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「未信者とつりあわぬくびきにつけてはならない」の意味は?

51タチバナ@灰羽連盟:2004/03/12(金) 12:49
>>45
>信仰というのはまず体験があって、それを言葉に変換した時に神学というものになると思います。
>正教では明文化した神学をほとんど持たないそうですが、それは信仰は体験だから、ということを聞きました。

「正教では明文化した神学をほとんど持たない」!!?
一度希臘教父集がどれくらいの規模あるのかお調べになってみてはいかがでしょう?
西方のアクィナスに対して東方にはパラマスという大神学者がおられる。
現在でも多くの正教神学者がいるのですが、彼らは論文も書かずに日がないちにち祈っているんでせうか。なんのための神学者なんだか。

「信仰は体験」と決めつけているところはプロテスタント的なバイアスかと思われます。
岩下壮一先生が幾度も指摘していたことですが、元来信仰の対象は十分客観的なものであって、それゆえにこそcredoは作成されうるのです。
近代哲学の主観主義の影響もあってプロテスタントはだんだん信仰の客観性を没却していきます。その頂点は、それこそ「論理以前の宗教感情」(爆笑)を信仰の根底においたシュライエルマッハーでしょう。

52シジミ蝶:2004/03/12(金) 14:58
>>51

>>近代哲学の主観主義の影響もあってプロテスタントはだんだん信仰の客観性を没却して
>>いきます。その頂点は、それこそ「論理以前の宗教感情」(爆笑)を信仰の根底に
>>おいたシュライエルマッハーでしょう。

ガチガチプロテスタントのシジミ蝶でございます。
いそがしいと、もう、学べないのかなと諦めがちになるんですが、
近代哲学の主観主義が信仰の客観性に与えた影響については、
学んでみたいなとおもいました。タチバナさんの書き込みを読んで。
指摘がシャープで、課題がくっきりと、あぶりだされて、助かります。

53アイ:2004/03/12(金) 15:49
タチバナさま
>「信仰は体験」と決めつけているところは
>プロテスタント的なバイアスかと思われます。
私に関する限りこれは全然違いますね。プロテスタントの時はこういう事を思ったことはありませんでしたよ。
むしろカトリックや正教を知ってからの方がこういう考えになりました。

正教に関する知識は今のところ名古屋教会のホームページと、前にも書いた高橋保行著『ギリシャ正教』だけなのですが、じゃ、やっぱりこれに関しても違うのかな?それとも私の読みが足りないのか。
こんなことが書いてありましたよ。

「ギリシャ正教の信仰は現実の信仰体験を前提としている。これは数多くいる思想家たちの仲でも、特別に神学者という称号を与えられている福音記者聖使途ヨハネ、ナジアンザス、聖グレゴリイ、新神学者シメオンといった人たちが、信仰を哲学的な言葉で体系化する代わりに、聖書をもとに体験的な言葉で詩的に表現し、信仰の論理を明快にうちたてている代わりに、聖書をもとに体験的な言葉で詩的に表現し、信仰の論理を明快にうちたてているところからもわかる。
ギリシャ正教の神学者とは・・・キリスト教文化の人間像をとる者であり、必ずしもその体験を論文にして表明できなくても良いのである。
ギリシャ正教の思想家の中でだれも神学大全を書こうと試みなかったのは、思想というものを知的な領域に限定した時、現実の信仰体験も同時に限定されてしまうという弱さを、ギリシャ哲学という遺産の中から聖師父たちが十分学んでいたからである。」

>彼らは論文も書かずに日がないちにち祈っているんでせうか。
>なんのための神学者なんだか

タチバナさまのお言葉ですが、上の文章からは論文などはあまり書かなかったように受け取れたのですが。
聖歌、イコン、教会規則、主教の書簡、それらが、そのまま神学だということが書いてありましたよ。

もひとつ、今日本屋さんで立ち読みした「イコンの心」という本にも、(著者忘れてしまいました)似たような事が書かれてありました。
信仰を理屈で考えない、非常に感覚的だということが。実際どうなのでしょうね?
そういえば、昨日ある神父様にも、信仰は知識じゃないって言われたんですよ。だから、信仰は体験なんだな、って思ったんですよ。





正教に関する知識は名古屋教会のホームページと

54アイ:2004/03/12(金) 15:56
あ、ごめんなさい、引用文変ですね。
「信仰の論理を明快にうちたてている代わりに」は間違いです。
「信仰を哲学的な言葉で体系化する代わりに、聖書をもとに体験的な言葉で詩的に表現し、信仰の論理を明快にうちたてているところからもわかる」

明文化していないわけじゃなくて、体系化していない、ということか。

55タチバナ@灰羽連盟:2004/03/12(金) 16:58
>>52
シジミ蝶さま、
プロテスタント思想に対する近代主観哲学の影響については、岩下壮一先生の著作を読むのが早道です。「カトリックの信仰」という本が講談社学術文庫から出てます。まだ売ってるかな?
もうすこしいうと、実際にはすでに後期スコラ哲学が主観化への道をたどっていたという見解ですね。いわゆる唯名論の出現。そこからルターまではあと一歩ということ。
岩波書店から「中世哲学研究」だったかな?そういうタイトルで出てます。古い版なので私の手元にはないです。図書館で借りて読みました。

>>53>>54
アイさま、
正教にもアクィナス並の体系化とまではいわずとも、単なる詩的言語表現だけでなしに書いたひとだっていくらでもいますよ。というか初期のキリスト教では東方の希臘教父の方が勢力が強く、それはそのまま正教の遺産にもなってるんですから。
もう少し広い眼で見た方がよいのでは? chiaraさまも言われている通り、図式化に陥って短絡的に正教はこうだと決めつけても仕方がないかと。
だいたい、論理や知性が軽視されていたとしたら、なんでローマと「フィリオクエ」ひとつで分裂するんです? 東方の神学者もじゅうぶんにポレミカルだからではないんですか?

56タチバナ@灰羽連盟:2004/03/12(金) 17:02
>>53
しかし、引用文だけから察するに高橋某はえらい思い入れの強い文章を書いてますね。桑原桑原・・
ロスキーも読んだ方がいいんでは?

57アイ:2004/03/12(金) 17:08
前述の高橋氏の「ギリシャ正教」、なんと言いますか、ものすごい自信で、おもしろいです。
「日本人のキリスト教理解は、西のキリスト教が中世以来提出している神の概念と神学によっているので、キリスト教本来の姿について必ずしも正確ではない」
のだそうです。
「ギリシャ正教の大思想家たちは信仰体験がなくては神学的表明はできないとし、私的なレベルにおける神学論議を机上の空論、思考遊戯とし、知的空想の領域を出ないものと考えていた。」
「神について知的に学ぶのが西のキリスト教の神学なら、キリスト教文化の中に生きて、神を体験的に身をもって学ぶのが東のキリスト教の神学といえる。」
この著者、原理主義的というお話もありましたから、どこまで信じて良いものかと思いますが、ただ、他のHPなどを読んでも確かにこのような感じは窺えますね。
これがホントなら、理論的思考に弱くて感覚ばっかりの私にはちょっと嬉しい光かもです。

58アイ:2004/03/12(金) 17:18
タチバナさま
>引用文だけから察するに高橋某はえらい思い入れの強い文章を書いてますね。桑原桑原・・
あははは、そうですね、私も読めば読むほどに、西への対抗意識を感じます。
東の思想家たちは西の哲学者など足元にも及ばないって言ってますもの(笑)
ま、信仰は体験だって言われてるのだし、土台この本だけでギリシャ正教を決め付けることはできませんね。
とはいえ、私一個人の感想としては、こういうものが書かれているんだーへーへーという感じです。
けど、違う著者の本も読んでみませう。

59アイ:2004/03/12(金) 17:27
タチバナさま
>だいたい、論理や知性が軽視されていたとしたら、なんでローマと「フィリオクエ」ひとつで分裂するんです? 
>東方の神学者もじゅうぶんにポレミカルだからではないんですか?

論理や知性が軽視されていたというのではないそうですよ。ただ、あえて体系化しなかったのだと書いてありました。信仰が合理主義の影響で変質してしまうことを師父たちが知っていたからだと。
それから、神学論争に関しては、常に受身なのだそうです。他の思想と対抗する時に自分の立場を表明した結果成文化したのだと。でも、それはドグマティックなものが生じたわけではない、のだそうですよー。
どこまでもすごい勢いでしょう?

60タチバナ@灰羽連盟:2004/03/12(金) 17:28
さて、「汎神論」を「岩波 仏教辞典(第1版)」で引きますと、次のようにあります。

世界の一切の存在者をそのまま神とみる思想上の立場。近代に入って<神>の概念をめぐる論争の中から生まれた用語で、一般に神の超越性を強調するキリスト教の側からは、非難の意味で用いられることが多い。
(引用者註・それゆえ、異教一般をpantheismと呼ぶ場合もある)

重要なのは後半部。

・・・
仏教は超越的な神を立てず、「一切衆生悉有仏性」[涅槃経]を説くから、しばしば汎神論として特徴づけられてきた。これは誤りとは言い切れないが、語の原義にてらして、そうした解釈には慎重を要する。

残念ながら文責は書かれていない。しかし仏教の立場から仏教を「汎神論」呼ばわりすることに「慎重を要する」としていることは非常に興味深いし、重い事実といえよう。

デムパくんは如来蔵思想を持ち出してきているが、これは上にも引かれているように「一切衆生悉有仏性」(すべてのいきとしいけるものは仏となる本性をもつ)ということで、キリスト教的には救済論的文脈から出てきた発想である。もちろん無生物には適用されないから、それだけでも、万物即神であるところの「汎神論」とはいえない。
この思想が日本で「山川草木悉有仏性」といった天台本覚思想として「展開」された、というのは肯定的な立場からの見方で、袴谷憲昭・松本史朗などは、日本の土着思想への還元・吸収と見ている。
袴谷・松本はいささか先鋭的かも知れないが、「岩波 仏教辞典」の「本覚思想」の項でも、

本覚思想は仏教哲理の究極的なものとして価値高いといえるが、迷いの凡夫までを肯定するに至った点は、仏教の一線を逸脱するものであり、そこには現実肯定の日本思想が関係していると思われる。

と、近年の批判的研究を踏まえた叙述になっている。
如来蔵思想だの本覚思想だのをうれしそうに持ち上げるひとはそうとう「うさんくさい」と言える。

61タチバナ@灰羽連盟:2004/03/12(金) 17:48
>>60のつづき。

これに対して「岩波 キリスト教辞典」の方は・・なんともしどい。

「宇宙と神とを同一視し、それゆえ神の人格性、道徳性、超越性を認めない宗教的信念や哲学説。」

まあ、ここまでは「仏教辞典」より明快な定義といえます。しかし、ここからがすごい。

「・・・その基本的発想は古代からヒンドゥー教やストア派に、また日本の自然主義的伝統にも見られる。」

「基本的発想は」・・「見られる」て、なにが言いたいのかさっぱりわからん。対象を羅列して、よくもこんな曖昧な書き方が出来るもんだ。「基本的発想」とは具体的に何を指すのか?「見られる」とは実際にそうで<ある>という意味なのか、それとも見ようとすればそう「見える」ということなのか? それによって随分内容は変わる。
「日本の自然主義的伝統」てのもなんだかな。神道? だったらそう書くはず。この執筆者も汎神論とアニミズムを混同しているらしい。とほほでやんす。
つづきはこうある。

「キリスト教圏ではディオニュシオス・アレアパギテス、エリウゲナ、エックハルト、クザーヌス、ベーメなど、自然のうちに神を求めて合一を希求し、安易な概念化を拒否する神秘主義は、しばしば汎神論と境界を接する。」

キター!!
最後の「境界を接する」という言葉に注目。なんじゃこりゃ。「汎神論」者でありながらかつ「神秘主義」者であるひとがいるつうことか?それとも「汎神論」と「神秘主義」はどっかで通底しているってことか?
こうやって羅列された固有名について多くの人間はよく知っていないのだから、こんな曖昧模糊とした書き方では、おそらく読者の中には、「要するに汎神論と神秘主義はいっしょなのだ」と誤解するやつも出てこよう。

辞典にして、こういういいかげんな記述があるから、デムパくんみたいなとんちんかんな理解も生まれるのだろう。
ただし、この辞典、「万有内在神論」は「汎神論」ときっちり区別して書いている(「仏教辞典」は混同している)。これは見識といえる。

62タチバナ@灰羽連盟:2004/03/12(金) 17:58
アイさま、
まあ、私は高橋さんのその本は読んでないので、あまり先走ったことは言わんことにします。
ただ、それで思い出したのが、今日の読売新聞で池内恵さんというイスラム研究者の本が紹介されているんですが、そのインタビューで著者が次のように言っているのです。

「専門家が特権的な立場に立ち、日本人のイスラムへの無知を指摘して終わる論考が目立つ。しかも彼らの言うイスラム世界がしばしば仮構で、現実とは違っている」

「イスラム」を「ギリシャ正教」に変えても通じそうです。
思い入れの激しさは対象に対する客観性をゆがめます。高橋氏が何を言ってるにせよ、かつての神学者のごとき生活をしているわけではなく、所詮文献を読み漁って書いているに過ぎないわけでしょう?

63アイ:2004/03/12(金) 18:26
タチバナさま
汎神論、頭のいいー学者さんが書いたはずの辞典でさえそうなのですから、私なんかにわかろうはずがない!(・・と、変に安心したりして)
つまりは、もともとの意味はもうどっか行っちゃって、正しい意味で使っている人は稀なのかな。

それから、高橋氏の著書のことなんですが、タチバナさまのおっしゃる通り、高橋氏の著作が東方教会の全てではないですよね。
ただ、調べてみたら、東方教会についての著書ってそんなに多くはなくて、日本人で書いているのは本の数人。その中でも高橋氏は最も多いのですね。
それに、客観性もなにも司祭様なのです。もし、正教会に入ったらこの方に教えを請うかもしれません。本来の正教かどうかということより、日本の正教の温度、もしくは一つの側面として捉えても良いかもとは思います。
でも、私、決して嫌いじゃないですよ。少なくとも今までの私に欠けていたものがここにはあるような気がしますし。
とはいえ、私も、正教についてはもう少し「経験」してから言及するつもりです。
私も所詮文献を読んでいるだけですからね。

64chiara:2004/03/12(金) 18:47
タチバナ様
高橋師は神父で、のんびりした日本正教会の中で、アメリカで神学教育を受けてきたという
正教会の大切な宝ですぞ。少々自信過剰で西方に関することを言う時はトンデモなことを言うこともありますが(^^;
正教会の説明に関する限りは学ぶべきところの多い方です。

ことにアイさんが挙げてくれた、
>ギリシャ正教の思想家の中でだれも神学大全を書こうと試みなかったのは、思想というものを知的な領域に限定した時、
現実の信仰体験も同時に限定されてしまうという弱さを、
ギリシャ哲学という遺産の中から聖師父たちが十分学んでいたからである。

という指摘には重要な要素があります。神学大全が引き合いに出されるように、
あれをして「マニュアル化してる」と批判している神父もカトリックにいますしね。
その後の神秘神学の流れもマニュアル化してますし。十字架の聖ヨハネとか、ロヨラとか。
西方中世の神学に比べて限定された閉塞感を感じるのは?橋師だけではない。

・・・というか高橋氏の言葉そのままの批判をカトリック内部でよく聞くし、
同時に彼が自負する「東方の個性」もカトリックにはあるわけなんだが、
↓こういうのとか
>神について知的に学ぶのが西のキリスト教の神学なら、キリスト教文化の中に生きて、
神を体験的に身をもって学ぶのが東のキリスト教の神学といえる。

なにもこういう態度は東方の特権ではないんだけどね。西方とひと括りにしている時点で激しく痛い。
カトリックのみならず、上記の姿勢の西方教会は多いのにね。
が、少なくとも表象的にみれば、例えばカトリックにも?橋師が批判するような有様は存在するわけで。
外れていないわけではないですね。

ま。それはさておき、?橋師が主張する、言論化されない論理性こそまさに大切だと思うので、
実はこの鼻息の荒さと、西方に対する勘違い以外の、信仰や祈りに関する事柄などは
?橋師の主張には同意いたします。
とにかく正教会のもつぜい弱性が彼の西方へ向ける視点に現れてしまっているのは事実で。
外に向かおうとしない東方が、(だからこそ守られ続けた大切なものがあるわけだが)
ひとたび外と接するとこうなってしまうという・・・・。

65chiara:2004/03/12(金) 18:57
むぅ。後半から旧字体で書いていたらしく、高橋師の名前が?マークになっちゃった。
近代神学に対する批判なら高橋師ののいうことは、当たりと言うか、
もっと言ってやれと思うことしきり。(しかしだ、そうではない霊性も沢山あるんですが〜〜。
・・・・とは、いいたいですけどね。苦笑)
ともあれ、西方では反省しなければならない要素が彼の指摘にはあるわけで。
ローマ辺りではそういう動きがもう既にあったりするわけですが、
日本のカトリックには高橋師にカツを入れてやって欲しいものです。

66アイ:2004/03/12(金) 19:27
chiaraさま、
高橋氏はアメリカで神学教育を受けられたのですね。だったら、なおのこと西方教会のイメージが、アメリカで勢力の大きい福音派のそれだったかもしれませんね。

67chiara:2004/03/12(金) 19:50
アイ様
いやいや。リベラルなカトリックとか、自由主神学なシカゴとかプリンストンとかも・・・。
福音派より、そういう世俗的なものに引っ張られ、神秘を忘れてしまったかのような
西方のキリスト教全般の神学傾向を指して批判していると思うのですね。
なーんせ、新カトリック大辞典からして、倫理神学に割かれている項目多過ぎ。
アイさんが高橋師の言葉に魅かれるのは当然です。

読む時の注意点は、正教会の姿勢そのものにおいてはまさしく彼の言うことは正しいのですが、
西方に対する姿勢において日本正教会の中では珍しく鼻息が荒いという点で正教会の司祭は本来は
ああいうふうでない、もっととても穏やかなのだ。と、念頭に置かれたほうがいいかもです。
(ただし、自負心と本音においては共通する意識は実はあるかも。)
ああいう鼻息荒いのはどっちかというと西方の特徴といえなくもない辺りで自己撞着起こしてる
伊予庵神父であった。。。

68chiara:2004/03/12(金) 20:15
アイ様
参考までに、友人が目撃した正教会の光景・・・・
普段信者は少ない。主日の礼儀にあまり来ない。何故なら聖体礼儀が異常に長いから。
檀家制度をとっていたので、なんちゃって信者が多く、その光景は仏教のごとし。
・・・というわけで年に一度の復活大祭に来る信者は式文をまったく忘れている。
いわゆるカトリックでいうところの「ミサ応え」に答えられない。
流石にたまり兼ねた神父が「皆さん答えてください〜〜〜」と式中に懇願したそうな。

あと、激しく長い祭儀中、信者はウロウロと勝手に聖堂内を動き回っている
イコンに祈るもの、話をこそこそするもの、勝手に出入りしているもの。
西方の教会一般にはみられないかような不真面目さ?に驚くわけですが、これこそまさに
正教会が育んできたもっとも大切な雰囲気であると思うのです。カトリックも以前はこうだったんで、
ヨーロッパに行くと未だに同じ光景に出くわします(^^;

69アイ:2004/03/12(金) 20:38
chiaraさま ありがとうございます
>>66は、ちょっち憶測でものを言ってしまいました。

でも、おもしろですね。鼻息荒いのはどっちかというと西方の特徴、ということですが、今通っている講座の神父様は、いつも「信仰は知識じゃないから」とおっしゃって、神学的な話より、マザー・テレサと親交が深かったこともあって、愛の実践の方に重きがありますし、
他宗教との関わりという実際面でのお話もありましたけど、本当に他宗教への批判がないんですよ。もう、すごく謙虚なのですね。
ただ、これがカトリックかというと、古手の信徒さんからは他の教会は違うわよーなんて声もありました。自分にとっては今出会う人、今置かれた場所が全てですものね。そして、いかに出会いの場を提供してくれているかが大事になってきますね。
そういう意味では高橋師は正教では珍しく鼻息が荒い(笑)かもしれないけれど、著書も多く出されているので、対外的には沈黙している多くの司祭様方より影響大かもしれませんね。

70アイ:2004/03/12(金) 20:42
>>68chiaraさま
うわ、そうなんですかー。それこそ行ってみなくちゃわかりませんね!

710990:2004/03/12(金) 21:05
 福音派は、カトリックと交流ありました。教派を超えて、福音伝道の熱は熱い。
ひとつ・・・不適正かも。ミシンじゃとつりあわぬくびきとは、未信者と交際は、ダメとのこと。
鵜呑みにして、ミシンじゃを避けバカにしていると、伝道はできない。これは私的解釈では?と他の聖書箇所を示し意義申し立てすると、やはり言ってはいうもの。
 指導者に意見することは、カルト化防止のためによい。

72へっぽこ@唖然!:2004/03/12(金) 22:16
ものすごいスレになってしまいましたね...
もうスレのタイトル、変えちゃいたいぐらいです。

>>あと、激しく長い祭儀中、信者はウロウロと勝手に聖堂内を動き回っている
これを神父さまは、「聖公会なんかに比べて、”お行儀が悪い”」と
表現されていました。

730990:2004/03/12(金) 22:22
 私個人としては、マナー違反と思う。福音派はカトの伝統をそのまま引き継いでる点も多い。
いまどきの羊たちお行儀悪いですね。いまどきの若い牧師先生も。神学生も。・・・若手の長老と揶揄されてます。

74chiara:2004/03/12(金) 22:45
へっぽこ様
マナーをことさらいう体質自体があまり宗教的な本質とはかけ離れているんでは?
むしろ荘厳な気持ちに自ずとなるような典礼を構築していくことが大切で、
正教会の典礼にはそういう要素があることに着目したほうがいいでしょう。
とはいえ。。。神父にとってはむ〜〜〜っとなる光景でしょうね。
アイ様
系統だった正教に関する知識は高橋師の著作は最適だと思います。
ですが、言葉にならない雰囲気に関しては、やはり足を運ばれたほうがいいでしょうね。
出会ったところで得た贈り物はそれは神様の贈り物ですから、
それを胸に、また違う贈り物を得にいかれるのもいいかもなのです。

しかし・・・うちの神父は「ロザリオのし方をしらない」「マリアには興味ない」
などと言い放つのから、マリア崇敬に関してちゃんと教えてくれる実はかなり保守なのまで
もうなんでもありなんで。。。。かなり特殊かも(^^;

75chiara:2004/03/12(金) 22:51
0990様
わたくしが礼拝にお邪魔させていただいた教団の礼拝光景は、非常に行儀がよかったです。
みな真剣に牧師先生の言葉を聞いていました。すごい長い説教だったのに。
うちなど、神父の説教の時なんか寝てるのとかいますし(^^;
50分を超える説教などとても耐えられない行儀のほどです。
実は私も神父の説教が10分超えるともう集中力が無くなります。

76へっぽこ@いえいえ:2004/03/12(金) 22:53
>>とはいえ。。。神父にとってはむ〜〜〜っとなる光景でしょうね。
chiaraさま
いえいえ、神父はむ〜〜〜っとはしておられないですよ。
そういう「活動的な」礼拝だと言う事を、「謙遜」して
言われたというニュアンスでした。いつもニコニコしている方ですから。

770990:2004/03/12(金) 23:03
 私の意見は、神様の前にでているのだから礼拝堂内では、帽子をぬぐ。服装も適正な良識の範囲でという。
適正な範囲では、形式も問われる。服装、態度の著しい乱れは、霊的乱れと古臭いことを言う0990です。
 私の場合は、牧師が若い改革的教会なのでこういう保守な人はブレーキ役で必要?

78サエキ:2004/03/12(金) 23:27
〉〉55
師匠、岩下師の件の本は絶版です。僕も取り寄せようと思ったけど、すでに在庫がなく、刷る予定も無いそうです。
古本屋しかないな。あとは。
高校生の時、一度これを本屋で見たんだよな。あん時は「自殺について」を買っちゃったけど、あ〜、あん時買えばよかった!
ちなみに、女房の実家に遊びに行ったついでに弘前天主堂に行った時、信徒会館にあったな。あ〜、パクっときゃよかった、いや、もとい、長期に渡り借りておけば良かった。

79パンプキン:2004/03/13(土) 02:58
>アイさま

ひえ〜、レスを書こうと暇を見てオフ書きしていたら、
もうこんなに長くなってる〜(^^;;浦島太郎ですんません。
一気に読もうとしたら、難しくてめまいが・・・。
汎神論関係からはとりあえず脱落です(^^;(後々じっくり考えてみます)

いや〜「或る女」、最初葉子は「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラそっくりだ〜と思ったけど、
後半悲惨ですね〜。スカーレットも悲惨になるけど、でも最後は不滅の魂で立ち上がるしね。

>キリスト教への反感満載なのに、最後の最後で葉子は、こんな生き方をするんじゃなかった、内田に会いたい

そうなんですよね。キリスト教への反感満載な割には、結局「こういう生き方をすると、こんな最後が待って
いる」みたいな教訓を読者に印象づける効果があるなと思いますね。
有島武郎は泣きながらこの最後を書いたとか、有島武郎自身が情死したとか、そういう背景知識がなかったら、
人としての道を説教するために書いたのではないかと誤解してしまいそうなくらいですね。
(アイさまとはずいぶん感想が違いますけど)
葉子の苦しみは、有島武郎自身の苦しみでもあったわけかあ。
スカーレットは女性が作者だけど、この本を男性が書いたという事実に驚嘆してしまいます。
小説家って並の人生を送っていたんじゃ勤まらない職業ですね(^^;あるいは村上春樹みたいに小説世界
とは全く逆のストイックな生活を送るとか。

三浦綾子さんはお嫌いですか?三浦綾子さんの小説には悪女も出てくるし人間離れした善意も出てくる
のだけど、確かに悪女を描いた方がうまいと言われてますね。人間てそっちにリアルなものを感じられる
からだろうか?(笑)
でも、自伝「道ありき」とか読むと、「事実は小説よりも奇なり」で、小説にしたらもう「嘘っぽく
てキャラとしては失敗」と言われそうな人物が、実在するところがすごいです。三浦綾子さん自身が、
こういう人生を生きてきたからこそ、まあ、氷点もあんな最後なのかもしれませんね。(ちょっと
氷点のラストは印象に残ってなくて記憶にないのですが(^^;)ダンナさんの三浦さんの方は、40間近
の、寝たきりの病人の綾子さんを、妻と選んだんですしねえ。三浦綾子さんの作品の中では、自伝が
一番好きだったりします。

(あと、「ひつじが丘」。これこそ、「つりあわぬくびき」のテーマですよね。
独身のとき読んで、嫁にいくときは絶対もっていこうと決めていた、笑)

80パンプキン:2004/03/13(土) 02:59
つづきです(^^;

>心の距離が近すぎる人とはしんどくて生活できないかも

うーむ、私は社会人になる前父親との二人暮しが長かったので、父親が会社に行って
お給料もらってきて、私はそのお金でおさんどんなどをして、向かいあってご飯などを
食べていると、なんとなく擬似夫婦のようでもあり(笑)「結婚生活って、この前に座っ
ている人が、ただ別の男の人にすりかわるだけのものなのだろうか?」とか考えたこと
ありました。
「父親と、夫との違いとは、なんだろう」なんていう妙な命題を、真剣に考えていたり
したのであります。
そのとき出した答えは、「心の距離の近さ」だったんですけどね。
父親は丸くなってからは優しい人なんだけど心の距離が遠すぎてただの同居人同士と
いう感じだったし、心通じ合うこともあまりなかったけど、これは父親は自分で選んだ
相手ではないからしょうがない。しかし結婚相手は自分で選べるんだからね。と未来の
家庭に希望をつないでいました。
しかしまあ、今になってよく考えると、ダンナってうちの父親そっくりだ。やっぱり
似た人を選んでしまうのか〜。(笑)

宗教に入る人は自虐的傾向が強いっていうのは私の勝手な推測ですけど、まあ、
生き方の理想を真面目に持ち、それに反する自分の内面を見つめていて、それに
煩悶していることが、宗教に入る条件といえば条件のようなものですしね。

長くなっちゃったので、マリアさまの取り扱いについては、マリアさんスレッド
に書きますね。

81パンプキン:2004/03/13(土) 03:04
そうそう、
>人間が神に善なるものとして創造されたことを強調する。人間はまず神のイメージに
作られたのである。堕落は、人間存在の前提ではない。

これはうちの教会でもそうですよ。というか、聖書にそう書いてありますし、
本来キリスト教は性善説のはずでは。

カトリックのワルトルタさんの本にも
(引用はじめ(イエスさまのセリフ)

私が来たのは人間を天使にするためです。
人間は創造の世界で最も完全なものでした。天使のような霊を持ち、動物的また道徳的に
完成された美しさを持っていました。・・
私はサタンの醜悪さを消し、汚された肉体の飢えをいやし、
人間に翼を返し、天の国に入れる王の位に戻したい。人間が望むならば、それができます。
(引用終わり)
とありますしね。

82名無しの神学さん:2004/03/13(土) 12:26
>>78
サエキさま、
あ、絶版でしたか。あれ良書だと思うんだけどね、カトリックについて知りたいひとには。古い本だけど、内容は充実してるし。

それにしてもなんだかごった煮のようなスレに・・(笑

83タチバナ@灰羽連盟:2004/03/13(土) 12:26
あ、>>82はわたしです。

84名無しの神学さん:2004/03/13(土) 13:58
アイさん

汎神論は出てきた契機からすると、きちんとした理論ではありません。
きちんとした理論というのは、タチバナさんの根拠不明の解釈です。
理神論を主張していた人が1705年に、パンセイストと名のったのがはじまりです。
その後、一般的にはスピノザが汎神論の代表とされますが、タチバナさんの解釈とは違い、
スピノザ自身は一神教と直接対決しなかったギリシアの哲学者と自分の主張はいっしょと
考えていました。彼の解釈だとスピノザは曖昧な感覚を持っていたことになります。

聖霊と精霊は信仰者からすると別と言うのは理解できますが、
ある視点から切取、解釈するという言い方は可能です。
「霊思想」という共通点はあるからです。
一つだけ絶対的に正しい見方があるのではなく、視点を変えればいろいろに見えるという
ことも世の中にはあるかもです。

85名無しの神学さん:2004/03/13(土) 13:59
タチバナ@灰羽連盟さん

あのね、あなたは「如来蔵批判」を読んでないねぇ汗。
あるいは読めてないねぇ汗。
批判していると言ったって、彼が「どこを」、「何と」批判しているのか理解しなくてはね。
君の論理展開の特徴はテキストを無視しての発言だね。何とでも言えるから便利だとうらやましくはあります。

ちなみに松本さんの著作は「縁起と空」が主題で「如来蔵思想批判」は副題です。
彼は「如来蔵思想が仏教ではない」と彼の仏教理解の立場から批判しています。「如来蔵思想」がどんな構造であるか分析しているが、如来蔵思想は論理的ではないと批判しているわけではない。如来蔵思想が日本仏教の主流と松本さんは理解していて、擁護派の津田さんとのやりとりを見れば、如来蔵思想が論理的であることは自明だ。まあそれはともかく・・・。
例えば「仏教と神祇」p103をご覧。
川端康成のノーベル賞受賞記念講演を取り上げて、「美しい日本の自然を賛美し、自然への没入・自然との合一に日本精神の独自性を認めようとする主張は戦前にも認められたものであるが、仏教との関わりあいでいえば、これは梅原氏の礼賛する「山川草木悉皆成仏」という主張あるいは思想背景と考えられる日本天台本覚法門を大乗仏教の思想的発展の極地と考える通念と密接に関わってきたことは言うまでもない」
如来蔵思想に対する見方は、先の私のカキコは当然松本さんの著作も踏まえている。
読んでいたらきづくはずだ。
彼によれば如来蔵思想は実在論ということになります。「唯一の実在を器体として万物が発生することをする主張」だから根源的実在論ともいえる概念規定されている。批判者松本さんからしても論理的な「論」という主張なわけです。
そして彼は如来蔵が仏教ではなく、釈尊が批判した「梵我一如」思想、あるいはウパニシャッド哲学だと言われているわけです。なのであなたの21「汎神論は基本的には唯一神教からの派生概念ですから(のちにバラモン哲学などにも適用されているが)、厳密な意味での「神」の観念なしには出てきません」のうちのバラモン哲学が汎神論ならば、松本さんの言う如来蔵も汎神論と言いえます。
後にと言うのが事実に即していないのはスピノザ自神が多神教のギリシア哲学者と私はいっしょだと言っていることからもしれるので、世間が汎神論を曖昧に理解しているのではなく、実はタチバナさんの解釈がとても「特殊」であることがわかります。
ちなみに松本さんの批判は、一つの信仰が他の信仰を取り込み一体化することを批判している。古い信仰とは決別しなくてはならないと。日本仏教の主流は、古い神々や自然までを取り込み渾然一体していると批判し、古い信仰と決別するべきだと主張している。「絶対者(神または仏)だけを愛すべきこと」が仏教の無我説の教示の一つだと主張されているわけです。

どちらかというと、21の「そういう哲学的に昇華されたものは少数派であって、日本の精神的風土の大半は、アニミズムの上に多神教の層がのっかっているのが実状なのではないでしょうか。」という見解は、学者に相手にされる松本さんの「如来蔵思想批判」よりも、同じ駒沢の袴谷さんの「本覚思想批判」p21が「山川草木悉皆成仏」を「アニミズム」と論証することなしに決め付け、「本覚思想」とイコールだとするのに似ていますね。
松本さんはそこまで、雑駁ではない。
密教の論理構造上が「汎神論に近い」とおっしゃって、少数派とし、それ以外は、「アニミズムの上に多神教」というふざけた立て分けは、さすがに袴谷さんでも承認することはないでしょうが(本覚思想の論理展開が密教以下だとは言えないし、松本さん袴谷さんからすると、密教も如来蔵も本覚も同様な批判対象である)、かくして「特殊な解釈」なわけです。
ですが、まあ人それぞれですから、如何様に主張されても自由です。

86名無しの神学さん:2004/03/13(土) 14:00
聖霊に関してはね、今度は私の理解が逆に一般的ではないのね。だから説明しましょう。

例えば以下はある現代の一日本人クリスチャンの「み霊理解」です。

「み霊の働きは、現在この世で始まっています。ですから、私たちの救いの完成は、<あの世で>初めて完成するのではないのです。み霊は今現在わたしたちの内だけでなく、世界の創造の中で働き続けています。私たち個人も人類も大自然も宇宙も、ことごとくこのみ霊の働きを受けつつ終末へ向かって進んでいるんです。だから、私たちがこの世にいようがあの世へ行こうが、そんなことは本質的にどうでもいいのです。現実の今の時に働くみ霊、これがすべてなんです。生きて働くみ霊に委ねて歩む。その歩みの行き着く先にあるのが終末です。」

「み霊は今現在わたしたちの内だけでなく、世界の創造の中で働き続けています」と霊は、タイラーの言う「人間以外の諸存在に宿り、動かす」精霊観と同じです。
タイラーが間違っていると言う見解はOKなのだが、タイラーがアニミズムを言い出したので、タイラー的意味で使う自由は認めて欲しいなぁ(笑)。
例えば「他力本願」は一般的には「他人任せ」という意味だが、一部で今や絶滅危惧種指定がでるのではないかと噂される念仏者たちからすると「真実の願い」とか「人々に呼びかける仏のハタラキ」というほどの意味にもなっていたりするわけで、どの理解が間違いというより立場で言葉対する思い入れも違えば、解釈も様々だ。一般的だから正しいと言えないこともある。

87名無しの神学さん:2004/03/13(土) 14:01
「そもそも阿弥陀信仰自体は親鸞の発明でもなんでもない。親鸞は一言だけでも「南無阿弥陀仏」と言えば浄土に必ず済度されると先鋭化しただけ。」
これはギャクなのだろうか、真面目な見解なのか・・・、悩ましいが。。。
ご実家が真宗とのことですね。「念仏相続」が空しく響く・・・。
「阿弥陀菩薩」って・・・・うむぅ(悩)。普通の設定では法蔵菩薩ね。無知は強い・・・。
このレベルの方にどう説明していいのか難問だが・・・。(というか私の説明なんて迷惑だろうけど汗) 
そこは、善導ね。称名念仏だけでいいのは善導。善導の師道綽は懺悔と修福を言います。

まず元々仏教の実践は「瞑想」です。
南伝の現代仏教は、「瞑想」を釈伝より釈尊の生涯に仮託して大まかに四段階と見ます。
北伝はおおまかに瞑想を止観の「止」「観」や禅定の「禅」「定」のように、二種に分けます。
中国に仏教が入った初期、三昧経典と言って、いわゆる瞑想実践法に特化した経典群です。
「止」のシャマタ、「定」や「三昧」のサマディーは、瞑想の初期段階で、心を集中さし落ち着かせるための方法論とも言えます。
このうち例えば般舟三昧経が念仏三昧の実践経典として注目され、天台の四種三昧のうちの念仏三昧はこの経典を依経としているらしいです。
念仏は元々、瞑想法としては、仏を思い浮かべることで集中する瞑想法でした。
観想念仏といいます。浄土真宗の依経の一つ、観経を瞑想実践マニュアルとして読むことも可能です。中国では善導系以外は実践マニュアルとして読みました。

先鋭化といえば、道綽が浄土門以外に実践に駄目だしをし、現代では、浄土門以外に道はないと言っていますが、つまり瞑想ではなく称名という実践でOKと「実践」の変更さしたのは善導ですね、親鸞じゃないです。
この革命的な変更を持って、法然に、「一人善導に依る」と言わしめ、親鸞に「独り善導のみが仏の本当の心を明らかにした」と語らせたわけです。
実家が真宗ならば声明で「善導独明仏正意」とお聞きされているはずです。そういう意味だったりします、はい。
「しかも浄土ってのは、悟りのための理想世界であるだけで、最終地点じゃあない。」
悟りも最終地点でなかったりするのね。歩み続けること。出発点に立つことが真宗の救いなのね。浄土というのは、言わば方向性ですね。どちらに向かって歩くのかの。
大乗はね、悟りを静止的に見ないし、ゴールともみないのね。歩み続けること、一人で自分の救いだけを求めて歩んでいたら、いつしかそのごく個人的な歩みが他人様の励みとしてのハタラキを持っていたり、共に歩もうと思える自分がいつか、そこにいたという感じね。

88名無しの神学さん:2004/03/13(土) 14:02
セム一神教の創造神の「永遠・無限」より、バラモン教のブラフマンは高度に合理的だったので、単なる唯一絶対的存在ではなく、唯一絶対の原理的存在だったので、仏教の「無限」は、この「原理」面を強調するきらいはありますね。
多神教からブラフマンという根源的一者の観念を生んだのですけど、ベーダでは、神秘的な力(キリスト教で言う聖霊と同質)から、ブラーフマナ時代に世界の根源的創造原理になり、その後人格神になったという発展を辿っていますね。仏教に入っては天の一人ですね。
その代わりに、根源的創造原理の人格化としての阿弥陀や大日や法華の釈尊ですね。

阿弥陀に修行時代があるのは、簡単に説明できます。
阿弥陀は釈尊の象徴ですからね。法蔵が王子なのも大乗は釈尊の絶対化、神格化を意図して釈尊をモデルに別の絶対的な他方仏を生み出しのですね。釈尊を下敷きにしてものを考えたのね。終に大乗は法華経で歴史的な「釈尊の死」をウソだと言い、本物の釈尊は「永遠の仏」だといいますね。天台や日蓮系の「法華の釈尊」はこの釈尊ね。
キリスト教も「セム一神教の創造神の永遠・無限」を普通の人間であったイエスと同質だと、三位一体だと言っていますから、似たようなものです。
あなたの阿弥陀を中傷する論理では、イエスの神性と唯一神の神性を同質の神性とは言えまい。(言うてもいいのだが、論理的ではない。んとね護教の論理と他教批判の論理がダブルスタンダードなのはカルトにままみられる論理です)
セム一神教の創造神の「永遠・無限性」のみが世界の他の宗教の「永遠・無限性」にまして特別だと思うこと自体が、MC(マインド・コントロール)ですね。思いたいのわかりますけどね。
あるいは公平ではないし、論理的でもないし、現代の比較宗教学が拒絶する見解でしょう。

疲れるので・・・このへんにしときましょう。
まあ、私からだと聞く耳ないだろうが、真宗には「聞不具足」という語があってね、
「俺のことじゃん」と常々思っているのだが、中途半端にしか理解してないことを言うのね。半知半解だとね、少し学んで「俺ってわかってるじゃん。偉いじゃん」とか思ってしまうわけなんだけど、学べば学ぶほどに益々知らない自分、わかっていない自分にきづく。そういう学びが理想だなと思います。
「愚者になって往生する」というか、知恵者法然さんは「愚者ときづくこと、自覚することが念仏だよ」と言っているのではないかと思っています。
ではでは。

しかし長々とごめんなさいです

89タチバナ@灰羽連盟:2004/03/13(土) 14:17
自己ルールにより名無し投稿にはレスできないので困るが、
>>85>>86>>87>>88
については率直に私の挑発にのっていただき感謝いたします。これは皮肉でもおちょくりでもなく本当です。
「如来蔵思想批判」は読んではいるが(副題だってことぐらい知ってますがな)、ずいぶん昔だしもちろんきちんと記憶してはいません。ので、おそらく名無しさんの指摘の通りなのでしょう。
一部にまだ私の書いていることを曲解し勘違いしているところもありますが、瑣末なことなのであとは読者の判断にゆだねましょう。

90タチバナ@灰羽連盟:2004/03/13(土) 14:31
と思ったが、一個だけ。

>>88
>キリスト教も「セム一神教の創造神の永遠・無限」を普通の人間であったイエスと同質だと、三位一体だと言っていますから、似たようなものです。
あなたの阿弥陀を中傷する論理では、イエスの神性と唯一神の神性を同質の神性とは言えまい。

イエスは「人間『だった』」は間違いです。「人間『である』」です。
この区別をつけなければイエスの二性一位格が崩壊しますよ。「似たようなもの」と言ってしまったらなんでもかんでもみな同じになってしまう。
で、私が「阿弥陀を中傷する」てのはなんのことやらわかりません。

91タチバナ@灰羽連盟:2004/03/13(土) 14:48
ここもよくわからんな。
>>85
>彼は「如来蔵思想が仏教ではない」と彼の仏教理解の立場から批判しています。「如来蔵思想」がどんな構造であるか分析しているが、如来蔵思想は論理的ではないと批判しているわけではない。如来蔵思想が日本仏教の主流と松本さんは理解していて、擁護派の津田さんとのやりとりを見れば、如来蔵思想が論理的であることは自明だ。

この記述は私が「如来蔵思想は論理的ではない」と言ってなければ批判になりえないはずですが、私はそんなことどこにも言ってないでしょう。
単に名無し氏が如来蔵思想は「スピノザ以上に論理的」と言ったのに対して、「別に『以上』ってことないでしょう。『以下』とは言わんが」と言っただけ。なんでこれが「如来蔵思想は論理的でない」と言ったことになるのか、不思議だ。

松本氏が如来蔵思想も「汎神論」と見なしているかどうかについては、いまのところ私には不明というしかない。というのもバラモン哲学と如来蔵思想は完全に等値されるわけではなかろうから。これはたしかに松本本を実際に読むしかなさそうです。

92タチバナ@灰羽連盟:2004/03/13(土) 15:01
>>91
つうわけで、本棚を見てみたが、袴谷憲昭氏や津田真一氏の著作はあったのに、「縁起と空」は見つからず。
引越しの際に、2度と読むことはなかろうと思って仏教関係の本はほとんど捨てたのだが、松本氏の本はちゃんと持ってきたはずなのになあ。
倉庫の方にあるかも知れないが・・なんだかとほほだ。

93タチバナ@灰羽連盟:2004/03/13(土) 16:26
>>87
>「そもそも阿弥陀信仰自体は親鸞の発明でもなんでもない。親鸞は一言だけでも「南無阿弥陀仏」と言えば浄土に必ず済度されると先鋭化しただけ。」
>これはギャクなのだろうか、真面目な見解なのか・・・、悩ましいが。。。
>ご実家が真宗とのことですね。「念仏相続」が空しく響く・・・。
>「阿弥陀菩薩」って・・・・うむぅ(悩)。普通の設定では法蔵菩薩ね。無知は強い・・・。

私の文章のどこが間違いなのでしょう。詳しい説明はうれしいのですがいくら読んでもわからない。
法然の場合はまだ称名念仏に自力の痕跡を残していたのに対し(それゆえできるだけたくさん念仏した方がいいとしていた)、それに対して親鸞は「一回だけでも」かまわんとした、というのが私の理解なんですが。
引用文でも「親鸞は称名念仏だけでいいと言った」とは一言も書いていません。
博識と丁寧な解説には敬服しますが、批判するひとの文章くらいはまともに読んでほしい。

「阿弥陀菩薩」についてですが、「菩薩」は仏道に入って修行中のものも指しますが、悟りを得たものも指しますから、「仏」と同義に使うこともあります。

「岩波 仏教辞典」でも
「・・<悟りを求める人びと><悟りをそなえた人びと>という二つの意味が考えられる。特に大乗仏教の場合は後者、すなわち自己一人の悟りを求めて修行するのではなく、悟りの真理を携えて現実の世界におり立ち、世のため人のために実践し、すすんでは悟りの真理によって現実社会の浄土化に努める者のことをいう。」
とあります。

法蔵菩薩が修行して「阿弥陀」といわれるようになったわけですから、
「また阿弥陀菩薩も以前は人間でとてつもなく長い間修行して菩薩となり、西方浄土を開いているという設定になっている」
は間違いではありません(「以前は」という措辞も入れている)。それとも「法蔵菩薩が修行して阿弥陀仏になった」と書かねば気がすみませんかね(笑
私は「菩薩」も「如来」も「仏」もほぼ同義として扱うので「阿弥陀仏」「阿弥陀菩薩」「阿弥陀如来」と時に応じて適当に使ってます。まあ、「阿弥陀菩薩」て言い方はそれこそ一般的でないのかも知れないのでこれからは注意しましょう。

私が真宗の教義について無知であるというのはたしかですが、いってもないこと言ったことにしたり、どうでもいい瑣末な部分を取り上げて批判するのはいかがなものかと思います。
ただ、私の投稿に非礼がありましたことは、ここでお詫びいたします。

94タチバナ@灰羽連盟:2004/03/13(土) 16:35
>>93
>引用文でも「親鸞は称名念仏だけでいいと言った」とは一言も書いていません。

ここはちょっと変だな。
>「親鸞が称名念仏だけでいいと言い始めた」とは・・
としておきましょう。文脈でわかるとは思うが、揚げ足取りされるのもいやですから。

95タチバナ@灰羽連盟:2004/03/13(土) 16:46
名無し氏はどうも私が「キリスト教が一番」だと考えていると思っているらしく、そこから私の発言の曲解が出てくるのだと推測される。
私はノンクリだから、キリスト教に対して特に偏った考えをしたり発言をしたりしていないつもりである。
ただ内省してみるに、あるいは「無意識に」そういう傾向がある、ということは十分にありうる。私はあまり無意識云々という見方を重視しないのだが、それはそれとして、私にそういう傾向があるとしたら改めねばならないことである。
そういう点からすると、曲解は曲解としても、ある意味で正鵠を得たところをついているのかも知れない・・などと柄にもなく反省してみた次第である。

96chiara:2004/03/13(土) 17:01
タチバナ師匠を反省モードに陥れるとは、名無し神学さんもなかなかやりますなぁ。
コテ付けてもらいたいキャラクターですね。

97タチバナ@灰羽連盟:2004/03/13(土) 18:55
>>96
たしかに匿名なので、私に侮りがありました。
袴谷氏と松本氏は道元理解をめぐって袂を分かってしまったのでほんとうはいっしょくたに出来んのです。めんどくさいので一緒にしましたが、名無し氏が両者を峻別しているのは相当な見識です。
でも文章を読む限り、クリスチャンではなさそうな感じですね。まあ、コテハンにするかどうかは本人の問題ですが、これからも板に書き込んでほしいと私も思います。

98chiara:2004/03/13(土) 19:35
知識が無いとまったく不明なやり取りなのでポカーンという感じですが、
丁度、読了した本が、近代、株式の黎明期のイングランドにおいて、南海銀行の
株式偽造事件にからむイングランド銀行と南海銀行のお偉方の駆け引きのなかで
翻弄される主人公というお話でして、その株屋や銀行屋などの駆け引きがこれまた
こわ〜い重量をかんじさせるものでして。タチバナ師匠と名無し神学さんのやりとりも
それに相当する重量でしたねぇ。
もっと続けて欲しいものでございますです。

99タチバナ@灰羽連盟:2004/03/13(土) 19:55
汎神論について私の考えが「特殊」かどうかについて書いておきましょう。

すでに紹介した
http://mb-soft.com/believe/txc/pantheis.htm
から引きます。

Pantheism is the belief that everything is divine, that God is not separate from but totally identified with the world, and that God does not possess personality or transcendence.

The word, coming from the Greek pan and theos, means "everything is God." It was coined by John Toland in 1705 to refer to philosophical systems that tend to identify God with the world.

神を世界(自然、万物)と同一視することが核心というのはわかるでしょうが、ここで神が大文字であることに注意せねばなりません。
「汎神論」はトーランドの造語ですが、ドイツ観念論やロマン主義がスピノザの理論を慣用してから一般化し、「汎神論」について書いているものはほぼそのような書き方を踏襲しているわけですから、「汎神論」をスピノザをベースにしてとらえるのは「常識」的な手続きだといえます。
だから私はスピノザの思想を汎神論の定義の中心において、あとはそこからの派生としているわけです。
そしてスピノザはユダヤ教・キリスト教が文化を制圧していた場所で著述をしているわけですから、汎神論は一神論を母体として、その対抗から誕生したというのは歴史的事実といえましょう。
どこまでその派生を認めるかですが、非難語として使われる場合は「汎神論」は異教一般にまで及びますが、それは言いすぎであり語の濫用になる、というのが私の見解。
過去の宗教や東洋に適用する場合は微妙になりますが、私は語義からいって、絶対的な完全な「神」(名称はどう呼ばれていてもよいが)の観念のない場合は「汎神論」とは呼べないと考えます。それゆえ日本の自然信仰は「汎神論」とは言えません。

100タチバナ@灰羽連盟:2004/03/13(土) 20:24
>その後、一般的にはスピノザが汎神論の代表とされますが、タチバナさんの解釈とは違い、
スピノザ自身は一神教と直接対決しなかったギリシアの哲学者と自分の主張はいっしょと
考えていました。彼の解釈だとスピノザは曖昧な感覚を持っていたことになります。

これはどう答えたらいいもんでしょう・・ロジカルレベルを混同しているのではないでしょうか。
それはおいてもスピノザが「ギリシアの哲学者と自分の主張はいっしょ」と言ったら、なんで「スピノザは曖昧な感覚を持っていたことになる」んでしょう?
遺憾ながら、全然意味がわかりません。

101タチバナ@灰羽連盟:2004/03/13(土) 21:31
>>41
>さて、広辞苑的な「汎神論」の広い使い方では、曖昧といいますか、論理的に整理されてない宗教心情を含めます。わかりやすい例はゲーテなど芸術家です。

つうことなので、広辞苑(第4版)も調べてみました(笑

「一切万有は神であり、神と世界とは同一であるとする宗教観・哲学観。
インドのウパニシャッドの思想、ギリシア思想、近代ではスピノザ・ゲーテ・シェリングなどの思想はこれに属する。」

とあります。

OEDでは

The religious belief or philosophical theory that God and the universe are identical(implyng a denial of the personality and transcendence of God);the doctrine that God is everything and everything is God.

というわけなので、どこにも「曖昧といいますか、論理的に整理されてない宗教心情を含め」てはいません。
もちろん「汎神論」と名指された思想に「曖昧」で「論理的に整理されてない宗教心情」の強調がある場合もありえますが、しかしすでに言ったとおり、それは「汎神論」の定義としては不適切です。
そんな乱暴が許されるとしたら、たとえば「汎神論者」ゲーテが「俺はハイレグずきじゃ、いひひのひ」と言っていたとすれば、名無しさんの論理によれば「汎神論」は「なんといいますか、ハイレグ好き、ということも含みます」ということになりますな(爆笑

これまで投稿で私が「汎神論」の定義から「論理的に整理されていない宗教感情」を排除したからとて、私の汎神論理解は「特殊」といえるでしょうか?
読者の判断にゆだねましょう。

102名無しの神学さん:2004/03/13(土) 21:44
わかり難かったですか ごめんね。


50ですね。「阿弥陀菩薩」という阿弥陀仏を菩薩という言い方は「中傷」ですね。(笑)
という冗談はともかく、・・・。
人間が修行して仏になった阿弥陀の「永遠・無限」と、セム一神教の創造神の「永遠・無限」(性)とを同一視してはいけないという説が、阿弥陀に対する無理解であり、中傷ね。事実に異なることを主張して「阿弥陀の名誉?(笑)」を誹謗しているので中傷ね。

半可通な理解だと「人間と隔絶した神」と「人間が成りうる仏」は別物と言い、阿弥陀も「人間がなりうる仏」だとみなすわけです。人間という設定だからね。その阿弥陀の設定ではさ、法蔵は「五劫」という時間、思索しました。「五劫」は実は…「永遠×五」だったりします(汗)。一説に、一つの宇宙がね、創造され存続され破壊されるのが「一劫」です。それを五回ほどの長時間修行したという設定ですから、ヤハウェの創造を五回ほど体験していることになります汗。ふつーの人間じゃないのです、設定では汗。阿弥陀の名誉は、この設定からすると、ヤハウェの五倍は「永遠・無限」なわけです(滝汗)。
だから、「阿弥陀」って普通に考えると私たち普通の人間と絶対的に隔絶しています。そんなに長生きできませんからね。
と言いましても設定を真面目に説明すると、ギャグにしかならならないです。ごめんなさいね。

一点は、阿弥陀に先行するインド宗教の「絶対的世界な創造原理」を踏まえて阿弥陀思想は発生しているので、セム一神教の創造神の「永遠・無限性」はさして特別でもないつーことですね。
二点目はイエスね。そうですね。正統派解釈では、「人性」と「神性」ですね。
あなたのギャグ論理「弥陀は修行するような元人間だから・・・セム一神教の創造神の「永遠・無限性」と同質ではない」なら、同論理からはイエスも「人間であるイエスがセム一神教の創造神の「永遠・無限性」と同質」とはいえないわけです。
「イエスに人性も神性もありうるなら、弥陀にも人性(法蔵)も神性(弥陀)もありうるわけです」

103名無しの神学さん:2004/03/13(土) 21:44
「スピノザ以上に論理的」に関して・・・。

松本さんは如来蔵思想を汎神論ではなく実在論と書いています。

「底流にスピノザ以上に理性的な論理体系がある」というのは、「如来蔵思想」は思想体系なんです。大乗経典 論書。幾人もの思索を経ています。
スピノザは自分で「汎神論」の体系を作り、これが「汎神論」と主張したわけではないのです。彼は彼の「神と世界」に対する哲学を語っただけ。その哲学の体系は所詮一人の頭脳の中の体系なのです。如来蔵思想はインド・中国・日本の色いろんな人々が長い時代を経て作り上げてきた思想体系なのです。スピノザ一人の思索より以上に思索を経ています。

あなたが論理的ではなく曖昧とみなしたのは「日本の精神風土」です。
私も松本さんも「密教」だけが汎神論に近く「哲学的に昇華」されていて、残りの大半の「日本の精神風土」が「アニミズムの上に多神教の層がのっかっている」と見ないのですね。
如来蔵思想の影響を見ます。松本さんは「根源的実在論」とみているわけですね。
私は、「汎神論」と言って構わないと主張しているのね。
どちらにしても「日本の精神風土」が「哲学的に昇華」されてないと見ないわけね。

104名無しの神学さん:2004/03/13(土) 21:45
いえいえこちらこそ横様から生意気失礼致しました。
HNも決めずに失礼しました。ちらっと一言で去ろうと思っていましたのに、
根があほなもので汗
荒らしてしまいましたようです。ご寛恕のほどを願います。


投稿しようとしましたら、93発見

称名について・・・

「法然さん、たくさん。親鸞一回」という理解は一般的です。
「法然さんが自力の痕跡を残し・・・たくさんがいい」という理解は真宗護教的です。
事実に反します。

善導流浄土教はとても特殊です。普通の仏教は「瞑想」が実践です。
ここから離脱しましたのです。浄土教そのものも「瞑想」だったのです。
「念仏」というのは、元々は、仏を瞑想する観想念仏という「瞑想」です。
善導だけが、漢語「念」という字に「称える」という意味があったのに注目し、
経典には「観想念仏」の意味で「念仏」「念」とあるのを「称名念仏」に再解釈したわけです。観経という経典に「十念」「一念」とあります。ここを「十回の称名」「一回の称名」と解釈したわけです。十回の称名で沢山の罪が滅罪される。死ぬ間際の一回きりの称名で来迎往生できる、と。
法然以前の天台の良源の「九品往生義」では大経18願の「十念」をもって「十回の称名で往生できる願」だと言ってますし、その後輩の禅瑜の「新十疑論」は、「一回、十回の称名で往生できる」と言っています。数で言えば日本天台の浄土教が既に一回の称名で往生できると言っています。一回は親鸞のオリジナリティーではないです。
法然さんは、例えば「七か条起請文」で、一回二回称えても自力の心なら、自力の念仏だし、千万回称えても願力他力を頼んでの称名なら他力だよ、と言い、「和語登録」では、他力の念仏は、その数の多寡、(一か多)など無関係と言っております。親鸞もこの理解を継承しています。(「一念多念文意」で、一回か多数かで争っているいる人がいるけど、両者とも自力派だ、と批判しています)
さてどうして「法然さんたくさん」という一般理解が生まれ、流布しているかといいますと、真宗が、法然さんを低く見、親鸞さんを持ち上げるためでもありますが、しかし論拠もあります。法然さんは天才だったので、きちんとした説明をしません。で、「数なんか関係ねぇよ」とも言いつつ、門下には「いっぱいせい。 いっぱいせい」と勧めますし、自分もします。実際の行動を見れば、法然さんは多数派ということで門下に「多数派」「一回派」が生まれ侃々諤々と・・・。

ちなみに「阿弥陀菩薩」という表現はないです。
岩波の解説は間違っています。訂正を要請したほうがいいですね。
原語的には「悟りを求める人」です。
仏教では「悟りを開く以前の釈尊の尊称」→「前世での釈尊の修行時代」→「悟りを求めて修行する人」、大乗になってからは→「未来の仏」「大菩薩」弥勒が代表的(ほんとんど仏と同質)→利他に注目し→「利他から衆生済度をする人々」「仏道志す人みんな」

「悟りを備えた人々」は、弥勒を想定していると思われますが、<悟りを求める人びと><悟りをそなえた人びと>という二つの意味が考えられると二点を並列的に紹介するだけでは不充分。弥勒の場合は56億年後に仏になる釈尊の次の将来仏という設定になっているので実質、仏なんですが、菩薩ですね。あと仏に大乗の大菩薩は、阿弥陀の前身の法蔵菩薩もそうですね。皆が仏になるまで菩薩でいる。衆生を仏道に入れしめるためにわざわざ菩薩に留まるわけですね。弥陀は設定では完成して仏となっているわけです。一遍はだから、もう既に永遠の昔に私の救いは完成しているのだという十劫往生説を唱えます。

あっ、でも阿弥陀菩薩という表現も斬新で面白いです。好みならば止めません。
私にはこうとしか読めない、というのが新しい思想・思索を生んだりもしますからね。

では失礼します。

105名無しの神学さん:2004/03/13(土) 21:48
なんで「スピノザは曖昧な感覚を持っていたことになる」んでしょう?

ギリシア哲学者は多神教世界に生きていたから。
タチバナさん論はあくまで汎神論は唯一神教対置と言われてましたので。
スピノザは自分が汎神論ともギリシア哲学者が汎神論ともみなしたわけ
ではありませんが、汎神論の代表のスピノザは自分の思想を
多神教のギリシア哲学者の・・・以下略

ついででした ながながと失礼しました

106タチバナ@灰羽連盟:2004/03/13(土) 22:00
おお、>>104の投稿はほんとに貴重。ありがとうございます。
>>105についてはやはりロジカルレベルの混同でしょう。まあ、これはどうでもええわ。

書き込みはまじで希望するのでお願いします。なるべくコテハンをつけてほしいですが、こればかりは本人の意志の有無ですから無理強いはしませんが。

107アイ:2004/03/13(土) 23:03
>>79>>81
パンプキンさま えらく遡ってレス(笑)

『或る女』、そうですね、普通に読むと教訓っぽく感じるかもしれませんよね。
どうも、私は文学を読むときは作者の人生を重ねてしまうところがあって、作品を読みながら、その人の解説なんかを平行して読んでしまったりします。
今回も、「有島武郎とキリスト教」という評論集を読みながらでした。

三浦綾子さんは、読みやすくて嫌いじゃないのですが、「塩狩峠」や「道ありき」はとても面白かったし。ただ、時々いやらしいものを感じる時がありますね。それは自分も持っているものだから、感じてしまうのかもしれません。
あ、「ひつじが丘」古本屋さんで見つけたので買いましたよ。読んでみますね。

旦那さんの話、
以前、創価学会が日蓮宗から離脱した時に、夫婦が別々に学会側についた人と、日蓮宗側についた人がいて、離婚してしまったという話がありました。
この人たちは、同じ宗教に属している時はきっと「心が近い」と思い込んでいたに違いない。
距離があることを認め合える夫婦が本当は近い距離にあるんじゃないかって、最近は思うんです。。。つうか、そう思いたいのかな(笑)

パンプキンさまのところもいわゆる性善説なんですね。
私はもう、徹底的に堕落、罪を強調されたから、どうしてもそれが抜けきらない。
洗礼を受けてそこから解放されたはずの後でも、煩悩から抜けきれないときは、それがキリストへの信仰の無さの現れのような気がしていたたまれなる。
でも、結局それは自力で良い人間になろう、自力でキリストに従いきろう、としていることに他ならなくて、結局有島氏と同じことをしているのだと気付くのですね。
今は、こうしてパンプキンさまや、みなさんに助けられて、苦しくなっても方向転換できるから良いですが。

108chiara:2004/03/14(日) 00:00
アイ様
>距離があることを認め合える夫婦が本当は近い距離にあるんじゃないかって、最近は思うんです。

流石、長年夫婦生活を経験している方の言葉は重みが違う。
夫婦だけでなく人の関係全てそうだとも言えるですね。共同体との関わりとかも。
今、教会行ってないわけで、離れてみて、遠いけど近しい兄弟姉妹のことを思います。

ところで、自らのうちに神の恩寵を発見するのもいいですよ〜。
こんなにも愛されていると思う時を発見するのをするとか。

>結局それは自力で良い人間になろう、自力でキリストに従いきろう、としていることに他ならなくて、

これは、かな〜り重要なことですね。
委ねる覚悟ってなかなか出来ないですけどね(^^;

109タチバナ@灰羽連盟:2004/03/14(日) 09:54
>半可通な理解だと「人間と隔絶した神」と「人間が成りうる仏」は別物と言い、阿弥陀も「人間がなりうる仏」だとみなすわけです。人間という設定だからね。その阿弥陀の設定ではさ、法蔵は「五劫」という時間、思索しました。「五劫」は実は…「永遠×五」だったりします(汗)。一説に、一つの宇宙がね、創造され存続され破壊されるのが「一劫」です。それを五回ほどの長時間修行したという設定ですから、ヤハウェの創造を五回ほど体験していることになります汗。ふつーの人間じゃないのです、設定では汗。阿弥陀の名誉は、この設定からすると、ヤハウェの五倍は「永遠・無限」なわけです(滝汗)。
だから、「阿弥陀」って普通に考えると私たち普通の人間と絶対的に隔絶しています。そんなに長生きできませんからね。

まず一点。阿弥陀とセム一神教の神の違いを指摘したからとて、別にどちらか一方をおとしめていることにはなりません。だから私が阿弥陀を侮辱しているというのは、手前勝手な解釈に過ぎません。

>この設定からすると、ヤハウェの五倍は「永遠・無限」なわけです(滝汗)。

神の「永遠・無限」てのが全然わかってませんね(笑
いくら時間的に長かろうが、極端に言えば無始無終であろうが、それは神の永遠・無限とは等値できません。神の永遠・無限はたんに「終わりがない」「果てしがない」て意味じゃあない。
だから中世の論争でトマス・アクィナスがかりに世界が無始無終であったとしても「創造」の教義と矛盾はしない、と主張しえたのです。

>だから、「阿弥陀」って普通に考えると私たち普通の人間と絶対的に隔絶しています。そんなに長生きできませんからね。

そういうわけで、いくら気が遠くなるほど寿命が長かろうが、神と世界、神と人間のように「絶対的に隔絶」しているとはいえない。「ほぼ無限」は「無限」とイコールじゃありません。
私は将棋を指しますが、その手の組み合わせは宇宙にある原子の数ほどあると聞いたことがあります(原子の数ではなかったかも知れんが)。人間の精神からするとほとんど「無限」に思える莫大な数ではありますが、しかし所詮は「有限」です。それと同じことです。
あるいは集合論でいう「可算無限」と「非可算無限」に思いをいたしてもいいでしょう。

>あなたのギャグ論理「弥陀は修行するような元人間だから・・・セム一神教の創造神の「永遠・無限性」と同質ではない」なら、同論理からはイエスも「人間であるイエスがセム一神教の創造神の「永遠・無限性」と同質」とはいえないわけです。

イエス・キリストの「二性一位格」てのは、別に「神性」と「人性」をあわせもっているということだけが重要なのではなくて、その神秘的結合(位格的結合)もおとらず重要なのです。
そこからすると、神の第二位格である「御子」は30年ちょいだけ地上において人間「であった」というわけではなく、昔人間であり、今人間であり、未来も人間であるというような仕方で、「まことの人にしてまことの神」なのです。
このような存在は御子以外にはいません。御子は「まことの人間」であるということだけからでも人間とは絶対的に隔絶してます。いずれにせよ人間はある時点で創造されたわけですが、御子は創造されざるものですから(創造以前からすでに「人間」でもあった)。

110タチバナ@灰羽連盟:2004/03/14(日) 10:27
>「底流にスピノザ以上に理性的な論理体系がある」というのは、「如来蔵思想」は思想体系なんです。大乗経典 論書。幾人もの思索を経ています。
スピノザは自分で「汎神論」の体系を作り、これが「汎神論」と主張したわけではないのです。彼は彼の「神と世界」に対する哲学を語っただけ。その哲学の体系は所詮一人の頭脳の中の体系なのです。如来蔵思想はインド・中国・日本の色いろんな人々が長い時代を経て作り上げてきた思想体系なのです。スピノザ一人の思索より以上に思索を経ています。

まあ、これはただの見解の相違でしょう。といっても私は「以上」だの「以下」だのと傲慢に等級づけることはしてませんが。
しかしスピノザの思想を「所詮一人の頭脳の体系」とするのはなんとも。スピノザに至るまでに長い哲学・宗教思想の歴史があります。その上でスピノザはもの言っているので、ゼロからスタートしてるわけじゃない。「哲学」に対する感覚が鈍い発言だなあ。

>あなたが論理的ではなく曖昧とみなしたのは「日本の精神風土」です。

どこでそんなこと書いてますか? 
かりに私が「日本の精神風土」を「論理的でなく曖昧」(?)と見なしていたとしても、それだからといって日本の精神風土を侮蔑していることにはなりません。どうもそう思ってはるようですが。

111KK:2004/03/14(日) 16:32
>(創造以前からすでに「人間」でもあった)。
そうなの? 永遠のロゴスはもともと神性のみで、受肉の時に「聖霊とおとめマリアと
から肉をとり人となった」ので、その時神性と人性の神秘的結合が成立したのでは??

112タチバナ@灰羽連盟:2004/03/14(日) 17:18
>111
ご指摘ありがとうございます。
たしかにカルケドン会議での決定でも
「神性においては、この世の前に父から生まれたが、この同じかたが、人間性においては終わりの時代に、われわれのため、われわれの救いのために、神の母、処女マリアから生まれた」
とありますから、
>(創造以前からすでに「人間」でもあった)。
というのは誤解をまねく言い方ではあります。
ただ私が強調したかったのは、この結合がわれわれにとっては時間的に生じたものであるにもかかわらず、
「唯一・同一のキリスト、主、ひとり子として、二つの本性において混ぜ合わされることなく、変化することなく、分割されることなく、引き離されることなく知られるかたである。この結合によって二つの本性の差異が取り去られるのではなく、むしろ各々の本性の特質は保持され、唯一の位格、唯一の自立存在に共存している」
という意味では永遠に属する事柄であるということです(だからこそ神秘的結合である)。
神の第2位格は完全な形でこの位格的結合hypostatic unionを成しているわけですから、その意味では神性において言われる事柄はそのまま人性においても言いえます。これを「属性の交用」と言います。それを踏まえて私は
>(創造以前からすでに「人間」でもあった)。
と書いた次第です。

113アイ:2004/03/14(日) 23:07
chiaraさま
そうだ、もうあちらの方に引っ越されたのですね。
そうですね、近くに教会があるということは恵みですね。
そこに伝えてくださった先人のお陰でもありますね。

114パンプキン:2004/03/15(月) 08:48
>アイさま

>距離があることを認め合える夫婦が本当は近い距離にあるんじゃないかって、
>最近は思うんです

いや〜、アイさまは前向きですね。私もこんな後ろ向きなこと言っている間に、
いかにしてより今以上にダンナを愛するかということに心を砕かないと。

私は、夫婦が一致を目指すことは自然な欲求であると考えもし、またその願い
を捨てきれずにいるのですが、方策としては(笑)、アイさまのおっしゃる
ことが真理であるとは、理解しています。
今話題のベストセラー「良妻賢母のススメ」という恥ずかし〜本をちょっと
ずつ読んでおるのですが(もう円満夫婦のためならなんでもするぞ、という
感じ、笑)「夫のありのままを受け入れること(決して変えようとはしない
こと)」という第一のルールにしょっぱなから諭されております。

伝道においても、人間関係においても、すべて、相手を変えようとすればす
るほど相手は逃げていく(頑なになっていく)というのは、真理ですよね。
自分が自分が、というのを脇に置いて、神様に委ねたとき、道は開け、相手
が(思いもかけず)変るというのは、本当だと思います。
「相手を変えようとするオーラ」は、よっぽど、相手の魂を締め付けるの
だろうなと思います。
でも、相手を変えるという目的のために相手をありのままに認めようと
するのも(なんだそりゃ)やっぱり不純かもね〜(^^;。
他の人間関係に関しては、私は全く何も期待していないので(笑)けっこう
なんとかなっているのですけど、ダンナにだけは愛情も愛着も強く感じて
いるだけに、表面的には相手を認め、心の底では一致を望んでいる、そんな
感じであがいてしまいます。
その執着も愛情も100%神様に委ねたときに、道が開けるのかも。
「恋が終るとき、愛が始まる」とはこのことか!?

「ひつじが丘」、またいつか読まれましたら、ちょこっと感想などお聞かせ
願えればと。

115パンプキン:2004/03/15(月) 08:50
>洗礼を受けてそこから解放されたはずの後でも、煩悩から抜けきれないとき
>は、それがキリストへの信仰の無さの現れのような気がしていたたまれなる。

これは、つらいですね。(^^;
「洗礼を受ければ罪は解放されるはず」というところの裏づけになっている教義は
よくわからないのですけど。
クリスチャンになっても抱えていた問題が何ひとつ解決されないし、牧師さんに
相談すると「聖書を読みなさい」とだけ言われる、といって教会を離れたり変えたり
した人も何人か知っています。

うちも罪は教えられますが、解放されるための手段としての具体的な「気付き」
のためなので、罪をいくら指摘されてもむしろ「あ、そうかあ!」という気付き
の喜びがあるというか、すがすがしいです。
あとは、その「気付き」を神様の前にもっていって、解放をお願いするだけ。
人間はもともと神の似姿に造られていて、ただその遺伝子(表現はナンですが)
が発現していないだけだ、水とお日様があれば、ちゃんと種は芽を出して成長し、
神の似姿になるんだと教えられてます。
水っていうのがいかに生きるべきかの教え、お日様が神様とかいうことで。

本を読んだだけじゃ、有島武郎のジレンマは、わからなかったなあ。
やっぱり作者自身についてのものを読まないとですね。

116名無しの神学さん:2004/03/15(月) 22:00
<神と世界、神と人間のように「絶対的に隔絶」しているとはいえない>

設定では・・・
人間イエスが、神と同質でしょう。「絶対的に隔絶」していません。(笑)
イエスには「人質と神質」が同居しているわけでしょう。(笑)
トマスが護教的に何を何と主張していようが世界の他の神概念とさして
変わらないのです。
キリスト教側が「特別」だと主張して貴方は鵜呑みにされているだけです。
MCにかかっているにすぎません。
私は「無限性」だけではなく、イエスを起点に「隔絶」について論じております。

公平に見てインド人の妄想というか想像力はセム語族よりスケール大きいわけです。
(スケール大きくたって妄想度が深いというだけです)
そこに気づかれてください。仏教内でも、「五×無限」について「五」に注目して有限と解釈される方はおられますが、あほでしょう。ヤハウェの五倍です、というギャグは抜きにして、無限×五はイコール無限でありましょうや。

邪魔くさいので一例。
福音派さんなんかは、最初に原始的唯一神教があり、劣悪な諸宗教に堕落したと、ウィルヘルム・シュミットの説に依拠して、アニミズムを批判して「ラテン語のアニマからきた言葉で生気説ともいう。動植物などすべての生物に人間と同じ霊があると考え、拝み、後に人間の霊をも神格化し、人間崇拝にもなっている」とあるのだけど・・・・、
公平に言うと、キリスト教もユダヤ教と比較すれば、イエスを神と同質とし、人間崇拝になっているし、カトリックをはじめ聖公会一部、正教の信仰者はマリア崇敬を崇拝ではないとして認めないが、マリア崇拝になっています。創価学会も指導者(個人)崇拝なのだが、信者さんは個人崇拝ではなく、リーダーを尊敬しているだけという。いっしょですね。
ただ現実の生きている人を崇拝しないところが、マシというか健全。現実に生きている指導者を崇拝したら統一教会みたいになってしまう。
当然のことながらイエスもマリアも釈尊も「生きている人である限り完璧ではない」
イエスが「まことの人にしてまことの神」なのは信仰者の主体的な胸のうち、神との交わりが言わせる信仰上の主体的な言葉であって、客観的事実ではない。
非信仰者が、信仰者側の自己申告・ご都合主義を鵜呑みにされてどうされる。

「そこからすると、神の第二位格である「御子」は30年ちょいだけ地上において人間「であった」というわけではなく、昔人間であり、今人間であり、未来も人間であるというような仕方で、「まことの人にしてまことの神」なのです。
このような存在は御子以外にはいません。御子は「まことの人間」であるということだけからでも人間とは絶対的に隔絶しています。いずれにせよ人間はある時点で創造されたわけですが、御子は創造されざるものですから(創造以前からすでに「人間」でもあった)。」

「法華の釈尊」も同論理です。設定では80年の史実の釈尊だけが人なのではなく、大昔から修行者で、この世のはじまりからいた永遠の修行者(人)であり、永遠の仏(神)です。
こういうギャクを別視点から分析すると、イエスも法華の釈尊も、史実の人を神格化し、人間崇拝になっているので、福音派のアニミズムの概念規定「人間の霊をも神格化し、人間崇拝にもなっている」適用すると、アニミズムになるわけだが・・・うむぅ悩ましい・・・。
例えばパウロは復活を「霊のからだ」と言っている。

①精査してないので、あれですが、聖書のどこに「過去・現在・未来」を通じてイエスが「まことの人にしてまことの神」あったと書かれているのか?
②聖書にないなら誰からはじまった解釈なのか?
③そのギャグをイエスの神格化だとあなたには見えないのに、なぜ無信仰と自称されるのか?


<「哲学」に対する感覚が鈍い発言だなあ。>

鈍いのはどちらでしょうか・・・汗。何度もさりげなく指摘しているのだけども、
スピノザ自身は自分の「神と世界」に対する哲学を汎神論と主張したわけでもない、
同時代の人々は無神論と揶揄し、後代の人が汎神論の代表と褒めちぎっているだけです。
彼は自覚的に汎神論の体系など語っていない。ただ自分の哲学を語っただけ(笑)。
「長い哲学・宗教思想の歴史」をそのまま継承したのではなく、選びだしたのね。タイプ的にはパルメニデスの「神イコール自然」が唯一つの実体する哲学タイプですね。
んで、別にパルメニデスは、一神教と対峙していない。
で他に例えばスピノザは誰と誰と誰の何と何と何を根拠に汎神論を展開したわけ?
具体的にお答えください。

117名無しの神学さん:2004/03/15(月) 22:01
本論です
福音派の「新キリスト教ガイドブック」も、p22−23で、今日に息づく原始的宗教意識としてアニミズムを解説し、日本の宗教意識を取り上げ、「確かに日本の宗教にも偉大な教祖も現れ哲学化も進みました。しかしその中身のアニミズムやシャーマニズムと言われる未開の宗教意識には何の変化もありません」と語り、p38で、真言宗を取り上げ汎神論と見なしています。
このスレッドであなたは、密教など少数派だけ哲学的で汎神論に近似と言い、残りの大多数はアニミズムの上に多神教が乗っかっていると言われていました。
あなたが無信仰と言われても・・・、
私にはあなたの理解は独善的な福音派の解釈と類似していると申し上げておきます。
福音派以外のキリスト教教派も似たような理解ならば、キリスト教のレベルって・・・汗。

118名無しの神学さん:2004/03/15(月) 22:03
うん。キリスト教についてさして知りませんですね。
このスレッドでの展開はさして私の関心はないので、
新スレッドをお立ていただき、
キリスト教についてご教示イタダケレバ嬉しく思います。
しかしこのサイトはそういう学習のためのサイトではない
でしょうから、それも無理な望みでしょう。

まあ私の情報量を。昨秋より私のキリスト教の知識は以下です。
以下については踏まえていますので、ご了承ください。
(ページ数指し示し下されば確認できます)
エドモン・ジャコブ「旧約聖書」文庫セクジュ
オスカー・クルマン「新約聖書」文庫セクジュ
アンリ・セルーヤ「神秘主義」文庫セクジュ 再読
小田垣雅也「キリスト教の歴史」講談社学術文庫
荒井献「イエス・キリスト」上下 講談社学術文庫
荒井献編「新約聖書外典」講談社学術文庫
土井正興「イエス・キリスト」三一新書 再読
関栄二「新キリスト教ガイドブック」日本教会新報社
エレーヌ・ペイゲルス 荒井献他訳「ナグ・ハマディ写本」白水社
バートン・L・マック「誰が新約聖書を書いたのか」青土社
バートン・L・マック「キリスト教という神話」青土社
矢内原忠雄「イエス伝-マルコ伝による」角川選書 再読
朴憲郁「パウロの生涯と神学」教文館
大月隆「イエスという経験」岩波書店
「キリスト教の本」上下 学研
AERA Mook「新約聖書がわかる」朝日新聞社
田川健三「宗教とは何か」大和書房 再読
ジャンダニエル「キリスト教中世史Ⅰ」平凡社ライブラリー
クラウス・リーゼンフーバー「中世思想史」平凡社ライブラリー

たかだか上記20冊程度の一般向けの解説書と、口語訳二冊、新改訳第三版と、
山内眞監修「新共同訳 新約聖書略解」日本基督教団出版局という陣容ですので、
ギリシア語原典も知りませんし、ほとんどキリスト教について知らんですね。
取りあえずは、「福音派・カトリック・日キ派」そして無教会派・聖書批判派と
大雑把にはその思考法をチェックしているつもりですが、よろしくお願いします。


ついでですので、カルト問題を取扱ったサイトですので常識でしょうが、
カルト問題で悩まれていて未読の方は是非読まれることを薦めます。

スティーヴン・ハッサン 浅見定雄訳「マインドコントロールの恐怖」恒友出版
ロバート・B・チャルディーニ「影響力の武器」誠信書房

119chiara:2004/03/15(月) 22:51
名無し神学様・・・
微妙にずれている気が・・・。タチバナ氏は「キリスト教徒は何を主張するか」を語っているんで、
護教をしてるわけではないと思えますです。
それからイエスの人性については、「まったき人であるから」人間と離れているという、
人間だったら「まったき人であると言う前提などつかない」と申していると思うんで。
キリスト教への評価においてはどっちの意見にもうなずけるだけに、なんで意見があわんのだ?
と、謎なのですだ。

人間イエスの偶像崇拝ってのはたしかにシニカルにみりゃそうともいえるですね。
が、信者として護強的にいうならば、それこそが形而上と形而下を結ぶ面白みだからのぅ。
だから、偶像崇拝は駄目ですよ。ってのはそういう表象的な意味でないもっと違う意味が
あると思うんよね。

120chiara:2004/03/15(月) 23:01
アイ様
引っ越して一ヶ月以上経ちました。馴染み過ぎて怖いです。
ただ、教会がないもんで、主日が判らなくなっています。
ミサの式文も忘れました。
シスターが月一回、宣教に来ていますが、家の宗教が根強い土地で、教えは聞きたいけど
洗礼は嫌。という人が多いそうです。なので、イエス様の言葉だけでも伝えられれば
と、各家を回っています。

1210990:2004/03/16(火) 00:14
 chiara様
それで・・・いいのです。 福音を伝えなさい・・と新約にある。 誤解して教会員の数を増やせ。と指導者は私的解釈する。
私も家の祭壇、先祖の位牌等相続管理する立場にある。しかしそれは偶像礼拝でなく世俗的な相続問題と意見する。
信仰上に問題あるなら、便利や、不動産管理業者、いくらでも代行業者はある。・・・神を恐れ、両親を敬えは、忘れてはならない。ご先祖さんでも親の親の親の敬いたいとの気持。
洗礼はいや・・強制はできないのがこの世の掟。主のゆえに世の制度を敬え・・第1ペテロ・・・
私は生贄の血を土に注ぎ込めと旧約の教えは、世俗にみことばを流していくと感じる・・・。、

122名無しの神学さん:2004/03/16(火) 00:48
「キリスト教徒は何を主張するか」
「仏教徒は何を主張するのか」というのは議論テーマではないです。

キリスト教の神概念が客観的に(つまり比較宗教学的に)、
仏教の絶対者概念と比較して
超越的な内容をもっているかどうかが論点です。

123名無しの神学さん:2004/03/16(火) 00:56
個人的な私のイエス観は・・(かなり意味不明だけども)、
ユダヤ教的神概念は人を隔絶した「遠い存在」だったが、
イエスは、「アバ父よ」と幼子の表現をすることで、我らに
ごくごく近しい存在として神を再構築したと私は考えてます。
その意味で、イエスは最初の神の子であり、イエスは我らみんなの
父としてくれたにもかかわらず、身近にそのイエスの感動的な
言動を見聞きした弟子からはまさしく「神の一人子」であったと、
そういうような理解をしていますが聖書を精査したわけではありません
ので不確かです。
蛇足でした・・・この項 無視されてください。

1240990:2004/03/16(火) 01:03
キリスト教の超越な点は、再生・復活です。刑務所でイエス様と出会い、更生を誓いやがて神学校・・教会の役員牧師もある。

125へっぽこ@ミッションバラバ:2004/03/16(火) 01:36
”親分はイエスさま”でござんす!

126タチバナ@灰羽連盟:2004/03/16(火) 09:03
通りすがりとか言ってよく書くひとだなあ・・(笑
残念ながら最初に「デムパ」と呼称したのはただしかったようで。都合の悪いところはすべて無視しているし、匿名にはレスしないを行使して無視させてもらいますわ。
何度も言いましたが、最終的には読者の判断されることですから。

ただ、私が「キリスト教護教的」というのは一面で正しいと思うので、その指摘には感謝いたします。

127タチバナ@灰羽連盟:2004/03/16(火) 09:51
>>126
あ、誤解していただきたくないんですが、名無しさんの書き込み自体は依然として歓迎しますので。

>キリスト教の神概念が客観的に(つまり比較宗教学的に)、
>仏教の絶対者概念と比較して
>超越的な内容をもっているかどうかが論点です。

そんなことが論点だったのか・・(笑
「比較宗教学」も学問的出自から言って西欧的な思考のバイアスがかかっている、と私は見ていますが(それゆえ比較宗教学による「キリスト教理解」も必ずしも信用はできない)。

128タチバナ@灰羽連盟:2004/03/16(火) 10:51
>>キリスト教の神概念が客観的に(つまり比較宗教学的に)、
>>仏教の絶対者概念と比較して
>>超越的な内容をもっているかどうかが論点です。

>そんなことが論点だったのか・・(笑

これでは言葉足らずかな。といってもいくら長々説明してもまったく理解しないひとに何言ってもねえ。
まあ、あとは他の一般読者に向けて。

上の「超越的な内容」というのはよく意味がわかりませんが、私は端的にキリスト教(あるいはセム一神教)の神の概念と、「仏教者の絶対者概念」は違うと見ます。
それは神と世界(自然、万物)との絶対的な差異に基づくものですので。仏教にそれに相等する構造がある、ということなら話は別ですけど。
キリスト教における御子の「二性一位格」は、その差異があるからこそ初期教会で長年議論されてきた末にようやく教義化されたわけです。差異がないのなら、「人間であり神である」ことにいちいち悩む必要がない。とうていありえない話だからこそ、神学者たちは頭を悩ませた。
外から見たら滑稽に見えるかも知れませんが、私はこういう所に頭を使う真摯さは好きです。

で、違わない、同じだと、強弁されるかたがいてもそれはそれでかまわんのじゃないですか。
「聖霊」と「精霊」が「同じ」なら、神も仏も「同じ」になるのだろうし、長嶋とプチ長嶋も「同じ」ということになりましょうから。
もちろん、上位概念を設けて、両者を同列に扱う、というのは比較宗教学などでは手続き上正当なことでしょう。しかし、それとて、どっからどう見ても「神」と「仏」に区別はない、という結論にはなりません。
同じ対象群を扱っても、どのレベルで話をしているのかによって、類同性を論じる場面もあれば差異を論じる場面もある。
だからたとえばスピノザは一面では「汎神論」を代表する哲学者ですが、さらに大きな視野で見れば、キリスト教・ユダヤ教の亜種と見ることもできる。
たまたまある本を読んでいたらニーチェの哲学もキリスト教護教的、と強く主張しているのですが、なるほどと感じ入った次第です。

129タチバナ@灰羽連盟:2004/03/16(火) 11:04
変な話個人的には「キリスト教は特別だ!」と言ってもいいと思ってますが・・(笑

話を建設的な方向にもっていきたいんですが、そもそも日本でキリスト教が浸透しないのはなぜなのでしょう。
私はそれを「一神教的思考がなじみにくい」と表現してますが、これもほんとうは事実かどうかわからないし、かりにそうでも、いったい真の原因がどのへんにあるのかは不明です。
キリスト護教的な意見でもいいので、このあたりクリスチャンの方がどう感じ、どうお考えなのか知りたいです。以前から疑問なので。まあ、なかなか正しい答えは見つからない気もしますけど。
というか、別スレ立てた方がいいですかね。

130chiara:2004/03/17(水) 06:42
タチバナ様、名無し神学様

まぁ、たとえどんなに「自分が客観的に論じた」としても、結局主観からは免れえないわけで、
それは相対主義であっても、「相対である」という主観から免れえないし。

ところで、何故キリスト教は日本で馴染まないか?は別スレ立てるのがいいかもね。
たぶん、日本の既存の宗教や哲学が高度だったともいえるかな?
西欧式な高度さとは別の高度さが確立されていたというか。
それが民族的アイディンティティの核ともなってるから。余計。

131名無しの神学さん:2004/03/18(木) 20:23
『キリスト教教育を阻むもの』(日本基督教団宣教研究所)
それには、日本にキリスト教が浸透しない理由として以下の点が
挙げられています。
1.善悪の基準が対人関係である
2.天皇の絶対性
3.もののあわれを感じるー運命論
4.戦後民主主義の教育ーヒューマニズムの自己完結性
5.美的傍観主義ー自分のことは傍において関わらない
6.宗教的自然主義ー現世利益的ー多神教的

1320990:2004/03/18(木) 22:46
 なぜ、福音伝道が日本ではうまくいかないか? 
 答えは、戦中に国歌神道に基ずく戦争犯罪。戦後の安保闘争他思想信条は、暴力主義的破壊行為の原因と誤解される点では?
その他、某教団のように社会的非難を受ける言動が多いのもひとつ。

133パンプキン:2004/03/19(金) 09:52
ふー。私も首を突っ込めそうな話題になったので、急にこっちにも参加。(笑)
私の考えでは、キリスト教の教義に入る以前の問題かと。

・日本では宗教そのもののイメージが悪すぎる
(子供に、「何をやってもいいけど、宗教だけはダメっ」って教えてるお母さんがいたな〜)
宗教に入ることで、正常なバランス感覚を失い、偏狭な考え方になるのでは、
あるいは「あっち」の世界(あの世ではなく)に行ってしまうことへの不安。
(村上春樹の「」とか、橋本治の『宗教なんて怖くない!』とか見ると、「宗教
に入る人=自分の頭でものを考えられない人々」なんて構図が見え隠れします)

・街頭で目立つ宣教師のやり方が悪すぎ
街のあちこちに「罪の報酬は死 イエス・キリスト」なんて書かれた板を見かけたり、
宣伝カーが来て大音量で「あなたがたはみな罪人です、イエス・キリストを信じ
なさい。信じないものは永遠の滅びに」うんぬんとか言っているのだけど、
あれを見て好印象抱く人はおりますまい。

・教派がわかれすぎ
「教会に行きたいけど、派がいっぱいあって、どれに行っていいかわからない」
ということで、実際通って学ぶまでに至らない。

・実生活の諸問題を解決するのに何の役にも立たない
・・・というのは語弊がありますが、(あるはずだとは思っているので)
たいてい、リストラされた人や、サラ金に苦しむ人とか、人間関係に悩む人
とか、そういう人が教会に行っても、それを解決するような説教に出会わな
い場合が多い。

・そもそも、みんなが自分のためだけに生きればいいこのような社会においては、
キリスト教に入って自分以外の主人を持つということは、大変な禁欲をイメージ
させ、誰も好きこのんでそこには入っていかない。
(つまり、入信する理由が何もない)

・・・まだまだありそうですが、といいますか、逆にタチバナさまがキリスト教徒
でない理由を教えていただければ、(日本のみんながそうであるとは限りませんが)
それもひとつのヒントになるのではないかと。(笑)
教会離れは日本だけではないようですが、好きなように生きられる自由な社会に
なるほど(社会からの抑圧が少なくなるほど)今ある精神の枠組みを超えなければ
ならない必然性はなくなるのではないでしょうか。「救い」を求める必然性がなく
なるというか。

134パンプキン:2004/03/19(金) 09:57
村上春樹の「アンダーグラウンド」です。

135タチバナ@灰羽連盟:2004/03/19(金) 11:25
>>133

>逆にタチバナさまがキリスト教徒
>でない理由を教えていただければ、

いや、これ聞いても役には立たないと思いますよ(笑
別にキリスト教だからどうとかいうことではなく、特定の宗教や政党には属さないというスタンスなのです。
特定の宗教なり政党なりに属すと、私の場合性格的に言って、極端に「護教的」になると思う。集団に対する責任を感じるから。どこかに属すと、個人の発言であっても、その集団を代表するものと他人にとられても仕方がありません。そうである限り、私ならそのことを常に意識して発言することになります。
私はなるべく公正中立な所から発言をしたいので、どこかに所属したくはないのです。

もちろん、特定の宗教や政党となんらかの運動で共闘することは、場合によってはありえます。

136タチバナ@灰羽連盟:2004/03/19(金) 11:28
>>133
村上春樹の『アンダーグラウンド』は読みましたが(ついでにオウム信者へのインタビューである続編も)、

>「宗教に入る人=自分の頭でものを考えられない人々」なんて構図が見え隠れ

はしなかったのですが、どのへんがそうなんですか?

1370990:2004/03/19(金) 23:45
 キリスト教でも私の指導するはんいは、聖書の私的解釈を避ける、世俗においてみことばを武具として活用し、現実逃避せず物事にぶちあたる事とやかましく言う。
批判はあたらない・。

138パンプキン:2004/03/20(土) 08:19
>タチバナさま

なるほど、そういう理由でしたか。
確かにみんなにはあてはめまらないでしょうが、ヒントにはなると思いますよ。

過去の戦争の例とか、今の世界や日本での宗教対立とかを第三者から見ると、
「アホなことやってるな〜」という感想を持つ人が多いのではないかと思います
ね。(タチバナさまがそうだという意味ではなくて)特定の派閥に属したくない
っていう思い自体は、私もそうですし。「自分の正義」を振り回すことによる
弊害を歴史やニュースから学んでいる今の人たちは、どうしても特定宗教に属
するということがすなわち客観性なものの見方を欠くことになるという思いが
あるのではないかと思われます。

真理という面では、確かにどれかひとつを正しいとしてしまうことの不合理さ
のようなものは、真理が相対化している今日では真っ先に宗教に入るときの壁
となるんでしょうね。宗教はそれだけじゃないんだけど・・・。やはり入る前
の問題でしょうか。

それにしても、ウェブサイトでも、無料レンタルで何か借りようとすると「ア
ダルト・宗教サイトはお断り」って出ることが多いです。なんでアダルトと
一緒やねん(笑)やっぱりイメージ悪いんですねえ。

139パンプキン:2004/03/20(土) 08:20
>どのへんがそうなんですか?

う、タチバナさま読んでらっしゃいましたか。(どき)
大ざっぱに書きすぎたかな。
オウムのみならず、宗教に入ることそのものへの批判を書いていましたが。
引用しようと思ったらダンナが本を売ってしまったそうです(^^;
続編もあったのか〜、読みたいなと思ったらそれも売ってしまったそうで、ショック(^^;
帰省してきたら、図書館ででも見てレスします。

ちょっと一週間ほど帰省してきますので、また後ほど。

140名無しの神学さん:2004/03/20(土) 11:32
パンプキンさま、お気をつけて。


http://plato.stanford.edu/entries/pantheism
このページを見ると、次のように書いてますた。

>In 1720 John Toland wrote the Pantheisticon: or The Form of Celebrating the Socratic-Society in Latin. He (possibly) coined the term "pantheist" and used it as a synonym for "Spinozist."

トーランドは「汎神論者」と「スピノザ主義者」をsynonym(同義語)として使ったとありますな。

このページ面白そうなんですが、いま別の中世哲学のところ
http://www.nd.edu/Departments/Maritain/etext/staamp0.htm
を読んでるので、また機会があれば読みますわ。

141タチバナ@灰羽連盟:2004/03/20(土) 11:33
またやってしまった。
>>140は私です。

142名無しの神学さん:2010/06/02(水) 19:11:30
ノンクリ、とは
キリスト教信者が上から目線で非信者を指す時の言葉

143名無しの神学さん:2010/06/04(金) 11:26:01
>>142
いわゆる、わたしは正しい、救われているという傲慢からくる行為でしょうか。

144名無しの神学さん:2010/06/23(水) 18:39:48
ノンアルコールドリンクみたいに、キリスト性ゼロってことでしょ?
巷の非信者を三人称で呼ぶ時は問題ないかもしれないけど、教会に来た非信者に当てはめるのは変かもね。

145山上の垂訓:2011/12/13(火) 23:19:42
まずはage

ガラクタの中にまともなスレが残っていた。

146山上の垂訓:2011/12/13(火) 23:30:50
タチバナ@灰羽連盟さん サエキさん
アイさん chiaraさん パンプキンさん ・・・

こういうまともな話し合いができていた時代があった。
しかしタチバナさんの話は高級すぎる。
「汎神論とアニミズムは全然別物だ!」
・・・世間にはわかる人はほとんどいない。

”仏教”でひとくくり。真言宗や天台宗もS学会もクソミソ一緒。
”キリスト教”でひとくくり。正教会もも●みの塔もクソミソ一緒。
ましてや”宗教!”で人くくりの人も少なくない。

これは全て文部科学省の責任だ。宗教オンチの文科省が
新興宗教に際限なく法人格を与え、カルト化しても知らん顔。
公立の学校でも”歴史的常識”としての宗教教育はできず、
一般国民は”宗教”というと”新興宗教”のことだと思っている人が
ほとんど。真面目に勉強している者がバカを見る。

カルト的宗教もどきに組している輩は、世間知らずで非常識である。
礼儀を知らない。しかしいけしゃあしゃあと聖書を引用し、
✝愛は無作法をしない・・・などとのたまう。

一番無作法なのは”宗教野郎”なのにね・・・・

このスレもマルチポストで下げられるのだろうか?
そのまんま東さんが何を思って放置しているのか理解に苦しむ。
フランシスさんが見捨てたBBSに執着する理由は何か???

147名無しの神学さん:2012/03/15(木) 16:18:24
Ⅰコリント7:14
「なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子供は汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。」

こういう箇所が聖書にあるんですが。
未信者と結婚してもいいんじゃないですか。
結婚したあとに相手が救われればいいじゃないですか?

148名無しの神学さん:2012/03/16(金) 16:28:53
>>147さん そうだよ。

だから、「みしんじゃーと結婚することは”姦淫の罪”である!」
などと教える教団はきちがいじみている。教団名はいわないけど。
それを言うなら、福音派が大好きなギデオン協会。
その会長を勤められた鈴木常吉兄は、結婚したときクリスチャンでは
なかった。奥さんがクリスチャンなので誘われて入信した。

ギデオン協会会長になるほどの人の奥さんにも、
「みしんじゃーと結婚して姦淫の罪を犯した!」
とでもいうのか知らん?B●Fはきちがいじみている。

”みしんじゃー”と結婚して、夫をギデオン協会会長にまで
なさしめた奥さんが優れたクリスチャンというだろうけど、
入信させることが必ずしも良いこととは限らないわな。
神のみぞ知る・・・・・

149名無しの神学さん:2012/03/16(金) 23:34:38
鈴木常吉 ⇒ 鈴木留蔵 の間違い。
ギデオン協会会長を務めた人です。
結婚したときはクリスチャンではなかった。
彼の奥さんがもしBBFだったら、アホの牧師は
「みしんじゃーと結婚するなど姦淫の罪だ!けしからん!」
と言ったことになる。ギデオン協会会長は誕生していない。
ゆえに、BBFの牧師の言うことがいかに矛盾だらけかわかる。
BBFの牧師は信徒を支配したいだけ。ケツの穴が小さい。

150名無しの神学さん:2017/05/27(土) 12:52:54
性なるかな 性なるかな 性なるかな アホ卜し
昔、8○3今、卜し
永遠に騙す主を騙り

     ■■■■■
   ■       ■ヽ、ヽ
   |ii \,, ,,/ ii  ♪ コソコソ 一人で 掲示板覗いてぇー
   | _\  ./_ |    〜♪怒りを 募らせるぅー♪そして〜 (オモテでは)おぉーっ、感謝しまーす あ〜晴れるやー 
   ___   ||  ___〉   ___〉           
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  / ̄  (:::::)   ̄\
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 | ィ ■  / ,ミ).■゜  r |  
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 \    _/      .| |       ♪♪(リピート)
   | ̄ ̄        ノ |
   /\_____/|v、、)
   |.    ■■    | ' ̄
   |   ヽミ■■ミノ |   ←生霊の盾(○ール入り)?? ? ? ? ? ? 禁ちゃん
   ト,.  ■■■■■ |   
   |    ノ  .i


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