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蓮祖及び門下の曼荼羅について

1管理者:2005/04/28(木) 16:42:49

つぶやきスレッド2 の1525レス以降において、蓮祖及び門下の曼荼羅が話題になっています。新しいスレッドのご提案がありましたので、立ち上げます。提案文は以下の通りです。

つぶやきスレッド2

1536 名前: 三学無縁 投稿日: 2005/04/28(木) 13:31:41

「蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について」スレッドでも良いのでは?興門の本尊書写については「三度相伝」や「七箇相承」など、「伝・従日蓮日興相伝」ということになっていますから。もしくは、新しく「蓮祖及び門下の漫荼羅について」というようなスレッドを立てて頂いたほうが良いかもしれませんね。


1537 名前: 彰往考来(しょうおうこうらい) 投稿日: 2005/04/28(木) 15:03:08

※ここはつぶやきスレッドなので、これで最後にします。必要なら三学無縁さんのお勧めの新しいスレッドを立ち上げましょう。

166犀角独歩:2006/04/21(金) 01:06:28

れんさん

> 五月九日に設定したのか、理解に苦しみます

その理由は、さほど難しいことでしょうか。

「弘安三年太歳庚辰五月九日、此丘日禅に之を授与す」という日興の添え書きが先行していれば、原本は何を使うにしても、日禅の漫荼羅を策定すれば、この日付以外に設定の仕様はありません。

しかし、700年間、御本尊集があったわけでもなく、御筆漫荼羅に触れられる機会は極限られていた、となれば、限られた実見で、目の当たりにしたもの以外は原本に出来ない。要は「弘安三年五月九日」の日興添え書きを知っており、かつ、弘安三年三月の漫荼羅を実見した人であれば、このような模写となるのではないでしょうか。

やや脱線しますが、わたしに対して、「北山本門寺の日禅授与漫荼羅が大石寺にあったことが証明できるのか。証明できないのに、なぜ、それが原本といえるのか」と問うた人がいました。
しかし、あったことが証明できなくても、その文字は酷似しているのは事実です。となれば、石山はこの漫荼羅を原本にする機会を持っていたことが証明されるというのが考えの筋です。同じことが日禅授与漫荼羅にも言えるのではないでしょうか。

なお、れんさんが、独学徒さんのところで、お書きになっていて御伝土代に現れる弘安二年の日興上人と授与書きされた漫荼羅が石山にあって、ここにおいて、焼失したという意見には、わたしは反対の意見を述べておきたいと思います。
この漫荼羅が所蔵された場所がれば、それは日興が過ごした重須以外には有り得ないと、わたしは思うからです。
ただし、そのような漫荼羅が重須に格護されているという噂を石山は知っていた。故に、それにあやかって伝説を捏造したと言うことはあろうかと思います。
わたしは日目が日興の正当な継承者であるという考えは、どうも納得できません。
故に、日興の什宝が日目に伝わる所以を信頼できないと考えています。

この点を、れんさんはどのようにお考えになりますか。

167れん:2006/04/21(金) 06:48:09
犀角独歩さん
>「弘安三年太才庚辰五月九日比丘日禅に之を授与す」という日興の添え書きが先行していれば…
御本尊集収録の御筆漫荼羅を拝見するに、日蓮御筆漫荼羅において、この日付記入と授与書は日蓮自身が記入するのが通例であり、日興のが添書する場合はその日蓮の授与書の他に「日〇者日興弟子也、仍申与之」等と添え書きするのが日興が守った通例です。「弘安三年太才庚辰五月九日比丘日禅授与之」を日興の添書とすることにはやや腑に落ちないところがあります。この授与書をも日興添書であるとする根拠は何でしょうか?それ以外の日禅授与漫荼羅に関するご見解はなる程と納得しました。学恩に感謝します。
さて日興への上人号授与漫荼羅についてですが、重須にあった可能性はあるかも知れませんが、今のところ上代の富士文献に、その漫荼羅が重須に存在したことを記録または立証するものは、管見に入った資料の範疇ではありません。もし、独歩さんがご存じでしたら、ご教示戴ければ幸甚です。日時の日興上人御伝草案を読むと、日興の重須における事績を意図的に触れていません。引用資料も直接には重須側の文献はなく、自山分のものによっています。これはこの日興伝は日時自身の自山正統意識によって書かれたものであるが故と考えますが、もし、上人号授与の漫荼羅が重須所蔵のものならば、上記の日興伝の性格上、日時はその存在を記録しなかったろうと愚考します。上代に於いて日興への上人号授与漫荼羅が重須にあったならば、それを記録する重須・西山文献がないのは“不自然な文献の沈黙”であり、逆に石山の日時文献にみられるのは、当該漫荼羅が当時石山に流伝されていた可能性を示すものであろうと考えてものです。
>わたしは、日目が日興の正当な継承者であるという考えは、どうも納得できません。故に日興の什宝が日目に伝わる所以を信頼できないと考えています。

条々事も八通遺状も日妙付属状も多分に後世の作成にかかりますから、それらから日興の継承者を推定することは不可ですね。日興真筆史料では正慶元年十一月三日の日目への授与漫荼羅には「一中一弟子也」と記しています。この文言は、日目が日興の継承者的な立場にあることを端的に示したものと言えませんでしょうか?たとえば日朗師の正応四年辛卯九月三日の御筆漫荼羅に「日朗付属之弟子日輪法師授与之」(御筆写真・大田区史所収)とあり、此の日朗師程に直截的な表現ではありませんが、日興の「一中一弟子也」の表現の意図は日朗師のそれに通じるものともいえなくもありません。もし、日代や日妙が日興の継承者ならば日代や日妙にこそ「一中一弟子也」と授与書きした漫荼羅を授与し、それが重須や西山に現存・曽存して然るべきですが、そのような日興自筆漫荼羅が重須や西山にある・または曽存したという文献はなくこれも不自然な文献の沈黙といえるでしょう。故に、日興・正慶元年十一月三日の漫荼羅の授与書により、日目が、いわば日興の継承者的な立場にあったであろうことは、たしかだろうと愚考するものです。日興の什宝は日興自身の判断と意志により、日目に伝えるべきは日目に伝え、日代に伝えるべきは日代に伝えた…とみる方が自然と考えます。

168犀角独歩:2006/04/21(金) 10:48:43

れんさん、昨晩、気になることがありながら、投稿したので、迂闊な間違いをしてしまいました。仰るとおり、日付・授与者は日蓮の直筆であり、日興の添え書きではありませんね。失礼しました。ここに訂正し、お詫び申し上げます。

> 日興への上人号授与漫荼羅…漫荼羅が重須に存在したことを記録または立証

これは仰るとおりですが、この弘安二年漫荼羅こそ、日興が日蓮から上人号を授けら、弟子であることを認められた最大の什宝となります。日興が日蓮の弟子であることを証する允可証でしょう。

しかし、御伝土代の「弘安二年…日興上人」漫荼羅の信憑性は如何ばかりか、この点も慎重にならざるを得ませんが、仮にこの漫荼羅が授与されていた場合、日興は、この“本尊”を手許から離したでしょうか。もし、これを日目、もしくは日道といった石山方に譲ったとしたら、分与帳にその記載を書き残したはずではないでしょうか。このような記載は見られましたか。

また、、日道は北山に坊を構え、日順に学んだ人であったわけで、たしかに日目寂、日郷が富士に戻るも、その後、日動は石山を居としました。しかし、この日道を、直ちに石山の正当な後継者と見なすのは、石山門下の発想で、たとえば宮崎師は、ここに強い疑義を挟んでいました。大石寺は、日興に由来する寺であるというのは石山のアナウンスであって、門下一般として、日目の私寺として出発と見なされるわけですね。日道の発言を石山を代表するものと見なすべきか、重須・日興を中心にした興・澄・順・道の修学系譜の一環と見なすか、興・目・道の血脈で見なすかで景色は違ってきます。

しかしながら、どちらの景色からしても、日興の正当な後継者であることを自負せんとすれば、この漫荼羅は重要な意義を持つことになります。

たしか、れんさんは重須盗難事件に否定的なお立場であったと思いますが、もしこの事件が事実であったとすれば…

> 当該漫荼羅が当時石山に流伝されていた可能性

とは、まさにこの流伝経路を物語るものだろうというのが、三学さんのご意見でした。つまり、盗人は石山方であろうというわけです。

ところが、石山では日興筆・花押をなした書写本尊に、日目が花押を記したものを「譲座本尊」と称して、恰も血脈系譜の証拠のように扱いますが、弘安二年・上人号授与の漫荼羅があれば、むしろ、この漫荼羅を以てするのが自然ではないのかという思いがわたしにはあります。むしろ、その本尊がないからこそ、譲座本尊伝説が紡がれたのではないでしょうか。あるいは、いったんは、盗み取ってきたけれど、また、石山からも喪われた故、という憶測は可能かも知れません。

御伝土代は、その上人号授与の記事を紹介するばかりです。つまり、土代の記載には“距離”があるように読めるわけです。この書が日道筆であったとして(違うと思いますが)、そんな日興上人号授与の物語があったことを書き記しているばかりで、それが手許にあるというニュアンスがこの文章から伝わらないわけです。

もっと、いえば、わたしには、この漫荼羅が本当に存在していたのか・どうか、そのリアリティが伝わらないという思いがあります。
「鶏が先か・卵が先か」という言葉がありますが、弘安二年に係る物語は、どれが最初に生じたのか時系列に基づく整理が先ず必要であると痛感しますが、今のところ、わたしはこの作業を終えていません。

169犀角独歩:2006/04/21(金) 10:49:09

―168からつづく―

また、この漫荼羅には「二千二百三十余年」とあったであろうことは、御伝土台の記載から想像されますが、その後、捏造された彫刻では「二千二百二十余年」となっているわけです。つまり、ここに一連の流れがあるというより、認知の相違が確認されます。殊は、さらに絡み合っているように思えます。

以上のような複数の理由から、弘安二年日興上人号漫荼羅が、石山にあったという考えには疑義があり、また、日興什宝であれば、堅く本人が格護し、しかし、盗難で失したという起承転結は納得のいく面があります。そして、その現場は、やはり、日興の許、重須の出来事であろうと思えます。

> 日目への授与漫荼羅には「一中一弟子也」

この解釈は、れんさんが示されるところが、富士門下の一般的な解釈ですが、わたしは、どうも、この点を直ちに採用する気になれない思いがあります。
その大きな理由は、この「一中」の意が、必ずしも富士門下で言われていることであるとは思えない節があるからです。

やや一般常識に属することになると思いますが、通常、漢字成句で「一中」という場合は、以下のような用法となります。

「いっちゅう 【一中】
(1)禅家で、一座に居合わせる人達に茶菓を出し、もてなすこと。また、その一座。…」(三省堂提供「大辞林 第二版」)

この用法に従えば、日興は、彼の門下という言う一座に居合わせた一人の弟子・日目という意味で、「一中一弟子」と記した可能性もあることになります。

また「一弟子」ということですが、日興が弟子の優位を語るに使う成句は、分与帳では「第一弟子」でありませんでしたか。ところが、ここでは「一弟子」となっています。第一ではなく、一弟子です。この差は大きいと思えます。

さらに記せば、「一弟子」という用法は、言うまでもなく『御遷化記録』の「定一弟子六人事不次第」という一節に見られます。これは「定 一、弟子六人の事不次第」と読まれるわけですが、実はそうではなく「一弟子」であり、「六人は弟子として一つという意味」なのだと意を汲んだ方が居られた、わたしは明晰な慧眼であると配したものでした。

以上の点で、わたしはここに即断しようと思いませんが、「一中」「一弟子」については、「一が中の一が弟子」という読みが本当に適宜であるか、再考してみる必要があるように思うわけです。この読みのままにしても、では、「一が中」とは何を意味するのか、「一が弟子」は第一、最高の弟子という意味なのか、単に一人の弟子という意味なのか、一致団結して弟子として一つという意味なのか、もう少し考えてみる必要を感じるわけです。

170犀角独歩:2006/04/22(土) 07:51:16

―169からつづく―

「一中一弟子」の意味するところは、多分にれんさんがお考えになるようものである可能性のほうが、はるかに高いことになるのは、日道が日行に授与した書写漫荼羅の「暦応二(大才己卯)年六月十五日、日道(在判)日行に之を授与す一が中の一弟子なり」という端書が、たしかに日道のものであれば、ということになろうかと思えます。

上記は、言うまでもなく、家中抄の一節ですが、この日道本尊の影写というのは、出版書籍などに所蔵されているのでしょうか。残念ながら、わたしは見ていません。

もし、この端書きが日道の筆跡であれば、「一中一弟子」という成句を以て、日興から日目、日目から日道へ「第一の中の第一の弟子」と特定した可能性はあることになるかも知れません。

しかしながら、日道はともかくとして、日目もさておいて、日興にこのような意図があったとすれば、『宗祖御遷化記録』の筆者ともあろう方が、随分と日蓮とは違う発想を持っていると改めて感じます。

先に記したとおり、日蓮は「定一弟子六人事不次第」といい、六人の弟子を定めるものの、ここに序列をつけなかったという点で、極めて異彩を放っています。後世、血脈相承が言われることとはまったく相違した日蓮の実像がここにあるわけです。

本六、新六ということが、どれほどの証憑性があるのか、いまはここに記しませんが、しかし、この発想はまだ日蓮の六人弟子を模倣していることがわかります。

しかし、分与帳における「第一弟子」という弟子分類は、既に日蓮の発想からかけ離れたものであったのかも知れません。

171れん:2006/04/23(日) 18:57:53
犀角独歩さん
重厚なる御提示有難うございます。やや雑文ながら、私見を記しておきます。
>この弘安二年漫荼羅…分与帖…
分与帖そのものは日興の弟子分の日蓮漫荼羅の被授者の記録で、日興自身に授与された漫荼羅については一行も記されておりませんのでそのような記載は見られませんでした。実をいえば、御伝土代の“御本尊”はもしかしたら“御書”の誤聞ではないかという思いがあります。実は“聖人等御返事”の存在が伝聞の過程で“御本尊”と誤聞された可能性もあると考えます。ただ、日興書写漫荼羅に迦葉・帝釈の記名が「南無迦葉尊者・釋提桓因大玉」とある漫荼羅が多くあり、現存の日蓮自筆漫荼羅では、南無迦葉尊者は弘安三年三月まで、釋提桓因大玉は弘安二年十一月よりの記名で、日興は日蓮より、上人号授与か否かは別として、この時期の漫荼羅を授与された可能性はあると類推しています。この漫荼羅を日興が手元を離さずに置いたとしても、重須の後継日代が離山時に西山に携帯すべき性質のものですから、重須には残らなかったと思います。
重須盗難は日順血脈に記事が見えるので実際の事件と考えますが、石山が盗人という三学無縁さんの意見には傾聴しつつも、目師門下という特定にはやや慎重です。どの史料か失念してしまいましたが(静岡県史?)、重須盗難品が讃岐本門寺にある旨記した重須歴代の活字文書を読んだ記憶があります。とすれば、日華・日仙門弟の可能性も視野に入れる必要があると感じます。

172れん:2006/04/23(日) 19:42:06
続き
>譲座本尊…
御筆写真を見ますと、“日興花押、日目授与之”は確認できるのですが、日目花押は確認できません。本紙裏にでも日目の花押があるのでしょうか?譲座などというのは言うまでもなく、後世の伝説でしょうが、まぁ、大きさからいっても、日目の私寺である大石寺の安置漫荼羅という性格は有った可能性があります。
>もっと言えば…この漫荼羅が本当に存在していたのか…
私も先に記した通り、日興書写漫荼羅「南無迦葉尊者・釋提桓因大玉」との記名から先に示した時期の漫荼羅を日蓮から日興に授与された可能性は捨てきれないのですが、日時の御伝土代の記述に関しては“御書”を“御本尊”と誤聞したのをそのまま記述した可能性の方が高いかもしれません。日蓮の日興への聖人(上人)号授与は「聖人等御返事」であり、上人号授与漫荼羅そのものは存在しなかった可能性もありますね。独学徒さんの所へのあの投稿は一応の仮説としての可能性の提示ですので、上記の可能性も踏まえもう少し考えてみる所存です。
>彼の門下という一座に居合わせた一人の弟子日目という意味で…
常識的に考えれば、仰ることとも考えられますが、であるならば「最前上奏仁新田卿阿闍梨日目授与之」の授与書で事足りるのではないかと思います。独歩さんの仰る意味ならば、わざわざ念記する必要性が無いような気もします。日道の日行への「一中一之弟子」漫荼羅は影写は公開されていませんが、脇書は富要八巻・漫荼羅脇書等に掲載されてますから、堀日亨師の鑑定は経ているものではあります。この漫荼羅の堀日亨師の鑑別が正しければ、日興から日目、日目から日道へ「第一の中の第一の弟子」と特定した可能性はありえると思います。
日蓮が六老僧を定めた時、ご指摘の通り、六門徒同格が日蓮の意志でしたが、しかし、他の日蓮門下へと目を転じても、日昭にせよ日朗にせよ、それぞれ付属の弟子を定めていることを考えれば、六老僧には、現在の石山の如き血脈観ではないですが、後事を託す門徒の首長を選定するという意味での「付弟一人」に近い考え・思想はあった可能性はあると存じます。

173犀角独歩:2006/04/24(月) 06:05:03

れんさん

> 御伝土代の“御本尊”はもしかしたら“御書”の誤聞ではないか

なるほど。このご指摘は実に興味深く拝読しました。

> 弘安二年十一月…日興は日蓮…この時期の漫荼羅を授与

これまた、説得力の観察と拝読しました。

> この漫荼羅…重須の後継日代が離山時に西山に携帯すべき性質…重須には残らなかった

日興寂まで重須にあったとすれば、そのようなことになりますね。

> 重須盗難は日順血脈…実際の事件

宮崎師は、この根拠を日代置文としていました。
該当は、日宗全所載文献だと思いますが、手元にありません。

> …石山が盗人という三学無縁さんの意見には傾聴…重須盗難品が讃岐本門寺にある…日華・日仙門弟の可能性も視野に入れる必要

三学さんが特定した盗難者が石山方というのは、まさにこの日仙でした。その遠因に仙代問答を考慮したものです。この問答は石山で行われたものであり、日仙開基の百貫坊も石山にあった故にこの時点で日仙を石山方に含めた発言となったのだろうと思われます。

>> 譲座本尊…
> …日目花押は確認できません

これまた、迂闊でした。訂正します。

> 「最前上奏仁新田卿阿闍梨日目授与之」の授与書で事足りる

この文章ですが、富要によれば、

「元亨四年十二月廿九日、最前上奏の仁卿阿闍梨日目、(道師加筆)日
道之を相伝し日郷宰相阿に之を授与す」

> …「付弟一人」に近い考え・思想はあった

日興にでしょうか? となると、重須は日代に、檀所は日順に、石山は日目に、という三様で、日目が「付弟一人」で、その証文が「一中一弟子」ですか。
うーん、これはどうでしょうか。当時の石山が重須の本堂、檀所より、日興の中で比重が大きかったのかという点で、やや納得できないところがあります。
ただ、寺院・檀所ということではなく、弟子としてみるとき、日目を、ということであろうと思いますが、わたしは、やや違う考えを持っています。

「一中一弟子」の成句を記すとき、必ずその対句があるからです。
以下、挙げます。

・正慶元年十一月三日、最初“上奏”の仁、新田阿日目に之を授与す“一が中の一弟子”なり、(道師加筆)日道之を相伝す
・奥州加賀野卿阿闍梨日行に之を授与す、“上奏”代日行は日道の“弟子一が中の一”なり
・最初“上奏”の仁新田卿阿闍梨日目に之を授与す“一が中の一弟子”なり、(道師加筆)日道之を相伝す

このように並べてみると、この対句とは「上奏」で、必ず記されています。
先に挙げたとおり、日道は日郷に授与をしているわけですが、この日郷は、日道より10才年下の日目の弟子で、日目最後天奏のお供でした。ただ、上述の日道の加筆は、やや不審で元亨4年に当たる1324年は、改元され正中元年で、年末の12月29日にこの紀を記していることになります。まあ、それはともかくとして、日郷もまた天奏の一人でした。
以上の点から、わたしは「一中一弟子」は「付弟一人」の特定句ではなく、天奏賛嘆の対句ではないかと考えます。ただし、これは現段階では思索課程です。

174犀角独歩:2006/04/24(月) 06:26:10

―173からつづく―

ただし、日道においては、「一中一弟子」日行を仰るような「付弟一人」と考えた可能性はあろうかと思います。ここから、日興がではなく、日道には 日興・日道・日行 という弟一人観を想定したのかもしれないとは思います。

さらにただし、その場合、日道の、元亨4年(正確には正中元年)日郷授与は、何を意味するのだろうか。この点、興味が惹かれます。

わたしは、派祖の本尊書写は、あまり、真面目に調べていないのですが、日興に日目に書写本尊を授与したのは、まさに、日道が日郷の先の日付です。『富士年表』によれば、

1324 正中 1 12.29 日興本尊を書写し日目に授与

その同日に日道は日郷に授与しています。
日目本尊書写のはじめは、その2年後、嘉暦元年としてよろしいのでしょうか。同年表によれば

1326 嘉暦 1 4.26 日目本尊を書写し日郷に授与

この一連の流れを見ると、恰も日興・日目・日道・日郷という脈絡があるように映じます。勿論、断定ではなく、出来事を並べると、そう映じると言うことです。

177犀角独歩:2006/04/24(月) 10:52:24

【174の訂正】


誤)日道には 日興・日道・日行 という弟一人観を想定
正)日道には 日興・日目・日道・日行 という付弟一人観を想定

178犀角独歩:2006/04/24(月) 12:03:35

朝、寝惚け頭で打ったせいか、いつも以上に間違いを連発してしまいました。
173の引用文がダブっていますね。
もう一度、整理し直して載せます。

1324:元亨四年十二月廿九日、最前上奏の仁卿阿闍梨日目、
   (道師加筆)日道之を相伝し日郷宰相阿に之を授与す

1332:正慶元年十一月三日、最初“上奏”の仁、新田阿日目に之を授与す
  “一が中の一弟子”なり、(道師加筆)日道之を相伝す
1339:暦応二年太才己卯六月十五日、奥州加賀野卿阿闍梨日行に之を授与す
   上奏代日行は日道の弟子一が中の一なり

その他、間違いがありましたら、ご判読いただければ有り難く存じます。

179れん:2006/04/25(火) 19:29:45
犀角独歩さん。
再度の重厚なる御提示痛み入ります。
>宮崎師はこの根拠を日代置文としていました…
日代置文は最近の日興上人全集等の文献によれば写本しか現存しないとのことで、執行師も「これら置文については古来より真偽の論があって、その成立には難しい点がある」と言われており、一応注意の必要な文献ですので、私としては重須盗難を伝えるもう一つの文献“日順血脈”を挙げました。

元亨四年の興師書写目師へ授与の漫荼羅の日道添書は、元亨四年の時点ではなく、おそらくこの本尊については、日目生存中に正慶の日興書写日目授与漫荼羅とともに日目より日道に相伝されたものであるが、特に日郷師は目師の天奏に随伴したので、郷師帰山後、その功により、特に元亨四年の漫荼羅を賞与したものと考えますので、当該漫荼羅の日道添書には年代は記されてないのですが、目師滅後・郷師帰山後の記入ではと類推します。
>重須の本堂、檀所より…日興在世の重須の建物ですが、日興直筆の文献には“おもす大坊”“重須談所”は確認出来るのですが、“重須”本堂の存在を述べる日興直筆文献は今のところ確認出来ないです。「富士本堂」は与日満書、「本堂」は日興上人御遺跡事に見えますが、これは重須か大石かはまだ私は保留中です。ただ、石山日時談大石記に「今の重須の本堂は昔シ之レ無く御影堂計リなり、然るに下ノ坊の僧達、重須の僧衆の百文宛寄セ合ハして奏聞無尽を行はる。折節故上人は御在国あり、奏聞申すべき人無くして、当坊の僧衆にも談合せずして卒爾に御堂を立てられしは今の本堂なり」とあり、重須の“本堂”は興師滅後に初めて建立の可能性もあり、与日満書・日興上人御遺跡事の“本堂”については在所の比定につきましては保留しておきます。

180れん:2006/04/25(火) 19:52:51
続き
>わたしは「一中一弟子」は「付弟一人」の特定句ではなく、天奏賛嘆の対句ではないかと考えます…
独歩さんの御提示は傾聴すべきものですが、日興が弟子の奏聞を賛嘆した授与書を付した書写漫荼羅は、日目のみではなく、日仙にも日妙にも授与されているのですが、正慶の日目へ授与の書写漫荼羅にのみに「一中一弟子也」とあるのを考えますと、これを単なる「天奏賛嘆の対句」とのみ限定するのはやや納得出来かねるものがあります。この点は早急に結論せず、もう少し思索してみます。
>ただし日道においては…日行を…「付弟一人」と考えた可能性…日興がではなく、日道には日興・日目・日道・日行という付弟一人観を想定…
この点は、ご指摘の通りと、そのように私も考えます。
>日興・日目・日道・日郷という脈絡…
後世の門流間の係争とそれから派生した門流正統意識を持ち込まずに当時の史料を読みますと、そのように受け取れますね。

181犀角独歩:2006/04/25(火) 21:40:37

れんさん、こちらこそ、いつも正確なご指摘並びに、出典のご提示、まことに有り難うございます。

>> 宮崎師はこの根拠を日代置文としていました…
> …写本しか現存しない

ええ、仰るとおりです。宮崎師自身、この点は十分御承知のうえで挙げていらっしゃいました。50年前の記述ですが、師は、それでも、この置文が示す僧俗の有様はリアリティを感じておられたようで、その意味で、単に捨て去ることはなさらなかったようです。

> 日順血脈”を挙げました。

きわめて適宜な出典であろうかと存じます。

> 当該漫荼羅の日道添書には年代は記されてない…目師滅後・郷師帰山後の記入ではと類推

もし、そうであれば、道郷の関係は日道が明らかにうえと言うことになりますね。しかし、漫荼羅の委譲は、10才年上の日道が、日郷を自分のうえに認めたことなのか・もしくはその逆なのか、れんさんはどちらとお考えになりますか。

れんさんは、道郷争いはなかったというお立場であったと記憶しますが、これまた、宮崎師を引き合いに出せば、「あった」という立場でした。わたしは、どうもこの点はすっきりとわかりません。大石寺は、南条家の私寺で結局、その縁戚が寺の実権を握ったという筋という考えは持っています。ところが、たしか日志であったかは、そのような考え方は「古今の珍説なり」と一笑に付していたごとくでした。しかし、あの当時の寺院相続というのは、結果的にはそうとしかなっていないように思えます。

> …“重須”本堂の存在を述べる日興直筆文献は今のところ確認出来ない

仰るとおりですね。
先にご引用の執行師は『日蓮宗教学史』では

「重須に於ては日興在世中から、大坊派と檀所派の確執があり、日順の大沢蟄居の如きは、一つにはその軋轢を避けたものと伝えられている。蓋し大坊派が日興法脈の正系を以て任じ、檀所派を目して横入の傍系と見做したのに対し、檀所派は学系の正嫡を任じたがためであろう」(P43)

ところがここで執行師がその根拠として挙げられるのは、『五人所破抄』ほか、日興滅後に係るものではないのかと思える文献類です。ただ、わたしは、檀所とは別に本堂に該当するようなものがあったのではないのかと思う第一の理由は、つまり、日代の存在です。ですから、れんさんは保留される「本堂」は、やはり、北山の、現時点では考えています。

> 一中一弟子

この点は、もちろんのこと、たとえば、先より名の上がる宮崎師にしても、当然、れんさんの記される筋で一般化しています。

それにもかかわらず、わたしが拘るのは、「一弟子」の意味するところです。
また、日目の天奏の功は理解できるのですが、結局のところ、この大旅行を30回以上もできたのは、日目の篤い信仰とも言えるのでしょうが、一方、それを支える財力を有していたという側面は看過できないものを感じます。

堀老師は「公家武家共に其目途を成すまでには巨額の資材を以て運動」とその有様を記したわけですが、斯様なことを生涯に亘りできた日目はまた、日興が身延を出たあと、自分の縁戚に案内をつけたりもしました。ある面、日興のパトロン的な側面すら感じます。それに引き替え、日目については教学的な側面は実に浅薄で伝わるところがありません。エピソードとして、御伝草案には見られますが、しかし、それは日蓮在世の話であって、石山住持のものではないわけです。日興を師に立てていたとはいえ、その本尊書写は、同時進行なのであって、ここに、本尊書写の、師弟の矜持も伝わりません。

日興が、六人弟子を継承したのであれば、一人を選んで「第一の中の第一の弟子」などということは全く齟齬を来すことになります。日蓮に比すれば、いわば堕落に等しいことでしょう。本当に日興がそんな人物であったのか? わたしは納得できないわけです。

以上のような前提から、日目に贈った「一中一弟子」とは、一体、何であろうかと考えると、この財力を背景にした天奏の功以外、思い当たらないわけです。さらに加えれば、日興武家に対して、公卿という血筋です。そのようなことからの仮定ですが、この点で、れんさんのご賢察を是非とも窺いたいからのお声かけでした。引き続き、ご教示いただければ有り難く存じます。

182れん:2006/04/29(土) 19:44:36
仕事が忙しく、やや亀レスになりました。
>漫荼羅の委譲…日道が日郷を自分の上に認めたことなのか…その逆なのか…
正文献上、日道師と日郷師の接点を示すものは、当該漫荼羅以外しかないので、現時点では何とも云えませんね。日道添書の文面から云えば、「その逆」という可能性は否定出来ないかもしれません。
>道郷争い…宮崎師「あった」…
道郷争いを直接示す当時の正文献はないので、新しく見る時には道郷争いそのものは無かった可能性があります。日道は暦応4年(1341)の寂で、日郷は文和2年(1353)の寂ですが、日郷の帰寂日に成立した大石寺蓮蔵坊臈次事には「大石寺東方ノ坊地如本安堵之時者…」とあり、文献的には行郷争いといった方が文献から伺える事実に即しているいるのではと愚考します。
>大石寺は、南条家の私寺で結局その縁戚が寺の実験を握ったという筋…あの当時の寺院相続というのは、結果的にはそうとしかなっていない…
多くの場合そうなのですが、石山に於いてはやや複雑で、南条家の血筋からいえば惣領時綱の子息であった日伝やその門弟が実権を握ってもよいのですが、実際は新田小野寺氏一族の日道・日行の流れが石山の実権を握っていった事実は、南条家の南北朝期の上野郷退出と、日目の42度とも言われる数多くの上奏を支えた奥法華衆の有していた財力によるといえるのかもしれません。

183れん:2006/04/29(土) 20:21:01
続き
>日目天奏の功…この大旅行を30回もできたのは…それを支える財力を有していたという側面は看過出来ない…
仰るとおりですね。
>日目…教学的な側面は実に浅薄で伝わるところがありません…
日目の教学的営為は、日興・日澄・日順の流れと比べれば、全然華々しいものはありませんが、日目の日蓮遺文写本には一代聖教大意・法華経題目抄・法華取要抄・四信五品抄が現存しますし、日目が正慶元年に弟子民部日盛に与えた消息に「義科ヨクヨクシタタメテ、二三月下リテ若御房達・児ともと可有談義候。年カヨリテ仏法ノサハクリタク候。今年モ四月ヨリ九月廿日比マテ無闕日御書談シ候了」とあって、今年モ…の記述から、石山においては毎年四月から九月まで、日目が中心となって、日蓮遺文等の講義・学習が集中的に行われていたようです。日目の教学は、身延において日蓮に給仕して学んだ法門が基礎で、あとは重須の日興の教示も当然あったでしょう。日目にはものした著述こそありませんが、“教学的には実に浅薄”とのお言葉には、上述の史料から、やや違うのではと思いました。
>日目に贈った「一中一弟子」…この財力を背景にした天奏の功以外思い当たらない…日興武家に対して、公卿という血筋…
なるほど、そういうことかと、やっと納得いたしました。

184れん:2006/04/29(土) 20:52:16
182の訂正
誤)当該漫荼羅以外しかないので
正)当該漫荼羅以外ないので

185犀角独歩:2006/04/29(土) 21:56:42

れんさん

たとえば、日目の教学を実際に窺わせる資料にはどんなものがあったでしょうか。
日蓮への給仕、写本だけでは、わからないと思いますが、どうでしょうか。
また、日目に特筆すべき教学があるとすれば、どのようなものでしょうか。
具体的にご呈示いただけますか。

186れん:2006/04/29(土) 23:31:04
犀角独歩さん
>185
>たとえば、日目の教学を実際に窺わせる資料にはどんなものがあったのでしょうか…
日目の教学を窺わせる資料は、残念ながら上述の資料以外見当たりません。あえてあげれば、日目申状の記述でしょうか。その他は伊豆実成寺から流出した「聴講見聞録」や石山蔵の日目筆とされる「要文」(典拠・完則宝蔵目録)同じく日目筆「見聞」(典拠・完則目録)が全文公開され、それぞれ日目筆が確定すれば、日目の教学の、また違う景色が窺えると思いますが、現時点では、日目の教学を窺う好資料と思われる、上記文献は非公開ゆえ、残念ながらご期待に添える資料の呈示はできません。
>日蓮への給仕、写本だけではわからない…日目に特筆すべき教学があるとすれば、どのようなもの…
日蓮晩年の日目の日蓮への給仕、日目の日蓮遺文写本や申状・消息文に見える日目のわずかに残る資料からみてみますと、日目には、新たに自身が開発したような教義・教学なるものはなかったように思います。逆にそこが特筆すべき点かもしれません。

187れん:2006/04/29(土) 23:45:38
訂正
誤)同じく日目筆「見聞」正)同じく日目筆とされる「見聞」

188犀角独歩:2006/04/30(日) 07:49:25

れんさん

なるほど。日目の教学を知る確実な資料はほとんどなく、日目自身が開発したような教義・教学なるものはなかったということですね。

ということは、日興が、日目第一の弟子であるとするれんさんの根拠は、「一中一弟子」という点だけでしょうか。

189れん:2006/04/30(日) 11:29:51
犀角独歩さん
仰るとおり、日目が日興の第一弟子と理解する場合の根拠は、日興書写の正慶元年の日目授与の漫荼羅の「一中一弟子也」の記述以外にないですね。
しかして、犀角独歩さんが示されたとおり、日興が「一中一弟子也」と記した真の理由は、日目の公卿出身の血筋という家系伝承、日目のパトロンであった新田小野寺氏をはじめとする奥法華衆の有力な財力を背景とした天奏・上奏の功によるものであると言える訳で、日興の「一中一弟子」を額面どおり付属の弟子と理解するのは不可かもしれないと言えるでしょうね。

190犀角独歩:2006/04/30(日) 11:46:05

れんさん

今回のやりとりのロジックとしては、そうなってしまいますが、この件は保留として、もう少し勘案してみようと思います。

191なし:2006/04/30(日) 21:33:41
「卿公問答せよ」

192ワラシナ:2006/04/30(日) 23:38:55
史料紹介「日蓮写真帖」<1><2><3><4>
<1>0 初めに。1,2,3、アルバム外形の紹介
<2>4 写真9枚の紹介(4-10迄)
<3>4 写真9枚の紹介(4-19迄)
<4>5 参考サイトの紹介、6 結語、7 感想

史料紹介「日蓮写真帖」<1>0 初めに。1,2,3、アルバム外形の紹介

0,初めに。
 「日蓮写真帖(図19枚折本 帙入)」と題された著者発行者不明の宗祖関連遺蹟の白黒写真19枚(実際は一枚はがされたものと見えて18枚しかない。)のアルバムが某所にある。このアルバムにある写真の撮影者と撮影時期を求めるのが紹介の目的である。その結論は、断定はできなかったが、このアルバム中の写真の撮影者は堀上人ではないかと推測している。根拠は一つ。参考資料として下に挙げたサイトの写真の一部が当アルバム写真の一部とあまりに似ているから。撮影時期は判らない。

この話題はh11/8/07(土)に取り上げた。今回二度目は、前回紹介の時欠けていた写真の実寸を補った事と、前回より落ち着いて観察した点が違う。

1,アルバム外形の紹介。
 「日蓮写真帖」とはどういうものか。縦24,5cm、横19cm、厚さ4cmの折本に18枚の白黒写真が貼ってあるだけのもので解題がない。被写体が何かを示す手がかりは、唯一、撮影者が被写体に附した長方形付箋紙だけである。「日蓮写真帖」なる語で折本の外題が記されているわけではなく外題欄は空白、無題になっている。アルバム表紙にも、折り本のどのページにも撮影者の文章が残って無い。解説らしきものは写真中の被写体に附された付箋紙中のメモの字句だけである。「日蓮写真帖」なる語も保管者が分類整理の都合上つけたものと思う。

2,以下に、18枚の写真中に映されている被写体それぞれに添えられている付箋紙の文字と18枚の写真のサイズを列記する。アルバム写真中の付箋紙に書かれた字句をそのまま「」に写し、私の備忘的観察と考察は(*、、、)内に書く。

3,まず、目の前にアルバムを置いて眺めてみた。大きさは、大型の弁当箱サイズ、または、底の薄い折り詰め弁当ほどある。二ミリほどの厚紙が蛇腹のように一連になってつながれたものである。写真はその厚紙に貼られている。厚紙同士のつなぎ部分の紙の色は紺だった(と記憶している)。それらが積み重なると折り本の外周部(天、地、背、小口)になっている。薄クリーム色にみえた表紙の下部には屏風絵にあるような金色の文様がみえる。表紙の左上の長方形の外題枠の中に文字はない。
 
 写真を見るために目の前にアルバムを置き表紙を右側にめくる。その左側を一頁目という順番付けで写真の位置を特定してみた。四番目写真までは各ページ左右の間に薄い、写真と同じように黄ばんだパラフィン紙が挿入されていた。(<1>終わり)

193ワラシナ:2006/04/30(日) 23:43:00
史料紹介「日蓮写真帖」<2>4 写真9枚の紹介(4-5迄)

4,18枚の写真の紹介

1頁,2頁には写真は無い。(記憶違いで本当は3頁目,4頁目だったかもしれない。その場合最初の写真が登場するのは3頁目ではなく5頁目からになる。)

4-1 3頁(左)に貼ってある1枚目の写真(縦16cm横11.5cm)、

(*正面から見た宗祖座像。四角形の台座の上に両手で巻物を広げたような宗祖がこちらを見据えて見える。着ている納依が肌着のような、柔道着にそっくりにみえる。本当なら両手で巻物を開いて入る姿になるはずだが巻軸を外した姿になっている為に、座して格闘技の構えをしているようにすら見える。この写真には表示用白紙付箋紙は無かった。
 なお、以下に続く坐像の写真はどれも被写体として選ばれた坐像以外の背景が削除され白抜きされて映っている。)

4-2,上の3頁を右にめくると裏側の右側4頁に2枚目の写真が出てくる。(縦11cm横15.5cm)、「久遠寺宗祖御影」。

(*上の御影を真横から撮影したものにみえた。台座の四角い厚板を左側に立てかけ台座抜きの尊像は左半身をカメラ側に向けた格好なので、尊像は、自分の目の前で四角い座布団を見ているような感じになっている。両者の中間の真下あたりに「久遠寺宗祖御影」の長方形付箋紙(大きさは見当で縦20cm横10cm位)が置かれている。台座の表面には対角線を交えた四角形の文様が彫刻されている。台座の厚さは、尊像の足の太さ程に見えた。)

4-3,4頁の左側,5頁にある、3枚目の写真。(縦14.5cm横10.5cm)
付箋紙は無い。

(*法衣を纏い、正眼の構えで巻物を広げた宗祖の座画像が、文字曼荼羅同様の表装で掛け軸になってつるされているもの。)

4-4,5頁を右にめくった6頁にある4枚目の写真。(縦15.5横11.3cm)
「中山高祖御尊像」

(*,若干大きめの付箋紙が台座の中央部に立てかけられてあった。二枚目の久遠寺宗祖御影と同じく左半身向けの彫刻坐像だが、両腕の突き出しは巻物を広げていた姿であろうと思われる。よく見ていなかったので両者の差異はこれ以上は書けない。ただこの中山のものは、座布団に座していた事、が違っていたと記憶している。)

4-5,6頁の左側にある7頁にある5枚目の写真。(縦15.5cm横11.3cm)
「中山高祖御尊像」

(*,右の6頁の彫刻坐像の正面撮影と思われる。付箋紙は写真の台座の右下辺りに立てかけられていた。)(<2>の終わり)

194ワラシナ:2006/05/01(月) 00:05:03
史料紹介「日蓮写真帖」<3・上> 4 写真6枚目から12枚目の紹介(4-13迄)

4-6,7頁を右にめくった8頁にある6枚目の写真。(縦16.3cm横12cm)
「綱要導師御画像(大きめの字で書かれ) 牛込瑞光寺(小さめの字で書かれている。どの付箋紙の場合も所蔵寺院名は小さめの字で書かれている。)」

(*若干猫背気味の老年僧侶が経典を広げた小机の前に座っている。この人物像が掛け軸の下半分を占め上半分は経典の偈頌が書かれている。若干大きめの付箋紙が掛け軸中央左端に上下二点の画鋲でとめられていた。要するに光沢のある丸型が金属製の画鋲とすぐわかる程の解像度の写真なのだ。)

4-7,8頁の左側9頁にある7枚目の写真。(縦16.5cm横12cm)
「興師御肖像 蘇我福正寺」

(*法衣を纏った老僧が小机に書籍を広げて座している画像が掛け軸の下半分を占めている。画中の老僧の視線が手前の小机より上方を指しているように見えたので聴衆に向かって講義でもしているかのような姿勢に見えた。上部を画鋲一点でとめられた付箋紙は掛け軸右中央部側端に貼られていた。この画像は大石寺教学書籍のどこかで見かけた記憶があった。)

4-8、9頁を右にめくった10頁にある8枚目の写真。(縦16.4cm横12cm)「養珠夫人画像 小石川興善寺」

(*頭巾を被った尼僧姿の女性が両膝を斜めに崩したような姿勢で座している。まるでカトリックの修道女かイスラムの女性のように見える。額を除く顔面と首下の三角形を残した全てが衣で覆われているから、足の組み方などは判らない。顔はふっくらした中年女性の顔。吊るし帯状の縦二本線の有無までは写真に写っていたかどうか記憶があやふやだが掛け軸形式であったと記憶している。付箋紙は写真中央部右側端に貼ってあった。)

4-9,10頁の左側11頁には写真はなかった。はがされた痕も無かった。

4-10,左側11頁を右にめくった12頁にある9枚目の写真。(縦20.4cm横15.2cm)
(*付箋紙は無い。それは、被写体が「諸人御返事(平賀本土寺蔵)」の真蹟御書(或はその印刷物の)であることが一目瞭然だからであろう。

 鎌倉笛田山佛行寺のサイトを見ると外陣の欄間に全文が掲載されているので、照合すると9枚目の写真は、「三月十九日の和」から七行目の最下段の「記」字までが撮影されているようだ。「諸人御返事」の写真は9枚目,10枚目,11枚目まで続いている。この3枚はそれまでの8枚とは違いアルバムを見る角度を縦横を逆にして左90度回転させなければ縦書きの文にみえない、そういう写真の貼り方をしている。)

4-11,12頁の左にある13頁、10枚目の写真。(縦21cm横14.5cm)(*付箋紙は無い。「諸人御返事」の続き、「宛も」から、「皆此之」迄の9行。)

4-12,13頁を右にめくった14頁、11枚目の写真。(縦20,8cm横14cm)(*付箋紙は無い。「諸人御返事」の最後,「法門」から、「御返事」迄の5行分。)

4-13,14頁の左側、15頁12枚目の写真。(縦16.5cm横12cm)「高祖御消息断片 下山抄 浅草善立寺」
(*付箋紙は横長長方形の書簡の中央部上段に両端に画鋲止めされ貼られている。だが写真の向きは上の「諸人御返事」以前の向きに戻っているので、ここでアルバムを右に90度回転させる必要がある。)

(*撮影された下山抄本文の位置は、正確にはわからないが大まかに言えば、両火房の祈雨が叶わず負けた。たとえ雨が降ったとしても雨の形貌を以って祈る者の賢不賢を知る事有り、雨にも色々有り、と、雨の説明を始めている8行部分に見えた。)<3・上の終わり>

195ワラシナ:2006/05/01(月) 00:06:53
史料紹介「日蓮写真帖」<3・下> 4 写真12枚目から18枚目の紹介(4-19迄)

4-14,15頁を右にめくった16頁、13枚目の写真。(縦16.5cm横12cm)「慧明燈師本尊 牛込幸國寺」。
(*付箋紙は縦長長方形の本尊字面の外部表装の中央部の右側端に上下二点で画鋲止めされている。主題の「経」字の下は「日蓮大菩薩」だった。右側は「仏滅度後」だが、「二十余年」か「三十余年」であったかは写し忘れた。慧明燈師については、NB氏の富士年表7に「○深草慧明日燈草山清規を著す(別統)」とある。)

4-15, 16頁の左側、17頁14枚目の写真。(縦16.4cm横12cm)「綱要導師本尊 牛込 瑞光寺」
(*付箋紙は縦長長方形の本尊紙面の中央部の左側端に貼られている。本尊字面の右側に「天明四申辰」の文字が見える。)

4-16,17頁を右にめくった18頁、15枚目の写真は無い。

(*台紙には剥がされた跡の形が残されていた。左19頁(縦16.4cm横12cm)の写真のサイズと同じだったので18頁に15枚目の写真が貼られていたと考える。島のような白っぽい円形のはがれ跡が二三箇所あった。他の写真の糊付けが一面べったり風なのに、この15枚目の写真だけは、接着剤が乾ききって台紙と写真との剥離面が大きかったので剥がれ(剥され)やすかったのかもしれない。或は、ここが剥された事を知った後、防護措置として残りの写真全部をべったりと糊付けし直したのかもしれない。)

4-17,18 頁の左側、19頁16枚目の写真。(縦16.4cm横12cm)「高祖御本尊 本郷 長元寺」

(*弘安三年日眼女授与 四天王無し 不動愛染のみの第71番本尊。付箋紙は縦長長方形の本尊字面の外部表装の中央部の右側端、上下二点で画鋲止めされている。

1,気づき。
 ここまで見てきて、撮影者が被写体を鮮明に大きく写す為に付箋紙の貼り方に苦慮している事が判った。付箋紙を被写体外部に貼るだけでは、肝心の被写体を大きく写すことは出来ない。できるだけ被写体に近接させなければ、極端に言えば内部に埋め込ませなければ無理だと思ったのであろう。
 この写真では左右均等に写っているべき外部表装部分が右の付箋紙側にしか写っていない。左側の表装部分は視野から除かれて、写真の左際一杯まで本尊の字面が迫っている。写真の全面を本尊の字面で使ってしまえば、文字は大きく鮮明になってくるが、それでは被写体が何物なのかを示す付箋紙の貼り場所がなくなってしまう。何の写真なのかを分からせる為のテロップを挿入することは欠かせない。だが、本尊の字面の余白に埋め込むわけには行かない。だから付箋紙の横径10㎝程は写真の横幅が犠牲になる。
 だが、本尊の字面の横幅は犠牲にしたくないので左右どちらかの外部表装を削るしかなくなる。左右の表装のどちらかを犠牲にしないで両方写すと本尊の字面が一回り小さくなって見えると思う。(その例が後に紹介した参考サイトの本尊写真の付箋紙の貼り方だと思う。)

2、気づき。
 主題「南」字の右肩上方に穴のように見える小さな白点があった。立正安国会御本尊集ではどう写っているかは所持していないので比較できない。サイト御本尊集で対応するその位置は、放射状の星の瞬きして見える場所に当たっている。やはり穴のような空白部分に見える。長年巻かれ続けていたものを平面に伸ばす為逆方向に折り曲げてできたような痕が幾重にも水平に走っている。)

4-17,19頁を右にめくった20頁、17枚目の写真。(縦16.3cm横12cm)「日朗上人消息 池上本門寺」

(*付箋紙は縦長長方形の紙面の中央部の右側端、上下二点で画鋲止めされている。書状の末尾。「箱根坂」「恐縮」「人々御中」などの字句が見えた。)

4-18、20 頁の左側、21頁18枚目の写真。(縦16.4cm横12cm)「高祖御消息断片 善無畏抄 鎌倉本覚寺」
(*付箋紙は縦長長方形の書状紙面の中央部の右側端、上下二点で画鋲止めされている。付箋紙の字句は縦書きだが書状の本文の字面の向きは右20頁を見ていた時の位置からアルバムを左へ90度回転する必要がある。写っている本文は15行程であるが末尾の最後の一二行に「大(?)仏」「百万億」の字句が読み取れただけで、全文のどの部分かはわからなかった。)

4-19,21頁を右にめくった21頁、19枚目の写真。(縦16.4cm横12cm)「日昭上人譲状 池上本門寺」

(*付箋紙の字句と写っている書状の字句の向きは同じで横径12cmの右から左方向に縦書きされている。従って、アルバムの向きは前21頁を手前から奥へめくればよい。
 どういうわけかアルバム中この写真だけは付箋紙が被写体の余白部分に埋め込まれて書状の頭に置かれている。写っている本文の字句で読み取れたものは、冒頭の「遺跡事」末尾の年号「文保元年」だけである。中間にも数行あったが読解能力がなく読み取れなかった。(<3・下>の終わり)

196ワラシナ:2006/05/01(月) 00:09:19
史料紹介「日蓮写真帖」<4> 5 参考サイトの紹介、6 結語、7 感想

5-1,「付箋紙」についての参考サイト「堀師、中山法華経寺に現る」。

 このアルバム写真の被写体に付されたインデックス(付箋紙)がどのような感じで写っているかのイメージを伝える為にかなり似ている例としてサイト「堀師 中山法華経寺に現る」を紹介したい。
yahoo でないと出てこない。そこに堀師が撮影したとされる中山法華経寺蔵宗祖御本尊(64番)写真が出ている。その本尊写真の右側端中央部に付されている「高祖御本尊 中山法宣院(ではないか)」と見える付箋紙がそれで、そのような長方形の熨斗紙が当該アルバム写真の右端や左端に写っているもの、と想像して頂ければよい。付箋紙の字体も両者はかなり似ている点、付箋紙の下端に画鋲らしきものが見える点、などから見て「、、のようなもの」としての参考例に出す事は外れていない、と思う。

6 結語 
 このアルバム写真の撮影者が誰であるか、その手がかりをその写真に求めた時には、上の参考サイトの著者の見聞は貴重な情報を提供していると思う。

6-1 同サイトの見聞が正しければ「堀上人がある時期中山法華経寺を訪問された」らしい。当アルバム写真にも中山法華経寺蔵の遺物写真が二枚有る。

6-2 参考サイトの付箋紙の字体と当アルバム写真中に写っている付箋紙の字体が似ていると見える事。この「似ている」とはその程度を控えめに表現したもので実際にアルバム写真を見た人はそのそっくりさに驚くことだろう。

6-3 写真に写っている遺物の所蔵地が東京中心部と隣接する常総地方に集中している事。撮影時期が堀上人の在東京時代と仮定すると行き易い近場の遺物を狙って撮影に行った、と想定すると無理がない。

などを以って撮影者は堀上人ではないかと想像している。だが、断定するには、付箋紙の字形と堀上人の筆跡とを照合する事、付箋紙に記された寺院に撮影者の記録を聞く事、などが必要であると思っている。

7,最後に感想。
 写真一枚ごとにICタグが付いていない現状ではまた抜かれかねないので保管場所迄は紹介したくなかった。だから言葉だけ尽くして描写しようとした。だが、やはり写真の真相は写真を見せることでしか伝えきれないという限界があった。このジレンマ。
 
(h18/4/30)

198雅也:2006/05/03(水) 13:52:24
 日蓮写真帖って昔、佼成図書館で見た事がある。記憶がハッキリしない部分が
あるが確かに日蓮写真帖というモノクロの写真帖ぐらいの記憶しかありません。

199ワラシナ:2006/05/03(水) 20:11:23
雅也様、始めまして。ズバリそれです。

200パンナコッタ:2006/05/05(金) 12:48:08
先月、お薦めの方に記しましたが、池上本門寺の霊宝殿の今月の公開は本尊集に載っていない
建治二年九月の真筆展示ですね。
 http://www.honmonji.or.jp/05topic/06info/reihoden/reihoden.html

”此比丘尼授与法日” 3枚継ぎの物みたいです。 寺尾教授の
「新出の日蓮聖人曼陀羅本尊について」という説明文があるそうですが、
現物を拝観しに、行った方がいいかもしれませんね。

201なし:2006/05/05(金) 22:07:42
これ偽物↓

御遺物配分帳 1幅 鎌倉時代・13世紀 東京・本門寺
(池上)
身延山守番帳 1幅 鎌倉時代・13世紀 東京・本門寺
(池上)

202れん:2006/05/06(土) 19:18:41
パンナコッタさん、蓮祖の池上の建治2年9月の真筆の展示の御教示まことに有難うございます。今月中に一度拝観に行こうと存じます。

203独学徒:2006/05/07(日) 16:34:42

パンナコッタさん、れんさん、池上オフ会なんてできたらいいですね。

丁度1年前ころ、「戸田城聖を聞く会」でパンナコッタさんと初めてお会いしたと記憶しています。
5・3でしたっけ?

と、いいつつも、この先の土日は、運動会シーズンなので日程調整は難しいですかね、、、

いずれにしましても、私も霊宝殿へ行きたいと思います。

204犀角独歩:2006/05/07(日) 19:11:11

パンナコッタさんのご案内に随い、近場ということもあり、散歩がてら、池上本門寺霊宝殿を覗いてきました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1114674169/200

実見。真であれ、偽疑であれ、建治2年であろうかと。
諸尊を書き取ってきたのですが、四大天玉、讃文、日付・授与者などを迂闊にも写してきませんでした。以下、図はですから、四大天玉はうる覚えの記憶です。また、慣習的に王を玉で記してありますが、あるいは王を使っている所もあったかもしれません。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/kenji2nenmandara_honmonji.html

ご紹介のパンナコッタさん、また、彰往考来さん、れんさん、独学徒さん、一字三礼さんをはじめ、皆さんからご批正をいただきたいと思いますが、わたしは、この漫荼羅が真筆?という実見感想でした。

その理由をいくつか挙げると、なにより気になったのが經字糸偏の‘ノ’様画、光明点(髭)と言われる伸ばされる部位ですが、谷に弓なりになっていて、通例のように山に弓なりになっていないこと、日蓮の蓮字しんにゅうの点が4点であること、また、首題と光明点が一筆で記されていること、あと、これまた、記憶が定かではありませんが、安立行菩薩の安の字が、この当時の特徴的な書き方 [小/女] となっていなかった(曖昧な記憶ですが、この点は)こと、全体に派祖以降の本尊のように一筆で首題が描かれ、全体に力が弱い印象を受けました。あと、書き落としがなければ、大日天玉がなかったと思います。

この時期は、千眼天王、(大)十二神王が見らるわけですが、この漫荼羅は「寶光天玉」となっていて、眼が惹かれました。

また、配布の展示目録に拠れば「授与・比丘尼法日(裏書)」となっており、授与者が裏面に記されていることや、この尼の名が「日法」というのなら、引っかからないのですが、「法日」というのは、でも、後代に属するように思えました。

皆さんの実見後、ご感想をお待ちいたそうと思います。

205パンナコッタ:2006/05/07(日) 23:10:16
れんさん、独学徒さん、どうも。 
ミニオフ良いですね。みなさんお忙しいでしょうけど、是非やりたいですね。
おや、独歩さんは抜け駆けですか(◎-◎;) ウソ
何やら、あやしさが漂う漫茶羅のようですね。 伝日蓮の数珠や、>201なしさん指摘の
配分帳も以前展示されていましたので、前提として注意が必要でしょうね。

206犀角独歩:2006/05/08(月) 00:45:22

パンナコッタさん、抜け駆けではないですよ(笑)
あの漫荼羅のために、会するのは、当富士門流信徒の掲示板にしては、勇み足。故に、わたしが暇を惜しんで、皆さんの無駄足にならないように先に偵察?に行ったということです(笑)
だったら、実見後のコメントを求めるなという叱責を受けそうですが、実は、「なんだ」という思いから、まともに観なかった点もあるので、皆さんの方を借りようという(つまり、2回行くのは面倒)という思いからの投稿でした。
悪しからず、ご了承ください。

207彰往考来(しょうおうこうらい):2006/05/08(月) 07:59:39

>204 犀角独歩さん

見てみないとなんともいえないですね。霊宝殿へ足を運びますか。

なお、この曼荼羅は『大田区史 資料編2』では日蓮本尊の部ではなく、伝・日蓮本尊の部で紹介されています。
まあ、後世のものなのでしょう。

彰往考来

208犀角独歩:2006/05/08(月) 08:47:45

彰往考来さん

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1016869045/666
上記にレスしました。

209畠山 櫻:2006/05/20(土) 21:07:45
21日(日) 御霊宝虫払会 午後 1時
明日、妙光寺で虫払会が行われ、宗祖筆御本尊が開帳されるみたいですね。
弘安2年4月8日筆の御本尊は伝宗祖の色が濃いのですか?
行かれる方がいたら、感想をお願い致します。

210犀角独歩:2006/05/30(火) 19:48:39

「何千年か経って、朽ちてなくなってしまうようなものが本門戒壇の本尊であるはずがない」とは、最近、話を聞いた正信会の古文書研究者の言でした(この人物は、いったい、坊さんなのか。坊さんならば、何という宗派、もしくは宗教法人の坊さんなのか?)

こんな本門戒壇本尊観は久保川法章氏の文章で読んだ。その鸚鵡のよう返答でした。
要は、所謂「本門戒壇の大御本尊」と言われる彫刻は偽物であると言っているわけです。一見すると、尤もらしく聞こえるが、しかし、しっくり来ないのは何故でしょうか。理由は、こうだと思います。日蓮の三秘法門中、本門戒壇構想は、『取要抄』を読めば、明らかにあったことがわかります。本尊は燃えてなくなってしまうようなものが本門本尊でないとしたら、日蓮が念願した建造物としての戒壇堂はどうだろうか。本尊が焼けてなくなるものが本門本尊でないとしたら、焼けてなくなる本門戒壇堂もまた、本門戒壇とは言えないのでしょうか。

本尊抄に理論化された本門本尊は法華経寿量品に説かれた久遠五百塵点成道本門釈尊のことであり、理論上のことであるから、これは燃やすも何もできるはずはありません。しかし、これを木像としたものは、火にくべれば燃えるでしょう。
では、この釈尊を図顕したのが日蓮漫荼羅である。これは火にくべれば燃えるけれど、その法魂は燃えない。つまり、正信会の言う本門本尊とは、この法魂であるということになります。ここで論理がすり替わっているのは、法花経典中に明示される本門釈尊が法魂となってしまっている点です。日蓮が言う本門釈尊は、釈尊像に四菩薩を添えることで表現する(日興義)ということで落着するわけですが、これが法魂信仰となっている点で、大きな相違があると共に、では、その法魂を字像漫荼羅と顕すとどうなるのかという具体性が、正信会の本尊観では欠如しています。これでは空理空論ではないかという思いがあります。

何故、正信会では、本尊書写がなされないのか。日顕氏不相承を言う彼等にとって、日蓮日興の血脈は現代において断絶したことを宣言したわけですが、となると、今後、この法魂を書写本尊に顕すのはいったい誰がやるのでしょうか。この点についても、何も語られなければ、興門石山でいう本門本尊の法魂は永劫に法魂の儘となって目にも見えない、焼いても燃えない空性信仰となったことを意味するのでしょうか。

なかなか興味深い点です。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/18617532.html

211犀角独歩:2006/05/30(火) 20:46:35

法魂というのか何というのか、それはともかくとして、創価学会、顕正会、正信会という石山破門御三家において、創価学会は日寛本尊を写真製版して複製し、顕正会もたぶん、同様の方法を取っていながら、こちらは非公開。正信会は、どうしているのでしょうか。

日蓮曼荼羅を複製するのは、元来、‘書写’であったわけですが、早い時代には判木に彫ってこの複製が始まり、日興はどうやらこれに嫌悪感を懐いたことが窺われます。

日蓮の師弟子関係にある出家免許された僧侶が、この複製を自ら記して造ること(書写)は、わたしは正当な方法であると思います。

ところが破門御三家では、この方法を採らない。いや、採れない。師弟子関係を解消したわけですから、これはまあ当然です。また、石山血脈断絶を宣言したわけですから、いわば、法魂を具体化(要するに書写)する人間は、断絶したというわけです。この血脈はしかし、便利なもので、切れたりつながったり、大衆相承したり、便利で都合のいいご託を種々考えられ、いま途絶えていても、日目が生前から相承しているから、今度生まれてくるときは相承が要らないとか何とかもっともらしい屁理屈は立つのでしょうが、それぞれ物笑いの種は超えないわけです。しかし、何と言っても、それぞれが手ぐすねを引いて他者批判をしようとしているタイミングは、では、誰が書写をはじめるのかという点でしょう。それぞれ、牽制しあって、書写をするものが出れば「謗法!」と弾劾されることを必至と考えるのか、いまのところ、自著複製をするものは現れないわけです。これはしかし、日蓮漫荼羅を継承し、その中心者として自らが書写した本尊を授与することによって弟子・檀那関係を形成してきた700年来の門下形態の、一面の崩壊を意味するわけです。

このサイトでもダウンロード本尊を自ら表装荘厳して、自らの漫荼羅とする動向は既に伝わっています。わたしは、各集団が故人の本尊を写真製版するのも、ネットからダウンロード、もしくは本尊写真集などから複製を造るのも、客観的に見れば、何ら変わるところがないと思います。創価学会では、和合僧団には本尊授与の資格があると、本尊頒布をはじめる際に自己弁明をしたことがありました。しかし、そうなると、それ以前、過去50年、創価学会は自己頒布をしていなかった=破和合僧だったという逆も真という笑えぬ説明も立ってしまう点には頬被りを決め込んでいるわけです。まあ、会員にわからないように、特別ルートから本尊を仕入れていると言いながら、実際は勝手に複製を造っている顕正会よりはマシかも知れません。では、正信会はどうするのか。700年来の書写本尊授与以前に、法魂を書写できる人間の断絶の宣言は、返す刀で自刃したのと同様ではないのか、ここ数十年は、複製返却物の使い回しで何とかできるにしても、永続的な化儀とは言えない暫定的な措置をいつまで続けられるのか。「次の正しい猊下が御出現になるまで」というところでしょうか。しかし、1回断絶したものは2度とつながらないものですが、このときは、いともたやすく断絶の事実は反故とされるのでしょうか。人を食った話であると思うわけです。

皆さんは、これらの点は、どのように考えていらっしゃるのでしょうか。

212独学徒:2006/06/14(水) 20:10:53

興風談所『日興上人御本尊集』未入集の、(伝)興師曼荼羅の画像が出ていました。

http://www.city.kyotango.kyoto.jp/service/6chohp/omiya/history/siteitouroku/jyoutokujinikkou/nikkou.htm

京都府の大宮町の日蓮宗寺院、常徳寺の所蔵とのことです。
大宮町指定文化財のようです。

213れん:2006/06/14(水) 21:11:58
独学徒さん、ご提示の常徳寺の伝日興曼荼羅は、真蹟の可能性はあると思い
ます。署名・花押が通例と反対の題目の右に書いてある以外は、全体に同時期
の興師筆の特徴が出てますね。これが形木だとしても、原本は日興真蹟でしょうね。
日蓮宗の宗宝調査会や立正大学・正信会の興風談所で調査・鑑定すれば、出自
が分かると思います。

214独学徒:2006/06/14(水) 21:24:06

れんさん、早速のご意見ありがとうございます。

>署名・花押が通例と反対

私はこの一点が気になって、自分の見解を示せずにいました。
まだまだ勉強不足だと、痛切に感ずるところです。

215大縫薫:2006/06/14(水) 22:48:49
大宮町の常徳寺
日蓮本宗の薬王山常徳寺は要法寺原日認上人の隠居された寺院で
興・目両画像のほかに石山三十一世日因上人が同寺の住職に授与された本尊
が大阪の安住寺に蔵されています。
興風談所の調査は既に入っていると思うのですが?・・・

216れん:2006/06/15(木) 08:14:06
大縫さん、ご教示有難うございます。
なるほど、常徳寺は尊門法縁の寺院でしたか、ならば(伝)日興漫荼羅が伝承されているのも納得できます。
よく見ますと、図顕讃文が題目の左にありますね。図顕讃文と署名・花押が全く通例の逆の位置なのが目を引きます。これは興味深いです。
大縫さんご指摘の通り、すでに興風談所の調査が行われているのでしたら、真筆と判断されているならば、談所の出版物に紹介される筈ですが、それが無い?のは、興風談所では、重須の正応の周防房授与漫荼羅同様に日興真筆とは判断しなかったのでしょうね。
多分、模写か形木と言うことでしょうが、図顕讃文と書写年月日・署名・花押の位置が通例の逆になされているのには何らかの作為?を感じますが、全体的には正安年間の日興漫荼羅の特徴が出てますから、原本は間違いなく日興真筆であろうと愚考しました。

217彰往考来(しょうおうこうらい):2006/06/15(木) 12:50:10

>216 れんさん
ちょっと写真が不鮮明で確かなことは言えないのですけど、仮に形木の場合であっても興風談所の『日興上人御本尊集』には入集していますので、この本尊は『日興上人御本尊集』に入集していないことから形木ではない可能性が高いのではありませんか?
今回のように図顕讃文と署名・花押が全く通例の逆の位置の場合、確かなご真筆でこのような例がないと模写であるとの判断は難しいですね。

218れん:2006/06/15(木) 18:29:49
>217 彰往考来さん                        
ご指摘痛み入ります。日興の御本尊集の形木の部に入集していないことを思え
ば、形木でない可能性の方が高いですね。                
としますと、当曼荼羅は、題目と勧請の諸尊を臨写もしくは模写した上で、図顕讃文と署名・花押を通例
の逆に臨写或いは模写したものである可能性があると言うことですね。

219独学徒:2006/06/15(木) 21:28:14

同じ大宮町に日蓮本宗と日蓮宗の常徳寺があるようですが、以下の頁では伝興師曼荼羅と合わせて日親師の曼荼羅も出ていることから、この伝興師曼荼羅の所蔵元は、日蓮本宗ではなく、日蓮宗の常徳寺ではないかと思いました。

http://www.city.kyotango.kyoto.jp/service/6chohp/omiya/history/siteitouroku/index.htm

それとも伝興師曼荼羅が日蓮本宗の常徳寺、日親師曼荼羅が日蓮宗の常徳寺でしょうか。

いずれにしましても、この伝興師曼荼羅の所蔵元が、日蓮本宗の常徳寺であれば、興風談所の調査は既に入っている可能性は大ですね。
しかし興燈法縁でない日蓮宗寺院の所蔵であれば、未調査の可能性もなきしにもあらずと思います。

いずれにしましても、署名・花押、図顕讃文の位置が特異であることは、興師真蹟の可能性は低いというのが、皆様のご意見と拝受しました。

220独学徒:2006/06/15(木) 21:33:39

>219
自己レス訂正です。

大宮町大野にあるのは、日蓮本宗の常徳寺だけでした。
謹んで訂正させていただきます。

221彰往考来(しょうおうこうらい):2006/06/16(金) 07:44:10

>212-220

あくまで私見ですが、お写真を拝見させていただいた感想です。
常徳寺の御本尊では、まず「日興花押」が向って右にあります。通常、興師の御本尊は左ですから特異的です。併せて「図顕讃文」(仏滅度二千・・・)が左でこれも通常、興師の御本尊は右です。但し、『日興上人御本尊集』(平成8年、興風談所)で1例だけ「日興花押」が右の御本尊があります。それは『日興上人御本尊集』のNo.5(正安3年10月13日、富士大石寺蔵:通称「譲座本尊」)です。しかしながらNo.5では「図顕讃文」は右で、大徳寺の御本尊とは異なりますが、「日興花押」と「図顕讃文」が同一側にあるのはNo.5のみでむしろ例外といえるでしょう。よって今回の「日興花押」と「図顕讃文」が各々通常と逆の配置となっているだけでは偽筆とは判断できません。
常徳寺の御本尊の諸尊配座は特徴的です。興師の御本尊の中では迹化の菩薩のみられない略本尊に分類されますが、諸尊配置はNo.9(永仁2年2月15日、富士妙蓮寺蔵)が近いです。但し、No.9では大月天玉と大日天玉の配座がみられますが、常徳寺の御本尊にはありません。No.9と同型はNo.24(正安4年、伊豆実成寺蔵)など5幅です。No.13(永仁6年、富士妙蓮寺蔵)は大月天玉と大日天玉を欠く略本尊で、その意味では常徳寺の御本尊に諸尊配座が近いですがNo.13は釈迦・多宝の二仏も欠くなど常徳寺の御本尊と同じでありません。つまり常徳寺の御本尊と同じ配座のものは少なくとも『日興上人御本尊集』に入集している興師の御本尊にはないのです。ですが、そうだからといって偽筆とは判断できないと考えます。初期の興師御本尊の配座から考えて有りうる相貌であるからです。
首題の字など興師の初期御本尊の特徴がよく現れていて、私がお写真を拝見させていただいた限りでは偽筆と判断されうる箇所は見当たりません。しいていえば、全体的にやや力弱いのが気になるというのが感想です。ただこれは写真写りの関係もあろうかと思います。なおもし模写とするなら、きっと原本のご真筆も「日興花押」が向って右にあって、その原本にかなり忠実な臨写本ではないかと思います。残念ながらお写真が不鮮明であるためご真筆なのか模写なのか判断がつき難いですがご真筆の可能性もあるので慎重にお取り扱うべきと存知ます。

222とんび:2006/09/09(土) 04:58:43
こんばんは。

当方、余り時間がないので、率直に感じていることを申し上げますと、日蓮聖人の
顕された、御本尊は、鎌倉時代の弟子の機根に顕された、御本尊であり、究極の所
日蓮聖人は、南無妙法蓮華経の主題の直下に日蓮としたためられ、御判形(花押?)
のサインを書かれただけの御本尊が、内証であったのだと思います。(わかりやすくいうと)

ですから、主題が、お題目。まわりの四天王や脇士などは、助行みたいなもので、賛文が
どうとか、脇士が誰だとか、帝釈天?がしゃくだいかいにん?だとか、誰が抜けている
入っている、などどいうものの議論は、あまり意味がないように思います。

 ただ、日蓮聖人の御本尊を拝むことがホウボウということでなく、正宗では、絶対妙や
体内の辺・対外の辺とか、また別の門流では、総別といかいうことで、結局のところ、南無
妙法蓮華経の御本尊を信じていれば、正宗であろうが日蓮宗であろうが、極端に言えば聖書
を学ぼうが、儒教を勉強しようが、なんでもOKということだろうと思います。

 正宗系の人なら、絶対妙や相対妙のことは、ご存じであろうと思います。

223とんび:2006/09/09(土) 05:08:45
追伸です。
書き忘れていましたが、重要御書に、誰々は、広略を好む、日蓮は肝要を好む、
と書いてあったと思います。

224れん:2006/09/09(土) 19:45:21
とんびさん
法華経の広略要について、日蓮聖人は佐前の著作である法華経題目抄に「一部八巻二十八品を受持読誦し随喜護持等するは広也。方便品・寿量品等を受持し乃至護持するは略也。但一四句ゲ乃至題目計りを唱へとないる者を護持するは要也。広略要の中には題目は要の内なり」と述べております。佐後の法華取要抄では「日蓮は広略を捨てて肝要を好む」として、“広略”を捨てて“要”を取ることを主張されてますね。
これと、漫荼羅がどのようにつながるか、また、はたして漫荼羅=本尊義が成立するか否か、諸賢の皆さんが議論されているところですから、その議論の内容を学ばせていただいてから、結論を出しても遅くないと思います。

225れん:2006/09/09(土) 20:19:11
>224
訂正
誤)とないる
正)となうる

226無学無明:2006/09/10(日) 15:41:12
 とんびさん、。  
 某酒造会社のCMに「、、何も足さず、、何も引かず、、」、とうのが有りました。
 日蓮聖人の教えと所作を常に給仕・補佐をされていたのはどなたさまでしょうか、? 日興さまです。日蓮師匠のご本尊作成時には殆どを立会った筈です。
 日常の修行には人一倍厳しいかった様です。 今問題なのは何でしょうか、?
 私は、多くの「宗教執政者(運用・経営・立案側、?)たちの当該原理を守らず、目先の金銭的欲望の虜に堕落」した結果と愚考してます。  今は「何も足さず、!」がより重要か、? 某団体の足したのは「、後世の偽造濃厚な戒壇様、?、」、近代では「多くの真筆本尊にある釈提桓因大王を用いず、大梵天王と付け足した」、この二件は無意味だとは決して思えません。
 なぜなら、余計な物件・書画・文物の付け足しにより、「、日蓮祖師の原点から大きく乖離する原因」が生じた、と危惧します。 ただ、団体・運用者側から見ますと「、信者は、小ざかしい御託を言わず、お貸した本尊を、ダマッテ・疑わず拝み、布施(供養)を忘れずにせよ、!」という本音がチラチラ致します、、か、も、。

227無学無明:2006/09/10(日) 15:44:39
 訂正
 大梵天王(誤り)
 帝釈天王 (正) でした。

228無学無明:2006/09/12(火) 07:08:00
訂正
 団体、、見ますと>>>宗教法人の担当・運営者たちを見渡しますと、、
  にお詫びして、補足訂正させて下さい。

229天蓋真鏡:2007/01/04(木) 20:06:10
【日蓮・法華経≒漫荼羅(題目本尊≒肝要≒実一乗)】 【門下・日蓮→末法本仏≒漫荼羅(心意)≒末法本尊】

230犀角独歩:2007/02/18(日) 08:59:41

彰往考来さん
れんさん
独学徒さん
ほか 諸賢


安第92大漫荼羅について、お尋ねします。
『御本尊集目録』によると

幅尺 丈三尺二寸七分(99.1センチ) 幅一尺七寸九分(54.2センチ)

このサイズは合っているのでしょうか。
どうも『御本尊集』所載の写真を見る限り、縦横比が合わないのです。

231彰往考来:2007/02/18(日) 19:02:30

>320 犀角独歩さん
>安第92大漫荼羅について・・・幅尺 丈三尺二寸七分(99.1センチ) 幅一尺七寸九分(54.2センチ)・・・縦横比が合わない

そうですね。第92番本尊は写真でみる限り縦横比が合いません。なお、幅尺 丈三尺二寸七分(99.1センチ) 幅一尺七寸九分(54.2センチ)は第93番本尊のサイズです。
検証してみましょう。数ある御本尊集で一番大きい『日蓮聖人眞蹟集成 第十巻 御本尊集』(昭和52年、法蔵館)の写真を使用します。この資料は概略B4サイズと大きいので寸法測定誤差が少ないものと考えます。
参考として第82番、92番、93番をみてみます。
御本尊集目録記載の寸法は(単位:センチ、82番は『日蓮正宗大石寺』記載寸法)
82:50.5 x 95.5  比率は1:1.89
92:58.8 x 95.1 (一尺九寸四分x 三尺一寸四分)比率は1:1.62
93:54.2 x 99.1 (一尺七寸九分x 三尺二寸七分)比率は1:1.83
となります。しかしながら、写真でみると92番本尊は93番本尊より縦長であり、比率が1:1.62というのは有り得ず寸法記載が誤記である可能性大ということになります。
では、御本尊集の写真から寸法を測定してみると、(単位:センチ)
82:16.9 x 31.9  比率は1:1.89
92:15.9 x 31.9  比率は1:2.00
93:17.2 x 31.8  比率は1:1.85
となりました。
第82番と第93番本尊は目録寸法の比率と写真寸法比率がよく一致します。しかしながら第92番本尊は一致しません。これは犀角独歩さんのご指摘のように目録記載の寸法が間違っている可能性があります。では実際の第82番本尊のサイズはいくつでしょうか?写真でえられた比率1:2.00を使って逆計算をしてやればよいわけです。そうすると、
58.8 x 117.6 (一尺九寸四分x 三尺八寸八分)比率は1:2.00
47.6 x 95.1  (一尺五寸七分x 三尺一寸四分)比率は1:2.00
のどちらかということになります。寸法比率からのアプローチではどちらの可能性が高いか判断できません。そこで1紙のサイズを検証してみます。
第92番本尊のひとつ手前の第91番本尊は時期的に近く、かつ1紙です。このサイズは、
91:60.0 x 37.9 (一尺九寸八分x 一尺二寸五分)
です。この紙を縦横逆にし、三枚継にすると(継ぎ目は1箇所0.5センチの2箇所とします)
X:60.0 x 113.7 (一尺九寸八分x 三尺七寸五分)比率は1:1.90
となり、58.8 x 117.6 (一尺九寸四分x 三尺八寸八分)と近い寸法が得られますので、こちらのほうの可能性が高いのではないかということになります。
この60.0 x 113.7 (一尺九寸八分x 三尺七寸五分)という数字は興味ある数字です。というのは、
92:58.8 x 95.1 (一尺九寸四分x 三尺一寸四分)比率は1:1.62
と比較すると三尺一寸四分が実は三尺七寸四分の誤記ではないかという推論が出てくるからです。結論として下記2種類の寸法が有り得るのではということになりました。

仮説1:58.8 x 117.6 (一尺九寸四分x 三尺八寸八分)比率は1:2.00
仮説2:58.8 x 113.3 (一尺九寸四分x 三尺七寸四分)比率は1:1.93

by 彰往考来

232彰往考来:2007/02/18(日) 19:07:05

>231 誤記訂正 

誤:では実際の第82番本尊のサイズはいくつでしょうか?
正:では実際の第92番本尊のサイズはいくつでしょうか?

謹んで訂正します。

犀角独歩さん、この結論でいいですか?仮説1と仮説2のどちらが正しいか別途検証してみて下さい。私はこれから出かけますのでこれにて失礼。

233犀角独歩:2007/02/18(日) 23:26:16

彰往考来さん

お手数をおかけしました。
どうも、数字になると、さらに間違えてしまいました。

仮説二つの内、図で当て嵌めたところ、どうやら、

58.8 x 113.3 (一尺九寸四分x 三尺七寸四分)比率は1:1.93

でした。

資料というのは、恐ろしいですね。検証しないで使わないと、このように瑕疵が含まれれているのですね。
それしても、さすが、彰往考来さんですね。
わたしが第92といって、第93のサイズを書いても、ちゃんと、それを訂正してくださいました。敬服します。

まるで、余談ですが、実寸比で、彫刻と妙海寺大漫荼羅を比べたのですが、ぜんぜん、サイズが合いませんでした。

日禅授与漫荼羅の、丈111センチというのもしかし、三枚綴りとしては、随分と大きいですよね。紙そのものが、日蓮が使ったものと違うのだろうと思えました。

234大縫:2007/02/26(月) 13:27:20
http://www.okayama-kakejiku.jp/newpage1.html
錦司堂さんのHP内の曼陀羅表具の実例で、安82番の本尊の中尊が出ています。

235彰往考来:2007/03/10(土) 21:14:03

>231の続きです。

三尺一寸四分が実は三尺七寸四分の誤記ではないかという推論は、第91番本尊(60.0 x 37.9センチ(一尺九寸八分 x 一尺二寸五分))の紙寸法を縦横逆にし、37.9センチを三枚継にするとして、継ぎ目を1箇所0.5センチの2箇所として導きだされた113.7センチ(三尺七寸五分)からの推定でした。
しかし、計算間違いを仕出かしていました。
スレッド231での113.7センチとの計算結果は、
37.9 x 3 = 113.7センチ
から導いており、継ぎ目分の長さを引いていないのです。引き忘れています。従ってこのロジックでの正しい計算は
37.9 x 3 − 0.5 x 2 = 112.7センチ(三尺七寸二分)
となります。三尺一寸四分が実は三尺七寸四分の誤記ではないかという推論は変わらないのですが、なんともお粗末な計算間違いでした。「彰往考来さんもヤキが廻ったな」ということでしょう。ま、しかしご指摘を受ける前に自分で訂正しましたので、よしとすべきでしょう。
参考までにメトリックと尺貫法は一尺=30.3センチという換算係数を使います。
113.3(センチ)÷30.3=3.74
となり、113.3センチが三尺七寸四分であるとすぐに計算できます。
一尺=十寸、一寸=十分 と10進法で単位が繰り上がります。

なお、継ぎ目を1箇所0.5センチとしたのは、何点かの継ぎ目のある御本尊実物を見た際の目視であり測ったものではありません。よくよく考えてみると尺貫法での1分は0.3センチですから、継ぎ目を0.3センチとし、再度計算し直すと、113.1センチ(三尺七寸三分)となりました。
漫荼羅本尊は表装の際に周辺を少し切り取りますので、その切り取られた量が不明である以上このような計算は限界があり正確性を欠きますが、おおよその参考にはなり今回のケースでは興味ある結果が得られました。

>233日禅授与漫荼羅の、丈111センチというのもしかし、三枚綴りとしては、随分と大きい

第92番本尊が丈113センチであれば、この本尊も三枚綴りとしては、随分と大きいということです。
第92番本尊: 丈113.3 x 幅58.8 センチ
禅師授与本尊: 丈111 x 幅58.3 センチ
ですから、禅師授与本尊(日禅授与漫荼羅)と第92番本尊はほとんど同じサイズで、第91番本尊と併せ、この連続した3幅の本尊に使用された料紙は同一生産地のものである可能性が高いと私は考えます。さらに第84〜88本尊も第91番本尊と同じサイズの料紙が使われていると思います。

by 彰往考来

236犀角独歩:2007/03/11(日) 20:23:47

彰往考来さん

独学徒さんの掲示板をお借りしました。
http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/4/4/

237再挑戦者:2007/08/11(土) 22:30:11
、、横から失礼します。

 観心本尊抄を観ます時、確かに「日蓮さんが、、仏像の建立、?も視野・構想の存在は否定できません、、」、しかし、佐渡流罪以降の身延での晩年の数年間では、「現状認識の変化が、、多少は、??」、存在した、ようでしょうか、??
 日蓮さんは、教団の運営の為には、、やはり「現実は厳しい、??」、、と認識したかも、、??  また、設計図〜図面的な==観心本尊抄が、全てが、「無益〜無駄〜クソ〜役立たず、、」に通じるのは、?、、避けたい、?と、思った、かも、? 
 現今を直視しますと、、「IT時代」を支えているのは科学・理数時代の根本の全ては、、== 、基本の設計、、図面が、シッカリとしていたからこそです、。図面が有ってこそ〜実態経済までの進展が御座いました、かも、??
 従って、、「設計図的な == 日蓮さんの真筆の曼荼羅さまでも、、」、、今後の動向や、歴史の批判には、、十分に「、耐えられる、、?、」、と信じたい、、?? 何も、「日蓮さんが佐渡時代の、視野〜構想〜のうちの仏像、?」、などに、拘泥するのはいかが、、??

238再挑戦者:2007/08/20(月) 22:13:12
 しつこいですが、、。
 あの戦国・武家時代、、です、、。  親方さまの逆鱗に触れたならば、「、即、切捨て、ゴメン、、」、を再確認したいものです、。
 日蓮さんは何度も「、今生は、、此れまで、、!!」、、と御覚悟為されておられます。  当然ながら、「、毎日の中では、あらゆる観点に対しての思考と錯誤など、、」、は存在したでしょうか、?
 当時、もし「仏像=これが本尊だ、、」、と建立したならば、???  

 当時の敵対団体、ドモは、、ココゾとばかり「、その仏像の奪取・破壊・殲滅、、」、、の方向に傾いたかも、??
 重い、かつ、大きな仏像、、??、、よりも、「紙幅の曼荼羅の方が、刀を帯同した悪漢ドモが侵入した時の、緊急避難の場合には、保護・保有に関して、どちらが有利でしょうか、??
 そして、何より「、仏減度後、、未曾有、、の大曼荼羅、、也、、」との、「真筆曼荼羅さまの右下の御約束・御宣言??」、の意味深長な文言を軽軽に無視、?、しては、エエンでしょうか、?

239波木井坊竜尊@日蓮宗葵講:2007/08/30(木) 15:37:55
紙幅であれ仏像であれ、1万年もつかどうか。
たしかに戦乱・天災の時代であった当時は紙幅が携帯に一番。
波木井山円実寺ができるまで寺院というものを持たなかったわけですから。

ここは新しい解釈が必要です。

私はホログラム3D御本尊を常ずね主張しています。
文字曼荼羅や仏像を信仰の対象とするのは一種の偶像崇拝的所為で、
キリスト教やイスラム教は中世の神学論争で決着をつけ世界宗教化している。

携帯型ホログラム3D映像なら即道場となり諸仏配置の上下左右奥行東西南北
がはっきりわかる。己身本尊論でありながら己身本尊とはならないのもいい。

240突然ですが:2007/08/31(金) 20:01:41
あの…日蓮宗に問い合わせまして、
「葵講」なる団体はありません!と言われました。

しょっちゅうこの手の問い合わせがあるらしく大変迷惑している、との事です。

241再挑戦者:2007/09/01(土) 20:25:05
 お名前が長いので、239さんでご免下さいませ。

 早速ですが、<、ホログラム3D映像、、>、、とは、一体、どのような形態ですか?
 よろしければ、何卒詳細にお聞かせ下さいませんでしょうか、? とても関心がありますので、、。

242パクリですよ(大笑):2007/09/04(火) 12:02:35

151 名前:プリン 投稿日: 2007/06/30(土) 18:45:53

ちなみに(御議論のスジからは外れますが)…、

もし仮に大聖人が現代に御出現なされていたなら、御本尊様は「3D」のホログラフ形式になされていたかもしれないな、と思うことがあります。

創価仏法研鑽掲示板の「御本尊について」スレにありました。

243秀麗富士:2007/09/10(月) 02:17:20
ホログラム3D御本尊って何ですか?波木井さん

244波木井坊竜尊@日蓮宗葵講:2007/09/12(水) 06:06:24
>>242
過去ログを探してみては?
私は1998年ごろ頃から言ってます。

245再挑戦者:2007/09/12(水) 21:30:50
 ゴメン、、。
 そうですか、約、十年も前からでしたか、、。
 然るに、貴方の御主張がガセのネタのバカ・ネタでなければ、ナニユエ、、諸衆かたの疑問に、真摯にお応えにならぬのか、!!!
 この、フンゾリ返った姿勢には、、少々以上に、ドタマに来ておるがのー、、!!!
 言いすすぎならば、陳謝したいが、、。 ホログラム、、とは、、????

246波木井坊竜尊@日蓮宗葵講:2007/09/13(木) 06:10:42
ホログラムを理解していないと・・・。

ホログラムについてはこちらをまず参照して理解して頂きたい。
http://www.jomon.ne.jp/~artnow/

何故に3Dホログラムかというと、現在の紙幅本尊は二次元(2D)で諸菩薩の
上下左右関係(東西南北や上下)の配置表現に無理がある。
しかし東大寺などの伽藍にあるような仏像を用いても東西南北関係はともかく
上下の配置表現が難しいし、仏像では偶像崇拝の謗りもある。
(紙幅本尊でも一種の偶像崇拝なんだが)

それに紙や木、または金属は経年劣化は避けられない。
しかしホログラムなら何万年でも何十万年でも持つ。

キリスト教やイスラム教は、本尊論に関しては教学がたいへん進んでいて、
マリア像とかキリスト像とかマホメット像をほとんど祀りません。
十字架であったりと”象徴”を祈りの対象としている。

仏教はこのあたりたいへん遅れているのです。

247犀角独歩:2007/09/17(月) 01:36:14

日興が、いずれの日蓮御筆大漫荼羅を参考にしたのかということがしばしば話題になりますが、『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事』が存し、また、多数の大漫荼羅に日興が加筆をしていることを考えるとき、それらすべてを参考にしなかったわけはないと、わたしは思います。

また、この書写原本特定の議論では、座配、讃文、また、釈文の書き込みなどが取り沙汰されますが、わたしはなにより、不動愛染の筆法の選び方に目が行きます。すると、その相貌は、むしろ、文永初期に近いことは明白です。

日興の座配その他の定型化とは、別に、では、なぜ、日興は初期愛染不動の筆法に拘ったのかを併せ考えない原本探しは、美を尽くさないように思えます。

あと、石山蔵日禅授与漫荼羅が、真筆であるという線で話は進みがちですが、わたしは、この点については、懐疑的です。その理由は、なにより、大廣目天玉の「玉」字のヽが「天」を超えて縦一本‘礀’で書かれる本尊は、この1舗を除いてはないからです。前日の日付をもつ安92、93もこの筆法になっていないことは整合性を有しません。また、石山門下以外で、この漫荼羅の真筆説を述べる人もありません。まずは、れっきとした学術調査を経たのちに、その成果を踏まえて、この漫荼羅を真筆として扱うことが真摯な学的な態度であると、わたしは考えます。

248波木井坊竜尊@日蓮宗葵講:2007/09/18(火) 10:16:02
日興の不動・愛染理解はいかばかりか。

249再挑戦者:2007/09/18(火) 22:59:24
 246 波木井、、さん。
 ホログラム3Dに関しましてのお答えには幻滅、、!!! 、、でゴワス、!!
 要するに、、当該の物件に対する「、、イカナル保存・方法がベストか、、??」、、では無いはずでしょうか、?
  極限の意見を御許し願えれば、「、今日、、明日、、の中で、例えば、静岡・浜岡原発の、東海地震による溶解事故、、??」、、などが懸念の中ではあります、。
 現今は「ホウボウ厳戒が緩みパナシですか? 」。今こそ、針金宗の真骨頂こそ、、が期待されるか、、、??

250波木井坊竜尊@日蓮宗葵講:2007/09/19(水) 05:45:29
別に誰かに評価されたくて言っているわけではないので誤解なきように。

1998年当時、私と日蓮宗系僧侶数人が法華チャットを1か月に1回程度の
定例で開催していた。その時出てきたお話ですから。

しかしあなたは人の真意がちいっとも理解できない人のようで。
保存・方法ではなく御本尊なるものを一番正しく理解できる唯一の方法が、
3Dホログラムであって、いくら私の書いた文章が下手であっても、
所詮2D表現方法である紙幅本尊には表現に限界がある。と書いているのです。
それが何故に謗法につながるのかも皆目理解できません。
あなたの能力はかなり劣っているようです。

251ラセード:2007/09/19(水) 09:17:52
ここの名だたる方々は君を相手にはしていない。理解力が無いなどと人に揶揄するより空気を読めない君は、それ以上に理解力が人並み以上に劣っている。

252再挑戦者:2007/09/20(木) 20:36:15
 250の波木井さん。
 一応、レスドーモです。
 私のいいたいのは「2D〜〜3D〜〜9D??」、、などご参考にはなります。
 なぜ、、? 2Dの表現ならば、、限界が存在して、3D表現ならば、限界が?、氷解するのでしょうか、、?
 今後の、突発的な事件(水爆・原爆投下、)の元でも、日蓮さんの根本の精神が継続、、??? 、、の為には、、、何が、???、、必要なのでしょうか、、?? 
 例せば、もし日本が原爆で壊滅したならば、衆生の成仏にかかわる、データが世界のどこかに、片隅にでも残存さえすれば、、「法華・曼荼羅・本尊への復元が可能」、と思います、。 「原図」の「設計図がシッカリ」していさえすれば「良い」のでは、、?
 と存じますが、、。

253管理者:2007/09/20(木) 20:46:09

再挑戦者さん

波木井さんは、当掲示板への書き込みが禁止され、書き込みできません。申し訳ありません。

254再挑戦者:2007/09/20(木) 20:48:33
、、ドーモ、、でした、、。

255パンナコッタ:2007/09/20(木) 22:09:22
再挑戦者さん、むしろ過去のカキコにあった"観心"と"教相"の本尊という切り口から
アプローチしていった方がややこしくはありますが、より蓮祖の本意に近づけるのではないでしょうか。


話は全然違うのですが、立正大の温泉掘削が失敗したとの記事。
 http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/saitama/news001.htm

ある意味、イタい事例なのかもしれませんが、"そこから何を学ぶか"が、
大事な事と思えますね。

256犀角独歩:2007/09/22(土) 07:43:16

パンナコッタさんが仰る「“観心”と“教相”の本尊」とは、より具体的に言えば、漫荼羅図と仏像造立のことでしょうか。となれば、わたしも賛同します。

日蓮の、四角い1枚の紙に展開した漫荼羅図は、極めて完成度の高いものでした。立体と比べて優れるとか・劣るとかいった観点は不用だと思います。
二次元でしか表し得なかったことを二次元で尽くしたということでしょう。
この点については、まだ20世紀だった頃、ワラシナ師と議論をしたことがあり、その点につき、昨年であったか、薬王寺・大埜慈誠師から問われ、ブログで答えたことがありました。

【試論】四大天玉の図示の位置について
 http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50543409.html

では、いっぽう、立体でということなら、なにも現在の最新技術などを使うまでもないでしょう。既に重須文献「漫荼羅の図の如し」の段階でその構想は論理的に具体化し、以降、東西の地域差・門派を問わず、それが実現されてきました。つまり、仏像の造立です。また、それは堂塔伽藍の配置でも可能ではないか、これが大本門寺構想として、日興已来、言われていたのではないかという議論は、かつて問答さんとした記憶があります。

私案ながら、やや具体的に記せば、その伽藍の中心は宝塔で、そこには題目が奉懸され、左右に釈迦多宝像、四菩薩を配し、四大天玉像を配します。高い山の上がよいでしょう。そして、その宝塔より下り、漫荼羅に記される菩薩像を祀るお堂、さらに各界を祀る、たとえば鬼子母神堂などをさらに下り配し、二つの垂迹堂に天照・八幡像を、そして、その前に日蓮御影堂を配し、山門の左右には不動・愛染像を祀る、そんな堂塔伽藍の配置が、わたしは大本門寺構想なのではないかと、その素描をもって、問答さんと議論をしたことがあったと思います。

ただ、その後、わたしの気分は、漫荼羅と仏像とは、表すところが違うと傾き、やや、この構想には醒めたものがありました。

以前にも記しましたが、この大本門寺構想では、けっして、造立できない像が一つあります。それは、「日蓮花押」という署名と判です。こればかりは、日蓮直筆の文字でなければ意味がなく、仏像化は不可能であるわけです。尤も、漫荼羅を大本門寺の堂塔伽藍の設計図とすれば、その筆写が日蓮であることを証する花押であれば、これは御影堂をもってすれば事足りることになります。

なお、過去の管見では、このような大本門寺構想を日興に遡源できると、わたしは考えていました。しかし、日蓮御筆大漫荼羅に「本門寺奉懸」を書き込んだ日興は、本門寺には漫荼羅を懸けることを意図していたことになります。この日興に加上しながら、しかし、漫荼羅を設計図の如きとする重須方の発想は、実は日興と齟齬を来している点は見逃せません。

257天蓋真鏡:2007/09/24(月) 20:28:00
寺の設計図にしては大雑把でしょう。 持ち運び便利な法華経解説図・鎌倉時代版(天台密教から法華一乗へ転換する導師)では無いかと考えます。

258犀角独歩:2007/09/25(火) 19:34:29

> 天台密教から法華一乗へ転換する導師

この意味がわかりません。
もう少し記してみてください。

259天蓋真鏡:2007/09/27(木) 21:33:02
ありがとうございます。指したる挙証がある訳では無いです。妙法漫荼羅供養事か何かで成仏得道の導師なりと書いてあったのがきっかけです。比叡山が密教化して僧兵が幅を訊かす末法の世相。日蓮聖人は加持祈祷よりは法華経の心を唱えさせる漫荼羅を法華一乗に導く師に準えていたのでは無いかと想います。

260犀角独歩:2007/09/28(金) 19:52:55

レス、有り難うございます。
天蓋真鏡さんが、真剣に日蓮とその信仰を追究されていることは伝わりました。

261れん:2007/10/05(金) 09:52:47
“大本門寺”という語は、ご存じの通り、文永十一年甲戌十一月日付けの蓮祖御筆漫荼羅(身延曽存)の興師添書「因幡国冨城五郎入道日常息寂仙房申与之、但可為大本門寺重宝也」と、弘安三年太才庚辰五月八日付け沙門日華授与の蓮祖御筆漫荼羅(京都本能寺蔵、安国会御本尊集目録第九十二番)の興師添書「甲斐国蓮華寺住僧寂日房者依為日興第一弟子所申与之如件、大本門寺重寳也」の二ヶ所に見られます。
日華師の住坊は富士上野にあり、一方、寂仙坊日澄師の住坊は重須にあったことは周知の通りですが、上野に住坊のある華師と重須にに住坊のある澄師に下付された宗祖御筆漫荼羅にそれぞれ“大本門寺重宝”と興師が記入されたのは、建立当初はその寺院経営上、上野は南条家、重須は石川家の氏寺としての色彩が濃いのは致し方ないにせよ、興師には所謂本門流布の暁には上野・重須の寺域はともに上下の差別なく“大本門寺”の寺域と位置付ける意図もあったのではないかと愚考しております。
つまり具体的に言えば、日華師への授与の漫荼羅への書き込みでは大本門寺(上野)塔中の寂日坊の重宝の意味であり、日澄師への漫荼羅への書き込みは大本門寺(重須)塔中寂仙坊の重宝の意味を帯びており、それぞれの坊のある上野・重須の寺域はとも流布の暁には“大本門寺”となるのが興師の構想であったのではないかというのが私の観測です。これ以外の興師の宗祖御筆漫荼羅への“本門寺”の書き入れは特定の寺院を指すというより、“本門ノ寺”つまり、宗祖の法華本門を宗旨とする寺院の意で、むしろ被授者の有縁の寺院で重宝として格護せよとの意味だと愚考するものです。

262天蓋真鏡:2007/10/05(金) 16:54:18
れんさん、知識情報ありがとうございます。 末法が終わるまで、漫荼羅は仏像と法華経経典と共に掲げておくのでしょうか?少なくても聖人君子が出現するまでは教義の核になるのでしょうか。平和憲法を堅持する日本は漫荼羅と法華経経典が要らなくなる日が来るのでしょうか。

263犀角独歩:2007/10/06(土) 09:12:02

れんさん

「本門ノ寺」とのこと、なるほどと拝読しました。

かつて顕正居士さんが二箇相承の「富士山に本門寺の…」という読み下しは間違いで、「富士山本門寺」であるとご指摘なさったことがありました。

つまり、山号としての富士山であるということです。こうして、富士門下の山号寺号を見直すと、実在するわけでした。となれば、まず、富士山本門寺が成立し、その後、由緒伝来が紡がれる段階で二箇相承の如き文書が捏造されていったと考えると合点がいくことになります。

しかしながら、日興に、迹門の戒壇に対して、本門の戒壇という発想があったとすれば、その脈絡から、迹門の寺に対して、本門の寺という発想があることはむしろ自然ということになります。この意味でれんさんが仰ることは的を射ていると、賛同します。

では、この本門の寺が、やがて本門寺という寺号に宛てられるときがやってきたこととなるわけですが、この変遷は、日興自身の段階であったことなのか、〔是一〕

ここで「大本門寺」というとき、これは本門寺を形容する意図としての大いなる本門の寺という意味合いから、寺号としては本門寺であるけれど、その偉大さを形容したものだと見るほうが自然と感じます。大本門寺という寺号は、本迹といった教学的な発想からすると、少し不自然と感じるからです。本迹であれば、事理で、迹門寺→本門寺→事本門寺といった名称が相応しいように思えます。しかし、名称としてはあまり似つかわしくはないとは感じますが。

れんさんは、「大本門寺」は寺号であるというお考えですか。〔是二〕

もし、よろしければ、以上2点に就き、ご賢察をいただければ、有り難く存じます。

264れん:2007/10/06(土) 19:12:18
天蓋さん、宗祖は「智者とは世間の法より外に仏法を行はず。世間の治世の法を能々心へて候を智者とは申すなり」(減劫御書)とのべ、興師は原殿御返事にて「内外の才覚無くしては国も安からず法も立ち難しとこそ有りげに候」と述べていますから、ただ蓮師の教えを信じていればよいという訳ではなく、平たく言えば社会の有為な人材として成長していくことも大切と考えます。


犀角独歩さん
ご質問の件ですが、たしかに“本門の寺”が後世の重須において寺号“本門寺”に宛てられたわけですが、特定の寺号としての“本門寺”は興師の段階には遡れないと考えます。興師は石山在住の日目を指して「西坊主」(西坊主御返事)と呼び、日目自身も自筆の消息に「にしの房日目」(与民部殿書)と自署しているところから、興・目両師の在世当時の大石寺は「西の房」と呼びならわされていた可能性が高いですね。重須の場合は興師が自ら“おもす大坊”(小三郎殿御返事)と自署し、開目抄要文の奥書では「正和六年二月二十六日於御影堂」龍三問答記の奥書では「正和五年閏十月二十日駿河國富士上方重須談所ニシテ以再治本書写了 白蓮七十一才」とありますが、重須在住時代の確実な興師自筆文書を精査しても、残念ながら重須の堂宇の特に寺号としての“本門寺”は無い訳です。ですので、私はこの“本門の寺”が本門寺という寺号に宛てられる時がやってきた時期は興師自身の段階ではないと考えます。重須文献でも、日興在世における成立(とされる文献)には上野や重須の特定の寺の寺号としての“本門寺”は見えませんが暦応五年の「表白文」には“本門寺学頭日順”と見えますから、南北朝時代初期、上野・重須それぞれが独自に寺院経営をし始めるその胎動期には特に重須は寺号“本門寺”を名乗り始めたのではと愚考します〈是一答〉
次に、“大本門寺”が寺号か否かですが、以上のことから興師の時点で本門寺の寺号を用いた確実な例が存在しないので、私の愚考では寺号ではなく、流布の暁に上野重須の寺域に建立すべき堂宇全体の総称という感じで、むしろ概念的な意味合いが強いものと推測します〈是二答〉
以上、ご参考になれば幸いです。

265犀角独歩:2007/10/07(日) 08:51:00

れんさん

ご教示有り難うございます。
恐縮ながら、もう一点、質問させてください。

日興・日目在世当時、大石寺は「にしの房」と呼び慣わされていたとするとき、『日興跡条々事』の「大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり」という“大石寺”の成句は、どうでしょうか。真偽の問題も含めて、ご回答をいただければ有り難く存じます。


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