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悟りを科学する

1管理者:2004/07/21(水) 06:22

新しいスレッドテーマの提案が有りましたので、立ち上げます。提案文は以下の通り。

43 名前: 雖念 投稿日: 2004/07/20(火) 20:48

「鰯の頭も信心から」から分離して、「悟りを科学する」といった、テーマのスレッドはどうでしょうか? 秘薬や密儀、瞑想によって何が得られているのか? 悟りと病的な心理体験はどう違うのか? 悟ったあとも、なぜ修行や布教が必要なのか? そんな内容で話し合いたいと思います。

「悟り」という言葉を用いましたが、宗教的な超常体験、幻覚、異常心理という程度の意味です。

2雖念:2004/07/21(水) 07:00

わたしが、「超常現象」に関心を持ったきっかけは、まず母がくり返し語ってくれた「予知夢」のこと。こうした現象を仏法ではどう捉えているのかと、疑問を持ったことです。
 大学に入ったころに「共同幻想論」が ベストセラーになっていて、そこではこうした、予知夢や千里眼のような減少は、すべて「入眠幻覚」で片付けられていましたが、遠野物語のように人里はなれた奥山に分け入れば、疲労困憊しての入眠幻覚もあるかもしれないが、平地で日常生活を営んでいて見る予知夢が入眠幻覚で説明できるものかどうか? と不思議に思ったこと。
 また、高校生のころ大変不思議なことがあり、「共時性(この言葉自体を知ったのは、だいぶ後のことですが)」という現象について考えました。
成人後自らがの繰り返し体験した、入眠および出眠時幻覚。こうした現象が、現代の科学でいかにして説明できるのか? また、仏法ではこれらの現象について如何に教えているのか? そんな点に関心を持ち続けていました。
 ここ10年から20年の間で脳に関する研究が進み、人工的に快感や幻覚を引き起こし、そのときの脳の状態を観察するなどという芸当すらできるようになりました。
 宗教的な修行者が、長年の修行により獲得できた「悟り」(「幻覚」)が、薬物により簡単に獲得できるようになるとしたら、そのとき「修行」は、いったいどういう意味を持ちうるのか?
 また、「悟り」が到達点でなく、単なる通過点となり、「悟達者」の多くが熱心な布教者となるのはなぜか?
 そんなところが、私の問題意識でした。

3雖念:2004/07/21(水) 07:05
>2 訂正です。

誤:  千里眼のような減少は
訂正: 千里眼のような現象は


誤:  成人後自らがの繰り返し体験した、
訂正: 成人後自らが繰り返し体験した

4犀角独歩:2004/07/21(水) 07:39

始まりましたね。楽しみです。
何度か紹介したものですが、以下、基礎資料として。

基調講演 『宗教病理と犯罪』
精神科医 高橋紳吾(東邦大学医学部精神神経学教室 助教授)
http://www.cnet-sc.ne.jp/jdcc/open/ol001_takahasi.html

5犀角独歩:2004/07/21(水) 07:47

以下、蓮師門下では有名な講演で既に皆さん、ご存じかも知れませんが。

『世紀転換期の宗教家』
 ―カルトとマインド・コントロールを反面教師として―
小田晋(筑波大学名誉教授)
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/kyouka/01/01_106.htm

6犀角独歩:2004/07/21(水) 07:54

『きつねつきの科学』(講談社)高橋紳吾
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061329855/httwwwasaneto-22/250-0332622-4620275
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/4549/kitune01.html

『超能力と霊能者』(現代の宗教8 岩波書店 1997年2月5日 第1刷)高橋紳吾
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/2/0260780.html
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/4549/chonoryoku.html

7雖念:2004/07/21(水) 09:19
犀角独歩さん:

資料をたくさんご紹介いただきありがとうございました。
小田晋先生も変性意識体験を勧めていらっしゃるのを知って心強く感じました。

****************  引用開始 *****************
信者も一体になって、そういう変性意識体験の一部でも体験する。これは一度、行者さんと一緒に体験したら、信者たちはもう日蓮宗を離れませんよ。そういうことを迷信的だといってこれをばかにしてきた。明治以後の日本の宗教は侮辱してきた。私はそれは正しくなかったと思う。(世紀転換期の宗教家:カルトとマインド・コントロールを反面教師として より)
****************  引用終了 *****************

以下に少し長くなりますが、この「変性意識体験」をもたらすソーマは、ベニテングダケという茸であり、バラモン教、ユダヤ教そして聖書に登場する食物も、このベニ天狗だけであると主張した「神々の果実」(クラーク・ハインリック著、青土社、1998)より研究を始めた動機にあたる部分を紹介します。

****************  引用開始 *****************
宗教における薬物使用という観念は、議論を呼ぶ主題であると同時に、多くの人が腫れ物に触るように慎重になる主題でもある。彼らは、そのようなことがあったのは事実
かも知れないが、いずれにせよ遠い昔に行なわれた逸脱行為に過ぎないと考えたがるーだがそれは、いくら黙殺しても黙殺しきれぬ問題として今日に残されている。薬物使
用に対する弾圧の嵐が吹き荒れ、処方箋なしで買える全ての薬が十把一路げに敵視される現代にこそ、薬物に関してよりオープンに、かつ理性的に語ることが必要なのだ。特
に、有益な目的に用いられる薬物に関しては。
古代の特定の宗教が薬物を使用したことは間違いない。とはいえ、それがどのような薬物であったかということについては議論の余地がある
だが、専門家であるか否かを問わず、多くの人はこのような古代の薬物使用は今日の宗教研究とは無関係であると決めつけ、それについて論じよぅとしない。私にとっては全く不可解な態度であるとしか言いようがない。私に言わせれば、この情報を知ると知らないとでは、今日における所与の宗教の理解に非常な相違が生じるのだが、これを真剣に考慮する人はほとんどいない。(中略)
私はある種の植物や薬物が霊的な歓喜や至福の感覚をもたらす効能を持つということを知っていたが、これはどの宗教でも全く無関係に起こる。事実上、今日の全ての宗教は、薬物の使用を忌避し、非難する。薬物というものは、良くて救済の妨げであり、悪くすれば悪魔が人間を奴隷化するための道具の一つなのだそうだ。だが、私はインドの聖典、特にヴエーダやタントラのあちこちに薬物使用のことが善かれているのを発見した。これはもちろん、今日の実践者たちの主流からは認可されておらず、話題に上ることすらない。(中略)というわけで、私が宗教における薬物使用についての研究らしい研究を開始できたのは、たまたまヒンドゥー教とその前身において実際に薬物が使用されていたという事実を知って以来のことであった。この事実は長い間、学者の間では知られていたものの、一般の西洋人は全く知らなかった事柄である。そして今日
のインドの宗教界は、一時的な麻疹か何かでもあるかのように、そのことをあっさり
忘れてしまったようである。ティーンエイジャーのマリファナ吸引に対する、今日の親たちの接し方と何と似ていことか。にもかかわらず、何世紀も以前に、神々も人間
も等しく聖なるソーマを飲み、生命のステージで共に踊りを楽しんでいたという事実に変わりはないのだ。だが、何故彼らはそれをやめてしまったのだろうか?
****************  引用続く *****************


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