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662凡人:2015/05/18(月) 22:28:03 ID:qTuIL1.o0
週刊『前進』(2280号6面4)(2007/01/29 )
  20歳、共に闘った“圧殺の森”(高崎経済大学闘争)
 “必ず取り戻すからな”
 群馬星野文昭さんの再審を実現する会 伊藤成雄
 昨年12月4日、徳島刑務所に行き、星野文昭さんと面会しました。実に23年ぶりに会うことができて、星野さんは、「一番会いたい人に会えた」と迎えてくれました。徳島も冬は寒く、こんなところから一刻も早く取り戻さねば、という気持ちを強くしたものです。
 甘糟義信、富山保信両君と一緒に行き、3人で面会しました。真ん中に座った私の左右から両君が交互に星野さんに獄中処遇について矢継ぎ早に質問し続けました。
 私は、年は取っても星野さんのしぐさ・雰囲気が学生時代と変わらないなと感慨もひとしおでした。
    ☆
 私が星野文昭さんと最初に出会ったのは1966年の秋。場所は高崎経済大学の学生ホールの一室、自治会室か代議員室。あれから40年の歳月が流れ、当時20歳だった私たちは60歳になりました。
 当時、高崎経済大学は市長の大学への不当な介入に対して学生が怒りの決起をしていました。市長による不正入学の強要に対する闘い、私学化に反対する闘い、授業料値上げ反対の闘い。(この闘いは映画『圧殺の森』として描かれました)
 この闘いの渦中に星野さんは高崎経済大学に入学したのです。
 星野さんに会った第一印象は大人の雰囲気をもった優等生です。
 その時は、星野さんは私が責任者をしていた学内サークル、マルクス主義研究会に入りたいとやって来ました。それ以来学内闘争やベトナム反戦闘争など政治闘争についてともに語り、学び、闘ってきました。とにかくまじめで読書家、いつも本を小脇に抱えているイメージは消えません。
 そんな彼が、私たちが退学になって以降も大学内で「自治活動に関する規定」という超反動的な学内規定下で闘いを指導し、69年6月には大学当局に認めさせる自治会執行部選挙を実現し、副委員長に立候補し当選したのです。
 69年の11月決戦、三里塚闘争などに参加し、71年の2、3月の仮処分反対闘争では先頭で闘い、それ以降、三里塚現地に常駐し闘い続けました。 71年7月と9月の三里塚闘争で不当な指名手配を受けながら闘いぬき、沖縄のペテン的な返還協定の批准に反対する闘いの先頭に立ったのです。
    ☆
 71年11・14渋谷の闘いがもっている歴史的位置は今日ますます高まり、輝きを増しています。
 現在、沖縄の米軍基地はますます強化されています。あの沖縄返還協定は、沖縄県民に犠牲を集中する許すことのできないものでした。沖縄現地と本土で決起した労働者、学生の闘いは正義の闘いであったことが明らかになっているのです。
 当時の佐藤内閣は渋谷の闘いに大打撃を受け、その報復として、星野さんに無期懲役という弾圧をかけているのです。絶対に許すことはできません。
 星野さんを取り戻すこと、それは今日改憲に突き進む日帝・安倍内閣との闘いとしても重要なものです。権力の見せしめ的な弾圧を粉砕することなしに闘いの前進はありません。
 面会の最後に私が「必ず取り戻すからな」と言うと、星野さんはうんうんとうなずきました。
 「無実の星野文昭さんを自由の身にせよ」という声を全国で広めていきましょう。私はその先頭で闘っていきます。
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 ◇高崎経済大学闘争
 65年の入試で教授会が、市長・市議などのコネ受験者約100人を不合格にしたことで問題が発覚、学生自治会は全学ストライキで不正入学阻止闘争に入った。67年には期末試験ボイコットの全学ストライキが闘われ、自治会執行部が停学処分となった(その後、15人退学処分)。この闘いのドキュメントが16㍉映画『圧殺の森-高崎経済大学闘争の記録』(67年/小川紳介監督)。
 ☆写真は映画に登場する20歳の星野文昭さん
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