀菩薩という表現も斬新で面白いです。好みならば止めません。
私にはこうとしか読めない、というのが新しい思想・思索を生んだりもしますからね。

では失礼します。

105名無しの神学さん:2004/03/13(土) 21:48
なんで「スピノザは曖昧な感覚を持っていたことになる」んでしょう?

ギリシア哲学者は多神教世界に生きていたから。
タチバナさん論はあくまで汎神論は唯一神教対置と言われてましたので。
スピノザは自分が汎神論ともギリシア哲学者が汎神論ともみなしたわけ
ではありませんが、汎神論の代表のスピノザは自分の思想を
多神教のギリシア哲学者の・・・以下略

ついででした ながながと失礼しました

106タチバナ@灰羽連盟:2004/03/13(土) 22:00
おお、>>104の投稿はほんとに貴重。ありがとうございます。
>>105についてはやはりロジカルレベルの混同でしょう。まあ、これはどうでもええわ。

書き込みはまじで希望するのでお願いします。なるべくコテハンをつけてほしいですが、こればかりは本人の意志の有無ですから無理強いはしませんが。

107アイ:2004/03/13(土) 23:03
>>79>>81
パンプキンさま えらく遡ってレス(笑)

『或る女』、そうですね、普通に読むと教訓っぽく感じるかもしれませんよね。
どうも、私は文学を読むときは作者の人生を重ねてしまうところがあって、作品を読みながら、その人の解説なんかを平行して読んでしまったりします。
今回も、「有島武郎とキリスト教」という評論集を読みながらでした。

三浦綾子さんは、読みやすくて嫌いじゃないのですが、「塩狩峠」や「道ありき」はとても面白かったし。ただ、時々いやらしいものを感じる時がありますね。それは自分も持っているものだから、感じてしまうのかもしれません。
あ、「ひつじが丘」古本屋さんで見つけたので買いましたよ。読んでみますね。

旦那さんの話、
以前、創価学会が日蓮宗から離脱した時に、夫婦が別々に学会側についた人と、日蓮宗側についた人がいて、離婚してしまったという話がありました。
この人たちは、同じ宗教に属している時はきっと「心が近い」と思い込んでいたに違いない。
距離があることを認め合える夫婦が本当は近い距離にあるんじゃないかって、最近は思うんです。。。つうか、そう思いたいのかな(笑)

パンプキンさまのところもいわゆる性善説なんですね。
私はもう、徹底的に堕落、罪を強調されたから、どうしてもそれが抜けきらない。
洗礼を受けてそこから解放されたはずの後でも、煩悩から抜けきれないときは、それがキリストへの信仰の無さの現れのような気がしていたたまれなる。
でも、結局それは自力で良い人間になろう、自力でキリストに従いきろう、としていることに他ならなくて、結局有島氏と同じことをしているのだと気付くのですね。
今は、こうしてパンプキンさまや、みなさんに助けられて、苦しくなっても方向転換できるから良いですが。

108chiara:2004/03/14(日) 00:00
アイ様
>距離があることを認め合える夫婦が本当は近い距離にあるんじゃないかって、最近は思うんです。

流石、長年夫婦生活を経験している方の言葉は重みが違う。
夫婦だけでなく人の関係全てそうだとも言えるですね。共同体との関わりとかも。
今、教会行ってないわけで、離れてみて、遠いけど近しい兄弟姉妹のことを思います。

ところで、自らのうちに神の恩寵を発見するのもいいですよ〜。
こんなにも愛されていると思う時を発見するのをするとか。

>結局それは自力で良い人間になろう、自力でキリストに従いきろう、としていることに他ならなくて、

これは、かな〜り重要なことですね。
委ねる覚悟ってなかなか出来ないですけどね(^^;

109タチバナ@灰羽連盟:2004/03/14(日) 09:54
>半可通な理解だと「人間と隔絶した神」と「人間が成りうる仏」は別物と言い、阿弥陀も「人間がなりうる仏」だとみなすわけです。人間という設定だからね。その阿弥陀の設定ではさ、法蔵は「五劫」という時間、思索しました。「五劫」は実は…「永遠×五」だったりします(汗)。一説に、一つの宇宙がね、創造され存続され破壊されるのが「一劫」です。それを五回ほどの長時間修行したという設定ですから、ヤハウェの創造を五回ほど体験していることになります汗。ふつーの人間じゃないのです、設定では汗。阿弥陀の名誉は、この設定からすると、ヤハウェの五倍は「永遠・無限」なわけです(滝汗)。
だから、「阿弥陀」って普通に考えると私たち普通の人間と絶対的に隔絶しています。そんなに長生きできませんからね。

まず一点。阿弥陀とセム一神教の神の違いを指摘したからとて、別にどちらか一方をおとしめていることにはなりません。だから私が阿弥陀を侮辱しているというのは、手前勝手な解釈に過ぎません。

>この設定からすると、ヤハウェの五倍は「永遠・無限」なわけです(滝汗)。

神の「永遠・無限」てのが全然わかってませんね(笑
いくら時間的に長かろうが、極端に言えば無始無終であろうが、それは神の永遠・無限とは等値できません。神の永遠・無限はたんに「終わりがない」「果てしがない」て意味じゃあない。
だから中世の論争でトマス・アクィナスがかりに世界が無始無終であったとしても「創造」の教義と矛盾はしない、と主張しえたのです。

>だから、「阿弥陀」って普通に考えると私たち普通の人間と絶対的に隔絶しています。そんなに長生きできませんからね。

そういうわけで、いくら気が遠くなるほど寿命が長かろうが、神と世界、神と人間のように「絶対的に隔絶」しているとはいえない。「ほぼ無限」は「無限」とイコールじゃありません。
私は将棋を指しますが、その手の組み合わせは宇宙にある原子の数ほどあると聞いたことがあります(原子の数ではなかったかも知れんが)。人間の精神からするとほとんど「無限」に思える莫大な数ではありますが、しかし所詮は「有限」です。それと同じことです。
あるいは集合論でいう「可算無限」と「非可算無限」に思いをいたしてもいいでしょう。

>あなたのギャグ論理「弥陀は修行するような元人間だから・・・セム一神教の創造神の「永遠・無限性」と同質ではない」なら、同論理からはイエスも「人間であるイエスがセム一神教の創造神の「永遠・無限性」と同質」とはいえないわけです。

イエス・キリストの「二性一位格」てのは、別に「神性」と「人性」をあわせもっているということだけが重要なのではなくて、その神秘的結合(位格的結合)もおとらず重要なのです。
そこからすると、神の第二位格である「御子」は30年ちょいだけ地上において人間「であった」というわけではなく、昔人間であり、今人間であり、未来も人間であるというような仕方で、「まことの人にしてまことの神」なのです。
このような存在は御子以外にはいません。御子は「まことの人間」であるということだけからでも人間とは絶対的に隔絶してます。いずれにせよ人間はある時点で創造されたわけですが、御子は創造されざるものですから(創造以前からすでに「人間」でもあった)。

110タチバナ@灰羽連盟:2004/03/14(日) 10:27
>「底流にスピノザ以上に理性的な論理体系がある」というのは、「如来蔵思想」は思想体系なんです。大乗経典 論書。幾人もの思索を経ています。
スピノザは自分で「汎神論」の体系を作り、これが「汎神論」と主張したわけではないのです。彼は彼の「神と世界」に対する哲学を語っただけ。その哲学の体系は所詮一人の頭脳の中の体系なのです。如来蔵思想はインド・中国・日本の色いろんな人々が長い時代を経て作り上げてきた思想体系なのです。スピノザ一人の思索より以上に思索を経ています。

まあ、これはただの見解の相違でしょう。といっても私は「以上」だの「以下」だのと傲慢に等級づけることはしてませんが。
しかしスピノザの思想を「所詮一人の頭脳の体系」とするのはなんとも。スピノザに至るまでに長い哲学・宗教思想の歴史があります。その上でスピノザはもの言っているので、ゼロからスタートしてるわけじゃない。「哲学」に対する感覚が鈍い発言だなあ。

>あなたが論理的ではなく曖昧とみなしたのは「日本の精神風土」です。

どこでそんなこと書いてますか? 
かりに私が「日本の精神風土」を「論理的でなく曖昧」(?)と見なしていたとしても、それだからといって日本の精神風土を侮蔑していることにはなりません。どうもそう思ってはるようですが。

111KK:2004/03/14(日) 16:32
>(創造以前からすでに「人間」でもあった)。
そうなの? 永遠のロゴスはもともと神性のみで、受肉の時に「聖霊とおとめマリアと
から肉をとり人となった」ので、その時神性と人性の神秘的結合が成立したのでは??

112タチバナ@灰羽連盟:2004/03/14(日) 17:18
>111
ご指摘ありがとうございます。
たしかにカルケドン会議での決定でも
「神性においては、この世の前に父から生まれたが、この同じかたが、人間性においては終わりの時代に、われわれのため、われわれの救いのために、神の母、処女マリアから生まれた」
とありますから、
>(創造以前からすでに「人間」でもあった)。
というのは誤解をまねく言い方ではあります。
ただ私が強調したかったのは、この結合がわれわれにとっては時間的に生じたものであるにもかかわらず、
「唯一・同一のキリスト、主、ひとり子として、二つの本性において混ぜ合わされることなく、変化することなく、分割されることなく、引き離されることなく知られるかたである。この結合によって二つの本性の差異が取り去られるのではなく、むしろ各々の本性の特質は保持され、唯一の位格、唯一の自立存在に共存している」
という意味では永遠に属する事柄であるということです(だからこそ神秘的結合である)。
神の第2位格は完全な形でこの位格的結合hypostatic unionを成しているわけですから、その意味では神性において言われる事柄はそのまま人性においても言いえます。これを「属性の交用」と言います。それを踏まえて私は
>(創造以前からすでに「人間」でもあった)。
と書いた次第です。

113アイ:2004/03/14(日) 23:07
chiaraさま
そうだ、もうあちらの方に引っ越されたのですね。
そうですね、近くに教会があるということは恵みですね。
そこに伝えてくださった先人のお陰でもありますね。

114パンプキン:2004/03/15(月) 08:48
>アイさま

>距離があることを認め合える夫婦が本当は近い距離にあるんじゃないかって、
>最近は思うんです

いや〜、アイさまは前向きですね。私もこんな後ろ向きなこと言っている間に、
いかにしてより今以上にダンナを愛するかということに心を砕かないと。

私は、夫婦が一致を目指すことは自然な欲求であると考えもし、またその願い
を捨てきれずにいるのですが、方策としては(笑)、アイさまのおっしゃる
ことが真理であるとは、理解しています。
今話題のベストセラー「良妻賢母のススメ」という恥ずかし〜本をちょっと
ずつ読んでおるのですが(もう円満夫婦のためならなんでもするぞ、という
感じ、笑)「夫のありのままを受け入れること(決して変えようとはしない
こと)」という第一のルールにしょっぱなから諭されております。

伝道においても、人間関係においても、すべて、相手を変えようとすればす
るほど相手は逃げていく(頑なになっていく)というのは、真理ですよね。
自分が自分が、というのを脇に置いて、神様に委ねたとき、道は開け、相手
が(思いもかけず)変るというのは、本当だと思います。
「相手を変えようとするオーラ」は、よっぽど、相手の魂を締め付けるの
だろうなと思います。
でも、相手を変えるという目的のために相手をありのままに認めようと
するのも(なんだそりゃ)やっぱり不純かもね〜(^^;。
他の人間関係に関しては、私は全く何も期待していないので(笑)けっこう
なんとかなっているのですけど、ダンナにだけは愛情も愛着も強く感じて
いるだけに、表面的には相手を認め、心の底では一致を望んでいる、そんな
感じであがいてしまいます。
その執着も愛情も100%神様に委ねたときに、道が開けるのかも。
「恋が終るとき、愛が始まる」とはこのことか!?

「ひつじが丘」、またいつか読まれましたら、ちょこっと感想などお聞かせ
願えればと。

115パンプキン:2004/03/15(月) 08:50
>洗礼を受けてそこから解放されたはずの後でも、煩悩から抜けきれないとき
>は、それがキリストへの信仰の無さの現れのような気がしていたたまれなる。

これは、つらいですね。(^^;
「洗礼を受ければ罪は解放されるはず」というところの裏づけになっている教義は
よくわからないのですけど。
クリスチャンになっても抱えていた問題が何ひとつ解決されないし、牧師さんに
相談すると「聖書を読みなさい」とだけ言われる、といって教会を離れたり変えたり
した人も何人か知っています。

うちも罪は教えられますが、解放されるための手段としての具体的な「気付き」
のためなので、罪をいくら指摘されてもむしろ「あ、そうかあ!」という気付き
の喜びがあるというか、すがすがしいです。
あとは、その「気付き」を神様の前にもっていって、解放をお願いするだけ。
人間はもともと神の似姿に造られていて、ただその遺伝子(表現はナンですが)
が発現していないだけだ、水とお日様があれば、ちゃんと種は芽を出して成長し、
神の似姿になるんだと教えられてます。
水っていうのがいかに生きるべきかの教え、お日様が神様とかいうことで。

本を読んだだけじゃ、有島武郎のジレンマは、わからなかったなあ。
やっぱり作者自身についてのものを読まないとですね。

116名無しの神学さん:2004/03/15(月) 22:00
<神と世界、神と人間のように「絶対的に隔絶」しているとはいえない>

設定では・・・
人間イエスが、神と同質でしょう。「絶対的に隔絶」していません。(笑)
イエスには「人質と神質」が同居しているわけでしょう。(笑)
トマスが護教的に何を何と主張していようが世界の他の神概念とさして
変わらないのです。
キリスト教側が「特別」だと主張して貴方は鵜呑みにされているだけです。
MCにかかっているにすぎません。
私は「無限性」だけではなく、イエスを起点に「隔絶」について論じております。

公平に見てインド人の妄想というか想像力はセム語族よりスケール大きいわけです。
(スケール大きくたって妄想度が深いというだけです)
そこに気づかれてください。仏教内でも、「五×無限」について「五」に注目して有限と解釈される方はおられますが、あほでしょう。ヤハウェの五倍です、というギャグは抜きにして、無限×五はイコール無限でありましょうや。

邪魔くさいので一例。
福音派さんなんかは、最初に原始的唯一神教があり、劣悪な諸宗教に堕落したと、ウィルヘルム・シュミットの説に依拠して、アニミズムを批判して「ラテン語のアニマからきた言葉で生気説ともいう。動植物などすべての生物に人間と同じ霊があると考え、拝み、後に人間の霊をも神格化し、人間崇拝にもなっている」とあるのだけど・・・・、
公平に言うと、キリスト教もユダヤ教と比較すれば、イエスを神と同質とし、人間崇拝になっているし、カトリックをはじめ聖公会一部、正教の信仰者はマリア崇敬を崇拝ではないとして認めないが、マリア崇拝になっています。創価学会も指導者(個人)崇拝なのだが、信者さんは個人崇拝ではなく、リーダーを尊敬しているだけという。いっしょですね。
ただ現実の生きている人を崇拝しないところが、マシというか健全。現実に生きている指導者を崇拝したら統一教会みたいになってしまう。
当然のことながらイエスもマリアも釈尊も「生きている人である限り完璧ではない」
イエスが「まことの人にしてまことの神」なのは信仰者の主体的な胸のうち、神との交わりが言わせる信仰上の主体的な言葉であって、客観的事実ではない。
非信仰者が、信仰者側の自己申告・ご都合主義を鵜呑みにされてどうされる。

「そこからすると、神の第二位格である「御子」は30年ちょいだけ地上において人間「であった」というわけではなく、昔人間であり、今人間であり、未来も人間であるというような仕方で、「まことの人にしてまことの神」なのです。
このような存在は御子以外にはいません。御子は「まことの人間」であるということだけからでも人間とは絶対的に隔絶しています。いずれにせよ人間はある時点で創造されたわけですが、御子は創造されざるものですから(創造以前からすでに「人間」でもあった)。」

「法華の釈尊」も同論理です。設定では80年の史実の釈尊だけが人なのではなく、大昔から修行者で、この世のはじまりからいた永遠の修行者(人)であり、永遠の仏(神)です。
こういうギャクを別視点から分析すると、イエスも法華の釈尊も、史実の人を神格化し、人間崇拝になっているので、福音派のアニミズムの概念規定「人間の霊をも神格化し、人間崇拝にもなっている」適用すると、アニミズムになるわけだが・・・うむぅ悩ましい・・・。
例えばパウロは復活を「霊のからだ」と言っている。

①精査してないので、あれですが、聖書のどこに「過去・現在・未来」を通じてイエスが「まことの人にしてまことの神」あったと書かれているのか?
②聖書にないなら誰からはじまった解釈なのか?
③そのギャグをイエスの神格化だとあなたには見えないのに、なぜ無信仰と自称されるのか?


<「哲学」に対する感覚が鈍い発言だなあ。>

鈍いのはどちらでしょうか・・・汗。何度もさりげなく指摘しているのだけども、
スピノザ自身は自分の「神と世界」に対する哲学を汎神論と主張したわけでもない、
同時代の人々は無神論と揶揄し、後代の人が汎神論の代表と褒めちぎっているだけです。
彼は自覚的に汎神論の体系など語っていない。ただ自分の哲学を語っただけ(笑)。
「長い哲学・宗教思想の歴史」をそのまま継承したのではなく、選びだしたのね。タイプ的にはパルメニデスの「神イコール自然」が唯一つの実体する哲学タイプですね。
んで、別にパルメニデスは、一神教と対峙していない。
で他に例えばスピノザは誰と誰と誰の何と何と何を根拠に汎神論を展開したわけ?
具体的にお答えください。

117名無しの神学さん:2004/03/15(月) 22:01
本論です
福音派の「新キリスト教ガイドブック」も、p22−23で、今日に息づく原始的宗教意識としてアニミズムを解説し、日本の宗教意識を取り上げ、「確かに日本の宗教にも偉大な教祖も現れ哲学化も進みました。しかしその中身のアニミズムやシャーマニズムと言われる未開の宗教意識には何の変化もありません」と語り、p38で、真言宗を取り上げ汎神論と見なしています。
このスレッドであなたは、密教など少数派だけ哲学的で汎神論に近似と言い、残りの大多数はアニミズムの上に多神教が乗っかっていると言われていました。
あなたが無信仰と言われても・・・、
私にはあなたの理解は独善的な福音派の解釈と類似していると申し上げておきます。
福音派以外のキリスト教教派も似たような理解ならば、キリスト教のレベルって・・・汗。

118名無しの神学さん:2004/03/15(月) 22:03
うん。キリスト教についてさして知りませんですね。
このスレッドでの展開はさして私の関心はないので、
新スレッドをお立ていただき、
キリスト教についてご教示イタダケレバ嬉しく思います。
しかしこのサイトはそういう学習のためのサイトではない
でしょうから、それも無理な望みでしょう。

まあ私の情報量を。昨秋より私のキリスト教の知識は以下です。
以下については踏まえていますので、ご了承ください。
(ページ数指し示し下されば確認できます)
エドモン・ジャコブ「旧約聖書」文庫セクジュ
オスカー・クルマン「新約聖書」文庫セクジュ
アンリ・セルーヤ「神秘主義」文庫セクジュ 再読
小田垣雅也「キリスト教の歴史」講談社学術文庫
荒井献「イエス・キリスト」上下 講談社学術文庫
荒井献編「新約聖書外典」講談社学術文庫
土井正興「イエス・キリスト」三一新書 再読
関栄二「新キリスト教ガイドブック」日本教会新報社
エレーヌ・ペイゲルス 荒井献他訳「ナグ・ハマディ写本」白水社
バートン・L・マック「誰が新約聖書を書いたのか」青土社
バートン・L・マック「キリスト教という神話」青土社
矢内原忠雄「イエス伝-マルコ伝による」角川選書 再読
朴憲郁「パウロの生涯と神学」教文館
大月隆「イエスという経験」岩波書店
「キリスト教の本」上下 学研
AERA Mook「新約聖書がわかる」朝日新聞社
田川健三「宗教とは何か」大和書房 再読
ジャンダニエル「キリスト教中世史Ⅰ」平凡社ライブラリー
クラウス・リーゼンフーバー「中世思想史」平凡社ライブラリー

たかだか上記20冊程度の一般向けの解説書と、口語訳二冊、新改訳第三版と、
山内眞監修「新共同訳 新約聖書略解」日本基督教団出版局という陣容ですので、
ギリシア語原典も知りませんし、ほとんどキリスト教について知らんですね。
取りあえずは、「福音派・カトリック・日キ派」そして無教会派・聖書批判派と
大雑把にはその思考法をチェックしているつもりですが、よろしくお願いします。


ついでですので、カルト問題を取扱ったサイトですので常識でしょうが、
カルト問題で悩まれていて未読の方は是非読まれることを薦めます。

スティーヴン・ハッサン 浅見定雄訳「マインドコントロールの恐怖」恒友出版
ロバート・B・チャルディーニ「影響力の武器」誠信書房

119chiara:2004/03/15(月) 22:51
名無し神学様・・・
微妙にずれている気が・・・。タチバナ氏は「キリスト教徒は何を主張するか」を語っているんで、
護教をしてるわけではないと思えますです。
それからイエスの人性については、「まったき人であるから」人間と離れているという、
人間だったら「まったき人であると言う前提などつかない」と申していると思うんで。
キリスト教への評価においてはどっちの意見にもうなずけるだけに、なんで意見があわんのだ?
と、謎なのですだ。

人間イエスの偶像崇拝ってのはたしかにシニカルにみりゃそうともいえるですね。
が、信者として護強的にいうならば、それこそが形而上と形而下を結ぶ面白みだからのぅ。
だから、偶像崇拝は駄目ですよ。ってのはそういう表象的な意味でないもっと違う意味が
あると思うんよね。

120chiara:2004/03/15(月) 23:01
アイ様
引っ越して一ヶ月以上経ちました。馴染み過ぎて怖いです。
ただ、教会がないもんで、主日が判らなくなっています。
ミサの式文も忘れました。
シスターが月一回、宣教に来ていますが、家の宗教が根強い土地で、教えは聞きたいけど
洗礼は嫌。という人が多いそうです。なので、イエス様の言葉だけでも伝えられれば
と、各家を回っています。

1210990:2004/03/16(火) 00:14
 chiara様
それで・・・いいのです。 福音を伝えなさい・・と新約にある。 誤解して教会員の数を増やせ。と指導者は私的解釈する。
私も家の祭壇、先祖の位牌等相続管理する立場にある。しかしそれは偶像礼拝でなく世俗的な相続問題と意見する。
信仰上に問題あるなら、便利や、不動産管理業者、いくらでも代行業者はある。・・・神を恐れ、両親を敬えは、忘れてはならない。ご先祖さんでも親の親の親の敬いたいとの気持。
洗礼はいや・・強制はできないのがこの世の掟。主のゆえに世の制度を敬え・・第1ペテロ・・・
私は生贄の血を土に注ぎ込めと旧約の教えは、世俗にみことばを流していくと感じる・・・。、

122名無しの神学さん:2004/03/16(火) 00:48
「キリスト教徒は何を主張するか」
「仏教徒は何を主張するのか」というのは議論テーマではないです。

キリスト教の神概念が客観的に(つまり比較宗教学的に)、
仏教の絶対者概念と比較して
超越的な内容をもっているかどうかが論点です。

123名無しの神学さん:2004/03/16(火) 00:56
個人的な私のイエス観は・・(かなり意味不明だけども)、
ユダヤ教的神概念は人を隔絶した「遠い存在」だったが、
イエスは、「アバ父よ」と幼子の表現をすることで、我らに
ごくごく近しい存在として神を再構築したと私は考えてます。
その意味で、イエスは最初の神の子であり、イエスは我らみんなの
父としてくれたにもかかわらず、身近にそのイエスの感動的な
言動を見聞きした弟子からはまさしく「神の一人子」であったと、
そういうような理解をしていますが聖書を精査したわけではありません
ので不確かです。
蛇足でした・・・この項 無視されてください。

1240990:2004/03/16(火) 01:03
キリスト教の超越な点は、再生・復活です。刑務所でイエス様と出会い、更生を誓いやがて神学校・・教会の役員牧師もある。

125へっぽこ@ミッションバラバ:2004/03/16(火) 01:36
”親分はイエスさま”でござんす!

126タチバナ@灰羽連盟:2004/03/16(火) 09:03
通りすがりとか言ってよく書くひとだなあ・・(笑
残念ながら最初に「デムパ」と呼称したのはただしかったようで。都合の悪いところはすべて無視しているし、匿名にはレスしないを行使して無視させてもらいますわ。
何度も言いましたが、最終的には読者の判断されることですから。

ただ、私が「キリスト教護教的」というのは一面で正しいと思うので、その指摘には感謝いたします。

127タチバナ@灰羽連盟:2004/03/16(火) 09:51
>>126
あ、誤解していただきたくないんですが、名無しさんの書き込み自体は依然として歓迎しますので。

>キリスト教の神概念が客観的に(つまり比較宗教学的に)、
>仏教の絶対者概念と比較して
>超越的な内容をもっているかどうかが論点です。

そんなことが論点だったのか・・(笑
「比較宗教学」も学問的出自から言って西欧的な思考のバイアスがかかっている、と私は見ていますが(それゆえ比較宗教学による「キリスト教理解」も必ずしも信用はできない)。

128タチバナ@灰羽連盟:2004/03/16(火) 10:51
>>キリスト教の神概念が客観的に(つまり比較宗教学的に)、
>>仏教の絶対者概念と比較して
>>超越的な内容をもっているかどうかが論点です。

>そんなことが論点だったのか・・(笑

これでは言葉足らずかな。といってもいくら長々説明してもまったく理解しないひとに何言ってもねえ。
まあ、あとは他の一般読者に向けて。

上の「超越的な内容」というのはよく意味がわかりませんが、私は端的にキリスト教(あるいはセム一神教)の神の概念と、「仏教者の絶対者概念」は違うと見ます。
それは神と世界(自然、万物)との絶対的な差異に基づくものですので。仏教にそれに相等する構造がある、ということなら話は別ですけど。
キリスト教における御子の「二性一位格」は、その差異があるからこそ初期教会で長年議論されてきた末にようやく教義化されたわけです。差異がないのなら、「人間であり神である」ことにいちいち悩む必要がない。とうていありえない話だからこそ、神学者たちは頭を悩ませた。
外から見たら滑稽に見えるかも知れませんが、私はこういう所に頭を使う真摯さは好きです。

で、違わない、同じだと、強弁されるかたがいてもそれはそれでかまわんのじゃないですか。
「聖霊」と「精霊」が「同じ」なら、神も仏も「同じ」になるのだろうし、長嶋とプチ長嶋も「同じ」ということになりましょうから。
もちろん、上位概念を設けて、両者を同列に扱う、というのは比較宗教学などでは手続き上正当なことでしょう。しかし、それとて、どっからどう見ても「神」と「仏」に区別はない、という結論にはなりません。
同じ対象群を扱っても、どのレベルで話をしているのかによって、類同性を論じる場面もあれば差異を論じる場面もある。
だからたとえばスピノザは一面では「汎神論」を代表する哲学者ですが、さらに大きな視野で見れば、キリスト教・ユダヤ教の亜種と見ることもできる。
たまたまある本を読んでいたらニーチェの哲学もキリスト教護教的、と強く主張しているのですが、なるほどと感じ入った次第です。

129タチバナ@灰羽連盟:2004/03/16(火) 11:04
変な話個人的には「キリスト教は特別だ!」と言ってもいいと思ってますが・・(笑

話を建設的な方向にもっていきたいんですが、そもそも日本でキリスト教が浸透しないのはなぜなのでしょう。
私はそれを「一神教的思考がなじみにくい」と表現してますが、これもほんとうは事実かどうかわからないし、かりにそうでも、いったい真の原因がどのへんにあるのかは不明です。
キリスト護教的な意見でもいいので、このあたりクリスチャンの方がどう感じ、どうお考えなのか知りたいです。以前から疑問なので。まあ、なかなか正しい答えは見つからない気もしますけど。
というか、別スレ立てた方がいいですかね。

130chiara:2004/03/17(水) 06:42
タチバナ様、名無し神学様

まぁ、たとえどんなに「自分が客観的に論じた」としても、結局主観からは免れえないわけで、
それは相対主義であっても、「相対である」という主観から免れえないし。

ところで、何故キリスト教は日本で馴染まないか?は別スレ立てるのがいいかもね。
たぶん、日本の既存の宗教や哲学が高度だったともいえるかな?
西欧式な高度さとは別の高度さが確立されていたというか。
それが民族的アイディンティティの核ともなってるから。余計。

131名無しの神学さん:2004/03/18(木) 20:23
『キリスト教教育を阻むもの』(日本基督教団宣教研究所)
それには、日本にキリスト教が浸透しない理由として以下の点が
挙げられています。
1.善悪の基準が対人関係である
2.天皇の絶対性
3.もののあわれを感じるー運命論
4.戦後民主主義の教育ーヒューマニズムの自己完結性
5.美的傍観主義ー自分のことは傍において関わらない
6.宗教的自然主義ー現世利益的ー多神教的

1320990:2004/03/18(木) 22:46
 なぜ、福音伝道が日本ではうまくいかないか? 
 答えは、戦中に国歌神道に基ずく戦争犯罪。戦後の安保闘争他思想信条は、暴力主義的破壊行為の原因と誤解される点では?
その他、某教団のように社会的非難を受ける言動が多いのもひとつ。

133パンプキン:2004/03/19(金) 09:52
ふー。私も首を突っ込めそうな話題になったので、急にこっちにも参加。(笑)
私の考えでは、キリスト教の教義に入る以前の問題かと。

・日本では宗教そのもののイメージが悪すぎる
(子供に、「何をやってもいいけど、宗教だけはダメっ」って教えてるお母さんがいたな〜)
宗教に入ることで、正常なバランス感覚を失い、偏狭な考え方になるのでは、
あるいは「あっち」の世界(あの世ではなく)に行ってしまうことへの不安。
(村上春樹の「」とか、橋本治の『宗教なんて怖くない!』とか見ると、「宗教
に入る人=自分の頭でものを考えられない人々」なんて構図が見え隠れします)

・街頭で目立つ宣教師のやり方が悪すぎ
街のあちこちに「罪の報酬は死 イエス・キリスト」なんて書かれた板を見かけたり、
宣伝カーが来て大音量で「あなたがたはみな罪人です、イエス・キリストを信じ
なさい。信じないものは永遠の滅びに」うんぬんとか言っているのだけど、
あれを見て好印象抱く人はおりますまい。

・教派がわかれすぎ
「教会に行きたいけど、派がいっぱいあって、どれに行っていいかわからない」
ということで、実際通って学ぶまでに至らない。

・実生活の諸問題を解決するのに何の役にも立たない
・・・というのは語弊がありますが、(あるはずだとは思っているので)
たいてい、リストラされた人や、サラ金に苦しむ人とか、人間関係に悩む人
とか、そういう人が教会に行っても、それを解決するような説教に出会わな
い場合が多い。

・そもそも、みんなが自分のためだけに生きればいいこのような社会においては、
キリスト教に入って自分以外の主人を持つということは、大変な禁欲をイメージ
させ、誰も好きこのんでそこには入っていかない。
(つまり、入信する理由が何もない)

・・・まだまだありそうですが、といいますか、逆にタチバナさまがキリスト教徒
でない理由を教えていただければ、(日本のみんながそうであるとは限りませんが)
それもひとつのヒントになるのではないかと。(笑)
教会離れは日本だけではないようですが、好きなように生きられる自由な社会に
なるほど(社会からの抑圧が少なくなるほど)今ある精神の枠組みを超えなければ
ならない必然性はなくなるのではないでしょうか。「救い」を求める必然性がなく
なるというか。

134パンプキン:2004/03/19(金) 09:57
村上春樹の「アンダーグラウンド」です。

135タチバナ@灰羽連盟:2004/03/19(金) 11:25
>>133

>逆にタチバナさまがキリスト教徒
>でない理由を教えていただければ、

いや、これ聞いても役には立たないと思いますよ(笑
別にキリスト教だからどうとかいうことではなく、特定の宗教や政党には属さないというスタンスなのです。
特定の宗教なり政党なりに属すと、私の場合性格的に言って、極端に「護教的」になると思う。集団に対する責任を感じるから。どこかに属すと、個人の発言であっても、その集団を代表するものと他人にとられても仕方がありません。そうである限り、私ならそのことを常に意識して発言することになります。
私はなるべく公正中立な所から発言をしたいので、どこかに所属したくはないのです。

もちろん、特定の宗教や政党となんらかの運動で共闘することは、場合によってはありえます。

136タチバナ@灰羽連盟:2004/03/19(金) 11:28
>>133
村上春樹の『アンダーグラウンド』は読みましたが(ついでにオウム信者へのインタビューである続編も)、

>「宗教に入る人=自分の頭でものを考えられない人々」なんて構図が見え隠れ

はしなかったのですが、どのへんがそうなんですか?

1370990:2004/03/19(金) 23:45
 キリスト教でも私の指導するはんいは、聖書の私的解釈を避ける、世俗においてみことばを武具として活用し、現実逃避せず物事にぶちあたる事とやかましく言う。
批判はあたらない・。

138パンプキン:2004/03/20(土) 08:19
>タチバナさま

なるほど、そういう理由でしたか。
確かにみんなにはあてはめまらないでしょうが、ヒントにはなると思いますよ。

過去の戦争の例とか、今の世界や日本での宗教対立とかを第三者から見ると、
「アホなことやってるな〜」という感想を持つ人が多いのではないかと思います
ね。(タチバナさまがそうだという意味ではなくて)特定の派閥に属したくない
っていう思い自体は、私もそうですし。「自分の正義」を振り回すことによる
弊害を歴史やニュースから学んでいる今の人たちは、どうしても特定宗教に属
するということがすなわち客観性なものの見方を欠くことになるという思いが
あるのではないかと思われます。

真理という面では、確かにどれかひとつを正しいとしてしまうことの不合理さ
のようなものは、真理が相対化している今日では真っ先に宗教に入るときの壁
となるんでしょうね。宗教はそれだけじゃないんだけど・・・。やはり入る前
の問題でしょうか。

それにしても、ウェブサイトでも、無料レンタルで何か借りようとすると「ア
ダルト・宗教サイトはお断り」って出ることが多いです。なんでアダルトと
一緒やねん(笑)やっぱりイメージ悪いんですねえ。

139パンプキン:2004/03/20(土) 08:20
>どのへんがそうなんですか?

う、タチバナさま読んでらっしゃいましたか。(どき)
大ざっぱに書きすぎたかな。
オウムのみならず、宗教に入ることそのものへの批判を書いていましたが。
引用しようと思ったらダンナが本を売ってしまったそうです(^^;
続編もあったのか〜、読みたいなと思ったらそれも売ってしまったそうで、ショック(^^;
帰省してきたら、図書館ででも見てレスします。

ちょっと一週間ほど帰省してきますので、また後ほど。

140名無しの神学さん:2004/03/20(土) 11:32
パンプキンさま、お気をつけて。


http://plato.stanford.edu/entries/pantheism
このページを見ると、次のように書いてますた。

>In 1720 John Toland wrote the Pantheisticon: or The Form of Celebrating the Socratic-Society in Latin. He (possibly) coined the term "pantheist" and used it as a synonym for "Spinozist."

トーランドは「汎神論者」と「スピノザ主義者」をsynonym(同義語)として使ったとありますな。

このページ面白そうなんですが、いま別の中世哲学のところ
http://www.nd.edu/Departments/Maritain/etext/staamp0.htm
を読んでるので、また機会があれば読みますわ。

141タチバナ@灰羽連盟:2004/03/20(土) 11:33
またやってしまった。
>>140は私です。

142名無しの神学さん:2010/06/02(水) 19:11:30
ノンクリ、とは
キリスト教信者が上から目線で非信者を指す時の言葉

143名無しの神学さん:2010/06/04(金) 11:26:01
>>142
いわゆる、わたしは正しい、救われているという傲慢からくる行為でしょうか。

144名無しの神学さん:2010/06/23(水) 18:39:48
ノンアルコールドリンクみたいに、キリスト性ゼロってことでしょ?
巷の非信者を三人称で呼ぶ時は問題ないかもしれないけど、教会に来た非信者に当てはめるのは変かもね。

145山上の垂訓:2011/12/13(火) 23:19:42
まずはage

ガラクタの中にまともなスレが残っていた。

146山上の垂訓:2011/12/13(火) 23:30:50
タチバナ@灰羽連盟さん サエキさん
アイさん chiaraさん パンプキンさん ・・・

こういうまともな話し合いができていた時代があった。
しかしタチバナさんの話は高級すぎる。
「汎神論とアニミズムは全然別物だ!」
・・・世間にはわかる人はほとんどいない。

”仏教”でひとくくり。真言宗や天台宗もS学会もクソミソ一緒。
”キリスト教”でひとくくり。正教会もも●みの塔もクソミソ一緒。
ましてや”宗教!”で人くくりの人も少なくない。

これは全て文部科学省の責任だ。宗教オンチの文科省が
新興宗教に際限なく法人格を与え、カルト化しても知らん顔。
公立の学校でも”歴史的常識”としての宗教教育はできず、
一般国民は”宗教”というと”新興宗教”のことだと思っている人が
ほとんど。真面目に勉強している者がバカを見る。

カルト的宗教もどきに組している輩は、世間知らずで非常識である。
礼儀を知らない。しかしいけしゃあしゃあと聖書を引用し、
✝愛は無作法をしない・・・などとのたまう。

一番無作法なのは”宗教野郎”なのにね・・・・

このスレもマルチポストで下げられるのだろうか?
そのまんま東さんが何を思って放置しているのか理解に苦しむ。
フランシスさんが見捨てたBBSに執着する理由は何か???

147名無しの神学さん:2012/03/15(木) 16:18:24
Ⅰコリント7:14
「なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子供は汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。」

こういう箇所が聖書にあるんですが。
未信者と結婚してもいいんじゃないですか。
結婚したあとに相手が救われればいいじゃないですか?

148名無しの神学さん:2012/03/16(金) 16:28:53
>>147さん そうだよ。

だから、「みしんじゃーと結婚することは”姦淫の罪”である!」
などと教える教団はきちがいじみている。教団名はいわないけど。
それを言うなら、福音派が大好きなギデオン協会。
その会長を勤められた鈴木常吉兄は、結婚したときクリスチャンでは
なかった。奥さんがクリスチャンなので誘われて入信した。

ギデオン協会会長になるほどの人の奥さんにも、
「みしんじゃーと結婚して姦淫の罪を犯した!」
とでもいうのか知らん?B●Fはきちがいじみている。

”みしんじゃー”と結婚して、夫をギデオン協会会長にまで
なさしめた奥さんが優れたクリスチャンというだろうけど、
入信させることが必ずしも良いこととは限らないわな。
神のみぞ知る・・・・・

149名無しの神学さん:2012/03/16(金) 23:34:38
鈴木常吉 ⇒ 鈴木留蔵 の間違い。
ギデオン協会会長を務めた人です。
結婚したときはクリスチャンではなかった。
彼の奥さんがもしBBFだったら、アホの牧師は
「みしんじゃーと結婚するなど姦淫の罪だ!けしからん!」
と言ったことになる。ギデオン協会会長は誕生していない。
ゆえに、BBFの牧師の言うことがいかに矛盾だらけかわかる。
BBFの牧師は信徒を支配したいだけ。ケツの穴が小さい。

150名無しの神学さん:2017/05/27(土) 12:52:54
性なるかな 性なるかな 性なるかな アホ卜し
昔、8○3今、卜し
永遠に騙す主を騙り

     ■■■■■
   ■       ■ヽ、ヽ
   |ii \,, ,,/ ii  ♪ コソコソ 一人で 掲示板覗いてぇー
   | _\  ./_ |    〜♪怒りを 募らせるぅー♪そして〜 (オモテでは)おぉーっ、感謝しまーす あ〜晴れるやー 
   ___   ||  ___〉   ___〉           
   | |   ● ●   | 〜♪ そんな 卜しにぃー 
    \   Д.  /  |    ♪ そんな 卜しにぃー なってしまいました〜 
   _/       \    ♪(でも内心は)おぉーっ、悔しいー、あ〜、悔しいー、今に見ていろ〜糞どもが〜
  / ̄  (:::::)   ̄\
/  ■炭,-| |、.■炭   ヽ  ♪サタンが従順なオレさま卜しを攻撃してるだけさー
 | ィ ■  / ,ミ).■゜  r |  
|  \/ /    ´´| |     ♪♪瓜学歴を賛美せよ  逆らう者は8○3を使って口封じ〜
 \    _/      .| |       ♪♪(リピート)
   | ̄ ̄        ノ |
   /\_____/|v、、)
   |.    ■■    | ' ̄
   |   ヽミ■■ミノ |   ←生霊の盾(○ール入り)?? ? ? ? ? ? 禁ちゃん
   ト,.  ■■■■■ |   
   |    ノ  .i

151名無しの神学さん:2018/02/24(土) 15:59:42
作詞:聖イエス会教祖様

時の流れははやく 終末は迫り
しののめが近いと みな告げしめす
神の期待に われらは こたえん。

メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。


十字架の旗のもと 決意も新たに
いのちにはいのちを 愛には愛を
心燃えたち われらは こたえん。

メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。


新しいエルサレム ゴールをめざして
ハシッドの召命 神化の道を
ただひとすじに われらは こたえん。

メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。


神のビジョンを見つめ 聖霊に燃えて
新しい歴史と 輝く未来
メシヤの世紀 われらは 開かん。

メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。


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