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富田林の部落

1無記名さん:2002/09/26(木) 15:10
行った事あります?
行くと、まだまだこういう差別が残ってる事を実感して
鬱になります。

83無記名さん:2003/05/15(木) 00:40
石川の新しい橋のたもとを左折して(芸大側からみて)川沿いの道を
ひたすらまっすぐ行けば着きます。

84無記名さん:2003/05/19(月) 14:29
秋祭りになったら本当に分かるよな。
「若松連合」と「若松町1丁目」で別れてるしな。
お互い名前を変えたりして誤魔化そうとしてるが、
別れてしまっているのには変わりないよな。

しかし今は若連もだが昔は若1はひどかったよ。。。
死者とかでまくってたしな。
爆竹禁止されてたのに使ってたり横振り禁止されてたのにやって倒れたり...
ルールを守らずに無茶苦茶やるからなぁ。部落の人って。
コンプレックス持って無茶苦茶してるから「変な奴ら」って思われるのにな。いいかげん気付けよ。
現に在日3世韓国人差別なんて終わったような感じだし。

まぁ今や若連まで無茶苦茶になってるのだが...
昔の若連は良かったよ...

85無記名さん:2003/05/21(水) 11:42
『にんげん』小学校の時道徳の時間に読んだ。
すごく悲しい話が多かった。
表紙の絵が子供向きの本じゃないような感じがした。
今でも、本の内容を思い出すと悲しくなる。

配られるから読んでたけど。
今も同和とか、よくわからない。
大阪にずっといるけど、大学生になるまで知らなかった。

86無記名さん:2003/05/21(水) 16:42
>>84
何年か前に祭前に火事があったね。
警察は「タバコの火の不始末」で片付けたらしいが・・・

87無記名さん:2003/05/21(水) 19:14
どんなお祭りなの? 
東北人なので大騒ぎするような祭りってよくわからないのです。
だんじりみたいなやつだべか?

88無記名さん:2003/05/21(水) 19:54
>>87
(・∀・)カワイイ!

89\</b><font color=#886300>(K2sI0Q1Q)</font><b>:2003/05/21(水) 20:21
>>87
1回生かい?
河南町とか富田林とかに住んでるんなら
祭り期間中は鬱になると思うよ
俺は今年の祭り期間中は地元に逃げとこうかマジで考えてる

90無記名さん:2003/05/21(水) 20:24
逆に地元民は学祭の期間中、鬱になってたりして。

あ、今はアルコール禁止やからそんなことないか。

91無記名さん:2003/05/21(水) 23:41
一回性なのです。
秋祭り、いつ開催されるのかとか、どんな内容なのかとか
詳細とか教えていただけたら幸いです

92無記名さん:2003/05/22(木) 00:39
だんじり祭と称したDQNな争いって言ってもいいのかな?

9384:2003/06/12(木) 05:06
>>92
最近はそういう風に成り下がってるネェ…

ほんと昔は良かった...

94無記名さん:2003/06/21(土) 01:57
収穫祭?なんかなあ、アレ。
バスは停まるし。
うるさくて寝られんし。
引っ越してよかった。

95無記名さん:2003/06/21(土) 04:45
まさか喜志駅周辺もあばれまくり??

96(´_ゝ`)ガンバッテマス:2003/06/21(土) 05:56
暴れるのは毎年「美具久留御霊神社前」「喜志駅東側ロータリー」「富田林駅東側ロータリー」やで。
2日目の昼ぐらいまでに各町のだんじりで神社にお参りして、今年の豊作を願うわけ。
そんで昼から自分の町戻って、QK入れた後に駅に向かって夕方からロータリーで暴れる。
喜志駅で言うとちょうどサークルKのあたりやね。あの辺は全部人だかりになる。

マターリ好きなら喜志駅。
だんじりが暴れる前に、
ニワカっていうコントとか一発芸みたいなのを若い奴がやるから、
それは見てたほうがいいと思う。
たまにめっちゃおもろいからw

本気でだんじり祭りが好きなら夜は富田林駅行くのがオススメやね。
(こっちはアホみたいに突っ立ってると死ぬけど。

河内の祭りの文化は、楽しもうって気で見ないと本当につまんないと思うよ。
祭りをうるさいとかウザイとかそんな風に思ってたら大阪には住めません。
なんろなくでいいから「なんかよぅ分からんけど、おもろそうなことやってるなぁ。」でいいと思う。

でもまぁ何度も言うけど昔と違って最近は面白くなくなってるけどね。
祭り=DQNがやるものってなってるからねぇ。
昔は老若男女みんなで楽しくって感じだったのにね。
変なとこだけ岸和田風を取り入れてさ。
もっと、昔のころにはあった「富田林らしさ」ってのを見直して欲しいものだよ。
昔って言っても俺が言う昔やからほんの5年10年前の話よ。

まぁ不景気で町内会全体がお金なくて、
だんじりのお金出してるのがや○ざやからそうなってるってのもあるんやろうけどさ。。。

ってか祭りスレになりつつあるね。&ほぼ地元民(ってか俺)しか語られへんやんこのスレ。
頑張って使わせていただきますわ管理人サマ。(´_ゝ`)b 俺ッちガンバッテマス

97追伸:2003/06/21(土) 06:04
ちなみに、だんじりが暴れるのは昼ごろの神社でのと、
夜の駅のロータリーのやつでしか暴れへんようにしてるで。
普通の道では暴れたりせぇへん。
流石にその辺は気使ってくれてる。


それ以外は移動の時にマイクで掛け声言うてたりするだけやし。
(まぁそれでもうるさぃんかもせぇへんけど。
何やったら綱持って子供とかと一緒に引いててもおもろいし。
(暴れてる時以外は、言うたら普通に引かせてくれる。
ってか言わんと引いてても誰も文句言わん。

98無記名さん:2003/06/21(土) 17:03
いや、とっても参考になります。
東北人としては、、、(((;゜Д゜))))ガクガクブルブル

9994:2003/06/22(日) 02:34
確かに参考になりますなあ。
金出しとるのがや○ざさんだと言うと、花○殿辺りなん?
ってかフラワーあきんどはホンマにや○ざなん?

100無記名さん:2003/06/22(日) 15:45
あ、言っておきますが全部の町会がや○ざ繋がりなわけではないですよ。

まぁ見れば一目でわかりますが、DQNが集まって引いてるようなだんじりのとこは大方そっち絡みだと考えていいでしょう。

でも町内でお金出し合って頑張ってる町も結構あるということをお忘れなく。

101無記名さん:2003/07/16(水) 17:09
現在の日本において北海道と沖縄には、
被差別部落は存在しません。
北海道ではもともとアイヌの世界にそうした差別はありませんし、
明治以後に本州から大量に移住した人々も、
特に差別の問題を持ち込んではいないと思います。

沖縄には「アンニャ」という一種の芸能民がいて、
被差別者だったと安良城盛昭氏が指摘しています。
「アンニャ」は行脚から来た言葉で本州からのよそ者だった
かもしれませんが
差別と言っても、本州・四国・九州の被差別民とは異なる要因
だったようです。
だから、北海道・沖縄には被差別部落は無かったのです。

102無記名さん:2003/07/16(水) 17:10
被差別部落問題があるのは
江戸時代以前に国制のもとの地域だったことに注意すべきです。
なかでも東日本と西日本では差別のあり方に
大きな差異があるのです。

大阪出身と東京出身の2人の歴史家が東京の電車の中で
差別問題について話し始めたところ、
東京出身の歴史家は大きな声で「非人」「穢多」などの言葉を
平気で使うのです。

大阪出身の歴史家が驚いて周囲を見回しながら
「こんな場所でそんなこと言って良いのか」と注意したのですが
東京の歴史家はきょとんと怪訝な顔をしていた、のだそうです。

103無記名さん:2003/07/16(水) 17:11
かように差別問題に関して関東人が「鈍感」だと言っても
間違いは無いと思います。
たとえ悪意によるものではないとしても、
無知、鈍感であるとの誹り(そしり)は免れないでしょう。

この問題を論じる場合、
まず日本列島の中でも地域による実態の違いがあり、
そのことから来る著しい認識の差異があることを肝に銘ずべきです
それを無視しての発言や行動は
誤って人を傷つけることも起こりうるのです。

104無記名さん:2003/07/16(水) 17:19
差別の地域差には、「ケガレ」の認識史の地域差があります。
ケガレとは、人間生活の均衡が、意思ではない何らかの要因で
崩れた時に起こる、という観念と言っていいと思います。

こうした観念は人類に共通していると思いますが
最も基本的なのが、人の死と子供の誕生に関するケガレです。

人が死ぬと、周辺社会には不均衡が生じます。
コレが「死穢」の発生です。
それが平常に戻るまでは一定の時間を要するわけで
その期間、忌み籠もりをしなくてはならないケガレの期間です

105無記名さん:2003/07/16(水) 17:25
一方、子供の誕生はめでたいことでもあるのですが
やはり新しい人間が生まれると
周囲が落ち着いた状態に戻るまでは若干時間がかかります。

その期間が「産穢」と呼ばれ、ケガレの状態と考えられてきました

その他、火事には「焼亡穢」、殺人・盗みの罪には「罪穢」。
これらは世界共通の観念ですが、
対応には民族・地域の違いがあります

106無記名さん:2003/07/16(水) 17:30
産んだら胎盤を埋める習慣がありました。

縄文時代には、住居の入り口や辻のど真ん中に埋めて
人が踏みつける部分に埋めました。
人に踏まれれば踏まれるほど、子供が良く育つと思われていました

弥生時代になると、住居から離れたところに「産室」をもうけて
そこで産み、胎盤はその下の地中深くに埋めたのです。
とにかく遠くに埋めようという考え方で、
室町時代の将軍家では
山中に埋めに行かせています。

107無記名さん:2003/07/16(水) 19:13
おれのうまれた東北にはそういう話は全くなーい
部落=地域で使うもん。
ウチの部落はどーのこうのって。

気をつけなきゃ

108無記名さん:2003/07/16(水) 20:26
研究者はこの2つの胎盤の対処の内、
前者を縄文的、後者を弥生的とよんでおり、
前者は穢れに対しておおらかであり、
後者は敏感で穢れを忌避する傾向が強いと捉えています

縄文文化と弥生文化を単純に東西に分けることは出来ませんが
弥生文化が紀元前3世紀以降、列島西部に入ってきてから、
おおよそ列島東部は縄文文化、西部が弥生文化と言う時代が
200年ほど続いたと考えられています。

109無記名さん:2003/07/16(水) 20:31
穢れに対する対処の東西の差異は、
その頃まで遡ることが出来ます。
源流は縄文人と弥生人の差異に求めることが出来るでしょう

日本国はケガレを忌避する列島西部を中心に興り、
ケガレは伝染するものだと考えられてきました。

もちろん、そのような観念は実態のないもので
ただ、古代の西日本の人たちにあった観念でしかないのです

110無記名さん:2003/07/16(水) 20:36
ケガレが社会問題になるのは
9世紀半ばからです。

貴族や官僚の町である平安京は
やがて各地から商人などの多様な出入りがありました

都市化と共にケガレをキヨメることが
京都において重大な意味を持ち始めます。

111無記名さん:2003/07/16(水) 20:37
天皇に近い人間が死んでも、天皇が「穢れ」た状態とされ
清めるための手続きを法制化し、穢れた人間が何日間か
家に籠もる一定期間の「忌籠」(いみごもり)が義務づけられました。
「死穢」は7日など、ケガレの正確によってその期間は様々でしたが
その間は家に籠もっていなければ
ケガレを清めることは出来なかったのです。

112無記名さん:2003/07/16(水) 20:49
9世紀半ばの大飢饉であちこちに餓死者がでると、
その処理と葬送、つまりキヨメを、
政府は悲田院という、
孤児や重病人の国家的救済施設の人々に命じました

悲田院は奈良時代からの物。
平安のその時点で悲田院の人々が差別されていたわけではなく
悲田院で孤児だった人が成長して
一般の戸籍に登録された記述が残っています。

特定の集団にケガレのキヨメを命じた事の
史料上の初見ではあります。

113無記名さん:2003/07/16(水) 20:51
やがて10世紀にはいると、国家は財政難に陥ります
悲田院の人々もその職能で自分たちなりにやっていかざるを
得なくなります。

そのなかで11〜12世紀頃、
初めて「非人」と呼ばれる集団が史料上に現れます。
悲田院の構成員としてです。

114無記名さん:2003/07/16(水) 20:56
この人達は仏教の修行として托鉢などをしていました。
同時に、死体の葬送に関わりました。
さらに罪人にたいする刑罰執行刑吏としても活動を始めます。

それは罪のケガレのキヨメでありました。

115無記名さん:2003/07/16(水) 20:57
非人の集団が集まる拠点は「宿」と呼ばれていました。
宿は遅くとも戦国時代には西日本の一部でなぜか
「夙」と書くようになり、
非人の宿を指す差別語になっていきました

本来、宿は宿場などのように
人の集まる交通上の拠点という意味の言葉です。
差別語になるのはまだあとの時代の事であり
この時代には決して差別語ではありませんでした

116無記名さん:2003/07/16(水) 21:17
また、特に注意すべきは
非人は「人に非ず」と書きますが、
決して差別語ではなかったということです。

奈良の興福寺に見事な阿修羅の彫刻があります
当時はあのように異様な姿をして仏を守護する役の
人を「非人」と称しています

117無記名さん:2003/07/16(水) 21:19
つまり、
まさしく人の力を越えた存在として
「人ならぬ姿をした人」という意味で使われています

しかもこの時期の非人は
宗教に関する役職「神人」「供御人」と基本的に同じ身分、
すなわち神仏の直属民でした。

118無記名さん:2003/07/16(水) 21:20
当時の人々は非人に手をかけると神罰・仏罰がたちどころに
くだると考えていました。
ですから、非人は人々に恐れられていたことは確かですが
それは賤視されていたというより畏怖されていたと
考えるべきだと思います。

119無記名さん:2003/07/16(水) 23:04
差別は日本の資本主義社会に必要なシステムとして
取り入れられているのだよ、、、

120無記名さん:2003/07/16(水) 23:28
>119
ちゃうわ!!

121無記名さん:2003/07/16(水) 23:52
>>101-118
なかなか興味深いので、参考にした書物などあれば教えてもらいたいなぁ

122無記名さん:2003/07/17(木) 04:44
俳優も人にあらずってかくねぇ。

123無記名さん:2003/07/17(木) 04:45
>>119
ゴーマニズム?(笑

124無記名さん:2003/07/17(木) 15:05
実際、この時期には非人自身も、
自分たちは神仏のために「清目」(キヨメ)という
重要な仕事をしているのだと誇りを持っていました。

125無記名さん:2003/07/17(木) 15:07
鎌倉時代前期に奈良の非人が書いた訴状が残っており
その中で非人は自らを
「本寺最初、社家方々の清目、重役の非人」
と称しています。

126無記名さん:2003/07/17(木) 15:09
「重役」とは大変に重要な役目という意味であり、
非人達は「清目」という「重役」を職能としていることを
周囲に対して堂々と誇らかに公言していたのです。
まったく賤視されている気配はありません。

127無記名さん:2003/07/17(木) 15:13
ところが、16世紀になると、非人が自らを「人非人」といい、
我々は賤しめられていると自ら認めるようになってきます。

128無記名さん:2003/07/17(木) 15:15
江戸時代になると更に露骨になり、
最初から我々は「穢れ」た者なのだと
自分で言う様な状態にまでなっていきますが
鎌倉時代までは非人にはそういった意識はまったくなかったのです

129無記名さん:2003/07/17(木) 15:16
鎌倉時代に描かれた「一遍聖絵」をみますと
非人が数多く描かれています。
白い覆面に濃い柿色の服。(もののけ姫にでてたような・・・)
彼らは堂々と背筋の伸びた形で描かれています。

130無記名さん:2003/07/17(木) 15:27
またこの頃は「放免」という死刑執行人が居ましたが
彼らはもと罪人で一度牢獄につながれ、刑期を終えた者です。
そのあとで検非違使庁という天皇直属の官庁に属し、
罪人逮捕・死刑執行・葬送にかかわっていました
これは「今昔物語集」にも書かれています。

131無記名さん:2003/07/17(木) 15:28
またこの天皇直属下級役人は格好が派手で、
顎髭を生やしていました

132無記名さん:2003/07/17(木) 15:29
祭りの先頭を歩いて鉾を持ってケガレをはらったりもしました

祇園祭の先頭も神仏関係の非人が行っていました

133無記名さん:2003/07/17(木) 15:30
放免もケガレを清める職能民であり、
誇りを持っていたと思います。

134無記名さん:2003/07/17(木) 17:48
そして放免はともかく非人自体も天皇直属の
検非違使庁の管轄下であり、京都の掃除・清目に携わりました

「坂者」という非人は交通税免除され
鍛冶などの職能民と同様、租税を免除された職人でした。

「清目」のことばは被差別民の呼称ではなく
本来は清掃などを指す普通の言葉でした。
例えば ある官僚が朝廷の庁舎の「清目」を職にしている、
と自ら言っており、この言葉が本来差別語ではなかった
事を良く物語っています。

135無記名さん:2003/07/17(木) 17:49
さて、
同じ頃、「河原人」「河原細工丸」ほか、
少し後で「河原者」などの呼称で
史料に現れてくる職能集団がありました。

かれらは
平安時代の源氏の日記「左経記」(1016)にでてきます。
「河原人」が牛の皮をはぎ、その内蔵から「牛黄」(ごおう)を
(貴重な薬だった)取り出したというのが史上最初の記述です。

136無記名さん:2003/07/17(木) 17:51
南北朝期には
「河原細工丸」がはきものを祇園社に献納していたとあります

この職能集団は非人同様に遅くとも11世紀以降には
成立していました。

137無記名さん:2003/07/18(金) 19:18
「河原人」「河原細工丸」は非人とは違って
僧侶の姿はしておらず、
俗人の名前を名乗っていました。

この人々は、主に死んだ馬や牛から皮を精製する仕事に
携わっていました。
そして皮をなめす仕事は主に河原で行われたため、
その呼称が生まれたものと思われます。

138無記名さん:2003/07/18(金) 19:28
畿内や西国では、犬や牛馬の死も
人間の死と同様に「ケガレ」と考えており
その葬送や解体はやはり「キヨメ」の仕事になります

従って、「河原人」「河原細工丸」もまた
「キヨメ」を職能とする人々と
当時の社会では考えられてきました。

139無記名さん:2003/07/18(金) 19:31
同時に15世紀までくだると、
「河原人」「河原細工丸」は
巨石や樹木を動かしたり井戸を掘ったりする仕事にも
従事しました。
人間の社会と自然の社会との間の均衡が崩れた状態から
ケガレが発生することは前にもお話ししましたが
上記の作業も自然に大きな変更を加えることになります。

140無記名さん:2003/07/18(金) 19:32
ですから
「河原人」「河原細工丸」はそれができる
特別な職能集団だったという認識が当時の社会にはあったのです

141無記名さん:2003/07/18(金) 19:33
「河原人」「河原細工丸」も非人と同様、
14世紀までは神仏に仕える直属民であり、
職能民として特権を保証された人々でした
「清目給」や「河原人給」という、鍛冶などと同様に
年貢を免除され、しかも田を貰い受ける特権がありました。

142無記名さん:2003/07/18(金) 19:35
牛や馬自体、この頃には未だ「畜生」とは呼ばず、
14世紀までは人間の世界を越えた存在として
これを虐待すれば神罰・仏罰が下るとも考えられていました。
そうしておのずと、それを扱う人々も
聖なる領域に属する人たちだったのです。

143無記名さん:2003/07/18(金) 19:37
たとえば、
北野社という社に属した「六郎男」という河原細工丸が
1307年に訴状を書いており、
「北野神社文書」に残っています。
その中で彼は自分自身のことを「御清目」と名乗っています
ここにも、彼らが非人や放免と同様に
神仏に直属する職能民としての誇りを持っていた事が窺えます

144無記名さん:2003/07/18(金) 19:40
それ故、
彼らを「身分外の身分」と捉える事は誤りだと私は思います。
この時期の非人放免河原人の集団を
15世紀以降はとくに江戸時代のように
社会から貶められて疎外された被差別身分と捉えることは
その実態を大きく見誤る事になると思います。

145無記名さん:2003/07/18(金) 19:45
これはやはり、
列島の東部と西部の社会の、
ケガレに対する感覚の違いに起因すると考えられます

もともと、列島東部では狩猟が盛んで、東国には広大な「牧」(まき)が
設定されていました。
家の傍で飼っていたのではなく、大きな牧場で飼っていたのです
東の王権、鎌倉幕府はその馬に乗る戦闘集団、武士に支えられていたのです。

146無記名さん:2003/07/18(金) 19:46
それ故、獣を殺し、食べることには西方ほど敏感ではなかったのかも
知れません。

実際、現在でも馬肉を好んで食べる地域は信濃・甲斐・熊本であり、
これらの地域は「牧」が設定された地域なのです。

147無記名さん:2003/07/18(金) 19:48
さて、
13世紀後半になると「穢多」という言葉が使われるようになります
これは読んで字のごとく「けがれがおおい」。
初めから差別的な意図を持って用いられたことばでしょう

148無記名さん:2003/07/18(金) 19:55
穢多の文字が初めて使われたのは
これまで「塵袋」という13世紀の百科事典だというのが通説でしたが
これで見受ける穢多は後で書き入れられたとする見方があり
すると13世紀末の「天狗草紙」という絵巻が最初と言うことになります

149無記名さん:2003/07/18(金) 19:57
「天狗草紙」は、天狗が悪事を働く光景を描いたもので
当時の延暦寺の僧侶らが武装して三井寺と戦いお互いに焼失するなどの事件
が天狗の仕業だとして描かれています

150無記名さん:2003/07/19(土) 16:48
またこの絵巻は
一遍や、このころ増えた芸能をしながら旅する人々を激しく非難しています。

「穢多」という字が使われているのは
こうした文脈を持つ絵巻の中で、調子に乗りすぎた天狗を
捕まえるのが「穢多」でした。

151無記名さん:2003/07/19(土) 16:50
天狗とは鳶の形で描かれるのですが
それに向かって「穢多童」が鉤に刺した動物の肉を投げ上げ
食いついた空中の鳶を引きずりおろし首をねじり殺した
天狗の敵でした。

152無記名さん:2003/07/19(土) 16:52
その絵の中には
牛馬の皮を干している場面もあり
「穢多童」が「河原細工丸」であることは間違いないと考えられます

しかしこの人々に対して
「ケガレ多し」という字を用いたのは
明確に差別意識を背景にしていると思います

153無記名さん:2003/07/19(土) 16:57
また先の「塵袋」の中で
「エタ」とは鷹狩りの時に餌を探す役「餌取」から転訛した言葉だと説明され
最後に「イキモノヲ 殺テウル エタ躰ノ悪人也」
と書かれています

この書物では片仮名で「エタ」と書いていますが
書き加えて「穢多」の文字がありました
それが後年書き加えられたかどうかはともかく
生き物を殺して肉を売る「悪人」だという差別的な視点でエタを
見てたことは明らかです

154無記名さん:2003/07/19(土) 16:58
これは
非人河原人を神仏の直属民と見ていた時期とは
はっきり異なった視点だと言うことを覚えてください

155無記名さん:2003/07/19(土) 17:02
その背景には
神仏の権威の凋落にともない
ケガレに対する社会の対処の仕方の変化があったと考えられます

つまり
それまでの畏怖すべき常ならぬ事態である「ケガレ」を
「汚穢」として嫌悪し忌避するような意識がこの頃からとみに強くなってきます
それは
人間と自然の関係が変化して
社会が「文明化」したのが原因かも知れません

156無記名さん:2003/07/19(土) 17:04
このように
「穢多」という言葉は13世紀後半に生まれ
15世紀になると
畿内では社会に定着していきますが
注意すべきは「天狗草紙」に描かれた「穢多」が
決して所謂「賤民」ではなかったという点です

157無記名さん:2003/07/19(土) 17:08
仏の敵である天狗を捉え
殺してる点から解るように
この時期の穢多は非常に強力な
おそるべき力を持つ人と考えられていました

それは「天狗草紙」のみことのりに
天狗にとっての「おそろしきもの」として
密教の呪文等に併記して「穢多のきもきり」
つまり穢多に肝を切られる事が挙げられているのです

158無記名さん:2003/07/19(土) 17:11
ですから
「天狗草紙」や「塵袋」の作者がもつ「悪」や「汚穢」のイメージを
勝手に
河原細工丸という職業に代表させてしまい
しかも
「穢多」という新語を名付けてしまったのです

159無記名さん:2003/07/19(土) 17:14
しかし
この時代はまだそうした差別意識は一般化していない社会だったと
考えるべきでしょう

それは同じ頃
「悪人」こそ仏の心に近いとする親鸞の教えや
先のようにケガレたものも救われると説いた一遍や
さらに「賤民」の子であった日蓮らが
社会的影響力をまだ持っていたのですから。

160無記名さん:2003/07/19(土) 17:16
この場合の「悪」とは
善悪の悪ではなくて
むしろ制御不能な巨大な力のことを指していました

ですからこの時代の悪党は決して単純な「わるもの」ではなかったのです

161無記名さん:2003/07/20(日) 00:42
差別された人々については

茶摘み・茶売りが覆面をして行っており、非人と不可分の関係とされていました
(丹生谷哲一氏の研究に表れています)
この頃、茶や華も芸能の形を整えてきますが
茶道具を売っていたのが、ケガレを肯定する一遍に関係深い「時衆」と
関わりある遍歴の僧侶でした
華についても
菊作りに携わったのが、非人河原者の流れを組む人々だったことが判っています

162無記名さん:2003/07/20(日) 00:44
また室町時代には
河原者は庭園造りに関わるようになります

牛馬の皮を扱うだけでなく、木や石を動かすのも河原者の仕事でしたが
造園もするようになり
河原者は「御庭者」とも呼ばれるようになりました

163無記名さん:2003/07/20(日) 00:47
その中から
善阿弥のように、後世まで名前を残した優れた造園家が生まれています。

15世紀には、これら以外に猿楽の芸能に関わる人も
差別され賤視される面を持つようになりました

とまれ
そうした人々によって芸能が生み出され、洗練されていったことを
知っておかなくてはなりません

164無記名さん:2003/07/20(日) 00:52
併せて注意したいのは
14世紀までは朝廷の宮司に統括され、
天皇や貴族とも芸能を通じて関わっていた遊女の社会的な地位が低下し
次第に賤視されていったことです

15世紀以降、遊女は傾城屋と言う家を持って客を呼び
辻子君(づしくん)と呼ばれていました
また京都などの道で客を取る立君と呼ばれた遊女も居ましたが
いずれもその頃になるとケガレた生業に従事する女性として
扱われるようになっていきます。

165無記名さん:2003/07/20(日) 07:15
身売りによって「遊女に身を落とす」女性が現れるのもこのころであり
傾城屋の集まっているところは
「地獄辻子」「加世辻子」(カセは女陰のこと)など
明らかに差別された名称で呼ばれるようになります

166無記名さん:2003/07/20(日) 19:07
宮廷への出入りを許されていた時代から見ると
遊女の地位は劇的に低下したと言えるでしょう

そして、その背景にあったのは、やはりケガレに対する忌避であり
セックスもケガレと関連づけて捉えられるようになってきたと
考えられます

167無記名さん:2003/07/20(日) 19:08
そして更に
それが生理に伴う血のケガレとも結びつき
やがて女性に対する社会的な差別に繋がっていくことになります

168無記名さん:2003/07/20(日) 19:11
江戸時代になると
被差別民は身分として固定化されていきます
将軍綱吉の時代に有名な「生類憐れみの令」や
血や死のケガレを排除する細かい規定を持った「服忌令」などの
法令が出されますが

169無記名さん:2003/07/20(日) 19:14
それらの法を通じてケガレを忌避する感覚は
東日本にも持ち込まれ、
城下町には被差別民が移住するようになりました

こうして差別が固定されたのは
元禄の頃と考えられますが、様々な歴史を背景としている被差別民の呼称は
地域によって異なっており
一様ではありません

170無記名さん:2003/07/20(日) 19:17
「穢多」「非人」の呼称は幕府によって固定された被差別民について
用いられましたが
むしろそれよりも
「皮多」「鉢屋」「茶筅」など、長い歴史を持った呼称の方が
西日本では広く用いられました

171無記名さん:2003/07/20(日) 19:19
「皮多」はまさしく皮を扱う人々の意味であり
畿内を中心に広い範囲で用いられました

また「鉢屋」や「茶筅」という呼称が
茶筅を売り歩いた鉢叩と関わりを持っていることは
間違いありません。

172無記名さん:2003/07/20(日) 19:24
「茶筅」は中国・四国地方に見出され、
「鉢屋」は山陰を中心に用いられた呼称です

その他、加賀能登越中には「藤内」と言う呼称もありますが
なぜそういうのかは明確には解っていません

ともかく
江戸時代にも東日本は西日本に較べて被差別民の数は少なく
その集落も
西日本に較べると規模が小さかったことは事実です

173無記名さん:2003/07/20(日) 19:27
また「野守」「林守」などと呼ばれる
被差別民も居たことがわかっています。

繰り返しになりますが
江戸時代まで「日本国」の制度の外にあった沖縄・アイヌには
こうした被差別部落は存在しません

現在の日本人は決して一様ではないのです

174無記名さん:2003/07/20(日) 19:30
そして
被差別民・被差別部落の呼称は地域によって様々であり
その呼称の歴史、それが被差別民の呼称になった理由も様々で
決して一様に考えられないことを十分に認識しておく必要があります

175無記名さん:2003/07/20(日) 19:33
被差別身分と言えばすぐに
「穢多」や「非人」を頭に浮かべる人が多いと思いますが
それらは全国的に共通した呼称ではないのです

また「藤内」は同じ北陸でも越前や越後では使われていませんし

大阪で「藤内」と言っても
実際には誰も見向きもしないでしょうが
実はそれは「穢多」と言ってしまうのとおなじなのです

176無記名さん:2003/07/20(日) 19:36
ただ、歴史学においても
この分野の研究はまだまだ不足していると思います
もちろん戦前から研究はあり、
敗戦後の一時期、
急速に研究が進みましたが、本格的な研究は進み始めたのは
1970年代後半に入ってからのことだと思います

177無記名さん:2003/07/20(日) 19:42
特に最近では
近世に幕府が政治的な意図で被差別部落を設定したという
これまでの通説に対する批判をはじめ
活発に公然とした議論が行われるようになってきました

状況は確実に変化しつつあると思いますが
研究が進んで様々なことが明らかになってくるとともに
逆に如何にこの分野に未開拓、未解決な問題が多いかが
判りつつあるのが現状です

178無記名さん:2003/07/20(日) 19:46
研究は緒についたばかりなので
今後広い視野の中で研究を推進して行かなくてはなりません

また、被差別民がその生活の中で創造してきた物の大きさについて
更に考えていくことも、これからの課題として残されていると思います

茶道や華道や能楽の源流は、広い意味で、
河原者・非人と呼ばれた人々と不可分であり
こうした芸能の創造にこれらの人々が大きな寄与をしたことは
間違いありません。

179無記名さん:2003/07/20(日) 19:51
室町の美しい庭園も、
間違いなく「御庭者」と呼ばれた河原者の創りだした芸術でした

また加賀能登越中で「藤内」と呼ばれた人々の中には
「藤内医者」と呼ばれて医者として扱われている人たちがいた事も
判明しています
「解体新書」が翻訳されるきっかけとなった人体解剖を行ったのも
「穢多」と呼ばれる人々だったのです

180無記名さん:2003/07/20(日) 19:54
このように、医学の発達にも、
被差別身分の人々が大きく寄与していたことは
決して見落としてはならないと思います

その他にも様々な分野で被差別身分の人々の創りだした物
その遺産が多くあると思いますが
これを更に追及していく事が必要であると、私は思います。

181無記名さん:2003/07/20(日) 19:55


、、、ふう。おしまい。「歴史を考えるヒント」でぐぐって。

182無記名さん:2003/08/15(金) 21:32
>>1
アホ言え、そこのけそこのけW1丁目が通るだったぞ。あいつらが我々を収奪してきたんじゃ。
拙者の頃は喜志中がなかったからえらい目に負うたわい。素性がばれるので具体的に話せない。


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