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摂受折伏の主体は誰か?
9
:
顕正居士
:2005/07/04(月) 22:20:54
>>4
に述べた天台智邈の折伏の四義の中の第3、第4の意はこの宗に存在しないのであるか?
この問題は仮に「教学」と「宗学」といま名付けるが、そういう区別を何か為さないと適切にいえないのである。
日蓮教学においては第3、第4の意は認められない。日蓮聖人は相待妙の上に宗旨を建立したからである。
しかし日蓮宗学においては第3、第4の意なきにあらず。日蓮教学とは宗祖より宗徒へ教える従果向因の学、
日蓮宗学とは宗徒より宗祖を仰信する従因向果の学であり、方向が正反対である。
堅樹日寛は『開目抄愚記』に「問う、若し爾らば、末法もまた摂受を行ずべきや」との問に、摂折二門古来意義
蘭菊なれども且く五義ありと、教法、機縁、時節、国土、教法流布の先後を挙げる。
教法流布の先後とは「竜樹、天親、天台、伝教等、前々流布の教法を破し、当機益物の教法を弘む」意義で
ある。何人も先代流布の諸説に簡別して自説を述べざるを得ない故に。経にいうのは「不説佗人。好惡長短」
で、法をいわない。むろん、法への批判であっても、適切に非ざれば誹謗である。宗祖の弘通にこの意味の
折伏(破邪)は当然存する。
「教法」折伏とはまさしく「法華折伏破權門理」の意義である。宗祖は相待妙の上に宗旨を建立したまえるも、
宗学とはそを仰信する上に成立す、仰信とは絶待の世界である、妙法華の外に一句の余偈も存在しえない。
第二の乗、第三の乗は存在しない。それらに対立する第一の乗も存在しない。
仰信、又、理の三千に非ずして、事の三千である。ゆえに、「立正安国論は当時已に其用をなさず」と宗祖の
おん身を以て現したもうと拝することができるのであります。
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