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釈尊の真意について

1管理者:2009/01/19(月) 23:09:09
新しいスレッドの提案が有りましたので、活発な議論を期待して立ち上げます。提案文は以下の通りです。

「釈尊の真意、戒律の必要性」等について、スレッドを立てていただけないでしょうか。
 思いつきでも何でも、皆さんのご意見をいただけたら幸いです。

3空即是進化:2009/01/20(火) 22:46:52
管理者さん、れんさん。 ありがとうございます。
 
 釈尊の真意を‘立証’することはいずれにしても不可能だと思いますが、原始仏典が話言葉
で著されているということは、釈尊の直説と大きな違いはないのではと考えてます。(あえて
異説を唱える理由が思いつかない)。釈尊の直弟子の多くが、釈尊同様の悟りを得たとすれば
直説であろうと弟子の悟りであろうと同じことですよね。また、時代によって全く異なる教え
になっているわけだから、どれかを真意として位置付けなければ話が進まない。
 結局、釈尊が法を説いた理由及びもっとも言いたかったことは何なのかがわかっているよう
でわからない。なお、当時の人間には理解不能でも、現代人には納得できるということもある
かもしれない。
 
 また、どんなに優れた思想でも、それを定着させ子孫に伝えるためには、何らかの儀式もし
くは戒律が必要と考えます。勤行という儀式がまさしくそれで、学会がどんなに矛盾を抱えて
いても潰れないのは、そのへんの理由も大きいのでは。
 私も、正宗・学会流の儀式をひとたび離れてしまった以上、再び戻る気もないが、何らかの
戒律を新たに求めたいと考えています。できればそれを妻子に伝え残せるように。

4たけぞう:2009/01/21(水) 17:15:13
日蓮宗において法華経は第一であり、その中で重要概念となるのは、五百塵点劫、久遠の釈尊である。
それは歴劫修行が前提となり、更にその前提は生死生死の輪廻思想である。
では、インドの釈尊は輪廻思想をどう捉えていたのか、浅学の身のため、「仏陀のいいたかったこと」講談社学術文庫を要約して記載してみる。

古代インド人の中では、輪廻の観念は人の行為(業)と結びついて形成された。
人の行為(業)はそのまま残るのであり、これがインド思想の特色の一つである。
行為は行為を生むというわけである。一つ一つの今の行為が、前の行為の果報として受け継がれ、今の行為がまた未来の行為の種子となる。
あらゆる存在が転生して、霊魂が再び肉体をもとことになるのは、みなそれぞれの行為の果報によることである。
人についていえば、過去の行為の結果として、今の生存がある。この生存中の行為がまた次の未来の生存を生むことになる。この繰り返しを輪廻という。
輪廻から解き放たれない限り安楽の境涯を得ることはできない。
そのためには再生を断つことである。いかなる形にしろ、再び今の世界に誕生しないこと、これが解脱である。

【釈尊の輪廻説】
釈尊は生天に説話しているが、これは古代インド人たちに一般に信仰された思想であって、これを頭から否定しては、人々に耳を傾けてもらうことはなくなる。
従って人々に根強く信じられている生天の思想をまず仏教思想と結びつけたのであって、ここに釈尊の方便説法の特色の一つがある。しかし。出家者に対しては生天思想を説いていない。仏教文献中に八正道を実践すれば、死後、生天できるという説法はどこにもない。
釈尊は無我説、つまり人をはじめ、物には不滅の霊魂は存在しないとする説を立てたが、この立場からは一般にいう輪廻思想は出てこない。なぜならば、輪廻するには輪廻する主体がなければならないからである。輪廻の主体は霊魂であると古代インド人は考えていたのだから、釈尊の無我説からは輪廻思想は生まれてきそうもない。
では、輪廻を否定したのだろうか。そうとも言い切れない。最古の仏教文献『真理のことば』(法句経)第二二章の「地獄」の章には、来世に悪業の報いによって地獄に落ちることが述べられている。また、第二六章の「バラモン」の章、四一〇偶には、現世・来世ということばがあり、同四二三偶では、前世とか天上とか地獄とかのことばがでてきて、説法の中に過去、現在、未来の人生の因縁関係が示されている。
では一体、何が輪廻するというのだろうか。
釈尊は行為(業)によって輪廻すると考えた。さきに述べた行為の善悪が霊魂に付着して輪廻の中に報いを受けるとする行為とは異なる。この行為は祭祀の行為であって、正しく祭祀を行なうことが善業で、その反対は悪業となる。善業により生天できるという説であった。
釈尊のいう行為は身、口、意の三つの行為で、祭祀の行為ではない。自分自身、人の道としての教えに則り、身、口、意を制御して正しく中道を歩むことが善業というのである。正しい行為が繰り返し行なわれ、それらが習慣力として身について、その習慣力が因縁となって、次の生をもたらすという考えである。なにか輪廻の主体があるわけではない。ものの生起はすべて因縁によるとされ、持続して過去から現在、そして未来へと存在する不滅の主体がそこにあるとは考えられていない。
釈尊はもろもろの行為(業)の因縁による輪廻を考えているのであって、そこに不滅の霊魂とか輪廻の主体となるものとかの存在を認めているわけではない。
具体的に輪廻の原動力となるものを、釈尊は、何だと考えたのだろうか。それは喉の渇きに似た愛執であるという。人の前世であろうと、来世であろうと、これらが現
在の生存と相続しているのは、霊魂によるのではなく、自分の愛執にもとつく行為(業)によっている。
 行為(業)によって世界はあり、
 行為によって人々はある。
 生存するものは行為に束縛される。
 ちょうど車がくさびに結びつけられているように。
   (『スッタニパータ』六五四偶)
と釈尊は述べている。輪廻するものを、灯火が油と芯によって燃えることに讐えることもある。油を愛執に讐え、油がなくなると灯火は消える。これと同じように、愛執
がなくなれば人の苦しみの輪廻はなくなると教えている。
これらのことからわかるように、人は愛執によって何かの行為を起こし、その善悪の積み重ねを繰り返し、習慣力としての業をつくる。その業が世界をつくり、人を形
づくるというのである。輪廻は、すべて業に促されて、いろいろの因縁の助けを得て現象するというのが、釈尊の輪廻説であった。

5空即是進化:2009/01/21(水) 21:03:34
たけぞう さん
 
 なるほど、とは思うのですが、「法華第一」と「釈尊の輪廻説」との関係が見えてきません。
 もう門流信徒とは言えない私には、大乗非仏説を前提とした議論でないと理解困難です。

6たけぞう:2009/01/21(水) 21:26:53
空即是進化さんへ
ネットの一部に、あえて原始仏教と法華経をつなげようとした試論があります。
しかし、それは無理です。
輪廻説を否定している釈尊が歴劫修行を言うわけはないし、従って大乗非仏説で理解していくしかないと、私もそう思います。
随宜転用という言葉があります。
自分の都合のいいように、法華経や天台の文証を切り貼りして使用することです。
日蓮聖人も法華経を自分の都合のいいように解釈したと言ったら、言い過ぎでしょうか。
日寛上人の文底秘沈抄は、明らかに文の底として自説を述べていると思われます。
開目抄の文の底はどうでしょうか。
いずれにしても、歴史的に大乗非仏説は当然ということになったわけですから、法華経と教主釈尊は、日蓮聖人の観念上の存在として理解しております。
異論はありましょうが、釈迦仏法と日蓮仏法は分けて、日蓮仏法は日蓮聖人の観念の中に法華経と教主釈尊があり、その文証を利用して日蓮聖人の思想を表明したのだと私は解釈しております。

7空即是進化:2009/01/21(水) 22:24:05
 私が知りたいのは、釈尊が語ろうとしなかったマールンクヤの問、「人間(生命)とは何なのか。霊魂は不滅なのか。
仏とは(これは訊いてないか)」等々への答えです。釈尊の時代ならば、正しい修行を続ければ余計なことを考えずとも
彼岸へ到ることができたかもしれないが、今は肝心のなすべき修行方法がわからない。
 あらためて、「人間{生命}とは」「現代の八正道」について探求してみたい。
 しかし、行きすぎると新しい宗教になっちゃうかもね。

8hage:2009/01/21(水) 22:46:51
お釈迦様が悟られた「悟りの世界」は誰にも解らない、理解できない。解釈などできない。
言葉では表わせない、概念では表わせないから、原始仏典だろうが、大乗だろうが、経典に文章として表わすことも不可能なのではないでしょうか。
釈尊の真意は、まさしく成仏する以外に知ることはできないのではないかと思います。
法華経においても「悟りの世界」「一念三千」は文の底に沈めるしか方法が無かったのでは?
八品派でも「寿量品に沈秘してあった御題目」ということをいいます。釈迦仏法と日蓮仏法を分けるというのは「悟りの世界」ということからしてよく解りません。

9顕正居士:2009/01/22(木) 13:25:56
仏教の自我論にはどのような特色があるのか?

を考えるためにはまずインド本流の自我論を大雑把に理解しておく必要があります。
その本流の思想に対して異を立てているわけですから。以下の小論がわかりやい。

宮元啓一 インドにおける自己論の構造
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/jiko.html

中の図は論理哲学論考の図と同じです。
http://www.bazzocchi.com/wittgenstein/tractatus/deu/5_633.htm

 5.632
主体は世界に属さない。主体は世界の限界である。
+ 5.633
世界の中のどこに形而上学的主体が認められるのか。
あなたは、これは眼と視野の関係と同じ事情だと言う。しかし、現実には、あなたは眼を見ることはない。
そして、視野におけるいかなるものも、それが眼によって見られていると推論できるものはない。
http://www.geocities.jp/red_mad_hatter/Tractatus/jp/

10問答迷人:2009/01/22(木) 22:27:03

顕正居士さん

有難う御座います。

>唯識説もサーンキヤ哲学も、ヤージュニャヴァルキヤの自己論、世界論をほかのどの哲学よりも忠実に継承したものだからなのである。

唯識がヤージュニャヴァルキヤの自己論、世界論を忠実に継承したもの、と言う点、非常に興味を感じました。主体は世界に属さない、という視点には素晴らしい切れ味を感じます。

それで、釈迦の自我論はこの「ヤージュニャヴァルキヤの自己論」を批判して成立したのであれば、結局、仏教は後の大乗の世親によって、「ヤージュニャヴァルキヤの自己論」に回帰してしまったのでしょうか。

11顕正居士:2009/01/23(金) 02:13:41
仏教の自我論は「無我(アナートマン)」だと伝統的にいわれますが、故中村元氏などによって
初期の経典の表現は、自己はこれではない、あれではない、五蘊のどれでもない、という論理、
つまりヤージュニャヴァルキヤと同様であり、「非我(アナートマン)」というべきではないかと、
そういう説が出されました。
しかし部派の時代になりますと「アン・アートマン」のア(ン)は「無」と解釈されるようになります。
他に縁らずそれ自体で存在し、分割できず、変化せず、永遠である、そういうアートマンなるもの
は存在しないと。けれども説一切有部は他に縁らずそれ自体で存在し、分割できず、変化せず、
永遠である実体(スヴァバーヴァ、自性)としての法(ダルマ)の存在は認めました。この説に対し
ナーガールジュナは法も存在しない、どんな実体も存在しないと主張しました(人法二無我)。
つまり釈尊の「縁起」の教説が、非我--無我--無実体(空)と解釈が発展していったといえます。

インド思想の本流(ヴェーダーンタ)ではアートマン=ブラフマンを「存在−意識-歓喜」と表現し、
これだけが唯一の真実在であるとします。しかしその本質は世界に属さない認識主体であって、
他に縁らずそれ自体で存在し、分割できず、変化せず、永遠であるといっても、世界に属している
(古典的)原子などとは全く違います。ナーガールジュナの教説は「無-宇宙論」、つまり自己も
世界も実は一切存在しないに帰着し、これは結局、ヴェーダーンタの唯幻論と同じになります。
したがってアートマン、アナートマンと名称は正反対でありながら、後期大乗仏教はインド思想の
本流に戻ったといえるでしょう。「仏」は他に縁らずそれ自体で存在し、変化せず、永遠である
(大乗の涅槃経)と堂々と宣言するようになります。

12問答迷人:2009/01/23(金) 12:50:26

顕正居士さん

御教示誠に有難う御座います。

なるほど、宇宙の万物は、己の心や体も含めて、実は存在せず、認識主体だけが実在なのだと。そして、これを大乗涅槃経では「仏」と表現したわけですね。

もう一つご質問ですが、仏教がインドで滅んでしまった理由は、その教えがインド思想の本流と何ら変わらなくなった事に有ったのでしょうか。

13顕正居士:2009/01/23(金) 17:07:29
Wittgensteinは'Und nichts am Gesichtsfeldläßt darauf schließen, daß es von einem Auge
gesehen wird.(そして、視野におけるいかなるものも、それが眼によって見られていると
推論できるものはない)'と上の論考の引用箇所で述べています。仏教思想が一貫して「実在」
といわず、「無(空)」と表現するのは同様の思考であって、そこが積極的に「真実在」と述べる
インド本流の思想とどこまでも色合を異にする仏教の伝統かとおもいます。
世界の中からいえば、認識の主体は「無」としかいえないのですが、しかしまた何ものも存在
しないのならば、「意識の内観、体験(Cogito、我思う)」が説明できません。

仏教がインドで滅んだ理由については、以前に投稿した記事がどこかにあると思うのですが、
保坂俊司著『インド仏教はなぜ亡んだか』 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0820.html
が説得力があります。上の記事で松岡正剛氏が上手に要約しておられます。
仏教はスリランカ、インドシナ諸国、中国、チベット、韓国、台湾、日本などで今も栄えているので、
「仏教があまりに合理的で抽象的な哲学思考を好んだ」などが理由なはずはありません。
インドだけで滅んだのですから、インド社会のヴァルナ−ジャーティ制(カースト制)しか理由は
考えられない。あまりに文化的に異なるイスラームに対して共同して対抗しようにも、改宗者は
スードラの身分にしかなれません。スードラとは上位の3ヴァルナが「再生族」であるのに対し
「非再生族」であって、インド教(ヒンドゥー教)を信仰する意味はなく「アーリア文化を受容しない
諸部族」の意味に過ぎません。パキスタン、アフガニスタンなどかつて仏教が栄えた地が今は
イスラームの国になっているのは歴史の事実です。

14問答迷人:2009/01/23(金) 18:16:15

顕正居士さん

>インド本流の思想とどこまでも色合を異にする仏教の伝統かとおもいます。

有難う御座います。違う表現なんだけれども、中身は変わらないと理解しました。

>インド社会のヴァルナ−ジャーティ制(カースト制)しか理由は考えられない。

スードラの身分にしかなれなかった仏教徒がイスラムと手を組んだ事により、却ってイスラムに取って代わられてしまったわけですね。納得できました。

15幻論乙坊:2009/01/23(金) 19:24:53
顕正居士さん、問答名人さん
横レス失礼致します。

顕正居士さん
>ヴェーダーンタの唯幻論と同じになります。

◆と、記されていますね。
唯幻論とは、私の崇敬する岸田秀先生の造語で有ったと認識しております。
この論は「人間は本能の壊れた動物、よって代用品として自我を形成したものである」
これを踏まえて全ては幻想である、と、理論を展開されています。

が、唯幻論と言う語は、インド哲学に於いても用いられる語なのでしょうか?

16hage:2009/01/23(金) 20:15:36
顕正居士さん、教えてください。
インドでは「時間」についてはどの様に考えられているのでしょうか?
「空」や「無」には時間経過はあるのでしょうか?
「時間」は「幻想」なのでしょうか?

17顕正居士:2009/01/23(金) 21:42:42
>>15
幻論乙坊さん。

インド思想の本流であるヴェーダーンタのそのまた主流である不二一元論では
アートマン=ブラフマン以外のすべてはマーヤー(幻)であるとします。
幻といっても岸田唯幻論の幻とは意味が違いますが。またアートマンが展開した
のが世界だというような流出論ではありませんから、物体とか分子のその奥にある
真実在が素粒子とかクォークとか超ひもとかいうのとも違いますね。

>>16
hageさん。ちょっと考えてみます。

18空即是進化:2009/01/23(金) 23:24:21
顕正居士さん

 本当に勉強になります。しばらく皆さんのやり取りを見させていただきます。
 
 ところで、本スレッドに書かれている内容は、インド哲学科出身者には常識と言えること
なのでしょうか?

19顕正居士:2009/01/24(土) 00:20:43
倶舎論の五位七十五法には虚空無為という法があり、(絶対)空間を一実在としていますが、
時間にあたるものはありません。仏教では基本的に時間は実在とは考えなかったようです。
物や心が変化することで、その変化を測る物差しとして時間が生じるという考えだと思います。
宇宙の始まりとか終わりという考えもありません。日月須弥山四洲の一世界にはありますが。

ちょっと変わった考えとして三世実有法体恒有というのがあります。有為の諸法は未来位から
現在位に到来し刹那の間留まり過去位に落謝するとします。
また正法眼蔵に有時の巻というのがあって、道元のオリジナルな思想としてよく言及されます。
http://www.shomonji.or.jp/soroku/genzou20/index.html
佐々木現順著『仏教における時間論の研究』清水弘文堂というのがめずらしい専門研究です。
おおよその内容はやはり上記の刹那滅や有時の巻のことなどだったとおもいます。

>本スレッドに書かれている内容は、インド哲学科出身者には常識と言えることなのでしょうか?
「非我」についてはたぶんかなり常識。ただしヴェーダーンタと中観や無相唯識が表現は反対
だが帰趣は同致であるという考えには賛成しない人がいるかと思います。インド仏教消滅論は
上掲書の論がまだ新しいものなのでわかりません。特に反対説は出ていないようですが。

20幻論乙坊:2009/01/24(土) 18:08:49
顕正居士さん

>アートマン=ブラフマンを「存在−意識-歓喜」と表現し、
これだけが唯一の真実在であるとします。


ブラフマン(brahman)=漢訳で梵
アートマン(ātman)=漢訳で我
梵我一如ですね。
と、しますと唯幻論(字面のみの全ては幻にも当て嵌まらない)を用いる事は出来ないのではないですか。

以下、御教示戴ければ幸甚です。

シャンカラさんでしょうかマーヤー(māyā)説、この世は全て幻である。
このシャンカラさん、アートマンは真実である。と、捉えていたのでしょうか?

21幻論乙坊:2009/01/24(土) 18:45:13
結構有名な話らしいのでご存知の方も多いかも知れませんね。
「お釈迦さまに、この世は有限か?はた又、無限か?とマールンクヤプッタ青年が問う。
その問いに、お釈迦さんは聞こえているのか聞こえていないのか一切答えない」
言われる所の「無記」ですね。
有限か無限かの問いに沈黙する、そこでは新たな展開が起こらない。
それらの問いは現実を離れていて、修行に何らプラスにならない。と、マールンクヤプッタに教えたとありますね。
仏教において時間は重要要素なようで「無始無終」と言う語がありますね。

22たけぞう:2009/01/24(土) 20:27:39
>仏教において時間は重要要素なようで「無始無終」と言う語がありますね。

時間観念の欠如
生滅変化の現象界よりも、その背後にあるものに注意するという思惟傾向は、具体的な経験的妻につい
ての時間の観念、特に時差の観念を著しく麻痺させざるをえない。
このような傾向は、サンスクリット語において相(mood)がしだいに消失し簡単化していった事実と・種
種の時称の差異が磨滅してそれらの用法が混和してしまったという事実のうちに、よく認められる。
インド.ヨーロッパ基語においては、動詞の用法の別は「相」が主であり、「時」の観念は薄弱であった。
直接法現在形は単に持続せる動作状態を示し、不定過去は動作状態を何ら持続・完了等の状態には関係なく
瞬時的にとら.廷ものである。時の観念が動詞の中に力強くはいってきたのは、かなり後代に属する。ギリ
シア語でも古い時代の文献においては、まだ十分に相の用法を保存していたし、ヴェーダ語においても同じ
であったが、ラテン語はすでに時の観念を主体として動詞を構成している。ギリシア語では現在に至っても
なお相がかなり根強く残っていて、スラヴ語派においては相が現代にも依然として保存されている、しかし
ながら全体として時称が重要な位置を占めるにいたり、それぞれの時称の観念の区別が十分に自覚されてい
る。近代語においては、このことは特に著しい。
ところがサンスクリット語においては、ギリシア語と同様に五つ時鐘称があるにもかかわらず、それらの
時称の区別がはっきりしていない。たとえば過去時を表示するのに、実際においては、imperfect、perfect過
去能動分詞、過去受動分詞、aorist、歴史的現在がほとんど用法上の区裂しに用いられている。ただそれら
の問でどれが多く用いられたか、ということになると、時代によって異なっている・祭偽書(ブラーフマナ)
文献の末期においては、aorist がきわめてしばしば用いられるようになり、パーリ語においては、過去時を示
すためのほとんど唯一の時称となっている。文法学者パーニニ(西紀前四世紀)によると、それは近い過去
を示すための唯一の時称とされている。しかしパーニニ以後、しだいに過去分詞 aorist と同義のものとし
て多く用いられるようになり、古典サンスクリット語においては aorist はほとんど用いられなくなった。
またサンスクリット語においては、過去完了、未来完了、および過去時の接続法が欠けている。これはイ
ンドの言語に、絶対的過去と相対的過去との区別が現われていないことを示している。

23たけぞう:2009/01/24(土) 20:28:10
またサンスクリット語の現在形は近い未来と近い過去とを言いあらわしうる。たとえば「そは我に何の用
かあらん。(なんの役にもたたない。)」というときに、ラテン語では未来形を使うのに、サンスクリット語
では現在形を用いる。
なおこれと関係のある言語現象ではないかと思われるが、ヒンドゥスター二rI語では「昨日」と「明日」
と二つの意味が同じ語(kalという副詞)によって表示される。同様に parson は「明後日」または「一昨日」、
atarson は「三日前」または「三日後」を意味する。それでは過去の意味か未来の意味か判明しないために、
混同がおこって困りはしないか、と考えられるが、前後の文脈によってそのいずれかに了解するのである。
アメリカ・インディアンの言語にもかかる用法があるとのことである。
時称の差異が摩滅することは、長い複合語の使用の増加に対応するものであろう。たとえばカーリダーサ
の叙事詩についてみても、動きの少ないものの描写には長い複合語が好んで用いられ、反対に場面の転換を
示すような詩句には複合語が少ない。
インド人が時称の区別を明確に意識していなかったということは、過去から未来に移る時間の流れを、計
量測定しうる数量的時間というすがたにおいて把捉することに拙劣であったことを意味する。しかし決して
インド人に時間意識がなかったわけではない。むしろその逆である。ジャイナ教徒や仏教徒が痛烈に指摘す
る無常の理、その思想的表現としての無常観は、万象の過ぎ去り行くことを身をもって理解しつつある人に
のみ、理解されうることである。
時間を数量的・時差的に把捉することに努めなかったインド人は、ついに年代に関して確実な歴史書を著
わさなかった。これはインド文化の顕著な一特徴であるが、その原因をたどると、上に述べた思惟方法の特
徴にまでさかのぼらなければならない。けだしインド人の世界観によると、宇宙、世界ならびに社会的秩序
は永遠に存続するものであるが、これに反して個人の生命は、同一の霊魂を宿して無限の時間のうちに繰り
返される一連の諸生活の系列の中での一つの場合にすぎないから、したがって終極的にはきわめて意義の乏
しいものとなる。人生の推移についてインド人がいだいていた表象内容は、永遠に自己回転する再生の輪、
すなわち「輪廻」なのである。このような表象のしかたは、ギリシア哲学においても、時として現われるこ
とがあったが、インドにおいては民族全般にわたって普遍的に奉ぜられていたのである。このような思惟方
法による限り、政治的・社会的状態の一時的情勢のようなことは、おのずから興味をひかなくなってしまう。
歴史的叙述が成立しなかったのも当然である。

 東洋人の思惟方法 中村元著

24たけぞう:2009/01/24(土) 20:48:03
人生の推移についてインド人がいだいていた表象内容は、永遠に自己回転する再生の輪、すなわち「輪廻」なのである。
としながら、釈尊は輪廻思想を否定した。
しかし、仏経が中国、日本に渡り、日蓮聖人は下記のように述べる。

然る間如何として三界を離るべきと申すに仏法修行の功力に依つて無明のやみはれて法性真如の覚を開くべく候、
さては仏法は何なるをか修行して生死を離るべきぞと申すに但一乗妙法にて有るべく候、

輪廻から解脱する即ち、「生死を離る」という思想を展開する。
空間と場所による仏経の変容はおもしろい。

このスレからはずれるけど、私がずっと疑問に思っているのは、輪廻を否定した仏教にいつから三世の思想がまぎれたのかといのがある。

25hage:2009/01/24(土) 22:10:00
顕正居士さん、時間の件ありがとうございました。
皆さんのお話、とてもレベルが高くただただ関心するばかりです。

2ちゃんねる、心と宗教の板にも仏陀は転生を説いたのか?というようなスレがあります。
六道輪廻とか三世の因果はもともと仏教の教えではなかったのかもしれないというのは、びっくりです。

26顕正居士:2009/01/25(日) 18:42:17
>>20
アートマンとブラフマンとは全く単に同一なのです。そのことを梵我一如といいます。
すなわち幻であるところの世界に所属していない能観の知は万人に共通なのです。
シャンカラの主著Brahma Sutra Bhasyaの部分和訳がWebで読めます。

「まずブラフマンは、本性上、永遠で、清浄で、悟っており、解脱したものとして、また、
全知で全能をそなえたものとして、存在しているのである。何故なら、ブラフマンという語には、
その語根である/br.h の意味に従って、もともと語源的に、永遠性・清浄性等の意味が認めれらる
からである52。さらに[ブラフマンは]、すべての人のアートマンなので、ブラフマンが存在する
ことは良く知られているのである。というのは、人はすべてアートマンが存在すると信じており、
「私は存在しない」とは[信じて]いないからである。実にもし、アートマンが存在することが知
られていなければ、他の人はすべて「私は存在しないのだ」と信じていることであろう。そして、
(この)アートマンがブラフマンなのである」
『ブラフマ・スートラ註解』http://web.kanazawa-u.ac.jp/~hikaku/shima/BSBh0-4.pdf

なお英語全訳は検索すればたくさんあります。

27空即是進化:2009/01/26(月) 23:12:21

 
 本日は父親の命日でもあり、釈尊の真意を勝手に想像してみました。

   宇宙即是空 空即是進化 進化即是我 我即是宇宙

28幻論乙坊:2009/01/27(火) 10:55:00
顕正居士さん

ブラフマ・スートラ註解の御教示、有難う御座いました。

29空即是進化:2009/02/14(土) 08:56:15

 宇宙と生命の進化について、どんな風に表現すればよいのか考えていたところ、すばらしい本が
見つかりました。

 『なぜ宇宙は人類をつくったのか』(詳伝社 桜井邦朋神奈川大学名誉教授)
 
 釈尊の真意を現代物理学で説明できないだろうか。

 すでにご存じかもしれませんが、特に科学者である彰往考来さんの感想をお聞きできれば
幸いです。

30犀角独歩:2009/02/14(土) 12:57:04

顕正居士さん

> アートマンとブラフマンとは全く単に同一…梵我一如

この我ですが、これは衆生全部に当てはまるのではなく、地上のバラモンのみに当てはまるというのが、大前提であると思いますが、この考えでよろしいでしょうか。

31顕正居士:2009/02/14(土) 15:35:01
犀角独歩さん。シャンカラにこのような逸話があります。

While in Kashi, Shankara and his disciples were returning to the monastery from their daily bath
in the Ganges when an outcast approached from the opposite direction. The disciples called out
for the outcast to move aside so they might pass without touching him. The outcast calmly replied,
“What shall I move - my body which is made of earthly elements or my soul which is all-pervading
consciousness?” At that moment, Shankara had a vision in which it was revealed to him that
the outcast was Shiva in disguise. He suddenly realized the one reality in all. He stopped his
disciples and said, “He is indeed my guru, regardless of his low birth.”

http://www.indolink.com/displayArticleS.php?id=021306105856

カーシー(べナレス)におられた時、シャンカラと弟子たちが日課のガンガーの沐浴から僧院に戻ろうと
すると、一人の不可触民が向かい側から近づいて来た。弟子たちは不可触民に触れぬためにその者
に脇へ退くよう叫んだ。不可触民は穏やかに答えた、「何を退けよと?この世の元素で構成されている
わたしの身体ですか、それとも一切に浸透している意識ですか?」。すると、シャンカラは心眼でもって
この不可触民がシバ神の化身であることを知った。彼は突如、一切が一なる実在であることを理解した。
彼は弟子たちを制止して言った、「彼はその出生が卑しかろうとも、実に我が師である」と。

32犀角独歩:2009/02/15(日) 00:40:08

顕正居士さん、有り難うございます。

よく理解できておりませんが、少し考えてみます。

33れん:2009/02/15(日) 17:45:34
ちょっと質問なのですが、ゴーダマ・ブッダと同じ時代のインドの他教団等の文献などに、ゴーダマの思想やゴーダマの説いた教えに関する批評等は残っているのでしょうか?ご存知の方がいらっしゃいましたら御教示戴ければ幸甚です。

34顕正居士:2009/02/16(月) 00:16:52
れんさん。はるか後世のものしかないとおもいます。

35れん:2009/02/16(月) 20:19:15
顕正居士さん

やはり、遥か後世のものしか無いですか。

後世とはいえ、インド他教団に伝えられたゴーダマやゴーダマを始祖とする教団への評価等から、原始仏典とはまた違う角度からの初期仏教の素描は可能かもしれませんね。

36顕正居士:2009/02/19(木) 17:30:28
当時の新思想家(六師+ブッダ)の発言を伝える文献はジャイナ教と仏教のだけが残っています。
それでチャールヴァーカの祖、アジタ・ケーサカンバリンの思想は古い仏典に伝えられています。
 
「人は(地水火風の)四要素からなる。
人が死ぬと、地は地、水は水、火は火、風は風に戻り
感覚は虚空の中に消える。
四人の男が棺を担いで死体を運び
死者の噂話をして火葬場にいたり
そこで焼かれて、骨は鳩の羽根の色になり
灰となって葬式は終わる。
乞食(こつじき)の行を説くものは愚か者。
(物質以外の)存在を信ずる人は空しい無意味なことをいう。
からだは、死ねば、愚者も賢者もおなじように消滅する。
死後、生きのびることはない。」
(『沙門果経』§22-24.『バラモン教典・原始仏典』世界の名著1、p.512.)
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/ajita.htm

そういう事情で、なんらか古い仏教批判が伺えるとすればジャイナ教の文献だろうと思います。
検索すると論文がありはします。
「ジャイナ教の仏教学説批判 : Pancastikaya-samgraha第15〜19偈を中心として」
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006272294/
このクンダクンダという人はB.C.1世紀 or A.D.4世紀の人だそうです。なんと言うか…ですが。

37空即是進化:2009/03/12(木) 22:22:49

 何故か止まってますね。なんかあったのでしょうか。

 故あって、東大寺、法隆寺、熊野古道、国立西洋美術館巡りをしてきました。
 古の人々の神仏への凄まじい渇仰心を、あらためて感じてきました。
 現代人は、寿命が延びることなどにより、四苦の畏れも古人ほどには懐くこともなくなった。
宗教の必要性そのものが薄らいでいるようだ。認知症が進んだ本人は、決して不幸ではない。
 宗教の意義、人間存在の意味をあらためて考えてみたいと思います。

38空即是進化:2009/04/16(木) 23:42:14
 佐倉哲(ソクラテス?)という方の仏教における「神」と「魂」についてのエッセイを
読みました。
    http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/soul03.html

 少し古いのですが、最初に読んだ時には相当の違和感というか反感のようなものがあり
ましたが、今あらためて読むと、実に解りやすく納得しやすい感じがします。

 釈尊の真意は「唯物論」と言えなくもないんだなと。

39顕正居士:2009/04/17(金) 09:07:15
その記事は質問者が神や魂の存在を認めないのは唯物論だと思い込んでいるのですね。
ブッダはアジタの唯物論を斥け色受想行識の五蘊に全現象を摂したから、物質と心と両方の
存在を認めた。佐倉さんも「仏教は唯物論ではありませんが」といっておりますね。
ところでブッダの立場をあらわすものとして「毒矢の譬え」がよく話題になりますが、この解釈
には2通りあります。苦の解決という目的からはそれらの難解な問いは措いても可とする
プラグマティックな立場である、いやカントの形而上学批判にも類する論理上の立場であるの
2つです。先のは西洋の初期の仏教研究者の説、後のは仏教徒の研究者などの説です。
論理上の立場であるとしても、ブッダはサンジャヤの説を斥けたので不可知論とも違います。

神といっても多神教の神はほとんど人間よりすぐれた生き物という意味ですから、仏教でも
唯物論でも特にその存在が論理上否定されるわけではありませんね。しかし全知全能で
全善の創造主は認められない。魂のほうは素朴的な魂観は否定しているが、初期仏教では
非我は説いても無我は説かない、ウパニシャッドの梵我一如と同じであるという説があります。
したがって仏教は無我だと固まった人からは「初期経典は非仏教」(じゃ誰が仏教の創始者?)
という奇説が出てきます。
スッタニパータはアートマンを説く反仏教! http://www.dia.janis.or.jp/~soga/suttanip.html

40空即是進化:2009/04/17(金) 21:25:19
 
顕正居士さん。
 そろそろ底が見えてしまったかなと、ある意味がっかりしてたところもあったのですが、
おかげでもう少し学び続けようという気持ちが出てきました。

42空即是進化:2009/06/30(火) 11:54:51
 釈尊の真意はやはり、無我・無常(縁起の法)につきると思う。
 肉体(脳)が先であって、心はそこから生まれる。脳が働きを止めれば心も滅する。
このことを真に納得(悟り)し、我への執着を離れることが涅槃といえるのでは。

 無我については、現代人には比較的容易に受け入れが可能でしょう。あらゆる
科学の進歩が、無我を裏付けているようです。(有力な反論がない)
 長寿が普通になった時代、自分の死も知人の死も、かつてほど辛いものではなくなっ
ている。

 しかし、無我を受け入れると、大きな苦しみは軽減できるが、喜び楽しみも半減し
てしまう。現状を打開していくエネルギーも出なくなる。
 せっかくこの世に生を受けたのだから、生ある限り進化向上を目指すのが、人間に
与えられた最大の喜びにつながる気がします。煩悩は絶対に必要だし、生きている限
り消すことなどできない。

 毒矢の譬え(マールンクヤの問い)で釈尊が「無記」としたのも、真実が必ずしも
救済にならないということかも。

 真実(無我)は真実として、より大きな救済をもたらす方便を探し求めたのが、そ
の後の釈迦教団の修行であり、仏教発展の歴史と言えるのではないか。

 日蓮聖人は法華経を信じ、最後まで実践された方だが、親鸞などは無我(死後生な
ど無い)を十分悟ったうえで浄土往生を説いていたんだと思う。

 原典を提示する能力が足りないので、雑感的に記載しましたが、諸兄のご批判を
よろしくお願いします。

43顕正居士:2009/06/30(火) 17:44:04
有我と無我

自我とは脳細胞間のネットワーク上を走るソフトウェアであり、その機能は個体の保全である。そして個体の
保全の遂行のためには身体や脳の個性的なモチベーションをも場合によって制限しようとする。
「ブラフマンがあらゆる人のアートマンである」とは「どのマシンのWindows XPも同じWindows XPである」のと
同じである。不二一元論(アドヴァイタ)はこの真理によく気がついた。
どこかに「Windows XPそのもの」が存在するわけではなく、存在するのは個々のマシンにインストールされた
Windows XPであるが、そのスクリプトは同一である。記号の列は物質的な存在ではないが、非存在ではない。
仏教は最初は不二一元論と同じ自我論であったようだが、後世に至ると自我の存在を否定するようになった。
インド哲学の本流では自我=絶対者とされるのでその無神論から自我の否定に至ったようである。
しかし自我を否定することによって身体や脳の個性的なモチベーションすら制限できる自我の機能を認めない
という素朴唯物論と同様の立場になったので、輪廻を脱出する論理が失われてしまい、涅槃と輪廻とには
少分の差もないという涅槃=輪廻説(煩悩菩提説)が出て来たのではないかと考えます。

44顕正居士:2009/06/30(火) 18:30:10
有我と無我についての誤解

ネット上の議論に誤解が見られるので要点を述べます。後に不二一元論として完成するインド教本流と
後世の仏教(初期仏教は本流と同じ)との自我の有無をめぐる論争はあらゆる人の個我に共通の存在
としての自我についてです。インド哲学の共有概念からこれは絶対者の存在の有無と同一になります。
現代的にいうとDNAや生育環境によるモチベーションを離れた部分、つまり輪廻と関わらない、解脱を
志向可能である自我の有無です。個々の人がインストールしたWindows XP本体以外のソフトウェアや
データは両者から自我の機能とは認められていません。漢訳ではたいがい「常一主宰」といっています。
輪廻するような自我の部分について論争しているのではないのです。

45幻論乙坊:2009/07/01(水) 22:45:16
顕正居士さん
今晩は。

個我なる字面を初めて見受けました。
自我とは仏教用語の様ですが、私が用いる自我とは少し異なるようです。

個我と自我の差意をご教示戴けますか。

46^^おいで:2009/07/04(土) 16:21:13
すごく好評のブログw
ちょっとHでどんどん読んじゃうよ。
更新もしてるからきてみてね^^

ttp://angeltime21th.web.fc2.com/has/

47顕正居士:2009/07/10(金) 18:20:06
幻論乙坊さん。
個我なる語は明治以降の使用であり、self(selbst)のある方面の訳語でしょう。
仏教を通してインド文明の間接的影響下にある日本人は自我に個我(アートマン)と
大我(ブラフマン)の両面があると考えますから。
個我なる語はまた個人意識を表現するのに近代日本では用いられます。
なお日本的無我論(日本的大我論)は京都学派の思想に見られるように軍官による
人民の個人意識の発達の抑止に向けられることが多かった。
しかしTat-tvam-asi(That You are、汝が其れである)とはギリシャ人の「我は神也」
と同じに、むしろ個我の唯一性を表現したものでもあるとわたしは考えます。
(cf マクス・シュティルナー『唯一者とその所有』)

48hage:2009/07/10(金) 19:33:22
自我とか無我とかとは少し違うのですが、
自分の心を信じきれるような心を持つのは並大抵ではないでしょうね。
他の何かを信じるよりも、自分自身の行い思いに対して嘘や誤魔化しをしない
そんな心を持つほうが何倍も難しいと思います。
「自灯明・法灯明」とても難しいです。

49顕正居士:2009/07/10(金) 21:27:19
hageさん。

釈尊は経典や権威を決して信じてはいけないと教えた。釈尊とその語についても含まれます。
つまり自分で詳細に検討した事柄以外を信じてはいけない。
http://www.metta.lk/english/not_believe.htm

ところで自己を拠り所とせよというのは明らかに無我の教義とは矛盾しています。
どうしてという質問をWEBで見ますが、初期仏教は無我じゃなかったからです。

Atta hi attano natho 自己こそ自己の主なれ(Dhammapada 160)のattanとは梵語のātmanです。

50hage:2009/07/11(土) 02:17:57
顕正居士さん

「詮するところは天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期とせん」

「心の師とはなるとも心を師とせざれ」
「相構へ相構へて、心の師とはなるとも、心を師とすべからず」
「心の師とはなるとも心を師とせざれ」

主体と客体とがありますが、客体は横においといて主体だけを見た場合、
その主体を信じれる行いが自分自身できるか?
自分のどんな志に従えば、自分を信じられるのか?
自分の中のなにを心の師とするのか?
いつもいつも、信頼できる自分でいられるか?
自分自身の目で自分自身を見たときどうなのか?

満足に自分の心を信じきれる人はそういないでしょうし、
そんな人がいたら、きっと自分の心に押しつぶされてしまうような気がします。
宗教は、そんな自分に押しつぶされないように、あえて客体を信じるようにして
自分自身をあるいみ誤魔化しているのかもしれないですね。

私自身の心を見てみると、嘘だらけ誤魔化しだらけでとても弱い心です。
決して信じきるようなことはできませんし、流されているだけなような気がします。

51顕正居士:2009/07/11(土) 17:37:25
「心を師とすべからず」の心とは「心仏及衆生是三無差別」というときの心(citta)ではなくて
心の作用(cetasika)であり、かつその中の好ましくないものです。
スマナサーラ師の説明です。CETASIKA:心所 http://www.j-theravada.net/pali/key-cetasika.html

で何に心の師となれというのでしょう?「自己」に決まっていますが、仏教は無我論という特殊論理に
陥っているので主語が省略されています。自我(アートマン)とは西洋でいう理性(ヌース)であって
人は自己の保全のためには自己の生得的制約や情緒からも場合によっては脱出しようとします。
個人も社会も向上発展が可能なのは個人の自由意志があるからですね。
だから仏教でも無我とは実際は術語上の約束であって「菩提心」がアートマンに相当するといえます。
我々が常に迷っているのは状況の認識が限りなく不十分だからで、そもそも何に努力してよいかが
わからないからです。したがって一切を知ろうとする心のはたらき、菩提心こそが真の自己であると
実際には仏教ではみなしていると思います。

52阿仏棒:2009/11/01(日) 17:46:24
釈尊の真意はそれこそ唯仏与仏でしょう。
それが分かればブッタになってしまう!

釈尊に限らず余所樣のことなど本当に知ることなどできるのでしょうか?

>>51
そんな難しい話でなく、何か別のルール、つまり決まりごとを自分に課すことなのかも知れません。
タバコを吸いたい、酒を飲みたい、この心を
駄目よ駄目駄目と抑えるのもまあ心じゃないかという向きもありますが
これを紙に書いたり唱えたりするのも効果があるw


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