[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
| |
「一匹のかえる」
1
:
へっぽこ
:2004/02/17(火) 20:51
掲示板のメインがあれほーだいなのでこちらに
逃げてきました。
「一匹のかえる」こういう人も多いのではないでしょうか?
へっぽこ自身もそう自覚しています。人一倍傷つきやすい..
イソップの寓話で、子供が池でかえるに石を投げて遊んでいた。
かえる「酷い事は止めて下さい!」
子供「遊んでるだけじゃんか」
かえる「あなたには遊びでも、私たちには”死”を意味するのです!」
無神経にかえるに石を投げている人、いませんか?
もしへっぽこがそーだったら、ゴメンナサイ。
でもへっぽこは、いつも「かえる」よりはもっと強いものに
石を投げているつもりなんですけどね。
...1/10教会...かえるはかえるでも「かえるの面にションベン」
のかえる...石どころか殺しても死にゃしません...
2
:
へっぽこ
:2004/02/17(火) 20:54
↑他人に「躓きを与える」ことについての問題意識でスレ立てしました。
申し添えておきます。
...「なにか?」さんには来てほしくないな−
3
:
へっぽこ
:2004/02/17(火) 20:56
フランシスさま
↑他人に「躓きを与える」ことへの問題意識でスレ立てしました。
石を投げられて「死」だったかえるさんたちも、
「かえるの面にションベン」のかえるぐらい図々しくなった方が
いいのかな?へっぽこも含めて...
4
:
フランシス・ヒデ
:2004/02/17(火) 22:36
「へっぽこ」さま、
カエルにとっては「投石」が「死を招くイタズラ」ですし、きれいな水の中での
み生育できる小さな魚たちにとっては、「ションベン」が死を招くかも。で、
小魚たちがいなくなると、カワセミ達も食料がなくなりますよね。
つまり、心理的ダメージという意味では、まったく予想しなかった意外なところ
で他人にダメージを及ぼしている場合がありますよね。
現実には、「予想外のところ」である以上、防止できない場合もあります。
ただ、できるだけ減らすために、掲示板のようなメディアでは、
1>想定対象者を明確にする(自分で喜んで1/10を献金している方々を対象に
しているのではない、などといった想定を明言する)
2>問題系を明らかにする(献金そのものを問題にしているのでなく、収入の
一定率の献金を強要されることを問題にしている、など)
3>アディアフォラはアディアフォラであることを明確にする(どれだけ献金
するかは、個々人が良心において決めればよいことだ、など)
の3原則を守れば、現実上は役に立つかと思います。
だいたい、この3原則を無視した”論争”というよりは”いがみあい”が
世間ではナカナカなくならないですね。建設的な話し合いをしたいものです。
5
:
へっぽこ@讃美がトラウマ
:2004/02/18(水) 00:35
先日、正教会の礼拝後の懇親会で、ビートルズナンバーを歌いまくりましたが、
Amazing Grace や 「輝く日を仰ぐ時」などプロテスタントで用いられる
讃美歌も歌いました。礼拝では用いませんが、その他で歌うのは自由だそうです。
ところが、「輝く日を仰ぐ時」(へっぽこが好きなレーナ・マリアさんの得意な歌)
に対し、どこかのプロテスタントからの脱会者の女性が、「トラウマになっている。」
といわれました。せっかくの美しい讃美が、教会の悪い思い出と切り離せず、
トラウマになっているのが悲しく思えました。
デリケートな問題ですね。
6
:
へっぽこ@あなたはかえる?こども?
:2004/02/18(水) 12:03
へっぽこは「ひつじ」でなく「かえる」です。
ここのところ、こどもに石をなげられてばかり...
ニケア信経をチャカしたから、人を躓かせた?だれが躓いたの?
へっぽこはエライ弁護士の先生に叱られた上、その先生が
「1/10献金については考えが固まってない」とおっしゃる。
これは、躓きを超えて「精神的虐待」です。
やっぱりへっぽこは、1/10献金を惜しんだから、神の怒りを買って
災いが起こったのかなあ?オヤジが自殺したのかなあ?
7
:
へっぽこ@躓き
:2004/02/18(水) 12:16
へっぽこが味わった躓き...
「お前は人をつまづかせたあ−!けしからん!」という叱責。
8
:
シジミ蝶
:2004/02/19(木) 09:03
へっぽこさん、
律法的にへんな正しさのものさしで、ひとをふるいにかけ、優越感を持とうとする、
教会の体質は、人を、痛めつけますよね。
痛んだ魂や心は十分に癒される権利があります。イエス様が癒してくださいます。
イエス様を反映した聖霊様が人のうちに働いて、癒してくださいます。
癒されるまで、どうぞ、苦しみを、打ち明けてくださいね。
以前、わたしが、なかなか、癒されない痛みを、繰り返し吐いたとき、クリスチャンの
先輩から、「いつまで、そんなこといってるの!」と、石を、投げられました。
わたしは、自己反省する気にはなれませんでした。痛いものは痛い。そうしか
思えませんでした。この先輩は、わたしの痛みに耳を傾けたり、心に寄り添ったりする
時間が惜しいんだ、自分の好きなことをしていたいんだ…、と思って、悲しくなりました。
せめて、「今は、時間が無いから×日の×時にきいてあげるね」と言ってほしかった。
自分が自分のやりたいことを優先する自己勝手を正当化するために、自分の自己勝手な
尺度で人を量り、人に石を投げる、その残酷さをとても痛く思いました。
自分も、同じことを、してしまうんだなあと。
しかし、そんなんばかりではありませんでした。
あるカウンセラーは「繰り返し、痛みを言うとき、自分のまだ、癒されていない心を
確認するんですよ。言うことは、癒されるために必要なこともあります。」
とおっしゃってました。
クリスチャンの友人で、人の痛みに心を寄せること、痛んだ心を聴くことを、
喜びとしてくださる人々にも出会うことが出来ました。
私にとって、キリストは、暴力的な正しさで、人をふるいにかける神ではなく、
痛んだ心に寄り添い、癒し、わたしを、そして、わたしにひどいことをした人たちを、
赦し続けてくださる愛の神です。
9
:
へっぽこ@私もそう思います
:2004/02/19(木) 16:04
シジミ蝶さま
何に例えたらいいでしょうか?
(へっぽこはたとえ話はわりと得意なんですが..)
パウロさんが言っている「刺(とげ)」でしょうか?
心に刺さっている「とげ」を抜かずに、上からばんそうこうを張ってしまう。
そして上から「ハイ!治った!」と言ってポンとたたく。しかも「好意」で。
「はいおかげで治りました。」と言わなければ怒られる....
そんな状況ですか?
「癒し」とは心に刺さった「とげ」をまず抜くことから始まると思います。
「とげ」をないものとみなしたり、抜くどころか新しいとげをまた刺す
ようなことを、キリストの名によって(キリストの名にすらよらないこともある)
されているような気がしてなりません。
正教会の神父さんのメッセージで、マタイ(マトフェイ)25:31〜46で、
「キリストの小さき兄弟たち」にしてあげた人も、してあげなかった人も
どちらも無意識であったと...
シジミ蝶さまとの交わりの中で、主の働きにより、互いに「癒しあう」
ことができればと思っています。
「心のとげを抜く」ことは、まず「気持ちを正しく理解する」ことでは
ないでしょうか?教条主義的な押し付けは、決して人を癒しません。
「私は正しい人ではなく、罪人を招くためにきました。」
へっぽこは主イエスに招かれている罪人(罪人階級)です。
主憐れめよ、主憐れめよ、....アミン
10
:
へっぽこ@正教会師父のメッセージ
:2004/02/19(木) 16:24
http://www.orthodox-jp.com/nagoya/farthers.htm
#cyprian
↑正教会師父のメッセージ
シジミ蝶さま
「ひつじ」にも「かえる」にも癒しのメッセージだと感じます。
11
:
へっぽこ
:2004/02/20(金) 00:10
「師父のメッセージ」を読み返していて、へっぽこは
「グギャー!」と言いたいほど感動しました!
なんていう暖かい血の通ったメッセージでしょう。
「ひつじ」さん「かえる」さん、癒されてください。
12
:
シジミ蝶
:2004/02/20(金) 09:43
へっぽこさま、
赦しの愛、癒しの愛に満ち溢れて、キリスト教を、学んでゆければいいですね。
偏狭な正しい行ないに忙殺されて、自分の偏狭さに気が付かず、偏狭な正しい基準で
人を量り排他するのは、自分を痛めつけ、周囲の人たちも痛めつけてゆきます。
また、組織に縛り付ける論理でしかないのに、そうと気付かず、それを、絶対的な正義だと
思い込み、広い視野で学ぼうとしないことも、排他的な精神を形成してゆく危険な
ことだと思ってます。
>9
>「心のとげを抜く」ことは、まず「気持ちを正しく理解する」ことでは
ないでしょうか?教条主義的な押し付けは、決して人を癒しません。
自分の気持ちを正しく捉えることさえできない人たちもいます。役割を果たすことだけを
期待され、癒しの愛、赦しの愛に包まれること無く、人生を過してこられた方々が、
キリストのアガペーの愛に出会い、悲しさ、苦しさが自分の心のうちにあることを
そのまま認めていいんだ、自分は神に愛されているのだから、自分をごまかさなくて
もいいんだ…とまず、自分肯定させてくださる神と出会われることを心より願っています。
人の気持ちを正しく理解するためには、ときとして、膨大な時間を傾聴に費やさ
なくてはならないことと思います。ひとそれぞれ体験も性格もちがいますから。
もしかすると、理解不能かもしれない。そのときは、わからない、でいいとおもいます。
わかった気分を味わいたいために無理やりなにかに当てはめたり、同類化することには、
慎重でありたいです。
正教会のHPの案内、ありがとうございます。時間の出来たときに読んでみます。
わたしには少し難しそう…。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板