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日蓮聖人の僧侶観
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犀角独歩
:2008/10/29(水) 07:08:16
問答名人さん
鎌倉当時、僧侶という立場はいったい、どんな意味をなしていたのでしょうか。実はわたしはこの点がまだまだ判然としません。
「国師」というのは「大師」などと同じく、王権が僧侶に与える尊称のようにも、遺文中では活用されていますね。
日本仏教の僧侶の役割は、大きくは二つあったように思えます。一つは王臣に対する受戒をなすこと、もう一つは鎮護祈祷です。これには経典が重要な意味を有していたでしょう。より社会にとって具体的な役割としては、学問を独占した渡来僧は、政治経済、土木建築、美術、医術、占星術その他諸々の学問を日本に招来させる専門職でもあった。いまでいう坊さんと医者と大学教授と専門職を併せ持ったエキスパートが聖徳太子の時代から日本にやってきた渡来僧であった。こうした坊さんに、仏師、工人といった技術者も伴ってきたでしょうから、日本の文化発展に非常に大きな意味を持っていたと思えます。
しかし、その後、こうした学問や、政治、技術は渡来仏教集団から独立し、日本に定着し次の文化を生んでいく傍ら、僧侶集団は、成仏という来世契約や、この世的な願望成就を祈祷という形で特化していった。この分化した僧侶集団は、出家というのであれば、山林に籠もり、人知れず自らの成仏得道の修行に励むことになるのでしょう。けれど、仏教が招来された段階から「国家」を意識したものであり、それぞれの本山が今でいう総合大学のような機能を有していたことを考慮するとき、では、日蓮聖人は、なにを目指していたのかという疑問は生じます。
まさに「国師」であったように思えます。
では、この国師とはなにかということになります。比叡山はいまでいう大学のなかでもトップの、まあ東大のようなものであった。いまのような議会制民主主義といった体制ではない。為政者が軍事力を固め、地盤を決めて、町を作り、そこを要塞御殿のようにしていった時代です。
その為政者のご意見番、また、天候が不順であれば天候を変え、災害を抑え、さらに反逆者を抑え、異国を調伏する勝れた祈祷をする、そうしたスーパーマンが「国師」のイメージにあったのではないのかと思えます。
また、日蓮聖人が相手取った為政者は武士であり、戦となれば、明日には死出を覚悟した人々であるわけですから、菩提(成仏)ということが欲求としてあったわけですね。受戒の意義はここにあると思えます。
日蓮聖人が、迹門戒壇に代わり、建造物としての本門戒壇構想があったかどうか、わたしはかなり消極的に観測していましたが、その戒壇堂の奉安様式に関するアイディアと、少なくとも国師という地位から、戒壇戒師のトップとなることを考えていたのではないかとは思えます。
こうした日蓮聖人の、具体的な目的意識は、いまの坊さん方の有様から推し量ろうとしてもわからないと思えます。いまの坊さん方は、江戸時代の徳川幕府下の檀家制度で官となり、それが解体されて「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事」(『太政官布』第133号)」 と放り出されて私となり、廃仏毀釈に遭い、それでも、生き残りを賭け、天皇制大日本帝国下で田中智学達の日蓮解釈に染まり、そして、今度は戦後、アメリカから与えられた民主平等・日本国憲法化で自分たちの生きる道を開発してきた歴史的経緯を背負った坊さん達です。
善いとか悪いとかではなく、日蓮聖人の標榜するところとは、まるで違っているわけです。
まず、こうした前提を充分に考慮しながら、「日蓮聖人の僧侶観」を探ってみたいと思いますが、上述、補足、修正をいただければと存じます。
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