したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

聖餐式/聖体拝領/聖体礼儀について

5フランシス・ヒデ:2004/02/22(日) 01:23
「へっぽこ」さま、

はい、本文のVolume 1の2ページ目の下にも記しましたように、
η βασιλεια του θεουはよく「神の国」と翻訳されています
が、たとえばアメリカを「神の国」と見なすような聖書ファンダメンタリスト
がブッシュ政権の背後に蠢いていたりしますし、日本でも別の意味で日本国を
「神の国」と呼んで物議を醸し出したトンデモ総理大臣がいましたよね。
だから、主キリストがおっしゃるη βασιλεια του θεουとは、
人間が作ったいずれの国家とも重なるものではないし、ソモソモ人間が作り出せ
るようなシロモノではないことを強調するために、私は「神の支配」と翻訳する
ことが多いのですね。

「(明言化された、人間にわかる)言葉」と「神秘」の問題との関連では、
赤ん坊が生まれてきたときに手を伸ばして何かをつかもうとする、あの
(どこで覚えたのか分からない、不思議な)習性を考えていただければ。
あるいは、もし「へっぽこ」さまにお子様がいらっしゃれば、そのお子様が
小さかった頃を思い出していただければ。小さなお子様がころんで「うえ〜ん
!」と泣き出したとき、「口からの言葉」だけで済ます親がいるでしょうか?
そんなとき、「言葉」は「冷たく、離れたもの」でありすぎますよね。むしろ、
大抵の親であれば、抱き寄せて「よし、よし」と身体をなでてあげるでしょ?
(私自身は、子育ての経験がないので、周囲の親と子供の様子を見て、言って
いるだけですが。く(^_^;;) )
つまり、身体感覚はどんな言葉にも先だつものですよね。復活の主も、「人間の
身体に受肉され、我々もいずれ受けるべき新たな身体に復活された」主です。
言葉による教え以上に、身体が福音の根底にあります。
これを忘れ、「聖書」という「言葉・記号の集合体」が根底だという錯覚を
起こすと、「言葉」に合わせて「身体」を鍛錬せよ、といったやり方になってし
まうことは言うを待ちませんね。結果、身体感覚のおかしな、「言葉」によって
「ああしろ、こうしろ、あれはするな」と言われなければ動けない、奇妙な
「キリスト教徒」が一部にできることになりました。(実際、一部の聖書ファン
ダメンタリストのあいだでは、同じ自動車を買うのに、どのディーラーがよいか
をわざわざ「聖書」に問い合わせて決める人たちさえいます!)


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板