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日蓮聖人の僧侶観

29犀角独歩:2008/11/01(土) 18:56:21

―28からつづく―

さらに敢えて言えば、こうした事態は、なにも石山に限るものではないわけです。しかし、これまた真蹟は遺さないまでも『四恩鈔』には以下の文があります。

「次に僧の恩をいはゞ仏宝法宝は必僧によて住す 譬ば薪なければ火無く 大地無れば草木生ずべからず 仏法有といへども僧有て習伝へずんば 正法像法二千年過て末法へも伝はるべからず」

『顕仏未来記』には以下の如くあります。

「雖然無伝持人猶如木石帯(しかりといえども伝持の人なければ なお木石の衣鉢を帯持せるがごとし)」

また、石山が大好きな真偽未決書『真言見聞』には以下のようにあります。

「凡謗法者謗仏謗僧也」

さらに疑偽書濃厚ながら『松野殿御返事』には以下のようにあります。

「法華経を説ん僧を供養して 後に須由の間も此経の法門を聴聞する事あらば 我大なる利益功徳を得べしと悦ぶべしと見えたり 無智の者は此経を説者に使れて功徳をうべし 何なる鬼畜なりとも 法華経の一偈一句をも説ん者をば 当起遠迎当如敬仏の道理なれば仏の如く互に敬べし」

また、『祈祷鈔』には以下のようにあります。

「白烏の恩をば黒烏に報ずべし 聖僧の恩をば凡僧に報ずべし」

こうした文で言われる僧とは、要は「日蓮」のことであることは論をまたないまでも、しかし、冒頭の「日蓮が如く」というキーワードは依然と生き来るわけです。

厳正な遺文から見る「日蓮聖人の僧侶観」は、たしかに『涅槃経』解釈や、その他種々問題をはらんでいます。しかし、それより、なにより、「日蓮聖人の僧侶観」と実際の僧侶の有様の激しいギャップは、わたしどもを懊悩させ、苦しめて已みません。

「日蓮が如く」が、いま21世紀にも通用するのかというテーマと共に「日蓮が如く」ということもまた大きなわたしどもの希求にあると思えます。

また、こうした「日蓮聖人の僧侶観」がありながら、そこから、乖離する僧侶しかいない…そう限定しているわけではありませんが、かなり、わたしどもは絶望しているわけですが…となれば、では、わたしども、どうしていけばよいのか。

こうした点を、わたしは、この際、歯に衣着せることなく、ここに論じ合いたいのです。

坊さんを批判するとか・そんなけちな了見ではありません。
命を懸けてきた凡夫僧日蓮聖人が、末の弟子までに厳戒した僧侶の有様から、わたしどもが、どんな僧侶を希求しているのか、坊さん方に、是非と模試ってもらいたい、参考にしてもらいたいという願いもあります。

もし、坊さんが駄目ならば、では、どんな方途があるのかまで、視野に広げて、ここは忌憚なきお考えをお聴かせ願いたいと存じます。


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