したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |
レス数が1スレッドの最大レス数(1000件)を超えています。残念ながら投稿することができません。

群馬県民スレ

939凡人:2013/10/31(木) 05:06:17 ID:cRSoFyHg0
*****
山梨県の養蚕業について
http://www.kuwanosato.com/original7.html

・山梨の養蚕の歴史

山梨県の富士吉田、都留、大月、上野原といった地域は、昔から絹織物の産地でした。927年の『延喜式 (えんぎしき)』という書物に、税金として納めたという記述があります。絹織物は古くから貴族の着物に使われていました。江戸時代になると、東山梨や東八代など県内の各地で養蚕がさかんになりました。しかし、このころの養蚕はまだ規模が小さく、カイコの自然孵化に頼る年1回のものでした。

養蚕は明治時代以降、大きく発展します。なぜなら横浜港が開港し、外国との貿易がはじめられたからです。山梨からも絹糸を集めて外国に売って儲ける商人が大勢出てきて、『甲州商人』と呼ばれていました。山梨で織られた絹織物は『甲斐絹(かいき)』と呼ばれていました。県内に、製糸工場もたくさん作られました。絹糸がたくさん必要となり、養蚕の技術も発展しました。その後も長い間、養蚕は山梨県の重要な産業の一つでした。蚕の飼育法の研究や桑の品種改良が進められたり、近隣の家同士での共同作業を取り入れたり、よい絹糸をたくさんとるための工夫がされました。生産高などが全国の上位をしめたことも何度もあります。後に戦争が始まる影響を受けいったん減ることになりますが、戦後にはまた盛んになります。

しかし、その後中国産や韓国産の絹糸が安い値段で輸入されるようになると、養蚕業はだんだん減り始めていきます。養蚕をやめた多くの農家は果樹栽培に切り替え、桑はくだものの木に変わっていきました。くだものの木のための農薬が桑の葉にかかると、その桑は蚕の餌としては使えなくなります。養蚕農家はどんどん減ってしまい、1960年に39,000戸あった農家は、1998年には165戸だけになってしまいました。

現在でも養蚕業を営む農家はあるものの、高齢化に伴う作業能率の低下や後継者となる人がいないということから、全国的にも衰退の一途をたどっている仕事です。

山梨県では2011年には26戸になってしまったというデータもあります。
2-2




掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板