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質問
58
:
問答迷人
:2011/07/15(金) 17:31:07
古沢石日さん
>お叱りを受けるのを覚悟で今後も質問させて頂きます事をご容赦
とんでもありません。僕は学問として仏教を学んだ者ではありません。一信徒として考えてきた事を書き込ませていただいているのみです。
>お曼荼羅は地図であり扉であり楽譜である。
十大部の『顕仏未来記』に次のような記述が有ります。
「此の人は守護の力を得て本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか。例せば威音王仏の像法の時、不軽菩薩「我深敬」等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し、一国の杖木等の大難を招きしが如し。彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意之同じ。彼の像法の末と是の末法の初めと全く同じ。彼の不軽菩薩は初随喜の人、日蓮は名字の凡夫なり。」
不軽菩薩は二十四字の法華経、日蓮聖人は五字の法華経、と語句は違っていてもその意味内容は同じであると読めます。日蓮聖人の教えは『五字の法華経』と言う事ですから、妙法文字曼荼羅は日蓮聖人の『五字の法華経』をそのまま表したもの、ということになると思います。
そして、それが悟りへの地図であり、悟りへの扉であり、悟りへの設計図、つまりは音楽に於ける楽譜に相当するとのお考えに賛同します。
>扉の位置をしっかり把握している者、地図が無くとも目的地をしっかり理解している者、楽譜を完璧に頭に記憶できている者にはつまり御本尊をいつも目の前に御安置出来ている人物にはお曼荼羅は無くてもよいのではないでしょうか。
確かに、日蓮聖人御自身は、曼荼羅がなくとも法華経修行に事欠くことは無いと思います。ただ、私たち信徒は、日蓮聖人に導かれて正しく法華経を修行させていただく立場ですから、曼荼羅は必要ない、と言うのは行き過ぎではないでしょうか。常に日蓮曼荼羅を拝して信仰に励むのが日蓮信徒の基本姿勢ではないかと僕は思うのですが、如何でしょうか。先に引用しました「唱法華題目抄」の次の部分には「行儀は本尊の御前にして必ず坐立行なるべし道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず、常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、」と有りますから、日々の信仰の基本としては曼荼羅を安置してその前で座って題目を唱えよ、ということだと思います。そして、「道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず」ですから、生活の合間に歩きながら題目を唱えることは一向に構わない」ということだと思います。
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