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富士宗学要集について
1
:
管理者
:2009/09/02(水) 21:31:13
ヨシヨシさんからスレッド作成のご提案が有りましたので活発な議論を期待して立ち上げます。提案文はいかの通りです。
【提案文】
富士宗学要集について現在の大石寺が文上からどのように変わって行ったか?を目的にこのスレッドを立てます。富士宗学要集に関することなら何でも気楽に書き込んでください
2
:
ヨシヨシ
:2009/09/02(水) 21:47:41
管理人様
スレッドを立てて頂き、御礼申し上げます。
今後とも宜しく御願い致します。
早速ですが、疑問の文をアップします。
八、三箇の秘法の事
報恩抄下の巻に云はく・天台伝教の弘通したまはざる正法有りや、求めて云はく其の形貌如何、答て云はく所謂三あり・一には本門の教主釈尊・所謂る宝塔の内の多宝塔外の諸仏・上行等の四菩薩の脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には他事を捨てゝ南無妙法蓮華経と唱ふ可し、此の事未だ弘まらず云云、本門の教主は御本尊にて御座すなり、是に能具所具あり当代の法主の所にて習ふ可きなり、名字初心の信行観の事と口伝すべきなり、当家の血脈の大事・一切の法門を是の土代と定め御書等を拝見し奉る可し、其の儀なくんば言行不相応なり、本門の戒壇院の事は十六の大国等の中に無双の山有るべし、略挙経題玄収一部の題目・霊山神力品の時の如し、此の題目を遍分身土益・遍他方土益・十方通同如一仏土の経文は広宣流布の時・弘む可き先相なり、此の三箇の秘法を専とするこそ極楽百年の修行は穢土一日の功徳に足らず、正像二千の弘通は末法の一時に劣れり文、一時に意あるべし時とは時長短に通ず文、時とは感応を義と為す文、教・機・時国・教法流布の時を思ふべし。
付り、三箇秘法とは日蓮日目と御相承し・日興聖人は唯授一人の相承たる間、我が臨終の時・耳にさゝやげと仰せられけるほどに・其の剋に御耳にこそ唱へて聞せ奉り御座す事なり、大聖より御聴聞有る故にこそは日朗の「卿公は御法門聴聞」とて強くも目の耳を引きたまふ日朗の耳引法門とは今の三箇のいはれなり、此の時は日蓮・日目・日興と次第し、御付法は日蓮・日興・日目と次第するなり、此の三箇の秘法は当宗の独歩なり、若し此の御書の旨に背かば八万聖教を胸に浮べ・十二部を具に覚えたる人なりとも・皆解の入らぬ宗旨なれば信の道に背かん・当宗の幡立て所なり云云。
(穆 作 抄より)
3
:
れん
:2009/09/03(木) 18:49:29
左京日教の穆作抄の一文に関連する文献として、京都要法寺広蔵院日辰の造佛論議に引用される左京日教(大石寺顕応房)が奥州実成寺の住僧・泉養房に贈った書状があります。
その引用文は以下の通りです。
「報恩抄に云く、一には本門の〇脇士と為るべし云々、日蓮上人は本門の教主にて御座候、御身上行の化身末法の本尊と仰せられざる程は釈迦を貴むべからず。又云く加様に申し候へばとて釈迦に背き奉て日蓮聖人を仰ぎ奉るには非ず、釈迦と日蓮聖人と互いに主伴と為りて衆生を利益する時の唯時節の御振舞なり、釈迦は今日一世の師、上行菩薩は三世の諸佛の師匠にて往来娑婆世界八千反の間不死の上行菩薩なるが故に、八千世界此死彼生の時は不死の徳を備へ、釈迦は不老是楽上行は不死是常なり」
「三箇の秘法とは佛と土と教法となり、此の事は寿量品の文の底に秘して沈め玉へり、其の中の御本尊は第一の大事なり、釈尊は脱、為度衆生故方便現涅槃し玉ひて、遣使遣告の本門の四依の導師と定め、是を若遇余佛と御定なり、然る処を名字初心の凡夫僧と日蓮聖人を下し、教実弥位弥下の御評判に背き、脱益の佛を信じて下種の本尊を忘るるが故に成佛の事未だ定まらず、不便不便」
まあ、日寛に大成をみる大石寺教学も、実際は安房妙本寺の教学や左京日教の教学を参照しつつ、自山に都合の良いようにアレンジを加え、戒壇本尊と唯授一人血脈相承という石山の独自性?をドッキングさせて形成されたものと言えるものと愚考します。
4
:
犀角独歩
:2009/09/03(木) 19:49:24
れんさん
お久しぶりです。
資料を素直に読めば、影響を受けたのは大石寺であるのは自明なのに、たとえば、高橋粛道さんは『日蓮正宗史の研究』で、日教を日有の弟子であると断定したうえ、日教が日有の影響を受けたというのです。
これだけの大書をものにしながら、結局、大石寺の呪縛から逃れられないと、まったく的はずれな結論に陥ってしまうのだと、半ばお気の毒という気分となりました。
5
:
ヨシヨシ
:2009/09/04(金) 09:03:19
れんさん ご教示宜しく御願いします。この文で法主本仏を説いていますが日教以前にも法主本仏が説かれた箇所あるのですか?
下種の師匠と有つて入滅したまへども別付属有つて・正像末の中に末法の本尊は日蓮聖人にて御座すなり。
然るに日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む、其の次ぎ其の次ぎに仏法相属して当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり、此の法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ故に、生身の聖人に値遇結縁して師弟相対の題目を同声に唱へ奉り信心異他なく尋便来帰咸使見之す、何ぞ末代の我等卅二相八十種好の仏に値ひ奉るべき、当代の聖人の信心無二の所こそ生身の御本尊なれ、此の本尊を口には云へども身に行ぜずば本尊を取り定むべき事なり、釈尊と聖人と互為主伴したまふ事を知らざるなり、能く能く明らむべき事なり、此等の事も追つて下に書くべきなり。
6
:
ヨシヨシ
:2009/09/04(金) 09:19:51
ご教示宜しく御願い致します。
一、日蓮の蓮の字に点を一つ打ち給ふ事は天目が点が一つ過ぎ候なりと申しつる間・亦た一点を打ち給ひて後の玉ひけるは・予が法門に墨子を一つ申し出す可きものなり、さてこそ天目とはつけたれと云云。 編者曰く房州日山写本等に依って此を写す、年月御名判等の三行に二線を引きたるは後人の偽加なるを以つてなり。 房州日山とありますが、ここは坊主の名前が変わっているという事。さらには正本を写すときにはどこから、誰がというように記入するのにこちらには記入された形跡がないということで独歩さんとお話しました。どなたかご教示頂けましたら幸いです。
7
:
ヨシヨシ
:2009/09/04(金) 09:34:31
どなたかご教示御願い致します。類聚翰集私では日教は三箇秘法と説きますが、日蓮開目抄を引いて三大秘法と表現していますがしかし遺文からは三大秘法という単語は見当たりません。そして日教は住本寺の学僧と見られますが何故自分では三箇秘法と説き日蓮の開目抄では三大秘法と説くのか?非常に疑義を思います。ご教示の程宜しく御願い致します。
8
:
れん
:2009/09/04(金) 11:53:08
犀角独歩さん
大変お久しぶりです。全く仰る通りですね。日蓮正宗の石山中心の歴史観では、歴史の真実は見えないですね。高橋さんも、大著を物したものの、結局、宗内でしか通用しない宗内向けのモノしか述べられないのは、日蓮正宗のお坊さんの限界を示していると存じます。
左京日教は百五十箇条を見ますと、一応日有との交流はあったと思いますが、ご指摘のように日有の弟子ではなかったですね。思うに左京日教は要法寺日辰の著に大石寺顕応房として出て来ますから、日有の遷化後に、その学識から、石山に嘱望されて招聘されて入って、日有を失った石山の穴を埋めるべく、当時の石山の教学の体系化に勤しんだものと考えます。
9
:
顕正居士
:2009/09/04(金) 19:16:16
>>5
法主本仏は会長本仏に対抗して創価学会がそういっていることですが、
現前の僧に三宝の総体を認めるという思想は密教では普通なので
(チベットの仏教をラマ教というのはそういう意味です)
ずっと前から日本天台からあったんではないでしょうか。
10
:
ヨシヨシ
:2009/09/04(金) 21:38:26
顕正居士様 初めましてヨシヨシと申します。ご教示御礼申し上げます。顕正居士様、そうしますと天台の時には法主本仏要素はあったというのが順当な流れというのが自然な流れということでしょうか?そうすると、住本寺は天台の流れをどこからか受け継いで教えと考えて取り入れていったと考えていくということですか?
11
:
顕正居士
:2009/09/05(土) 21:01:35
>>10
何坊の学頭であるとか、何寺の住職であるとかの地位は無関係です。
しかし仏像や経巻があっても、戒・学を実修している僧がいなければ
仏教は成り立たないので、現前の僧に三宝の総体を認めるわけです。
むろんそれは本来は左京日教のいうような凡僧にまで及ぼすものでは
ありませんが、密教とともに最澄・空海によってその思想は伝わったと
思います。
12
:
ヨシヨシ
:2009/09/06(日) 02:51:25
顕正居士様ご教示ありがとうございます。独学徒さんから>日本天台の本覚思想が日尊門流に伝わったのは、日尊上人の高弟で住本寺の法灯を継いだ日大上人が、天台の学僧・直兼法印と問答した、日大直兼問答に起因するのではないかと
いうことをご教示いただきました。
また日教がいう法主絶対的というような解釈とは違うということですね。
13
:
顕正居士
:2009/09/06(日) 15:02:19
>>12
そうですね。日大の宗祖上行垂迹論に対して直兼はなぜ宗祖本仏論(塔中直授論)を
主張しないのかと質問しています。日大はそれは広宣流布の際に披露する予定はある、
しかし当面はわかりやすい上行垂迹論で時を待つと答えています。
直兼の「指導」が以後の尊門教学に影響した可能性はあるでしょうね。
14
:
ヨシヨシ
:2009/09/06(日) 15:23:59
顕正居士さんご教示ありがとうございます。石山の独自性が現在の姿となったということですね。しかし日教は住本寺の学僧とお見受けしますが日蓮の言を引いてる中には三大秘法と書かれていますが日教自身が三箇秘法と沢山述べております。ということはこの段階で日教も偽書を用いていたという可能性なのか?或いは三大秘法という言葉は内々に伝わっていたのかというように考えてしまうのですが、富士門流信徒掲示板の管理人様とお話させていただいた時に三大秘法という言葉は出てこないとお聞きしたことがありますがいかが推測されますでしょうか?また私の誤解がございましたお許し下さい。何度もご教示頂き申し訳ございません。
15
:
犀角独歩
:2009/09/07(月) 10:42:35
三箇秘法・三大秘法といったテーマからは少し横道ですが、日教(日叶)が偽書を用いていたというのは、もちろんでしょうね。
住本寺日叶の段階で書いた『百五十箇条』に
「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に之を付属す本門弘通の大導師為るべきなり、国主此の法を立てられば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ・事の戒法と謂ふは是なり、中ん就く我門弟等此状を守るべきなり。弘安五年壬午九月十三日、血脈の次第・日蓮・日興、甲斐国波木井山中に於て之も写す。
釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当為るべし、背く在家出家共の輩は非法の衆為るべきなり。
弘安五年壬午十月十三日 日蓮御判。
武州池上
御譲与の趣き眼前なり、弘安五年九月十三日の御書には富士山本門寺の戒壇を建立すべし云云、之に依つて富士の郡、重須本門寺御建立、仍末寺西山は日代の寺」
といい、二箇相承をはじめて引用しますね。
この後の文の出入相違はさておいて、ここで偽書である二箇相承を引用しています。
面白いのは、ここでは「弘安五年壬午九月十三日…甲斐国波木井山中に於て之も写す」ということ。日蓮一行は9月8日に山を出ています。これだけでも充分に胡散臭いと思います。
もう一点。「富士山本門寺戒壇」というこの二箇相承を受けて、日興が「之に依つて富士の郡、重須本門寺御建立」をしたという点ですね。
二箇相承は、もとより、北山の戒壇建立を示唆する文章であったということです。日教が、大石寺から調御寺、穆作、大石寺に帰りながら、最期は北山に行った理由もここにあったのだろうかと思えます。
ちなみに二箇相承の「富士山に本門寺の戒壇」は「富士山本門寺戒壇」と読むことをご教示くださったのは、顕正居士さんでした。まさに的を射ています。目から鱗が落ちる思いがしたものでした。
16
:
れん
:2009/09/07(月) 11:29:57
宗祖の確実な御書には、三大秘法・三箇秘法の語彙は見えず、“本門三法門”が唯一の表現だと思われます。宗祖滅後は富士門流では日興師の直弟子の一人・日代師の段階で、“三ケ大事”の語彙の使用があります。三大(箇)秘法の語彙は室町中期以降の使用ということでしょう。石山の相伝の日目上人直授相承に「三口一徹一徹三口、所謂本門三大秘法大事是也云々」とあるらしいですが、この石山相承も“三大秘法”の語彙が使われていることから、安房妙本寺の伝承を取り入れて、室町期の成立の可能性が高いでしょう。二箇相承の出所の重須では、日有と同時代においては、二箇相承は「授日興上人、此本尊、日蓮大事也。日蓮(花押)」と裏書きされていた本門寺大堂本尊と一具に扱われていました。
17
:
ヨシヨシ
:2009/09/07(月) 20:34:30
犀角独歩さん 御教示有難うございます。れんさん、はじめまして、ヨシヨシ申します。ご教示賜り御礼申し上げます。
独歩さん、>「富士山に本門寺の戒壇」は「富士山本門寺戒壇」と読むのは雲泥の差だと先日のお話をお聞きして私も実感しております。
区別して読むことで大きく違い出るんだと衝撃を受けた一言でした。
れんさん、ご教示有難うございます。
確かに日蓮の言からは>三大秘法・三箇秘法 という言葉が取り入れられたかを
考えています。
新六の影響から出来た言葉なのか?また他山、他門から伝わり出てきた言葉なのか?
推察しているところです。
18
:
ヨシヨシ
:2009/09/08(火) 07:30:29
どなたかご教示御願い致します。
05-034
駿州富士山本門寺釈の日代伝
釈の日代、俗姓は由比、駿河の国の人なり、日興を師とし仕へて終に、補処の弟子と為る、其の付属状に云く。
一六人の弟子を定むと雖も日代は日興付属の弟子として当宗の法燈為る可し仍て之を示す。
正和三年十月十三日 日興御判。
余謂く正和三丙辰年は日興上人六十九才なり、日辰在判。
日蓮上人御法立の次第、日興存知の分弟子日代阿闍梨に之を相伝せしめ畢ぬ、仍て門徒存知の為に置き状件の如し。
正中二年十月十三日 日興御判。
余謂く正中二乙丑年は日興上人八十才なり、日辰。
日蓮先年病床の時六人の弟子を定むと雖も其の後日代以下の弟子有り、六人の外と号して之を軽すべからず、六人と雖も違背に於ては沙汰の限りにあらず仍て後証の為に置き状件の如し。
正中二年十月十三日 日興御判。
正中二年十一月十二日の夜日蓮聖人御影堂に於て日興に給はる所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ、日興帰寂の後も若し弟子分中に相続人と号して出さしむるの輩は門徒の怨敵大謗法不孝の者為るべき者なり、謗法罪に於ては釈迦多宝十方三世の諸仏日蓮聖人の御罸を蒙るべし、盗人の科に於ては御沙汰と為て上裁を仰ぐべし、若し出で来らん時は日代阿闍梨之れを相続して本門寺の重宝為るべし仍て門徒存知の為に置き状件の如し。
正中二年十一月十三日 日興御判。
聖人御門徒各別なる事法問の邪正、本迹の諍に依るなり、日興の遺跡等法問異義の時は是非を論ずと雖も世事の遺恨を以て偏執を挿むべからず、就中日代に於ては在家出家共に日興の如く思し食さるべく候、門徒存知の為め置き状件の如し。
19
:
ヨシヨシ
:2009/09/08(火) 07:36:37
失礼しました。
補足します。
この文からは、日蓮を上人と言ったり聖人と呼ぶのかがよくわかりません。
>御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ、日興帰寂の後も若し弟子分中に相続人と号して出さしむるの輩は門徒の怨敵大謗法不孝の者為るべき者なり、謗法罪に於ては釈迦多宝十方三世の諸仏日蓮聖人の御罸を蒙るべし、盗人の科に於ては御沙汰と為て上裁を仰ぐべし、若し出で来らん時は日代阿闍梨之れを相続して本門寺の重宝為るべし仍て門徒存知の為に置き状件の如し。
正中二年十一月十三日 日興御判。
特にこの箇所がよく分からないです。
20
:
犀角独歩
:2009/09/08(火) 07:44:14
ヨシヨシさん
本来であれば、管理人さんがおっしゃるべきことかもしれませんが、18で、何を質問されているのかわかりません。
21
:
犀角独歩
:2009/09/08(火) 07:45:22
投稿が同時になったようですね。失礼しました。
22
:
ヨシヨシ
:2009/09/08(火) 07:50:13
犀角独歩さん おはようございます。
18で疑点を述べなければならなかったのですが、忘れてしまい19で補足いたしました。
申し訳ございません
疑点は聖人と上人の読み方が違うという点。
>日代阿闍梨之れを相続して本門寺の重宝為るべし仍て門徒存知の為に置き状件の如し。
ここでは日代自身が重宝になってしうのかという疑点です。
大変分かりにくくご迷惑をお掛けします。
23
:
犀角独歩
:2009/09/08(火) 07:57:21
該当の文書は日辰『祖師伝』ですか。
引用されるときは、書名・資料名、執筆者ぐらいはお書きになったほうが議論はスムーズだと思います。
上人と聖人の差は、引用か、祖師伝の書き手かの相違ですね。
「日蓮上人…日興御判」ですから、日興の書いたとされる該当の文書では、日蓮上人となっており、書き手(日辰)は聖人とした相違ではないですか。
> ここでは日代自身が重宝
「日代阿闍之れを相続して本門寺の重宝為るべし」の、之=重宝ですね。
之は、前文の「日興に給はる所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録以下重宝二箱」ではないですか。
もっとも、この記述における正中盗難は実際の事件かどうかは、一考を要すると、たしか、れんさんがご指摘なさっていましたね。
24
:
ヨシヨシ
:2009/09/08(火) 09:59:24
独歩さんご教示賜りありがとうございます。
>引用されるときは、書名・資料名、執筆者ぐらいはお書きになったほうが議論はスムーズだと思います。
気をつけますので、ご教示ありがとうございます。
25
:
ヨシヨシ
:2009/09/08(火) 10:21:10
ご指摘通り祖師伝 日辰の書です。
>正中盗難は実際の事件かどうかは、一考を要すると、たしか、れんさんがご指摘なさっていましたね。
ご教示いただきました通りとお見受けいたしました。
やはり万年救護本尊が一時盗難されているわけですが、それだけ当時注目されるような寺だったのか?どうか?疑う余地はあろうかと存じます。
>釈の日代、俗姓は由比、駿河の国の人なり、日興を師とし仕へて終に、補処の弟子と為る、其の付属状に云く。
またここでは日代について述べていますが、姓は由比、駿河の出身で日興を師として日興亡くなった後、補処の弟子とありますがここでいう補処というのは日教の時代とは異なるかと思うのですがいかがでしょうか?
ご教示賜わすれば幸いと存じます。
26
:
犀角独歩
:2009/09/08(火) 11:11:34
ヨシヨシさん
正中年間の盗難の実否も、そうなのですが、もう一点あります。
所謂万年救護本尊は、日目の所蔵とされますから、北山にはなかったことにもなります。
弘安2年本尊とは、御伝土代によれば、「日興上人」と授与書きされた本尊ですね。これが存在しないことから、正中盗難という話につながるのではないかというのが、議論の流れでした。
日辰は日教のあとの次代の人ですね。
日代を補処というのは、その「補処」という表現はともかくとして、日興の相続という意味では合っているのではないでしょうか。
いちおう、議論の流れでは、そのようになっていたかと。
27
:
ヨシヨシ
:2009/09/08(火) 11:27:57
独歩さん
ご教示賜り有難うございます。
まだ歴史の流れが全く私が把握できておりません。
歴史の時系列をしっかり熟知したいと存じます。
28
:
れん
:2009/09/08(火) 11:29:36
正中の日代師宛ての日興師置状は、その文献そのものの信憑性の問題で、正中年間には盗難は無く、日順阿闍梨血脈に見える嘉暦の盗難はあったと思います。ただし、万年救護大本尊や本門寺大堂安置の本尊は、日興師時点で紛失しつした形跡はなく、その後、安房妙本寺・重須本門寺にて、それぞれ継承されているので、嘉暦の盗難で盗難された宗祖御筆本尊は上記を含め程なく見つかり日興師の許に返納されたものと思います。となれば、正中の日代師宛ての日興師置状は、後世日代師門流が、安房妙本寺伝承の万年救護大本尊や重須本門寺伝承の本門寺大堂本尊の所有権を主張するために、偽作した文献である可能性がかなり高いでしょうね。
29
:
れん
:2009/09/08(火) 11:40:51
なお、参考までに申し上げれば、御伝土代に記述される“日興上人”上人号授与の本尊ですが、安房妙本寺文書と日向定善寺文書により、重須の本門寺大堂本尊であることが分かっています。もっとも、こちらは安土桃山時代の天正年間の日代師門流の西山本門寺を首謀とする重須重宝の強奪後、西山が乱取りに遇い、所謂る、二箇相承原本と伴に紛失しております。
30
:
犀角独歩
:2009/09/08(火) 11:42:43
れんさん
有り難うございます。
日興授与弘安2年本尊の顛末が、明瞭となりました。
31
:
れん
:2009/09/11(金) 10:22:32
参考までに、重須の本門寺大堂本尊裏書きに関する史料を提示しておきます。
保田日要師御談・法華本門開目抄聞書
「聖人の御正筆富士におはしますなり。其の御筆に此の本尊は日蓮一期の大事なり、日興上人に授く、血脈の次第は日蓮日興云々」
安房妙本寺文書・本門寺大堂本尊裏書写
「本門寺大堂本尊裏書云、日興上人授、此本尊、日蓮大事也、日蓮在判。日興御自筆裏書云、正中二年十月十三日、日興在判・日妙授与」(千葉県の歴史・資料編中世3の妙本寺文書の一四二号・二四三号・二八一号)
定善寺文書・日蓮付属状写「釈尊五十年説法、相承白蓮阿闍梨日興、可為身延山久遠寺別当、背在家出家共輩者、可為非法衆、弘安五年十月[ ]日蓮在判、武州池上。本門寺大堂本尊裏、日興上人授、此本尊、日蓮大事也、日[ ]日興御自筆裏書云、正中二年十月十三日、日興在判・日妙授与」(宮崎県史・定善寺文書四号・五号)
なお、定善寺文書所収の写本の末尾には「御正本富士日浄所持也」(重須六代日浄師のこと)とあり、重須日浄師の時代、室町中期に写本せられたことが分かります。本門寺大堂本尊裏書は二箇相承と一具に書写されているので、二箇相承はやはり本門寺大堂本尊裏書の「正中二年(中略)日興在判・日妙授与」の文言とともに、本来、日蓮−日興−日妙の正統を主張する為の文献であることは明らかですね。
32
:
犀角独歩
:2009/09/11(金) 10:26:46
れんさん
有り難うございます。
ひとつ、ご教示いただきたいのですが、この日興の筆とする文は、なぜ、日代ではなく、日妙になっているのでしょうか。
重須本堂は、日代に、ですから、仙代問答の後に就いた日妙の名となっていることが不自然と感じます。
33
:
れん
:2009/09/11(金) 11:50:48
犀角独歩さん
日興自筆とされている裏書が、日代宛てではなく、日妙宛てになっている理由ですが、少なくとも、この日興筆とされている裏書きの部分は、日代の重須退出後に書き加えられたものであることを表しているのではないかと考えています。
三位日順の摧破立正抄に「抑大聖忝載真筆本尊授日興上人遺札白蓮阿闍梨云々」(抑も大聖忝くも真筆の本尊に日興上人に授くと載せ、遺札には白蓮阿闍梨と云々)とあり、御伝土代に先立ち本門寺大堂本尊の「日興“上人”」という裏書に触れていますので、その存在は南北朝時代、西暦1300年代中頃から確認出来ますが、日興筆とされる正中の日妙授与の部分につきましては、重須日浄の代の写本までは確認出来ないので、やはり後に書き加えられたものだろうというのが今のところの私の観測です。
34
:
犀角独歩
:2009/09/11(金) 11:54:30
れんさん
ご教示、有り難うございます。
つまり、日妙偏重の加筆はあるとも、原文そのものには証憑性ありといったところでしょうか。
なるほど。参考になりました。
35
:
れん
:2009/09/11(金) 16:35:43
犀角独歩さん
本門寺大堂本尊は、安土桃山時代に紛失してしまい、二箇相承のように、漫荼羅そのものの写本すら残らないので、石山の彫刻のように真偽の鑑別はもはや出来ないのですが、取り敢えずは、日順が摧邪立正抄で引用し、石山日時も御伝土代で触れ、保田日要も日蓮御正筆として疑義を挟まなかった弘安二年・日興授与・上人号本尊(本門寺大堂本尊)が、安土桃山時代に西山に強奪され紛失の憂き目に遇うまでは、重須本門寺に存在したということだけは確かな史実だということですね。
36
:
犀角独歩
:2009/09/12(土) 14:44:48
れんさん
有り難うございます。
「本門寺大堂本尊」はあったということなのですね。
この点につき、特に疑義を挟むつもりはないのですが、それにしても、日代がスポイルされ、さらに紛失に係る記事が偽書である『二箇相承』と共に語られると、読む側としては過敏になりますね。
すでに逸した資料の真偽の見極めを、考証からなすことはなかなか難しいことであると思いました。
37
:
れん
:2009/09/12(土) 19:03:06
犀角独歩さん
先の投稿で、うっかり引用し忘れておりましたが、重須歴代直筆の古文書では第六代日浄の“日国宛譲状に「譲渡本尊聖教之事/本門寺御堂之御本尊・御棟札・御念数已下、如目録無一分も所残常□日国エ寂仙坊日経其外宗徒檀方為証人譲渡処也、門徒一准可被此旨也、仍為後証之状如件/明応三年甲寅九月十三日 日浄(花押)」
とあり、文中の「本門寺御堂之御本尊」は、やはり、保田妙本寺文書・日向定善寺文書に見える、保田日要が法華本門開目抄聞書で肯定引用した所謂る本門寺大堂本尊と同一のものと思われます。
漫荼羅そのもの、また、裏書が日蓮の真筆か否か、その真偽は、最早、藪の中ですが、少なくとも、重須本門寺で、信仰の中心として、且つ本門寺根源(戒壇?)安置の本尊として用意していたのが、本門寺大堂本尊=本門寺御堂之御本尊ということでしょう。こうした室町中期以降の富士日興門流諸本山の思潮が、やがて石山が独自の“戒壇本尊”つまり初代彫刻を作成するに至った下地にあるものと愚考致す次第です。
38
:
犀角独歩
:2009/09/13(日) 12:54:10
れんさん
重ねがさねのご教示、まことに有り難うございました。
たいへんに参考になりました。
40
:
幻明影偲(ゲンミョウエイシ)
:2009/11/24(火) 06:52:33
れんさん
おはようございます。
化儀秘決から引用します。
問ふて云はく其の次の両品は何の勤めぞや、答へて云はく両堂の時、一堂の時、又客殿などにての不同之れ有り、門流に依つて相違有るべし、去り乍ら当流に於て一堂の時も二堂の時も両品は御影の御勤なり、客殿ならば両品は本尊の御影なるべし、但し末寺に於ては定まらず、両堂の時、先づ本尊堂にて天と本尊の勤有り、其の時は両品が本尊の御勤なり、是れは本山の客殿の勤の次第を似せらるゝと覚えたり、只今も当寺にては御堂に於て両品は御影の御勤なり、又或る相伝には一堂の時には先づ本尊の勤、次に御影の勤共之れ有り、二堂の時は上の如し云云、惣じて此の分あれども本尊と御影は一躰の上の二尊なり、本尊と日蓮と二つと見奉るは当流の信者に非らずす、二途の信心なり、妙境妙智とは是れなり、不思議の上の両尊にてましませば、前後之れ有るべからず、去り乍ら表裏傍正を云ふ時は一往の不同なり、二而不二之れを思ふべし、さて久遠とは本尊の住処なり、本門とは御影の御座処なり、然る時は久遠寺は本尊堂を以つて表と為し、本門寺は御影堂を以つて表と為す、然りと雖二而の上の不二なれば互に両堂之れ有り、両堂に於て亦其の習ひ有るべきのみ。
とありますが、この当時には客殿、本堂には御影があったのでしょうか。
文からは御影像様がyはり中心なのはわかるのですが、どうもニ像あったかのように思えてなりません。
れんさんは、どのような御見解でありましょうか。
御教示戴けましたら幸いと存じます。
41
:
幻明影偲
:2009/11/24(火) 07:11:19
れんさん
度重なる質問で失礼します。
富士要1巻
当家引導雑々記
一、曼荼羅の事。
より引用します。
こちらも保田についての書ですが
一、曼荼羅の事。
示した云はく曼荼羅をば衣と習ふなり、死後の耻をかくす信楽慚悔の衣なり敢て余の事には非ず経に云く如裸者得衣と云云、又此の曼荼羅は世間の挙状なり、当来世の関所を通するなり、此の事は当家の口伝なり経に云く為説実相印と云云又云く我此法印、為欲利益世間故説と云云、状の正しき事は判を以つて本と為す仍て印とは御本尊是れなり、御書に云はく仏の御判とは実相の一印なり印とは判の異名なり、余の一切の経には実相の印なし正しき文書に非らず全く実仏無し云云、○炭すみあらすみ。
ありますが、>示した云はく曼荼羅をば衣と習ふなり、死後の耻をかくす信楽慚悔の衣なり敢て余の事には非ず経に云く如裸者得衣と云云
曼荼羅が死者の衣の代わりになるとの意を感じます。
>又此の曼荼羅は世間の挙状なり、当来世の関所を通するなり、
>又此の曼荼羅は世間の挙状なり(ここでは霊山に行くための通過するための札、或いは証明書のような表現に思えます。
>状の正しき事は判を以つて本と為す仍て印とは御本尊是れなり
ここについては本尊書写されても、判形がなければ本尊としての効能がないという表現に思えます。
石山とは全く違う教義に心が躍ります。
れんさんは如何様に思われますか。
何度も質問を繰り返してしまい申し訳ございません。
御教示戴けましたら幸いと存じます。
42
:
れん
:2009/11/24(火) 13:38:50
幻明さん
結論から申し上げれば、私は、一昨年来、妙本寺様に御縁を頂き、妙本寺様の信心を致しておりますが、ずぶの素人の在家信者の私には、流石に皆目分からない領域の事柄です。
これらの事柄は、安房妙本寺の学頭様にご質問申し上げ、ご教示を俟つべきものと存じます。
43
:
幻明影偲
:2009/11/24(火) 21:31:05
れんさん
御教示有り難うございます。
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