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聖餐式/聖体拝領/聖体礼儀について

1へっぽこ:2004/02/19(木) 23:50
フランシスさま

先日、日本基督教団のT.I.牧師
(名古屋で有名なベテラン牧師さんで、一度お会いしたいと思っていた
方です。)
のご講演を聞き、ご挨拶してきました。

そのおりへっぽこが正教会に行っていると申しますと、
何とT.I.先生は、
「これからの礼拝は、聖餐式主体にするべきだ。」
と言われました。

また、アイさまの日本基督教団 N教会のI先生にも、
「牧師のメッセージ中心の礼拝から、ミサ形式に変えました。」
と伺ったことがあります。

そして、正教会の神父さまにこのことをお話しましたら、
「プロテスタントでも気付き始めた教会が出て来たのは
喜ばしいことだ。」とおっしゃっていました。

聖公会では毎主日聖餐式があります。

一方、へっぽこの母教会の福音派プロテスタント教会では、
母教会なのに一度も聖餐式を経験していません。

聖餐式(プロ)/聖体拝領(カト)/聖体礼儀(オーソ)ですか?
意味合いはかなり違うかも知れませんが、
聖餐、聖体の奥義について、学んでみたいと思います。

以前、フランシスさまにも、
「聖体は ”実態変化”よりも”臨在”」と教えて頂いたことが
逢ったと思います。

プロも聖餐式主体の礼拝になると、「何かが変る」のでしょうか?
よろしくご教示お願いします。

2フランシス・ヒデ:2004/02/21(土) 10:30
「へっぽこ」さま、

はい、伝統的にはナンやら「パンとワインがどうなるのか」という論争が
戦わされてきましたが、この論争における立場が異なるからといって、一緒に
聖体にあずかれないわけでは、ありますまい。むしろ私としては、立場の異なる
キリスト教徒同士がお互いを認め合って、おひとりなる復活の主のもとで
「来るべき神の支配での宴会」の予表・予体験となるべき”宴会”をすべきだ
と考えております。地上で主ご自身が宴会を好まれ、宴会を来るべき神の支配の
譬えとして使われたことを思い起こせばよいでしょう。

私の指導をしてくださった神学博士(後に、MinneapolisでELCAというアメリカ
最大のルター派教団の神学大学院でAcademic Deanを務められた方です)も、
説教が短く聖餐を毎週なさいました。東京のルター派教会に彼がいらっしゃった
頃、私もその教会にいて彼と一緒に多国籍の英語礼拝をやっていたのです。現在
は同じ都市のLake of the Isles Lutheran Church でparish ministerを
しておられ、その教会のサイトは http://www.loti.org/ にあります。
で、その聖餐式では病の癒しに近いようなこともありましたし、何と言っても
列席者の方々から「不思議だ。キリストのご臨在を感じる」といった感想を
よくいただきました。キリスト教徒でない列席者の方々はそれを、「不思議な
ほど、なぜかすごく雰囲気がいい」などと表現しておられました。

↑これは、説明のつかない「神秘の現実」ですね。
もう少し理屈がつけられる側面を述べるならば:
1>「説教集会」ではその定義上、「人間が理解できる言語」しか扱えま
せん。その言語メッセージも、むろんいろいろな役に立つでしょう。でも、
そこまでです。言語を越えた領域、「神秘」には踏み込みにくいのです。
(だから、聖書ファンダメンタリストの多くはなんでも「明言化」することを
好み、”聖書”の”言葉”で何もかも判断してしまおうとします。彼らの
多くは、”神秘”を嫌がります。実は、ある意味で「近代型理性」と「聖書
主義」が結合したスピリチャリティなのですね。一方、ご存知のとおり、
ローマカトリックのミサ典礼文では、ミサのたびごとに♪信仰の神秘〜♪と
唱えますし、東方正教では典礼そのものをμυστεριον(mysteryと
いう英語の語源)と呼びますよね。)
2>それと現実的には、「説教集会」は結局は「大学の講義」のようになりやす
いものです。単なる情報伝達をするのなら、なにも一箇所に集まらずとも
放送や雑誌、ネットなどでも伝えられるじゃないか〜〜〜と私などは、言いたく
なってしまいます。
3>こうした反省を踏まえたうえで聖餐主体に移行していくと、「キリストへの
礼拝」になっていくことが多いですね。「説教集会」じゃなくて。実はこれ、
ローマ教会や東方正教の典礼にも現れていますよね。ローマですと、福音書朗読
は「主に栄光!」と皆で唱え十字を3回切ってから、立ったまま傾聴しますよ
ね。そして「説教」は福音に対する補足説明に過ぎないので、説教者は説教壇
に身を隠して(説教者を隠すことが目的です!)補足説明をしますよね。
正教でも、「慎みて聞くべし〜」の後で、福音書朗読は立ったまま聞くでしょ。
そして、説教は座って聞きますよね。やはり、補足説明に過ぎないのです。

結局、「人間にわかる言葉」だけで聴衆を動かそうとすると、講義に近づいて
しまうか、さらに下手をすると「説教者に絶対的な権威を持たせて、皆それに
したがえ」になってしまいやすいものですよね。でも、我々が現実に・本当に
変われるのは、あくまで復活のキリストを感じたときじゃありませんか?

神学的な解説は、私のごときがやらずとも、すでに20年程前にWolfhart
Pannenbergが「現代キリスト教の霊性」という著作の1章と2章でやって
くれています。ひつじの本文でも、皆様にお奨めした書物です。日本語訳は
教文館発行なので、東京なら教文館にあるはずですが、名古屋ですとどこに
あるのでしょうか?

3へっぽこ@宴会と神の支配:2004/02/21(土) 22:10
>>地上で主ご自身が宴会を好まれ、宴会を来るべき神の支配の
>>譬えとして使われたことを思い起こせばよいでしょう。
宴会と言えば、正教会の土曜日礼拝のあと懇親会があり、もう和気藹々
の楽しい”宴会”を味わいました。ビートルズナンバー歌いまくり..
信徒さんたちとの親密さが一気に増しました。

フランシスさまの言われる「神の支配」とは一般に言われる「神の国」
のことですね?地上にある「国」とは本質的に違うので、フランシスさまは
「神の支配」と表現されるのですね。

4へっぽこ@説教と臨在:2004/02/21(土) 22:25
2>>さらに下手をすると「説教者に絶対的な権威を持たせて、皆それに
>>したがえ」になってしまいやすいものですよね。でも、我々が現実に・本当に
>>変われるのは、あくまで復活のキリストを感じたときじゃありませんか?
そーなんです、フランシスさま。
牧師さんが、講壇で足をドンと踏み鳴らして興奮して語る...
聖公会の司祭さんは、「あんな説教、絶対まねできない..」と言ってました。

あれだけの聖書講義をされるフランシスさまが、それに止まらず、「神秘」を
強調されることが、モノスゴク説得力があるなあと感じているへっぽこです。

5フランシス・ヒデ:2004/02/22(日) 01:23
「へっぽこ」さま、

はい、本文のVolume 1の2ページ目の下にも記しましたように、
η βασιλεια του θεουはよく「神の国」と翻訳されています
が、たとえばアメリカを「神の国」と見なすような聖書ファンダメンタリスト
がブッシュ政権の背後に蠢いていたりしますし、日本でも別の意味で日本国を
「神の国」と呼んで物議を醸し出したトンデモ総理大臣がいましたよね。
だから、主キリストがおっしゃるη βασιλεια του θεουとは、
人間が作ったいずれの国家とも重なるものではないし、ソモソモ人間が作り出せ
るようなシロモノではないことを強調するために、私は「神の支配」と翻訳する
ことが多いのですね。

「(明言化された、人間にわかる)言葉」と「神秘」の問題との関連では、
赤ん坊が生まれてきたときに手を伸ばして何かをつかもうとする、あの
(どこで覚えたのか分からない、不思議な)習性を考えていただければ。
あるいは、もし「へっぽこ」さまにお子様がいらっしゃれば、そのお子様が
小さかった頃を思い出していただければ。小さなお子様がころんで「うえ〜ん
!」と泣き出したとき、「口からの言葉」だけで済ます親がいるでしょうか?
そんなとき、「言葉」は「冷たく、離れたもの」でありすぎますよね。むしろ、
大抵の親であれば、抱き寄せて「よし、よし」と身体をなでてあげるでしょ?
(私自身は、子育ての経験がないので、周囲の親と子供の様子を見て、言って
いるだけですが。く(^_^;;) )
つまり、身体感覚はどんな言葉にも先だつものですよね。復活の主も、「人間の
身体に受肉され、我々もいずれ受けるべき新たな身体に復活された」主です。
言葉による教え以上に、身体が福音の根底にあります。
これを忘れ、「聖書」という「言葉・記号の集合体」が根底だという錯覚を
起こすと、「言葉」に合わせて「身体」を鍛錬せよ、といったやり方になってし
まうことは言うを待ちませんね。結果、身体感覚のおかしな、「言葉」によって
「ああしろ、こうしろ、あれはするな」と言われなければ動けない、奇妙な
「キリスト教徒」が一部にできることになりました。(実際、一部の聖書ファン
ダメンタリストのあいだでは、同じ自動車を買うのに、どのディーラーがよいか
をわざわざ「聖書」に問い合わせて決める人たちさえいます!)

6からし種:2004/06/11(金) 08:58
メイン板から転記
   名前:   投稿日:  

どうも皆さん勘違いしている人が多いようですね。

私が言っているのはキリストがパンを食べろと言っているので他の教派の信者にパンを与えないのはおかしいといっているのです。
キリスト教で一番大事なのはキリストの救いを信じるかどうかです。
それがキリスト教の信仰だからです。

その次はやはりサクラメントかもしれません。
聖餐はどう理解するかはやはり様々な解釈があると思います。
私はその点は何もいう気はありません。これは神様にしか分からないからです。
しかし、パンを食べる事自体キリスト者である以上はやはり大事です。
当然ですキリストがそう言っているからです。

そして、キリストは教会に来たもの全員が食べろとは一言も言ってません。
これを差別というのはおろかな話です。
ノンクリスチャンにはパンを与えるのではなく、キリストの救いを述べ伝える事こそ大事なのです。


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