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富田林の部落

1無記名さん:2002/09/26(木) 15:10
行った事あります?
行くと、まだまだこういう差別が残ってる事を実感して
鬱になります。

101無記名さん:2003/07/16(水) 17:09
現在の日本において北海道と沖縄には、
被差別部落は存在しません。
北海道ではもともとアイヌの世界にそうした差別はありませんし、
明治以後に本州から大量に移住した人々も、
特に差別の問題を持ち込んではいないと思います。

沖縄には「アンニャ」という一種の芸能民がいて、
被差別者だったと安良城盛昭氏が指摘しています。
「アンニャ」は行脚から来た言葉で本州からのよそ者だった
かもしれませんが
差別と言っても、本州・四国・九州の被差別民とは異なる要因
だったようです。
だから、北海道・沖縄には被差別部落は無かったのです。

102無記名さん:2003/07/16(水) 17:10
被差別部落問題があるのは
江戸時代以前に国制のもとの地域だったことに注意すべきです。
なかでも東日本と西日本では差別のあり方に
大きな差異があるのです。

大阪出身と東京出身の2人の歴史家が東京の電車の中で
差別問題について話し始めたところ、
東京出身の歴史家は大きな声で「非人」「穢多」などの言葉を
平気で使うのです。

大阪出身の歴史家が驚いて周囲を見回しながら
「こんな場所でそんなこと言って良いのか」と注意したのですが
東京の歴史家はきょとんと怪訝な顔をしていた、のだそうです。

103無記名さん:2003/07/16(水) 17:11
かように差別問題に関して関東人が「鈍感」だと言っても
間違いは無いと思います。
たとえ悪意によるものではないとしても、
無知、鈍感であるとの誹り(そしり)は免れないでしょう。

この問題を論じる場合、
まず日本列島の中でも地域による実態の違いがあり、
そのことから来る著しい認識の差異があることを肝に銘ずべきです
それを無視しての発言や行動は
誤って人を傷つけることも起こりうるのです。

104無記名さん:2003/07/16(水) 17:19
差別の地域差には、「ケガレ」の認識史の地域差があります。
ケガレとは、人間生活の均衡が、意思ではない何らかの要因で
崩れた時に起こる、という観念と言っていいと思います。

こうした観念は人類に共通していると思いますが
最も基本的なのが、人の死と子供の誕生に関するケガレです。

人が死ぬと、周辺社会には不均衡が生じます。
コレが「死穢」の発生です。
それが平常に戻るまでは一定の時間を要するわけで
その期間、忌み籠もりをしなくてはならないケガレの期間です

105無記名さん:2003/07/16(水) 17:25
一方、子供の誕生はめでたいことでもあるのですが
やはり新しい人間が生まれると
周囲が落ち着いた状態に戻るまでは若干時間がかかります。

その期間が「産穢」と呼ばれ、ケガレの状態と考えられてきました

その他、火事には「焼亡穢」、殺人・盗みの罪には「罪穢」。
これらは世界共通の観念ですが、
対応には民族・地域の違いがあります

106無記名さん:2003/07/16(水) 17:30
産んだら胎盤を埋める習慣がありました。

縄文時代には、住居の入り口や辻のど真ん中に埋めて
人が踏みつける部分に埋めました。
人に踏まれれば踏まれるほど、子供が良く育つと思われていました

弥生時代になると、住居から離れたところに「産室」をもうけて
そこで産み、胎盤はその下の地中深くに埋めたのです。
とにかく遠くに埋めようという考え方で、
室町時代の将軍家では
山中に埋めに行かせています。

107無記名さん:2003/07/16(水) 19:13
おれのうまれた東北にはそういう話は全くなーい
部落=地域で使うもん。
ウチの部落はどーのこうのって。

気をつけなきゃ

108無記名さん:2003/07/16(水) 20:26
研究者はこの2つの胎盤の対処の内、
前者を縄文的、後者を弥生的とよんでおり、
前者は穢れに対しておおらかであり、
後者は敏感で穢れを忌避する傾向が強いと捉えています

縄文文化と弥生文化を単純に東西に分けることは出来ませんが
弥生文化が紀元前3世紀以降、列島西部に入ってきてから、
おおよそ列島東部は縄文文化、西部が弥生文化と言う時代が
200年ほど続いたと考えられています。

109無記名さん:2003/07/16(水) 20:31
穢れに対する対処の東西の差異は、
その頃まで遡ることが出来ます。
源流は縄文人と弥生人の差異に求めることが出来るでしょう

日本国はケガレを忌避する列島西部を中心に興り、
ケガレは伝染するものだと考えられてきました。

もちろん、そのような観念は実態のないもので
ただ、古代の西日本の人たちにあった観念でしかないのです

110無記名さん:2003/07/16(水) 20:36
ケガレが社会問題になるのは
9世紀半ばからです。

貴族や官僚の町である平安京は
やがて各地から商人などの多様な出入りがありました

都市化と共にケガレをキヨメることが
京都において重大な意味を持ち始めます。

111無記名さん:2003/07/16(水) 20:37
天皇に近い人間が死んでも、天皇が「穢れ」た状態とされ
清めるための手続きを法制化し、穢れた人間が何日間か
家に籠もる一定期間の「忌籠」(いみごもり)が義務づけられました。
「死穢」は7日など、ケガレの正確によってその期間は様々でしたが
その間は家に籠もっていなければ
ケガレを清めることは出来なかったのです。

112無記名さん:2003/07/16(水) 20:49
9世紀半ばの大飢饉であちこちに餓死者がでると、
その処理と葬送、つまりキヨメを、
政府は悲田院という、
孤児や重病人の国家的救済施設の人々に命じました

悲田院は奈良時代からの物。
平安のその時点で悲田院の人々が差別されていたわけではなく
悲田院で孤児だった人が成長して
一般の戸籍に登録された記述が残っています。

特定の集団にケガレのキヨメを命じた事の
史料上の初見ではあります。

113無記名さん:2003/07/16(水) 20:51
やがて10世紀にはいると、国家は財政難に陥ります
悲田院の人々もその職能で自分たちなりにやっていかざるを
得なくなります。

そのなかで11〜12世紀頃、
初めて「非人」と呼ばれる集団が史料上に現れます。
悲田院の構成員としてです。

114無記名さん:2003/07/16(水) 20:56
この人達は仏教の修行として托鉢などをしていました。
同時に、死体の葬送に関わりました。
さらに罪人にたいする刑罰執行刑吏としても活動を始めます。

それは罪のケガレのキヨメでありました。

115無記名さん:2003/07/16(水) 20:57
非人の集団が集まる拠点は「宿」と呼ばれていました。
宿は遅くとも戦国時代には西日本の一部でなぜか
「夙」と書くようになり、
非人の宿を指す差別語になっていきました

本来、宿は宿場などのように
人の集まる交通上の拠点という意味の言葉です。
差別語になるのはまだあとの時代の事であり
この時代には決して差別語ではありませんでした

116無記名さん:2003/07/16(水) 21:17
また、特に注意すべきは
非人は「人に非ず」と書きますが、
決して差別語ではなかったということです。

奈良の興福寺に見事な阿修羅の彫刻があります
当時はあのように異様な姿をして仏を守護する役の
人を「非人」と称しています

117無記名さん:2003/07/16(水) 21:19
つまり、
まさしく人の力を越えた存在として
「人ならぬ姿をした人」という意味で使われています

しかもこの時期の非人は
宗教に関する役職「神人」「供御人」と基本的に同じ身分、
すなわち神仏の直属民でした。

118無記名さん:2003/07/16(水) 21:20
当時の人々は非人に手をかけると神罰・仏罰がたちどころに
くだると考えていました。
ですから、非人は人々に恐れられていたことは確かですが
それは賤視されていたというより畏怖されていたと
考えるべきだと思います。


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