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生命主義、生命論について

227無徳:2006/08/19(土) 00:24:11
常連さん横レス失礼します。

 以前はこの掲示板でいろいろな論議に参加させて頂いた者です。わけありで
しばらく遠ざかっていましたが、常連さんのご意見に気になる点がありました
ので、久しぶりに書き込ませていただきます。

>戸田師の分にも内容においては「悟達」と表現しても支障のない文章が存在
 してます。

と常連さんは述べられておりますが、戸田城聖氏のいわゆる「獄中の悟達」が、

<仏とは、生命の表現なのだ! 外にあるものではなく、自分の命にあるもの
だ! いや、外にもある! それは宇宙生命の一実体なんだ!>

とされていますが、戸田氏のこの文章が常連さんにとって<内容においては
「悟達」と表現しても支障のない文章>とされることには大きな疑問を感じ
ます。

 なぜかならば、悟達と言われる語彙にはいろいろな解釈があるとされますが、
仏法上では仏の悟りの内実と同位に達することを意味する語彙ではないでしょ
うか、その仏の悟りの内実とは「縁起」と「空」さらには「諸行無常」「諸法
無我」「涅槃寂静」の三法印に「一切皆苦」を加えた四法印であることに異論
のある方はあまりおられないと思われます。
 
 「縁起」と「空」は現代思想的に言えば、あらゆる存在が関係的であり無実
体であると解されています。インド応誕の釈尊もアートマンやブラフマンと言
った、バラモン的な実体存在理解を徹底的に批判否定されて悟りに到達したと
されていることは常連さんもよくご存知のことと推察いたします。

 であるならば、戸田氏の<仏とは宇宙生命の一実体なのだ>と言う自覚(悟
達)は、仏法的な理解に反したものといわざるを得ません。つまり釈尊の悟達
とは似て非なるものと思われます。

 常連さんにとって戸田氏の言われる<仏とは宇宙生命の一実体なのだ>とは
如何なる事と理解されますでしょうか? お答え願えれば幸いです。

228犀角独歩:2006/08/19(土) 07:09:59

【225の訂正】

誤)「悟達はあったのはないか?」とした表現のほうがよいことになりますね
正)「悟達はあったのではないか?」とした表現のほうがよいことになりますね

229ひきこもり:2006/08/19(土) 15:20:51
>>227
問題は私達が生まれる前はなんであったか、死んだあとはどうなるのかと言う点です。

無徳さんはかなり前から、独歩さんと論争されていますが、信心の自分の体験が無ければ
駄目です。私はあります!ですから言っているのです。生命論は体験無くしては分からないのです。


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