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聖餐式/聖体拝領/聖体礼儀について
2
:
フランシス・ヒデ
:2004/02/21(土) 10:30
「へっぽこ」さま、
はい、伝統的にはナンやら「パンとワインがどうなるのか」という論争が
戦わされてきましたが、この論争における立場が異なるからといって、一緒に
聖体にあずかれないわけでは、ありますまい。むしろ私としては、立場の異なる
キリスト教徒同士がお互いを認め合って、おひとりなる復活の主のもとで
「来るべき神の支配での宴会」の予表・予体験となるべき”宴会”をすべきだ
と考えております。地上で主ご自身が宴会を好まれ、宴会を来るべき神の支配の
譬えとして使われたことを思い起こせばよいでしょう。
私の指導をしてくださった神学博士(後に、MinneapolisでELCAというアメリカ
最大のルター派教団の神学大学院でAcademic Deanを務められた方です)も、
説教が短く聖餐を毎週なさいました。東京のルター派教会に彼がいらっしゃった
頃、私もその教会にいて彼と一緒に多国籍の英語礼拝をやっていたのです。現在
は同じ都市のLake of the Isles Lutheran Church でparish ministerを
しておられ、その教会のサイトは
http://www.loti.org/
にあります。
で、その聖餐式では病の癒しに近いようなこともありましたし、何と言っても
列席者の方々から「不思議だ。キリストのご臨在を感じる」といった感想を
よくいただきました。キリスト教徒でない列席者の方々はそれを、「不思議な
ほど、なぜかすごく雰囲気がいい」などと表現しておられました。
↑これは、説明のつかない「神秘の現実」ですね。
もう少し理屈がつけられる側面を述べるならば:
1>「説教集会」ではその定義上、「人間が理解できる言語」しか扱えま
せん。その言語メッセージも、むろんいろいろな役に立つでしょう。でも、
そこまでです。言語を越えた領域、「神秘」には踏み込みにくいのです。
(だから、聖書ファンダメンタリストの多くはなんでも「明言化」することを
好み、”聖書”の”言葉”で何もかも判断してしまおうとします。彼らの
多くは、”神秘”を嫌がります。実は、ある意味で「近代型理性」と「聖書
主義」が結合したスピリチャリティなのですね。一方、ご存知のとおり、
ローマカトリックのミサ典礼文では、ミサのたびごとに♪信仰の神秘〜♪と
唱えますし、東方正教では典礼そのものをμυστεριον(mysteryと
いう英語の語源)と呼びますよね。)
2>それと現実的には、「説教集会」は結局は「大学の講義」のようになりやす
いものです。単なる情報伝達をするのなら、なにも一箇所に集まらずとも
放送や雑誌、ネットなどでも伝えられるじゃないか〜〜〜と私などは、言いたく
なってしまいます。
3>こうした反省を踏まえたうえで聖餐主体に移行していくと、「キリストへの
礼拝」になっていくことが多いですね。「説教集会」じゃなくて。実はこれ、
ローマ教会や東方正教の典礼にも現れていますよね。ローマですと、福音書朗読
は「主に栄光!」と皆で唱え十字を3回切ってから、立ったまま傾聴しますよ
ね。そして「説教」は福音に対する補足説明に過ぎないので、説教者は説教壇
に身を隠して(説教者を隠すことが目的です!)補足説明をしますよね。
正教でも、「慎みて聞くべし〜」の後で、福音書朗読は立ったまま聞くでしょ。
そして、説教は座って聞きますよね。やはり、補足説明に過ぎないのです。
結局、「人間にわかる言葉」だけで聴衆を動かそうとすると、講義に近づいて
しまうか、さらに下手をすると「説教者に絶対的な権威を持たせて、皆それに
したがえ」になってしまいやすいものですよね。でも、我々が現実に・本当に
変われるのは、あくまで復活のキリストを感じたときじゃありませんか?
神学的な解説は、私のごときがやらずとも、すでに20年程前にWolfhart
Pannenbergが「現代キリスト教の霊性」という著作の1章と2章でやって
くれています。ひつじの本文でも、皆様にお奨めした書物です。日本語訳は
教文館発行なので、東京なら教文館にあるはずですが、名古屋ですとどこに
あるのでしょうか?
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