したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

摂受と折伏について

723犀角独歩:2007/08/07(火) 15:54:00

■大般涅槃經卷第三における「声聞」考

『開目抄』では‘声聞’語の使用は22カ所に及んでいます。仏菩薩の焦点のある日蓮の教説において、意外な観があります。
このなかで折伏の根拠ともされる以下の一節から大般涅槃經卷第三における「声聞」の用法を考えてみたいと思います。

「涅槃経云 若善比丘見壊法者置不呵責駈遺挙処当知是人仏法中怨。若能駈遺呵責挙処是我弟子真声聞也等云云。壊乱仏法仏法中怨。無慈詐親是彼怨。能糾治 者是護法声聞真我弟子。為彼除悪即是彼親。能呵責者是我弟子。不駈遺者仏法中怨等云云。」

この‘真声聞’という用法は、それ以前の文脈でも見られます。

「四大声聞の領解文云 我等今者真是声聞。」

用法としてとらえるとき、単なる‘声聞’と「真(是)声聞」とは一線を画す用法の差を有しています。

『開目抄』に引用される『涅槃經』の‘声聞’については、日蓮門下一般では、たとえば全集の現代語訳では「我れ仏陀の弟子であり、真実に仏陀の声を聞いて仏教を修行しようとするもの」とし、これは『日蓮宗事典』の「梵語の舎羅婆迦s'ra vakaの訳。声を聞く者の意で、弟子とも訳す。仏の声教を聞いて悟りを得る出家の弟子をいう」という説明と一致しています。

つまり、十界論で言う声聞乗ではなく、ここでは仏弟子の意味であるというのが門下一般の解釈です。

では、実際のところ、当の『涅槃經』では、どのような用法になっているのでしょうか。全巻を通じて考証をすることが前提ですが、取り敢えず、日蓮が『開目抄」に引用する第三に絞って検討したいと思います。

テキストとして、ネットで閲覧できる中華電子仏典教会の該当文を使用します。
http://www.cbeta.org/result/normal/T12/0375_003.htm

ここでは声聞は10回、縁覚は4回、菩薩は56回、仏は86回・如来は88回・45回で計219回となり、四聖のうち、声聞が挙がる率は3.4%です。

725犀角独歩:2007/08/07(火) 15:57:18
―723からつづく―

では、実際に‘声聞’の記述を挙げます。

T12n0375_p0619a08(02)║我等聲聞亦復如是。雖聞如來慇懃教戒。
T12n0375_p0619a22(04)║一切聲聞及大迦葉悉當無常。如彼老人受他寄物。┐
T12n0375_p0619a23(00)║是故應以無上佛法付諸菩薩。─────────┘
T12n0375_p0619a28(07)║時諸聲聞默然而住。爾時佛讚諸比丘言。善哉善哉。
T12n0375_p0620c25(07)║若能驅遣呵責舉處。是我弟子真聲聞也。…
T12n0375_p0622b11(04)║如來境界非諸聲聞縁覺所知。善男子。
T12n0375_p0622b13(07)║如來滅法是佛境界。非諸聲聞縁覺所及。
T12n0375_p0622b21(01)║終不能證聲聞縁覺菩提之果。
T12n0375_p0623a25(03)║唯有如來乃知是相。非諸聲聞縁覺所知迦葉。
T12n0375_p0624a04(00)║而為彼佛作聲聞眾中第二弟子。
T12n0375_p0624b29(02)║與同住止經歴多年。若是聲聞所不應為。

以上の用法から見るとき、声聞はもちろん、仏弟子には違いありませんが、やはり、十界論でいうところの声聞乗のニュアンスで使用されているように思えます。勧持、安楽行の両品を挙げて菩薩の有様を追う日蓮が、ここに声聞を以て論証することにはやや不足の観を禁じ得ません。しかし、今は、この点を置くこととします。
該当の文を少し前文かから挙げると以下のとおりです。

T12n0375_p0620c12(07)║有持戒比丘威儀具足護持正法。
T12n0375_p0620c13(10)║見壞法者即能驅遣呵責糾治。當知是人得福無量不可稱計。
T12n0375_p0620c14(02)║善男子。譬如有王專行暴惡會遇重病。
T12n0375_p0620c15(03)║有鄰國王聞其名聲興兵而來將欲滅之。
T12n0375_p0620c16(03)║是時病王無力勢故方乃恐怖改心修善。
T12n0375_p0620c17(03)║而是鄰王得福無量。持法比丘亦復如是。
T12n0375_p0620c18(03)║驅遣呵責壞法之人令行善法。得福無量。善男子。
T12n0375_p0620c19(00)║譬如長者所居之處田宅屋舍生諸毒樹。
T12n0375_p0620c20(01)║長者知已即便斫伐悉令永盡。
T12n0375_p0620c21(06)║又如少壯首生白髮愧而剪拔不令生長。
T12n0375_p0620c22(07)║持法比丘亦復如是。見有破戒壞正法者。
T12n0375_p0620c23(06)║即應驅遣呵責舉處。若善比丘見壞法者。
T12n0375_p0620c24(07)║置不驅遣呵責舉處。當知是人佛法中怨。
T12n0375_p0620c25(07)║若能驅遣呵責舉處。是我弟子真聲聞也。

ここに声聞につき、「持戒比丘」「護持正法」とあります。すなわち、「若能驅遣呵責舉處。是我弟子真聲聞也。」とは、その範疇にあります。

『開目抄』では、「大経執持刀杖乃至斬首是折義。雖与奪殊 途 倶令利益等[云云]。弘決云 夫仏両説等者○大経執持刀杖者 第三云 護正法者不受五戒不修威儀。乃至 下文仙予国王等文 又新医禁云 若有更為当断其首。如是等文 並是折伏破法之人。」といい、同じ護正法でも「不受五戒不修威儀」にして「断其首」を折伏としている点は異なります。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板